鴨着く島

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熊襲・隼人・薩摩・鹿児島という古称(3)

2020-07-10 13:49:56 | 鹿児島古代史の謎

最後は鹿児島及び桜島という古称の成り立ちを述べてみたい。


   鹿児島

鹿児島は史料の上では『続日本紀』の天平宝字8年(淳仁天皇7年=764年)12月の記事に現れるのが初見である。

大隅・薩摩の境の海中に於いて溶岩が噴出し三つの島が生まれた――いうもので、その中に噴出した場所の地名が書かれている。

「麑島・信爾(しんに)村之海」という部分がそれで、「麑」は「鹿児」の合体字であるから、ここは「鹿児島の信爾村の海」となる。

この「鹿児島信爾村の海」の位置がまず問題になる。

現在の鹿児島市とその北部の旧吉田町が中世以降は「鹿児島郡」であったことと、旧吉田町の属する鹿児島郡はまさしく薩摩国と大隅国との境であったことから、この海が現在の鹿児島湾であることは明らかである。

その海を指呼に望むこの鹿児島(郡)とは鹿児島湾の最奥部一帯を指している地名と見てよい。次の「信爾(しんに)村」の特定だが、これは該当する古地名がなく困難である。

ただ、この噴火で生まれたという三つの島は今に残る旧隼人町の海中にある「神造島三島」と特定できるので、信爾村が旧隼人町に属する村であると言うことはできる。

さてこの「鹿児島」地名の由来だが、幕末近い天保14年に編纂された薩摩藩の地歴書『三国名勝図会』では、一説に山幸であるホホデミノミコトが海中へ失くした釣り針を探しに出かける際に「無目籠」(まなしかたま)という竹で密に編んで作った「籠(かご)の船」(潜水艦?)に乗って行ったことから、「籠(かご)」が採用され「鹿児島」になったことを挙げている。

また第二の説として、山幸であるホホデミは山の幸である鹿を多く仕留めたであろうから、鹿の多い国(島)という意味で「鹿児・鹿子(かこ)の島(国)」から「鹿児島」になったともいう。現在の鹿児島神宮も、また裏山に当たる「麑山(かごやま)」も辺り一帯に鹿の多いことから普遍的な地名が生まれたとし、結局、この第二の説を採用している。

面白いのは、あとの説を補強する意味で、『名勝図会』は応神天皇時代の説話「加古(川)」(兵庫県)の地名譚を持ち出していることである。

その中に見える「鹿の皮を被って海上を船でやって来る日向の諸県君の船子たち」の姿を挙げて、「船子を呼びてかこ(鹿子)といふも、けだしこの時より始まる」とコメントしている。

このコメントは船子(船頭)を「かこ」と呼ぶが、それは応神天皇の時代に「鹿子(かこ)」と呼ぶようになったことに由来していることを強調するためであった(兵庫県の加古川は船頭(かこ)たちが長旅の疲れをいやすべく船団を停泊させたので名付けられたとする)。

私はこの『三国名勝図会』が取り上げた応神天皇時代の加古川地名由来譚を読んで、むしろ逆に次のように思った。

船子はどこから来たかと言えば日向(鹿児島を含む古日向)である。そこから船団を組んではるばる瀬戸内海を東へ進んで来たのだが、それを操る屈強な船頭(船子=かこ)たちの多いのが日向(古日向)ではなかったか。

鹿が他の地域に抜きんでて鹿児島に多いのだろうか。そうではあるまい。したがって「かこ」は鹿が多いから「鹿児」なのではなくて、「船子」が他の地域よりかなり多いがための「かこ」ではないか。

そう考えると、鹿児島は「船子(かこ)の島」に由来があるとした方がよい。

さらに「船子」を「かこ」と呼ぶ由来だが、これは「鹿子」からではなく、オールで水を掻くことに由来すると考えるのである。「(水を)掻く人」が「掻き子(かきこ)」となり、「き」が脱落して「かこ」になったのだろう。

