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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

ダンス・ダンス・ダンス

2015-08-01 00:05:05 | 村上春樹
「ダンス・ダンス・ダンス」は、いるかホテルの回想から始まる。すっかり忘れていたが、この作品は「羊をめぐる冒険」の続きだった、つまり四部作だったということになる。
鼠が化けて出て来るわけではないが、羊男が影のような役割で登場する。完全な耳を持つ女性も回想や夢の中で登場する。そうした「彼」や「彼女」のキャラクターからは固有性が失われ、「僕」の付属物か分身のような様相を帯びている。そして前作に引き続いて何人かの女と寝る。相手はプロであったり都合よく「僕」の魅力に惹きつけられる素人だったりする。プロと寝る場合だって自分からはガツガツとはしない。誰かが都合よく女を用意してくれる。まとめてしまうと、まわりの人間は自己の付属物のようであり、いろんなことが自己都合に満ちていると言えなくもない。あるいはここで想定されている読者とは、そういう身勝手な人間に似ているのだろう。
・・・「ノルウェイの森」のラストで「僕は今どこにいるのだ?」というシーンがあったが、その回答であるかのように「ここは僕の人生なのだ」という台詞でこの小説は始まる。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「ノルウェイの森」のような明確なストーリーは設定されない。札幌とかハワイとか場当たり的に物語は進行する。白骨死体が出て来るまでとにかく場当たり的に進行する。白骨死体が六体というところで、ようやく物語は終結へと向う。今までに何人死んだか、あと何人死ぬのか、そういうことだ。その数は六に近づくに違いない。だが六に達してしまうと緊張感が途切れてしまうので、六になる前に終るのだろう。
・・・最後になって、ひとまわりして現実に戻ってきたと書かれている。「やれやれ」と言いたくなる。「現実」に引き戻されるのだか、「現存在」が知らぬ間に世界に投げ出されているのだか、そういうことで決着しようとしている。「こちらの世界」という場合は現実の世界で「そちらの世界」という場合は死者の世界か可能性の世界か幻想の世界か、いずれにしても私たちが属していない世界のことであるらしい。著者は「そちらの世界」を引きずり回したあげく「こちらの世界」で生きることを「僕」に選ばせる。「やれやれ」そんなことはあたり前ではないだろうか?

[上巻]

8ページ
ここは僕の人生なのだ。僕の生活。僕という現実存在の付属物。特に認めた覚えもないのにいつの間にか僕の属性として存在するようになったいくつかの事柄、事物、状況。

「僕という現実存在」の付属物なのか、僕という「現実存在の付属物」なのか一瞬判断に迷った。後に続く文章から著者は前者を指しているのだと思われるが、もしかすると「自我」が「存在」の付属物であるかもしれない。人生を積み重ねるにつれて記憶素子は固着し、属性は固定され、状況における判断は一定の傾向を持つようになる。そういうものを私たちは「僕」とか「自我」と呼んでいる。

30ページ
僕は三年半の間、こういうタイプの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。

たとえば三年前も一生懸命仕事をしていたのだろうが、何をしていたのか覚えていないし、その時その仕事自体の価値は確かにあったのだろうが、時の流れと共に、その意味は失われていく。そうやって私たちは過去から未来へ「雪かき」を続けている。その時に何かしらの意味はあったのだろうが、過ぎ去ってしまうとみんな忘れてしまう。お互い要求し合い、睡眠時間を削り、休日を返上してまで、やがて忘れられるであろう「雪かき」をするのだ。それも私たちの場合はただひたすらに「エコノミックな雪かき」でしかない。「文化的雪かき」の方がまだ救いがありそうだ。

34ページ
彼はもう死んでしまった。
あらゆる物を抱え込んで、彼は死んでいった。
入り口と出口

入り口と出口、1973年のピンボール、出口がないという話はもう出てこない。

41ページ
我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。考え方の違いだ。でもたとえ考え方に相違があるにせよ、それがとにかく我々の生きている社会なのだ。それが気にいらなければ、バングラデシュかスーダンに行くしかない。

消費を継続しなければ産業が維持できない、つまり私たちは給料がもらえなくなる。この本が書かれた時点でそうであったし、今ではいっそう自転車操業的になってしまった。「それがとにかく我々の生きている社会なのだ」ということであり、そういう社会でしか私たちは生きていけないことになる。もっと違う社会あるいは世界もあったのだろうが、列強が植民地を拡大しようとして衝突を繰り返す世界であったり、農民が汗水垂らして収穫した米を無産階級が当然のように召し上げる世界であったり、誰もが気に入るような世界なんて存在したこともなければ存在する予定もないのだろう。原子力発電をなくそうとか、もしかしたらそういうことぐらいは変えることができるかもしれない。生産と消費の規模を加速度を増して拡大している資本主義は何処にたどり着こうとしているのだろうか?
風船が膨らんでいるうちは誰も異論を差し挟んだりはしない。風船が破裂した時にはそれどころではないのでやはり誰も語りはしない。

44ページ
でも結局のところ僕は彼女を求めてはいなかったのだ。彼女が去ってしまった三日ばかり後で、僕はそのことをはっきりと認識した。そう、結局のところ彼女の隣にいながら僕は月の上にいたのだ。

物語の最初では求めていなかった「僕」は最後になって求めるようになる。
その違いが、決定的だということだろうか?

55ページ
お前は違う、と。お前は違うお前は違うお前は違う。

お前は違う、と。普通じゃない、と。ずっとそんなことを言われてきたような気がする。やがて、お前は違う、というのが、お前は人並みな努力をしていない、という言葉に置き換えられ、私はずっと罵倒されてきた。そうしたければそうすればよいのだ。私はもう、あなた方には一生関わり合いたくはないのだ。もう二度と会うこともないだろう。
さようなら。

114ページ
当時はそうは思わなかったけれど、一九六九年にはまだ世界は単純だった。機動隊員に石を投げるというだけのことで、ある場合には人は自己表明を果たすことができた。

行動が益々意味を失っていく世界に私たちは立ち会っている。情報が過多ということかもしれない。論理空間は結果を生み出し続けるが、その次の日の結果と共に忘れ去られてしまうのだ。そんな世界では誰も機動隊員に石を投げたりはしない。
機動隊員すら見あたらない。

151ページ
「待ってたよ」とそれは言った。「ずっと待ってた。中に入りなよ」
それが誰なのか目を開けなくてもわかった。
羊男だった。
158ページ
「・・・ここがあんたの場所なんだよ。それは変らない。あんたはここに繋がっている。ここがみんなに繋がっている。ここがあんたの結び目なんだよ」
161ページ
「ここでのおいらの役目は繋げることだよ。ほら、配電盤みたいにね、いろんなものを繋げるんだよ」
164ページ
「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?
踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」
166ページ
「・・・僕はこれまでの人生の中でずっと君のことを求めてきたような気がするんだ。そしてこれまでいろんな場所で君の影を見てきたような気がする。君がいろんな形をとってそこにいたように思えるんだ」
180ページ
僕が求め、羊男が繋げる。

「羊をめぐる冒険」に出てきた羊男と本作の羊男は違う感じがする。「羊をめぐる冒険」ではアイヌ青年の末裔という感じだった。ユングが影と呼んだ元型は「意識に比較的に近い層で作用し、自我を補完する作用を持つ元型。肯定的な影と否定的な影があり、否定的な場合は、自我が受け入れたくないような側面を代表することがある」というものであるらしい。そうすると本作品での羊男とは、自我を補完するが意識が気付いていないところの「肯定的な影」ではないかと思う。「いろんな場所で君の影を見てきたような気がする」とか「僕が求め、羊男が繋げる」と書いているのでそうだと思う。著者の作品は「河合隼雄さんくらいしか深いところで理解していない」ということだ。河合隼雄さんと言えばユングでしょう?

