鴨着く島

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令和最初の歌会始

2020-01-17 09:53:19 | 専守防衛力を有する永世中立国
昭和22年に始まったという戦後の「歌会始(うたかいはじめ)」、令和になって初めての今回は14日に行われた。皇居・松の間で催された様子(NHKの実況中継から)

戦前は「宮中歌会始」であって、一般庶民からの詠進はなかったが、今は一般人からの応募が数万寄せられるという「民主的」盛況である。

そもそも日本で歌(和歌)が詠われた起源はおそらく縄文の昔にさかのぼるだろうが、記録として残されているのは古事記と日本書紀に記されたスサノヲノミコトのあの「出雲八重垣」の歌だが、これはスサノヲノミコトの活躍した年代が分からない以上特定できない。

また、神武天皇(弥生時代)と日本武尊(古墳時代)が詠んだという「大和は国のまほらま」という歌も、活躍年代の違う両者が同じ歌を詠むという不合理からこれも特定されない。

結局、歌と言えば「万葉集」ということになり、万葉集によればその第一巻の第一首に掲載の雄略天皇の御製とされる「籠(こ)もよ、み籠持ち、ふくしもよ、みぶくし持ち、この丘に菜摘ます児、家聞かな、名告(の)らさね・・・」という求愛の歌が文献上の始まりとなりそうだ。

雄略天皇は中国史書『宋書』中の「倭王・武」とほぼ特定されているので、年代は5世紀の後半(西暦450年~500年)。そこからしても日本における歌(和歌)の道は1500年以上連綿と続いていることになる。応神天皇の時代(西暦400年前後)には朝鮮半島経由で文字(漢字)・文献(四書五経など)が入ってきているので、漢字を使って残された始めが雄略天皇の歌だろう。(もっとも先の年代特定できない歌もおそらくその頃に文字化されたに違いない。)

宮中での歌会は「歌会始」という正月の行事としての歴史は中世かららしいが、単なる「歌会」ならそれ以前から時折々に開かれたであろうことは、元号「令和」制定のもととなった万葉集中の太宰府の大伴旅人邸に於ける「梅花の歌三十二首ならびに序」から想像される。

天平2年(西暦730年)の正月に太宰府管内の九州諸国の高級官僚たちや太宰府の官僚たちを太宰府長官(帥)であった旅人の屋敷に集めて宴会を催し、その時に「お題」を「梅」と決めて、参集した役人たちに詠ませた和歌32首が万葉集の第5巻に掲載されている。

旅人の歌は勿論だが、有名人としては当時筑前の国司であった山上憶良の歌も載せられている。歌を詠む作法として(あるいは宴会の座興として)、各人の頭に香しく匂う梅の枝を簪(かんざし)のように付けたというから優雅なものである。

少なくとも奈良時代の初めの頃にはこのような「歌会」が地方でもあったのだから、いわんや中央においておやで、年代の特定される雄略天皇の450年代にすでに「歌会」があったとみて差し支えないだろう。

日本とは何と雅な国であろうか。明治から昭和の20年まで時代の流れだったとはいえ、決して天皇を「元帥」にしてはならないのである。

自分はいまだに「詠進」したことはないが、老後の楽しみの一環として歌(短歌)を一首ものすることやぶさかではない。(※カラオケで歌う唄も、演歌の歌詞はほぼ「五七」で作られており、和歌の伝統に外れていないのは刮目に値する。)

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