スピノザ「エチカ」を読んだ。読みにくい本だ。
第一部の定理一五には以下のようなことが書かれている。
「すべて在るものは神のうちに在る。そして神なしには何者も在りえずまた考えられない」
スピノザが「神」と呼んでいるものは、絶対・無限・永遠・実体・真理・自己原因と
いったもので、これは当然、キリスト教社会には受け入れ難いものであり、
彼は「無神論者」として攻撃されたそうだ。
そして「エチカ」が完成されたのは1675年らしいが
出版されたのはスピノザの死んだ1677年の12月とのこと。
「神という自己原因」を設定して、その先のことを考えなくても済むようにしたのは
有限な人間が無限を欲する以上は避けられないことだったろう。
しかしそれは虚構だと私は思う。
この本を初めて読んだ時には「汎神論」という考え方の魅力に興味を持ったが
人はそこで立ち止まるべきではないだろう。
それは「壮大な勘違い」だと私は思う。
「夜と霧」には「エチカ」から「苦悩という情緒はわれわれがそれに関して明晰判明な
表象をつくるや否や消失してしまうのである」という文章を引用してあると書いてあったが
それは「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、
受動であることを止める」の間違いだった。まったくひどい話だ。
この第五部の定理三は第三部の定理三「精神の能動は妥当な観念からのみ生じ、
これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する」と関連がある。
スピノザは能動と受動を区別したかっただけだ。
彼は「苦悩」など少しも強調していない。
それにしても「精神」を「感情」よりも優れたものと考えたがる人々が多い。
結局のところ彼らは朽ち果てる自分自身のことを考えるのが嫌なのだ。
そして精神が無限であると信じたがる。
それは虚構だと私は思う。
第一部の定理一五には以下のようなことが書かれている。
「すべて在るものは神のうちに在る。そして神なしには何者も在りえずまた考えられない」
スピノザが「神」と呼んでいるものは、絶対・無限・永遠・実体・真理・自己原因と
いったもので、これは当然、キリスト教社会には受け入れ難いものであり、
彼は「無神論者」として攻撃されたそうだ。
そして「エチカ」が完成されたのは1675年らしいが
出版されたのはスピノザの死んだ1677年の12月とのこと。
「神という自己原因」を設定して、その先のことを考えなくても済むようにしたのは
有限な人間が無限を欲する以上は避けられないことだったろう。
しかしそれは虚構だと私は思う。
この本を初めて読んだ時には「汎神論」という考え方の魅力に興味を持ったが
人はそこで立ち止まるべきではないだろう。
それは「壮大な勘違い」だと私は思う。
「夜と霧」には「エチカ」から「苦悩という情緒はわれわれがそれに関して明晰判明な
表象をつくるや否や消失してしまうのである」という文章を引用してあると書いてあったが
それは「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、
受動であることを止める」の間違いだった。まったくひどい話だ。
この第五部の定理三は第三部の定理三「精神の能動は妥当な観念からのみ生じ、
これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する」と関連がある。
スピノザは能動と受動を区別したかっただけだ。
彼は「苦悩」など少しも強調していない。
それにしても「精神」を「感情」よりも優れたものと考えたがる人々が多い。
結局のところ彼らは朽ち果てる自分自身のことを考えるのが嫌なのだ。
そして精神が無限であると信じたがる。
それは虚構だと私は思う。