190ページ
それはキキだった。座席の上で僕の体は凍りついた。後ろの方でからからからという瓶の転がる音が聞こえた。キキだ。あの廊下の暗闇の中で見たイメージのとおりだ。本当にキキが五反田君と寝ているのだ。繋がっている、と僕は思った。

219ページ
「仕事用の名前を持ってるの」とユキは言った。「アメっていう名前で仕事してるのずっと。それで私の名前をユキにしたの。馬鹿みたいだと思わない? そういう人なの」

「おおかみこどもの雨と雪」という映画があったが、何か関係はあるのだろうか?

265ページ
「幸運だったことは認めるよ。でも考えてみたら、僕は何も選んでいないような気がする。そして夜中にふと目覚めてそう思うと、僕はたまらなく怖くなるんだ。僕という存在はいったい何処にあるんだろうって。僕という実体はどこにあるんだろう?
僕は次々に回ってくる役回りをただただ不足なく演じていただけじゃないかっていう気がする。僕は主体的になにひとつ選択していない」

「僕」は何も求めなかったし、五反田君は何も選んでいないのだという。そういうものは人生ではないということだろうか?
「次々に回ってくる役回り」を演じるのは役者だけではないのだと思う。そんなふうにして「自分のペースで仕事に取り組むことが出来ない多忙な人」こそが資本主義社会では有能ということだ。だが演じていても、選んでいても、存在とか実体なんて実感できないだろう、そんなものは初めからなかったのだ。

293ページ
踊るんだよ、と羊男は言った。それも上手く踊るんだよ、みんなが感心するくらい。

302ページ
「概念としての春は暗黒の潮流とともに激しくやってきた。その訪れは都市の間隙にこびりついた名も知れぬ人々の情念を揺すり起こし、それを不毛の流砂へ音もなく押し流していった」
僕はそういう文章を片っ端から添削していきたかった。

著者は誰を批判しているのだろうか?

308ページ
「ああいう時代はね、終わったんだよ。それで、私もあんたもみんなこの社会にきちっと埋めこまれてるの。権力も反権力もないんだよ、もう。誰もそういう考え方はしないんだよ。大きな社会なんだ。波風を立てても、いいことなんか何もないのよ。システムがね、きちっとできちゃってるの。この社会が嫌ならじっと大地震でも待ってるんだね」

310ページ
女が死んでいることには説明の必要がなかった。目が見開き、口もとが妙にこわばって歪んでいた。メイだった。

320ページ
フランツ・カフカの小説は果して二十一世紀まで生き残れるだろうか、とふと僕は心配になった。いずれにせよ、彼は「審判」のあらすじまで書類に書きつけた。どうしてそんなことをいちいち聞いて書類にしなくてはならないのか、僕には全然理解できなかった。実にフランツ・カフカ的だ。僕はだんだん馬鹿馬鹿しくなってうんざりしてきた。

346ページ
「君は僕の中にある、あるいは僕にくっついて存在している感情なり思念なりを感じとって、それを例えば象徴的な夢みたいに映像化できるということ?」

つまり「羊男」は「僕にくっついて存在している感情なり思念」であるということらしい。

351ページ
「ずっと昔から羊男はいたの?」
僕は肯いた。「うん、昔からいた。子供の頃から。僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。でもそれが羊男というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。羊男は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ」

358ページ
「大袈裟な道具とか偉そうなカートとか旗とか、着る服とか履く靴とか、しゃがみこんで芝を読む時の目付きとか耳の立て方とか、そういうのがひとつひとつ気に入らないんです」
「耳の立て方?」と彼は不思議そうな顔つきで聞き返した。
「ただの言い掛かりです」

[下巻]

10ページ
ピーク、と僕は思った。そんなものどこにもなかった。振り返ってみると、それは人生ですらないような気がする。少し起伏はあった。ごそごそと登ったり下りたりはした。でもそれだけだった。殆ど何もしていない。何も生み出していない。誰かを愛したこともあったし、誰かに愛されたこともあった。でも何も残っていない。

そんなふうに「僕」に人生を振り返ってもらうと気が滅入る。私も、何も生み出していない。つまりは凡庸なのだ。その凡庸さを認めてしまうと、もっとズルズル堕ちていきそうだが、乗り越えるほどの力もない。だから今はこうして、理解しようとしている。そこにどんなことが書かれていたのか、どんな意味があったのかを点検している。そういうこともしなかったなら、私はますます自分に幻滅してしまう。

22ページ
「昔よく聴いたな。中学校のころだね。ビーチ・ボーイズ―――何というか、特別な音だった。親密でスイートな音だ。いつも太陽が輝いていて、海の香りがして、となりに綺麗な女の子が寝転んでいるような音だ。唄を聴いているとそういう世界が本当に存在しているような気持ちになった。いつまでもみんなが若く、いつまでも何もかもが輝いているようなそういう神話的世界だよ。永遠のアドレセンス。お伽噺だ」

著者はビーチ・ボーイズがお気に入りということだが私は馴染めない。おそらくは「神話的世界、永遠のアドレセンス、お伽噺」というところに馴染めない。ミッキーマウス的なものから商業主義を幾分か取り除くとビーチ・ボーイズ的なものになるのかもしれない。

92ページ
ブルース・スプリングスティーンが「ハングリー・ハート」を歌った。良い歌だ。世界もまだ捨てたものではない。

128ページ
キキだ、と僕は思った。間違いない、僕は今そこでキキを見かけたのだ。このホノルルのダウンダウンで。

136ページ
僕は部屋をぐるりと歩いてまわってみた。それぞれの椅子の上には、それぞれの人骨が座っていた。骨は全部で六体あった。ひとつを除けばどれも完全な人骨で、死んでから長い時間が経っていた。

143ページ
まさか、と僕は思った。

159ページ
高度資本主義はあらゆる隙間から商品を掘りおこす。幻想。それがキーワードだ。売春だって人身売買だって階層差別だって個人攻撃だって倒錯性欲だってなんだって、綺麗なパッケージにくるんで綺麗な名前をつければ立派な商品になるのだ。

売春とか人身売買といった反社会的な性質のものはとりあえず置いておくとして、資本主義(高度資本主義とは言わない)が、商品を掘りおこす様子は今では洗練された言葉(たとえばイノベーション)で語られる。陳腐化した商品は「コモディティー化した」などと言われる。今ではスマホも「コモディティー化」してしまった。薄くて軽くてRetinaディスプレイを備えている商品にはディズニーの魔法がかけられているようであり、そうした流行だか幻想だか魔法に対して人々はお金を支払う。魔法も含めてマーケティングということなのだろう。だがそういうヒット商品がないと産業が停滞してしまい、物やカネの流れが滞り、みんなが困るのだが、それこそ自転車操業ではないのだろうか?

