140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

純粋理性批判(4)

2013-03-10 00:05:05 | カント
光文社「純粋理性批判 4」を読んだ。第4分冊より「超越論的な弁証論」に入る。
「『純粋理性批判』のうちに含まれる理性は、感性と知性を含めた人間の理性全体を
示している」とのことだが、「超越論的な弁証論で語られる理性は狭義の理性を
示している」という。
それは「規則を作る能力である知性と対比された、原理を作る能力」だという。
「理性の働きは推論で示される」
「理性は経験の領域という安全な大地を離れ、経験のうちでえられたさまざまな知識や
概念を使って、経験を超えた領域に進みでようとする。それが人間の宿命なのであり、
人間の理性につきまとって、追い払うのが困難なものである」
そして誤謬に陥る・・・

「純粋な理性の概念、すなわち超越論的な理念の役割は、一般にあらゆる<条件づけるもの>の
総合的で無条件な統一を作りだすことにある。だからすべての超越論的な理念は、
次の三つの理念に分類されることになる。
第一の理念は、思考する主体の絶対的な(無条件的な)統一を含むものである。
第二の理念は、現象の条件の系列の絶対的な統一を含むものである。
第三の理念は、思考一般のすべての対象の条件の絶対的な統一を含むものである」

「<思考する主体>は心理学の対象である。<すべての現象の総括>、すなわち世界は、
宇宙論の対象である。思考しうるすべてのものの可能性の最高の条件を含む<物>、
すなわちあらゆる存在者のなかの[最高の]存在者[=神]は、神学の対象である」

「形而上学の探求の目的とするところは、神、自由、不死という三つの理念だけである」ことと
超越論的な理念は結び付けられる。
<思考する主体の統一>は<不死>、<現象の条件の系列の絶対的な統一>は<自由>
<すべての対象の条件の絶対的な統一>は<神>に対応している。

(一)心は実体である[関係のカテゴリー]
(二)心の性質は単純である[性質のカテゴリー]
(三)心はさまざまな時間に存在していても、数的に同一であり、単一である[量のカテゴリー]
(四)空間に存在する可能的な対象と関係する[様態のカテゴリー]

「純粋な心理学のすべての概念はこれたの四つの要素だけから、そしてもっぱらその合成から
生まれるのであり、ほかにはいかなる原理も認めるものではない」
「心という実体は非物質性という概念を与える」
「単純な実体としては不壊性という概念を与える」
「実体の同一性は人格性という概念を与える」
「これらの三つを組み合わせて精神性という概念が生まれる」
「だから心理学は思考する実体を、物質における<生>の原理として、すなわち心(アニマ)として
また動物性の根拠として示すのである。この動物性が精神性によって制限されると
不死の概念が生まれる」

<わたし>は<実体>でないことについては以下のように説明されている。
「<わたしは考える>の<わたし>は、思考においてはつねに主語とみなさなければならない
ものであり、述語のように、たんに思考に付属するようなものとみなすことはできない。
このことは必然なことであり、それ自体として同一的な命題である。
しかしこの命題は、わたしが客体として、みずからを自存する存在者であるとか、
実体であるとかを意味するものではない。このようなことを想定するのは行き過ぎであり、
思考のうちにまったく存在しないものを<与えられたもの>として求めることになる」

つまり実体であるとか、実体でないとか、そんなことは思考することができない。
デカルトについては「『わたしは考える』という命題と『わたしは現実に存在する』という
命題は『同一の命題』である」と指摘している。

初版の誤謬推論のところでカントは次のようなことを書いている。
「どのようにすれば、思考する主体一般において、外的な直観が可能になるのか、
すなわちどのようにすれば空間の直観が可能となるのか。しかしこの問いには、
いかなる人も答えることはできない。わたしたちは、みずからの知におけるこの空隙を
埋めることはできないのである」

どのようにすれば、見ることが可能となるのか、わからない。
三原色に対応した周波数を持つ光を受け取った網膜の細胞が神経を介して
空間的な場所に対応したニューロンに情報を伝達した結果として
主体に何かが見えるのだと語ったとしても、そんなことは何の説明にもなっていない。
その空隙に気が付いたのはカントが最初なのだろうか?

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