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クマソ呼称の謎

2021-05-06 09:35:11 | 鹿児島古代史の謎
先日「隼人という呼称はいつからなのか?」というブログを書き、公式には天武天皇時代の西暦682年からだろうと結論を出したが、それでは同じ南九州の種族として登場する「クマソ」という呼称はどうなのか、今回はそれについて調べてみたい。

クマソは古事記では「熊曽」、日本書紀では「熊襲」、と「ソ」の当て漢字に違いがあり、前者の「曽」は通常当たり障りのない語感の字だが、後者は「襲う」というややおどろおどろしい語感であり、この語感が余計な先入観、すなわちクマソは恐ろしい種族だという先見を与えてしまうので、ここでは「クマソ」で話を進めていく。

クマソが日本書紀に現れるのは時代順で次の通り。(※古事記にももちろん登場するが、書紀の場合、年代が記されているのでこちらを採用する。)

1,景行天皇の12年・・・「背いて朝貢に来ないので、征伐に行く」という記事。景行天皇が自ら筑紫(九州島)に出陣した。(※これがクマソの初出である。)
2,同天皇の13年・・・18年に掛けて6年間滞在して平定した。平定されたクマソの名は「厚カヤ」「狭カヤ」「市カヤ」「市ヒカヤ」。
3,同天皇の18年・・・南九州から熊本、筑後を経て帰還する。途中、クマツヒコなるクマソらしき人物が帰順した。
4、同天皇の27年・・・再び背いたので、今度は第二皇子のヤマトオグナ(のちのヤマトタケル)が派遣され、鎮定する。鎮定されたクマソの名はトリシカヤ(別名が川上タケル)。この時、川上タケルからヤマトオグナに「タケル」名を献上された。
5,仲哀天皇の2年・・・「背いて朝貢しない」ので征伐しよう穴戸(長門国)豊浦宮に到る。帰順したクマソは「クマワニ」。
6,同天皇の8年・・・天皇および神功皇后、九州に渡り、橿日宮(香椎宮)を本営とする。神が神功皇后に「クマソより半島の新羅を討て」と託宣したが、天皇はそれを信じず、クマソを撃った。
7,同天皇の9年・・・天皇は52歳で薨去。神の言葉に逆らったから死んだ、又は注記にあるようにクマソと戦って敵の矢に当たって死んだともいう。
8,神功皇后摂政前紀元年(仲哀天皇9年)・・・神罰を信じた神功皇后が斎主となって様々な神々を呼び寄せる。そののち、クマソを吉備臣の祖「鴨別(かもわけ)」を派遣して討たせたところ、時を経ずして向こうから帰順して来た。また、「羽白熊鷲」というクマソの一派らしいものを討伐した。(※これがクマソ記事の最後である。)

以上が日本書紀に現れたクマソ記事のすべてで、景行天皇の時代から成務天皇、仲哀天皇、そして神功皇后まで、西暦にして300年代の初期から360年位までの約50年間にしか登場していない。

クマソももちろん隼人と同じく南九州ゆかりの「種族」であり、隼人と同じく時の王権からは「異族」あるいは「蛮族」視された書き方がなされているのは同じである。

しかし、隼人が同じ日本書紀でも、かなり正確に時代を伝えている天武天皇の時代に登場していることから、そこに書かれた隼人という呼称が当時確実に存在したことは疑い得ない。

その一方で、クマソをめぐる時代の諸天皇(景行・成務・仲哀・神功皇后)はそもそも実在性が疑われており、そこに書かれた「クマソなる蛮族」の存在も疑わしいということになる。

隼人研究の第一人者で鹿児島国際大学教授であった中村明蔵氏は、

「神功皇后は、7世紀に半島の百済を救援しようと大和から九州に渡り、筑後の朝倉宮で亡くなった斉明天皇を下敷きに時代をさかのぼらせて造作した人物である。また7世紀の当時、南九州に王化に属さない種族がいるということを確認し、それを景行天皇から神武皇后時代に遡及的させ、クマソと名付けたのだろう」(同氏『隼人の古代史』2001年刊より要旨)