208ページ
ディック・ノースは月曜日の夕方に箱根の町に買い物に出て、スーパーマーケットの袋を抱えて外に出たところをトラックにはねられて死んだ。

250ページ
「残念ながらちゃんと動いてるね。時はどんどん過ぎ去っていく。過去が増えて未来が少なくなっていく。可能性が減って、悔恨が増えていく」

白骨の部屋に至るまで時は流れ続ける。可能性がひとつひとつ消され、「僕」の中で死の占める割合が増えていく。過去も未来も現在という瞬間に投影された幻想であり、私たちはただ現在しか体験できないということは真実であると思われるが、一方で自我を統合する働きは、今までに積み重ねた経験を振り返ると共に、経験を活かすべき機会が随分と減っていることに気付く。選択したことを悔やむのではなく、選択しなかったことを悔やむのではなく、まもなく選択できなくなるという事態におびえている。たとえば将来に不安のないよう蓄財できれば、成功体験の余韻に浸りながら平穏な老後を過ごせるかもしれない。だがその平穏な老後なり、余生という設定自体が、そもそも哀しいのだ。

271ページ
「彼があの女の人を殺したのよ」
「あの女の人。日曜日の朝に彼と一緒に寝てた人」
289ページ
「どうしてキキを殺したの?」と僕は五反田君に訊いてみた。
290ページ
「僕がキキを殺したのか?」と彼はゆっくりと言葉を区切るようにして言った。
293ページ
「でも何故君がキキを殺すんだ? 意味がないじゃないか?」
「わからない」と彼は言った。「たぶんある種の自己破壊本能だろう。僕には昔からそういうのがあるんだ。一種のストレスだよ。自分自身と、僕が演じている自分自身とのギャップがあるところまで開くと、よくそういうことが起きるんだ」

キキはすでに死んでいて、それも五反田君が殺したのだという。だが、五反田君はそのことを自分自身で把握できていない。五反田君は数少ない「僕」の友だちということであり、二人は全編を通してお互いを理解しようとする。五反田君自身が把握できていない五反田君は、おそらくは「僕」の「否定的な影」ではないかと思う。

303ページ
何はともあれ死体がまたひとつ増えた。鼠、キキ、メイ、ディック・ノース、そして五反田君。全部で五つだ。残りはひとつ。僕は首を振った。嫌な展開だった。次に何が来るのだろう? 次に誰が死ぬのだろう? 僕はユミヨシさんのことをふと考えた。
322ページ
「あれはいったい何を意味してたんだろう? 六体の白骨」
「あなた自身よ」とキキは言った。「ここはあなたの部屋なんだもの、ここのあるのはみんなあなた自身なのよ。何もかも」

身近な人が次々と死んでいく。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という「ノルウェイの森」の主題が繰り返されているのではないかと思う。「あなた自身」の中で死は、現存在が現に存在しなくなることの可能性として成長していく。そのような死を抱えた部屋を「僕」は持っている。
おそらくはみんな持っている。

ノルウェイの森

2015-07-25 00:05:43 | 村上春樹
「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」
ここのところを読むたびに、となりのトトロを思い出す。人は死なないしセックス・シーンもない。迷子を助けるというだけのことで非常に盛り上がる。一方たいていの売れ筋の映画といったものは殺戮に満ちている。敵の残虐行為の描写のために無数の人々が死ぬものだし、主人公に試練を与えるだけの理由で殺される登場人物もいる。そんな死に方だけはしたくないと、いつも考える。

以前「風の歌を聴け」にあった優れた小説の基準について書いた。この基準によると主人公が女とやりまくり、登場人物の半数が死んでしまう「ノルウェイの森」は優れているとは言えないかもしれない。どうしてこんなにたくさんの人が死ななければならないのか、それがワタナベやミドリに試練を与えるためというのであれば、そこらへんの娯楽映画と変わりがないのかもしれない。そういう要素が関係しているのかよくわからないが、この小説はベストセラーになった。当時はどこの本屋に行っても、赤と緑に装丁された本が隣り合わせにうず高く積まれていた。あだち充のまんがのように何もしなくても魅力的な女性が勝手に近づいてくるし、成績優秀な死神が付き添っていそうなくらいに親友やら恋人やら恋人の肉親といった人々が簡単に死んでいくし、そのような過剰なセックスと弔う合間もなく訪れる死をこころよく思わない人もいたが本は売れ続けた。そして読んだ人はたくさんいたのだが、さて感想となると、誰もが口を噤んだ。最後にレイコさんとセックスするなんて、いくらなんでも「やりすぎ」ではないかとみんな考えていたのではないかと思う。
・・・いちおう純愛小説みたいだし、泣ける要素はあるみたいだし、鼠・羊・やみくろは登場しないし、なんといっても登場人物にちゃんと名前がある、そういうわけで話題の本を買ってはみたが、はたして何を読み取ればいいのだろう?
なんだ、人がたくさん死んで、セックスするだけじゃないか?、そう思って誰もが口を噤んだのではないかと推測しているが、実際のところ誰がどのように考えたかなんてわからない。おそらくは読んですぐに忘れてしまったのだろう。そしてよく考えてみると売れたか売れなかったかということは、私にはあまり関係がない。売れたから良い作品であるとか、売れなかったけど大衆にすり寄らないところが優れているとか、そんなことは私には関係がない。当時、私が何を読み取ったかということと、今回読み取ったことの間にも関係がない。結局のところ、今なにを感じるかということに尽きるのだろう。

[上巻]

9ページ
歩きながら直子は僕に井戸の話をしてくれた。

「1973年のピンボール」にも直子と井戸は登場する。設定は少し違っている。キズキは登場せず「僕」が幼馴染だし、彼女は正確な言葉を、たとえば「プラットフォームの端から端まで犬が散歩している」と語っている。
8ページ
「直子は日当たりの良い大学のラウンジに座り、片方の腕で頬杖をついたまま面倒臭そうにそう言って笑った。僕は我慢強く彼女が話しつづけるのを待った。彼女はいつだってゆっくりと、そして正確な言葉を捜しながらしゃべった。」
9ページ
『プラットフォームの端から端まで犬がいつも散歩してるのよ。そんな駅。わかるでしょ?』
10ページ
「ところで、プラットフォームを縦断する犬にどうしても会いたかった。」
16ページ
「井戸について語る。」
18ページ
「そんなわけでこの土地の人々は美味い井戸水を心ゆくなで飲むことができた。まるでグラスを持つ手までがすきとおってしまいそうなほどの澄んだ冷たい水だった。富士の雪溶け水、と人々は呼んだが嘘に決まっている。とどくわけがないのだ。」
23ページ
「帰りの電車の中で何度も自分に言いきかせた。全ては終っちまったんだ。もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ。」