火山灰土や台風襲来による作物の生産性の低さが、彼らをして「海の民」としての生き方を選ばせたと思うのである。

話はずっと後世になるが、1914年(大正4年)1月12日は桜島で大正大噴火が起き、島民は這う這うの体で避難したのだが、その時の桜島の人口は何と2万人。県都である鹿児島市の人口は当時7万。面積当たりの人口密度ではそう大きな違いはない。そのくらい桜島は住み易かったのである。海産物(海幸)のおかげで、米野菜肉(山幸)は交換でたやすく手に入れられたのだろう。

その交易の手段はもちろん「船」である。あの時代、自前の船は現代のトラックに匹敵したに違いない。島の住民は誰もがトラックを持っていたのだ。それほど島は豊かであった(桜島の噴火と降灰さえなければ・・・)。

以上から、私見で鹿児島地名の由来は「船子(かこ)」の蝟集する島ということである。


   桜島

西郷(せご)どんか桜島か――そのくらい鹿児島にとって無くてはならぬ観光資源の桜島。

しかし、意外なことだが桜島の名称の由来は不明である。

もう20年以上前になるだろうか、ある本で「桜島は、裂くる島に由来する」という説を唱えていた。裂くるというのは桜島が猛烈な噴火を起こした時、火口から真っ赤な溶岩が流れ出す。その光景がまるで山頂を裂いているように見えるというのである。

なるほどそういう見方もあったかというのがその時の感想で、もっぱら文献によって調べていた自分には刺激になった。

文献で「桜島」が最初に出てくるのは、『続日本紀』の称徳天皇の神護景雲3年(769年)4月8日の記事である。それは次のようである。

「大和国添上郡の人、正八位下横度春山に桜島連の姓を賜う」

添上郡は平城京に近く、やや北に位置するるが、そこの住人で「横度春山」という人物に桜島連(さくらじまのむらじ)という連姓が与えられたというのである。

横度春山という人は、正八位という官僚に与えられる地位としてはかなり低い身分だが、何らかの功績か本人の要請かは不明だが、れっきとした姓を与えられた。

この「桜島」が鹿児島の桜島を表しているとみていいかどうかは、その後に桜島が現われて来ない以上思考停止するほかない。

あとはぐっと時代が下り、室町時代に大隅守だった桜島忠信という人がいて、その所縁で桜島と言われるようになったという説も根強く存在する。

『三国名勝図会』では、「島名諸説」として、桜島の名が見えるのは巣松という僧侶が著した『乱道集』という歌集に「向島を桜島とした」とあるのが最初だという。巣松は大永年間の人とあるから、おおむね1500年代の前半の人物で、少なくともその頃から「桜島」という島名が始まったことになる。

およそ500年前から桜島と呼ばれたことはこれで言えるが、では「桜」という呼称は何に拠るのか。

『三国名勝図会』は種々の説を披露するが、結局次のような結論を見出している。

「桜島の名義は、この島の五社大明神に木花佐久夜姫(このはなさくやひめ)を祭るゆえに、桜島の名はこの佐久夜(さくや)姫より出でたるならん。初め佐久夜(さくや)島なりしを、後世、桜島と転称したるならん。」

要するに島の大社である五社明神の祭神である木花佐久夜姫が島名の起源だということで、これに私も賛同する。

コノハナサクヤヒメはオオヤマツミノカミの娘で、天孫二ニギが国まぎをして「笠狭」にやって来たときに結婚したが、「一夜孕み」だったので二ニギに疑われ、嫌疑を晴らそうと産屋に火を放って無事に三人の皇子を産んだという伝説の女性である。

この「産屋に火を放って」というところは、まさに噴火の絶える間の無い桜島火山とオーバーラップする。

そのような「火にはめっぽう強い」祭神は、同時に「火鎮め・火除け」の霊能力を持つと信じられたはずである。

すなわち「桜島」の「桜」の語源は、コノハナサクヤヒメの「サクヤ」で間違いないと思われる。

(※5年ほど前だったか、ハヤト研究の第一人者である中村明蔵氏が、桜島の周りを鹿児島神宮と鹿児島神社が取り囲むようにして建立されているのは、桜島火山の沈静化を願って建立されたはずで、これら鹿児島神社の「鹿児島」こそが桜島の本名であろう――と南日本新聞に書いていたが、それなら桜島と言わずに「鹿児島」と言えばよく、結局は「桜」という名付けの理由は不問に付している。)