と述べている。

つまり、南九州に景行天皇から神功皇后の時代にクマソという特別な種族がいたというのは創作に過ぎない、という。要するに歴史上その時代にクマソなどという種族はいなかったと結論付けている。

その一方で、創作にしても「クマソ」という語義は何なのかについてかなり詳しく論述している。

古くから言われているのが文化勲章の歴史学者・津田左右吉の「球磨+曽於」説である。しかしこれは熊本県の球磨地方と鹿児島県の曽於地方との地理的・文化的な隔絶から言って有り得ない、とする。

またもっと古い説があり、それは本居宣長などが唱えているのだが、クマソ(熊曽・熊襲)の「熊」を「暗愚で獰猛な」という属性で捉え、「暗愚で獰猛な(南九州の)ソビト」説である。中村氏の見解はおおむねこれに近いようである。

そしてもう一つ魏志倭人伝上の倭国の一つ「狗奴国=クマソ」説を取り上げてもいる。しかし、これだと、3世紀から4世紀に南九州に大和王権に叛逆するだけの勢力を有した種族があったろうかと疑問を呈している。

私は最後に挙げられた「狗奴国=クマソ」説を採る。正確に言えば「狗奴国」は今の熊本県域のクマソであり、そのさらに南の古日向(鹿児島と宮崎が薩摩国・大隅国・日向国に分立される前の古日向)には当時「投馬国」があり、こちらは古日向域のクマソである。

この二つのクマソをまとめたのが古事記の国生み神話に登場する「熊曽国」である。別名を「建日別」といった。

「熊曽国」とは「熊なる曽人の国」という意味で、「熊」を曽にかかる形容と捉えるのは本居説と同じだが、「熊」そのものの属性の捉え方に大きな違いがある。

「熊」とは「能+火(列火)」が本義であり、「火を能くする」つまり「火をうまく扱う」という意味なのである。これが曽人に冠せられたその意義は、火を火山と見做せばすぐに理解できよう。熊本から宮崎・鹿児島県域までは、巨大なカルデラ火山がひしめいており、それが地勢のまさにど真ん中を貫いているのである。

火山活動は人智を超えた現象であるが、そういう環境にありながら何とか生き抜いている曽人の姿は、中央の王権から見れば「王化に属さぬ者」であるが、また畏怖の対象でもあった。

宋時代の怪奇小説と言われる『封神演義』の中で、太公望(呂尚)が毎日、川で下手な釣りをしているのを見ていた商人が、太公望の号が「飛熊(ヒユウ)」だと聞いて、「何、飛熊だって! お前さんのような風采の上がらない人物が付けるような号じゃない。聖人君子が付ける号なんだよ」と呆れられるシーンがある。それほど「熊」には大きな価値があった。

したがって狗奴国自身が3世紀の当時、「熊国」と自ら名乗っていてもおかしくはないのである。

さらに面白いのは「熊」が「火をうまく扱う」という意義であれば、ニニギノミコトと一夜の契りをしただけで妊娠したのと咎められたカムアタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)が、その嫌疑を晴らそうと「産屋に火を放ち、その中で子を無事に産んだ」という想像を絶するシーンに繋がることだ。

また生まれた三皇子(古事記ではホデリ・ホスセリ・ホオリ。書紀ではホスセリ・ホホデミ・ホアカリ)の内、隼人の祖と指摘されている「ホデリ」「ホスセリ」ともに「火が燃え盛る」という語義であることも、実は「熊」と同義と言ってよいことに気付かされる。

これを是とすれば、「熊曽」(熊なる曽人)と隼人は時代を違えてはいるが、全く同じ南九州人を指す呼称だったとしてよい。

クマソは3~4世紀に九州島内で自称的に使われた南九州人のことであり、そして隼人は天武天皇時代の中央集権志向の中で律令制度(刑法・租税法・戸籍法)に従おうとせず、また仏教を習おうとしない南九州人を他称したものだということである。≺/span>