「ノルウェイの森」は短編の「螢」がベースになっているということだが「1973年のピンボール」の時点で書けなかったことが、展開されているのかもしれない。

18ページ
「肩の力を抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい? もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって―――どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの? それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」

31ページ
それからみんなは彼のことをナチだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。
38ページ
僕が突撃隊と彼のラジオ体操の話をすると、直子はくすくすと笑った。

突撃隊を笑いものにするというのは、きっと差別的なことなのだろう。突撃隊を除けば、緑の妄想くらいしか笑いのネタがない、そういう哀しい物語ということだ。

41ページ
僕と直子は中央線の電車の中で偶然出会った。

45ページ
「うまくしゃべることができないの」

51ページ
彼はその夜、自宅のガレージの中で死んだ。N360の排気パイプにゴム・ホースをつないで、窓のすきまをガム・テープで目ばりしてからエンジンをふかせたのだ。

キズキが死んだ理由は書かれていないが、直子が死んだ理由と被るのではないかと思う。彼らは三つの時からいっしょということだから彼にとっては彼女以外のパートナーという選択肢はなかっただろう。彼女と結ばれることができないのであれば彼にとって生きる値打ちなんてなかったのだろう。彼女はそのことで彼が死んでしまったことをずっと苦にして生きていたのだろう。そんなことのために死んでしまうのかと春の熊のように健康な心身を持つ人は思うかもしれない。心に深い闇を持っていたり心身に地獄を抱えて生きることとは無縁の人はまず死んだ理由がつかめない。

53ページ
しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとした空気のかたまりのようなものが残った。
54ページ
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

この作品は著者の他の作品に比べると難解な部分が少ないと思うのだが、ここの部分の意味はわかりにくい。しかも太字で書いてあるし、最後の方でもう一度繰り返される。つまり、ここがわかっていないと何もわかっていないと、そういうことを読者に感じさせる文章となっている。
ところで以前書いたが、ハイデガー「存在と時間」では死について以下のような説明がある。「死とは、現存在がいつもみずから引き受けなくてはならない存在可能性である。死においては、現存在自身がひとごとでない自己の存在可能において現存在に差し迫っているのである。この可能性においては、現存在は端的におのれの世界=内=存在そのものに関わらせられている。おのれの死とは、とりもなおさず、もはや現に存在しなくなることの可能性である」
難解な文章で知られる「存在と時間」の方が、やや丁寧な説明であると思う。
「死とは、もはや現に存在しなくなることの可能性である」
死んだ他者が自らのうちに生き続ける、といったことではなさそうだし、死者あるいは生者と共に過ごした過去が跡形もなく消失してしまい取り戻せなくなったこと、愛する人の喪失をきっかけとした埋められない満たせない虚ろな心の状態、といったこととも違うような気がする。私たちは自らの死を体験できるわけではなく、見知らぬ人の死であれば魂が揺さぶられることもない。ただいつも身近な人たちの死が、私たちに「差し迫って」きて「ひとごとでない」可能性を「引き受け」させようとする。そのようにして死を引き受けるのは容易ではないが、一方で生を引き受けるのも容易ではない。「ワタナベ」は質問されないと答えないし、世の中の標準から見るとあまり積極的とは言えないが、それなりに覚悟を決めて他者の存在を自らのこととして引き受けようとしている。そういうところが、一方的に女と別れてしまう「鼠」とは違っている。

65ページ
そして「グレート・ギャツビイ」はその後ずっと僕にとっては最高の小説でありつづけた。

「グレート・ギャツビイ」は何度か読んだ。読めば読むほど良いというのは確かにその通りだ。

85ページ
それでも僕が中に入ると彼女はひどく痛がった。はじめてなのかと訊くと、直子は肯いた。それで僕はちょっとわけがわからなくなってしまった。僕はずっとキズキと直子が寝ていたと思っていたからだ。

105ページ
「ワタナベ君、でしょ?」
106ページ
「・・・ワカメが頭にからみついた水死体みたいに見えるの」

ワタナベ君が何もしなくても女の方から声を掛けてくる。そういうことがあったらいいなという男性の願望をそれとなく満たしている。ワタナベ君に声を掛けた緑は、夏にパーマをかけて失敗し、やけっぱちで坊主頭にしたということだ。髪の長い直子と髪の短い緑を同時に相手にするというのもまた願望なのだろう。そのあたりはよく狙われている。

110ページ
「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの」と僕は言った。

読書が好きだという人間が誰と友だちになれるのだろうかと思う。
技術の発達は情報や娯楽の映像化を推進し、活字離れを加速させている。会社でもビジブルでわかりやすい資料が求められ、適度に図表をちりばめた資料が喜ばれる。小説にしても文字が大きく、セリフが多く、スラスラ読めるものが喜ばれる。消費社会とはそういうものであり、小説も消費されてなんぼのもんということだ。映像化の進展につれて無理に友だちを作らない人間ががっかりする確率は増えているのだろう。しかし無理に友だちを作らない人間が好む本はどういうわけだか次の世代の無理に友だちを作らない人間に伝えられる。不思議な連鎖があるのだ。

129ページ
でもね、実物たるや惨めなものよ。小林書店。気の毒な小林書店。がらがら戸をあけると目の前にずらりと雑誌が並んでいるの。いちばん堅実に売れるのが婦人雑誌、新しい性の技巧・図解入り四十八手のとじこみ附録のついてるやつよ。

153ページ
その日曜日の午後にはばたばたといろんなことが起った。奇妙な日だった。緑の家のすぐ近所で家事があって、僕らは三階の物干しにのぼってそれを見物し、そしてなんとなくキスをした。

185ページ
封筒の裏の住所には「阿美寮」と書いてあった。
198ページ
「ここの生活そのものが療養なのよ。規則正しい生活、運動、外界からの隔離、静けさ、おいしい空気。私たち畑を持ってて殆んど自給自足で生活してるし、TVもないし、ラジオもないし。今流行ってるコミューンみたいなもんよね。もっともここに入るのには結構高いお金がかかるからそのへんはコミューンとは違うけど」
202ページ
「・・・私は今三十八でもうすぐ四十よ」。直子とは違うのよ。私がここを出てったって待っててくれる人もいないし、受け入れてくれる家庭もんあいし、たいした仕事もないし、殆んど友だちもいないし。それに私ここにもう七年も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何もわかんないわよ」

直子のいる阿美寮は、<世界の終り>と同じように外界から隔離されている。それはとても静かな山奥にあるのだという。<1Q84>にもコミューンだか宗教団体だかの話があったような気がする。インターネットとスマホの普及により<1984年>のビッグ・ブラザーとは異なる監視社会が到来したのではないかと思う。山奥でひっそりと暮らすことなど永久に不可能になった。この社会ではコミュニケーション能力のない人間は社会不適合者として扱われる。つながり・つながり・つながり・・・と映画「サマー・ウォーズ」もそんな感じだったし、つながっていないと不安で一瞬たりともLINEから気の抜けない人があちこちにいる。そういう世界のあり方が正しいというわけではないだろうが、世界がすでにそのようにあるということが基準になる。そこから外れると異端なのだろうか?

