鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「鴨とふ船」考

2021-05-11 21:24:05 | 古日向の謎
「鴨とふ船」とは奈良時代の初め頃、筑前の守だった山上憶良が残した歌十首の中で使われている言葉である。

山上憶良は神亀年間(西暦724年~729年)に今日の福岡県北半に重なる「筑前国」の守(国司)として赴任していたが、たまたま志賀島の海士「荒雄」(あらお)が対馬に向けて物資を運ぶ仕事に従事していた時に、運悪く海の大しけに遭い、船もろとも沈んでしまったことを、荒雄の家族に代わって歌に残した。

万葉集の3680番から3889番までの十首がそれである。次にその十首を掲げる。

3680番<大君の遣わさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る>
3681番<荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず>
3682番<志賀の山いたくな伐りそ荒雄らが所縁の山と見つつ忍ばむ>
3683番<荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼はさぶしくもあるか>
3684番<官こそさしてもやらめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る>
3685番<荒雄らは妻子の生業をば思わずろ年の八歳を待てど来まさず>
3686番<沖つ鳥鴨とふ船の還り来ば也良の崎守早く告げこそ>
3687番<沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎廻みて漕ぎ来と聞こえ来ぬかも>
3688番<沖行くや赤ら小舟に裏遣らばけだし人見て解きあけ見むかも>

志賀島の海士(航海民)の荒雄が、宗像郡の宗像部の津万呂の代わりに対馬への物資運搬を企て、志賀島の北端の也良の崎から意気揚々と帰還するはずだった。しかし暴風雨に遭ってしまい海の藻屑と消えた。

そのことを知らずに8年もの間荒雄の帰りを待っていたのは家族だった。山上憶良はその家族に代わって十首を詠み、帰りを待ちわびている家族の心情を代弁した。3680番の歌にあるように、「なあに、これくらいの荒波、無事に行ってきますよ」と沖に出て行く船の上から手を振っていたのになあ――と荒雄の最後の姿を印象的に歌い込んでいる。

この中の3686番と3687番の2首に「鴨とふ船」が詠み込まれている。

「鴨とふ船」とは「鴨と言われる船」のことで、秋になると大陸から渡って来る鴨(雁も)が河川の出口付近に多い「葦や蘆の生えた汽水域」をねじろとし、日中に水面を浮かぶ姿がゴンドラ型の船を思わせるので、小船の類を「鴨船」と名付けたのだ。

京都「下鴨神社」由来の「鴨船」(宝船として七福神を乗せている)。関白家が下鴨神社に奉納したらしい。下鴨神社建立の由来は明確ではないが、祭神のカモタケツヌミは南九州から大和へ移り住んだ鴨族の奉斎する神であり、様々な試練を経て奈良の葛城地方から木津川を経て山城(京都)の「久我(くが)」に至り、そこを定住地とした。


刳り舟か「準構造船」かは問わず、このような「鴨」の姿に似た船を操り、北は大分・福岡から、南は奄美・沖縄までを支配したのは志賀島の海士ならぬ南九州の海士の姿でもあった。