216ページ
レイコさんは僕が読んでいた本に目をとめて何を読んでいるのかと訊いた。トーマス・マンの「魔の山」だと僕は言った。
「なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ」とレイコさんはあきれたように言ったが、まあ言われてみればそのとおりだった。

223ページ
彼女はそう言いながら「ミシェル」をとても上手く弾いた。
224ページ
「私が『ノルウェイの森』をリクエストするときにはここに百円入れるのがきまりなの」と直子が言った。

227ページ
「でも彼の場合は自分の中の歪みを全部系統だてて理論化しちゃったんだ。ひどく頭の良い人だからね」

231ページ
「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れてたの。そうしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして? どうしてそんなことが起るの? だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」
「そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ?」
「ごめんなさい」と直子は言った。

233ページ
僕はジェイ・ギャツビイが対岸の小さな光を毎夜見守っていたのと同じように、その仄かな揺れる灯を長いあいだ見つめていた。

246ページ
『・・・あなたは私と結婚することで、私のトラブルも抱えこむことになるのよ。これはあなたが考えているよりずっと大変なことなのよ。それでもかまわないの』って。

261ページ
「いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手くいかなくて苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものや美しいものをもっていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。可哀そうなキズキ君」

キズキ君のような可哀そうな人は増えているのではないかと思う。
現代では誰もが「7つの習慣」のような本を読み、自分を変えよう、向上させよう、人生を成功させよう、ハッピーになろうと考えている。そのような考え方が世の中の標準となっているのだが、なんだか気持ち悪い。そういう人は「ノルウェイの森」なんて読んだりはしないだろう。自分を向上させるようなことは書いていないからだ。あるいは感性を磨くとか言って、無理に読もうとするかもしれない。きっと他人の尺度で自分を縛ってしまうことが可哀そうということだろう。キズキ君はもっと適当で良かったのだ。自分に自信が持てなくても、なんとかやっていこうと思う。そういうところに私を追い込んだ人たちに容赦なく復讐するのだ。彼らは結局のところ、見栄と世間体のために私に指図していただけなのだ。
絶対に許さない。

270ページ
これはなんという完全な肉体なのだろう―――と僕は思った。直子はいつの間にこんな完全な肉体を持つようになったのだろう?
そしてあの初の夜に僕が抱いた彼女の肉体はいったいどこに行ってしまったのだろう?

275ページ
レイコさんがオウムに向って猫の鳴き真似をすると、オウムは隅の方に寄って肩をひそめていたが、少しすると「アリガト、キチガイ、クソタレ」と叫んだ。

289ページ
「ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの?」と直子は言った。私たちみんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ。私もキズキ君もレイコさんも。みんなそうよ。どうしてもっとまともな人を好きにならないの?」

294ページ
そして歩きながら直子は死んだ姉の話をした。
295ページ
「・・・彼女がどうして自殺しちゃったのか、誰にもその理由はわからなかったの。キズキ君のときと同じようにね。まったく同じなのよ。年も十七で、その直前まで自殺するような素振りはなくて、遺書もなくて―――同じでしょ?」
「そうだね」と僕は言った。
「みんなはあの子は頭が良すぎたんだとか本を読みすぎたんだとか言ってたわ」

姉が死んで恋人が死んで自分も死んでしまう。ちょっとやりすぎ。
本を読みすぎて死ぬというのであれば、何冊読めば死ぬというのだろう。
頭が良すぎるとか、本を読みすぎたとか、自分と違う他人を人々は心底憎んでいるらしい。

299ページ
「手紙に書いたでしょ? 私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間なんだって。あなたが思っているより私はずっと病んでいるし、その根はずっと深いのよ」

[下巻]

38ページ
僕が指で金網をつつくとオウムが羽根をばたばたさせて<クソタレ><アリガト><キチガイ>と叫んだ。

日本にいるオウムの90%が、<クソタレ><アリガト><キチガイ>と叫んでいるのではないかと思う。私たちはそんなことしか教えない。きっとそれは私たち自身のことを指している。

48ページ
「ねえ、どうしてそんなにぼんやりしてるの? もう一度訊くけど」
「たぶん世界にまだ馴染めてないんだよ」と僕は少し考えてから言った。
「ここがなんだか本当の世界じゃないような気がするんだ。人々もまわりの風景もなんだか本当じゃないみたいに思える」

彼は<世界の終り>から帰ってきたのかもしれない。
世界とか、本当の世界とか、距離を感じているのか、距離をとりたいのか・・・

50ページ
「どこもかしこもロバのウンコよ。ここにいたって、向うに行ったって。世界はロバのウンコよ」

緑の口ぐせと言えば「ロバのウンコ」だろう。看病続きの彼女にとって「ウンコ」は切実な問題だったのであり、そんなものにまみれたくはなかったのだ。

65ページ
「あなた『資本論』って読んだことある?」と緑が訊いた。
「あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同じように」

資本論は通しで読んだが忘れてしまった。剰余価値は不払い労働から成ると、そういうことしか覚えていない。革命や社会主義が叫ばれているわけではなく原則として資本のことしか書いていないのだが、資本家の犠牲となった労働者(とくに小さな子供)についての話が延々と続く場合もある。彼はそういう人間のことについて書きたかったのだと思う。

71ページ
「お母さんの病気と同じだからよくわかるのよ。脳腫瘍。信じられる? 二年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳腫瘍」
72ページ
その目を見ると、この男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。

92ページ
「水かジュース飲みますか?」と僕は訊いてみた。
<キウリ>と彼は言った。
僕はにっこり笑った。「いいですよ。海苔つけますか?」
彼は小さく肯いた。僕はまたベッドを起こし、果物ナイフで食べやすい大きさに切ったキウリに海苔を巻き、醤油をつけ、楊枝に刺して口に運んでやった。

キュウリに海苔を巻き、醤油をつけ、楊枝を刺したものって、すごくおいしそう。
もうすぐ死ぬ男ですら食べたくなるということだ。

113ページ
「でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待ってるわけじゃないぜ。俺は俺なりにずいぶん努力をしている。お前の十倍くらい努力してる」

125ページ
「俺とワタナベには似ているところがあるんだよ」と永沢さんは言った。「ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ」
127ページ
「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ」と永沢さんが言った。
130ページ
「でもワタナベだって殆んど同じだよ、俺と。親切でやさしい男だけど、心の底から誰かを愛することはできない。いつもどこか覚めていて、そしてただ渇きがあるだけなんだ。俺にはそれがわかるんだ」

傲慢で歪んでいる永沢さんは、実は「ワタナベ」のことをよく観察している。「ワタナベ」は自分のことにしか興味がもてないし、他人に理解してもらいたいなんて思っていないし、誰かを愛することはできない。直子のことを愛しているという彼は永沢さんにはそう見えたのだが、緑を愛するようになって変って行くことになる。緑を愛し、緑といっしょにいたいと思うことで、彼の渇きは癒されていくことになる。緑とは名前からして生命力そのものだろう。永沢さんが見ていたのは直子のことを引き受けようとしたが叶わず満たされず渇きがあるだけの「ワタナベ」であった。彼がもう少し観察を続けていたならば「ワタナベ」の変化に気づいたかもしれない。だが気付いたとしても彼は変らず、自分と自分に関わる人を不幸にしてしまう習慣を変えようとはしないだろう。
しかし私自身はどうなのだろう? やはり渇きがあるだけなのだろうか? やはり他人に理解してほしいなんて思わず、自分が何を考えているか、何を感じているか、そんなことにしか興味が持てないのだ。永沢さんが見たら、すぐにバレてしまうだろう。

132ページ
ハツミさんは―――多くの僕の知りあいがそうしたように―――人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの命を絶った。

172ページ
「春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみたいな毛なみの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」
177ページ
私が淋しがっていると、夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます。夜の樹々が風でさわさわと鳴るように、いろんな人が私に向って話しかけてくるのです。キズキ君やお姉さんと、そんな風にしてよくお話をします。あの人たちもやはり淋しがって、話し相手を求めているのです。

幻聴に苦しむ人もいれば、熊と転がりっこする人もいる。直子が死に近づくと、緑がますますその生命力を迸らせるというのは計画的なことなのだろう。そして「ワタナベ」も死から生へと向っていく。彼はこの先、何十年も生きることになっているのだ。
あー、転がりっこしたいなー。

191ページ
僕はその猫に「かもめ」という名前をつけた。

「いわし」とか「かもめ」とか、猫の名前じゃないです。

241ページ
僕はそれを求めていたし、彼女もそれを求めていたし、我々はもう既に愛しあっていたのだ。誰にそれを押しとどめることができるだろう?
そう、僕は緑を愛していた。

248ページ
直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりのように誰にもとめることのできないことなのだと言ってくれた。

253ページ
キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけたように思った。それはこういうことだった。
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学まねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。

キズキが死に、直子のお姉さんが死に、緑のお母さんとお父さんが死に、ハツミさんが死に、そして直子が死んだ。これが愛するものを亡くした哀しみについて語るために必要かつ十分な死者の数ということなのだろうか?
あるいは年老いた者の死は受け入れられるが、若くして亡くなることには哀しみが伴うということだろうか?
死が我々の生のうちに潜み、ひとごとでなく現に存在しなくなる可能性ということであれば、平均的に余命が十分あり、当分は死ぬはずのない命が尽きてしまうことに対して私たちは違和感を覚え、憤るのだろう。その行き場のない憤りはまた哀しみでもあり、当分は癒されることがないというのは真実には違いないが、時の流れがもたらす忘却がもはや癒しを必要としないところまで私たちを回復させてしまうことも真実だろう。そのような受け入れがたい回復が訪れることを直子は知っていたのだ。「私のことを覚えていて」というのはそういうことなのだ。

283ページ
レイコさんはビートルズに移り、「ノルウェイの森」を弾き、「イエスタデイ」を弾き、「ミシェル」を弾き、「サムシング」を弾き、「ヒア・カムズ・ザ・サン」を唄いながら弾き、「フール・オン・ザ・ヒル」を弾いた。僕はマッチ棒を七本並べた。

私が初めてビートルズを聴いたのは中二の時だった。
きっと死ぬまで聴き続けるのだろう。

293ページ
「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。
僕は今どこにいるのだ?

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

2015-07-18 00:05:52 | 村上春樹
やみくろ、シャフリング、音抜き、古い夢、一角獣、そして世界の終り、どこかで聞いたことがあるでいて意味はさっぱりわからない複数のキーワードで好奇心が刺激される。前作に登場した謎は羊だけだったが、本作では次から次へとポリフォニー的に謎が繰り出される。やがてそれは意識とか心と呼ばれている事象についての考察として展開される。
その説明はどちらかというと、ありきたりのものだ。この本を読んだからといって「心とは何か?」がわかるわけではない。そんなことがわかる本はどこにもない。

デビュー作に「完璧な文章は存在しない」と書いてあったが、この本の文章はとても素晴らしいと思う。これまでの作品は独白のイメージが強すぎて損なわれていた部分もあったのではないかと思う。本作は徹底的に抑圧されている感じがする。

[上巻]

41ページ
まるでビニール・ラップにくるまれて冷蔵庫に放りこまれそのままドアを閉められてしまった魚のような冷ややかな無力感が私を襲った。

著者の喩えは二段階になっている。「魚のような冷ややかな無力感」のところで著者は魚を徹底的に修飾する。そしてどういうわけだかビニール・ラップと無力感がつながる。私たちはそのギャップにとまどいつつ笑うしかない。

43ページ
私は懐中電灯をしっかりと右手に握りしめ、進化途上にある魚のような気分で暗闇の中を上流へと向った。

ここも二段階で、意外なもの(進化途上)と普通のもの(魚)が組み合わされる。意外なものと意外なもの、普通のものと普通のものの組合せはない。そんなものはおもしろくないのだろう。

47ページ
「やみくろ・・・」と私は言った。
57ページ
「と言いますと?」
「シャフリングです。私はシャフリングのことを言っておるですよ。」
58ページ
「三日後の正午までにはどうしても必要なんだが?」
「十分です」と私は言った。
64ページ
「それで私の質問はですね、彼女は生まれつき口がきけないのか、それとも音抜きされてああなったのか、ということなんですが・・・」
67ページ
「古い夢?」と僕は思わず訊きかえした。「古い夢というのはいったい何なのですか?」
68ページ
「・・・あんたはこれから先<夢読み>と呼ばれる。あんたにはもう名前はない。<夢読み>というのが名前だ。ちょうど俺が<門番>であるようにね。わかったかね?」

約20ページの間に謎めいた言葉が次々と紹介される。やみくろ、シャフリング、音抜き、古い夢、夢読み・・・どれも馴染みのある響きの言葉だが意味は不明だ。

73ページ
「おわかりのように、この街では記憶というものはとても不安定で不確かなんです。」

記憶の象徴である影を捨てなければ、この街には入れないということだ。

79ページ
あの音抜きのことを思いかえしてみると、老人が科学者として最高の部類に属するというのはまず間違いないところだった。

音抜きが説明される。老人の素姓を説明するための言葉であった。

80ページ
サンドウィッチを食べているときの老人はどことなく礼儀正しいコオロギのように見えた。
100ページ
エレベーターは訓練された犬のように扉を開けて私が乗るのをじっと待っていた。

意外なものと普通のものの組合せによる二段階のジャンプという構造はわかっているのだが真似できないし、つい、笑ってしまう。

102ページ
「これは街にいる一角獣の頭骨だね?」と僕は彼女に訊いてみた。

<世界の終り>には一角獣が住んでいる。

108ページ
そう、我々は影をひきずって歩いていた。この街にやってきたとき、僕は門番に自分の影を預けなければならなかった。
「それを身につけたまま街に入ることはできんよ」と門番は言った。
「影を捨てるか、中に入るのをあきらめるか、どちらかだ」
僕は影を捨てた。

120ページ
私は箱とナイフをテーブルから下ろし、広々としたテーブルの上でガムテープと新聞紙を丁寧にはぎとった。その下から現われたのは動物の頭骨だった。

124ページ
「車というのは本来こういうもんなのです」とその中年のセールスマンは言った。
「はっきり言って、みんな頭がどうかしてるんです」
私もそう思う、と私は言った。

私もそう思う。みんな頭がどうかしているのだが、そのイカレ加減が経済を支えている。

139ページ
私は一角獣の頭骨を手に入れた。
(この部分は太字になっている)

ハードボイルド・ワンダーランンドではしばらくの間、一角獣の頭骨についての謎めいた話が主題となる。

147ページ
「・・・いいかね、ここは完全な街なのだ。完全というのは何もかもがあるということだ。しかしそれを有効に理解できなければ、そこには何もない。完全な無だ。そのことをよく覚えておきなさい。」

158ページ
「どんな仕事?」
「コンピューター関係」と私は答えた。仕事を訊かれたとき、私はいつもそう答えることにしている。だいたいのラインとしては嘘じゃないし、世間の大抵の人はコンピューター・ビジネスについてはそれほど深い専門知識を持っているわけではないので、それ以上つっこんだ質問をされずに済む。

たしかに便利な言葉である。私も時々使っている。
だいたいのラインとして嘘ではない。

167ページ
「・・・どう、面白いでしょ? 十三世紀になっても一角獣は中国の歴史に登場してくるのよ。ジンギス汗の軍隊がインド侵入を計画して送り込んだ斥候遠征隊が砂漠のまん中で一角獣に出会うの・・・」

「羊をめぐる冒険」にもジンギス汗の話が出てきた。
ジンギス汗についてのうんちくだと本当の話のように聞こえてくる。

184ページ
「仕事をきちんきちんとやるのがいちばんだ。仕事をきちんとできない人間がつまらんことを考えるんだ」

そう言われることが度々ある。
仕事以外のことがつまらんことであるなら、世界はつまらんことで満ちているだろう。
そういうつまらない世界の、つまらない本を、つまみあげて喜んでいるのが私なのだろう。
それをネタにしていっそうつまらんことを考えるのだ。
これに勝る喜びはない。

186ページ
「・・・ここは世界の終りなんだ。ここで世界は終り、もうどこへもいかん。だからあんたももうどこにもいけんのだよ」

186ページ
何かが、何かの力が、僕をこの世界に送りこんでしまったのだ。何かしら理不尽で強い力だ。そのために僕は影と記憶を失い、そして今心を失おうとしているのだ。

その何かというのは、ハードボイルド・ワンダーランドでの出来事(ジャンクションに関すること)かもしれない。そうであれば確かに、理不尽なことだろう。

190ページ
私のシャフリングのパスワードは<世界の終り>である。私は<世界の終り>というタイトルのきわめて個人的なドラマに基づいて、洗い出しの済んだ数値をコンピューター計算用に並べかえるわけだ。

192ページ
「人は自らの意識の核を明確に知るべきだろうか?」

意識の核の意味するところはよくわからないが、意識の手の届かないところに、その意識の核のようなものがあるだという。知ることができるもの、理解できるものであれば、知っていてもよいのではないかと思う。たいていの場合、そんなものは理解しようがない。

206ページ
「あなたにはわからないの? ここは正真正銘の世界の終りなのよ。私たちは永遠にここにとどまるしかないのよ」

211ページ
それから私は計算士を引退したあとの生活について考えた。私は十分な金を貯め、それと年金とをあわせてのんびりと暮し、ギリシャ語とチェロを習うのだ。車の後部座席にチェロ・ケースをのせて山に行き、一人で心ゆくまでチェロを練習しよう。

いつかは死ぬが、しばらくは死なないという前提が私たちの思考あるいは生活を支えている。明日死ぬということであれば、金を貯めることに意味はないだろうし、私たちの論理も崩壊してしまう。老後の生活を保障してもらうため現役の時にあくせく働かねばならない、あるいは子供を育てるために、あるいは住宅ローンの支払いのために働かねばならない、そういうことが全て無意味になってしまう。マルクスが言うように労働は私たちを疎外しているのだが、しばらくは死なない私たちはそのことに気が付かない。

224ページ
彼は私のことを部屋の備品か何かのように眺めていた。私だってできることならほんとうに部屋の備品になってしまいたいくらいだった。

235ページ
「やみくろについて知りたい」と私は言った。
「やみくろは地下に生きるものだ。地下鉄とか下水道とか、そういうところに住みついて、都市の残りものを食べ、汚水を飲んで生きている・・・」

やみくろについて説明される。
やみくろは邪悪な存在の象徴であり、その邪悪さであるとか恐怖を強調する意図があってか姿を見せることはない。正体がわかってしまえばプレデターでも怖くないものだ。
・・・いや怖いか。

244ページ
大男は次にヴィデオ・デッキを持ちあげ、TVのかどにパネルの部分を何度か思い切り叩きつけた。スウィッチがいくつかはじけとび、コードがショートして白い煙が一筋、救済された魂みたいに空中に浮かんだ。

救済された魂みたいな白い煙・・・

255ページ
お前はなぜここにいるのだと彼らは語りかけているようだった。お前は何を求めているのだ、と。(下線が引かれている)

私たちはいったい何を求めているのだろう。そしてそれは本当に「私」が求めていることなのだろうか?
経験付けられた存在は、経験によりバイアスされた方向にむかうだけなのだろう。そのことを求めていると言い換えているだけかもしれない。

264ページ
「選択というのはそういうものなんだよ。たとえ一パーセンントでも可能性が多い方を選ぶんだ。チェスと同じさ。チェックメイトされたら逃げる。逃げまわっているうちに相手がミスをするかもしれない。どんな強力な相手だってミスをしないとは限らないんだ。さて―――」

ハードボイルド・ワンダーランドの二人組みのちびの方は、世界の終りの大佐と同じようにチェスについて語っている。彼らは各々の世界についての説明役というか進行役のような感じがする。二人組みのでかい方と門番も暴力性という点で重なっているのではないかと思う。

273ページ
ほんの二ミリか三ミリばかり腹を切られただけで、人間はこれほど惨めな存在になってしまうのだ。満足に靴もはけず、階段を上り下りすることもできないのだ。

人間が暴力に屈する理由はそういうところにあるのだろう。
とても惨めな存在なのだ。

277ページ
いったい今の時代にどれだけの若者が『赤と黒』を読むのだろう? いずれにせよ、私は『赤と黒』を読みながら、またジュリアン・ソレルに同情することになった。

私もジュリアン・ソレルに同情する。彼の偏り方というのは文学史上、最も同情に値するように思える。ファブリス・デル・ドンゴには同情しないが彼には同情する。

278ページ
私の人生は無だ、と私は思った。ゼロだ。何もない。私がこれまでに何を作った? 何も作っていない。誰かを幸せにしたか? 誰も幸せにしていない。何かを持っているか? 何も持っていない。家庭もない、友だちもいない、ドアひとつない。勃起もしない。仕事さえなくそうとしている。

何かを作ったとしても、それは時の流れの中で次第に無価値になって行く。
どんどん無価値になって行くものだから、常に何かを作っていなければ落ち着かなくなる。
それらはゼロでなくても次第に減価償却してやがて簿価が100円になる。
きっとゼロの人生を救済するには愛するしかないのだろう。

281ページ
私はトラブルの衣にくるまれた絶望の王子なのだ。フォルクスワーゲン・ゴルフくらいの大きさのひきがえるがやってきて私に口づけするまで、私はこんこんと眠りつづけるのだ。

287ページ
「僕に心があり彼女に心がないから、それで僕がどれだけ彼女を愛しても何も得るところがないということですか?」

288
「僕はこう思うんです」と僕は言った。
「人々が心を失うのはその影が死んでしまったからじゃないかってね。違いますか?」
「そのとおりだよ」

307ページ
「僕にもよくわからない。でも何かがひっかかるんだ。というのは僕のシャフリングのパスワードは<世界の終り>と呼ばれているんだ。偶然の一致とはとても思えないしね」

309ページ
しかしその一方で、古い夢を読めば読むほどべつのかたちの無力感が僕の中で募っていった。その無力感の原因はどれだけ読んでも僕が古い夢の語りかけてくるメッセージを理解することができないという点にあった。僕にはそれを読むことはできる―――しかしその意味を解することはできない。それは意味のとおらない文章を来る日も来る日も読みあげているのと同じことだった。流れていく川の水を毎日眺めているのと同じことだった。僕はどこにも辿りつかないのだ。

たとえば音楽もそうであるかもしれない。聴いていて何かしら感じるものはあるが理解することはできない。ここで理解するというのはやはり言葉に置き換えるということであって、映像や音楽を言葉に翻訳することはできない。何でも理解できると思うこと、どこかに辿りつけるということ、そういうことは期待しない方がよいかもしれない。

327ページ
「あなたは違うわ。あなたには何か特別なものがあるような気がするの。あなたの場合は感情的な殻がとても固いから、その中でいろんなものが無傷のまま残っているのよ」

345ページ
「しかし獣たちはここの街を離れることはできないんだ。彼らはこの街に付属し、捕われているんだ。ちょうど私や君と同じようにな。彼らはみんな彼らなりの本能によって、この街から抜け出すことができないということをちゃんと知ってるんだ・・・」

365ページ
しかしそれはただの痛みや感触にすぎない。それはいわば体という仮説の上に成立している一種の概念にすぎないのだ。だから既に体は消滅していて、概念だけが残って機能しているということだって起り得なくはないのだ。それはちょうど手術で脚を切り落とされた人が、切り落とされたあとでもまだ指先のかゆみを記憶しているのと同じことなのだ。

体が仮説で概念だけがあるというのは、現象学の立場からは容認できないことだろう。
そのような考え方は概念の中で無限ループに陥っている19世紀の哲学という感じがする。

375ページ
人は何かを達成しようとするときにはごく自然に三つのポイントを把握するものである。自分がこれまでにどれだけのことをなしとげたか? 今自分がどのような位置に立っているか? これから先どれだけのことをすればいいか? ということだ。この三つのポイントが奪い去られてしまえば、あとには恐怖と自己不信と疲労感しか残らない。

仕事をする時もだいたいそのような感じだ。おそらくは狩りをする時も同じだろう。
ポイントが奪い去られてしまうと取っ掛かりがなくなる。
そうすると何をしてよいのかわからなくなる。

376ページ
みんなでペチカにあたっていると誰かがドアをノックするのでお父さんが出てみると、そこに傷ついたとなかいが立っていて「おなかが減っているんです。何か食べさせて下さい」というのだ。

393ページ
私はだいたいにおいて春の熊のように健康なのだ。

動物の喩えが多い。礼儀正しいコオロギとか、フォルクスワーゲン・ゴルフくらいの大きさのひきがえるとか、動物だとほっとする。

[下巻]

12ページ
「しかしあなたの言う救済というのはどういう意味なんですか?」
「死によって彼らは救われておるのかもしれんということさ。獣たちはたしかに死ぬが、春になればまた生きかえるんだ。新しい子供としてな。」
「そしてまたその子供たちが成長して、同じように苦しんで死んでいくのですね? どうして彼らはそんなに苦しまなくちゃならないんですか?」
「それが定めだからさ」と老人は言った。

17ページ
おそらく街は僕が彼女と寝ることを望んでいるのだろうという気がした。彼らにとってはその方がずっと僕の心を手に入れやすくなるのだ。

31ページ
ペニスを有効に勃起させることだけが人生の目的ではないのだ。それはずっと昔にスタンダールの『パルムの僧院』を読んだときに私が感じたことでもあった。

「赤と黒」に続いて「パルムの僧院」も登場した。
いずれも新潮文庫から出ている。

40ページ
どうして新聞を読まなくなってしまったのか自分でもよくわからないが、とにかくやめてしまったのだ。たぶん私の生活が新聞記事やTVの番組とは無縁の領域で進行していたせいだろう。

私も新聞を読まない。インターネットが普及していない頃から読んでいない。新聞を読まないと、世の中のことがわからないのだという。そうかもしれないが、そのような世の中に対する関心を失う場合がある。入学試験のテストに出て来るとか、取り引き先との話題にするとか、そんなことで役立つ場合はあるのだろう。新聞を読むくらいなら、図書館に埋もれている本を読む方が健全かもしれない。何か伝えたいという意思を感じることで少しは気分が良くなる。

44ページ
そしてそれから、ドラマーが振り下ろそうとしたスティックを宙でとめて一拍置くような暫定的とも言えそうなかんじの一瞬の沈黙があった。

48ページ
しかしその影はたしかに私に何かを伝えようとしていた。

ここでも<世界の終り>と<ハードボイルド・ワンダーランド>は重なり、混濁しつつあるようだ。

50ページ
そう考えると、私はだんだん腹が立ちはじめた。誰にも私の記憶を奪う権利なんてないのだ。それは私の、私自身の記憶なのだ。他人の記憶を奪うことは他人の年月を奪うのと同じことなのだ。

他人の年月というのは、つまりは他人の命ということになる。
誰にも他人の命を奪う権利はないということだ。

64ページ
「たしかに俺はあんたの記憶のおおかたを持ってはいるが、それを有効に使うことはできないんだ」

影は記憶と結びついているが活用はできないのだという。

66ページ
「正しいのは俺たちで、間違っているのは彼らなんだ。俺たちが自然で、奴らが不自然なんだ。そう信じるんだね」

何が自然で、何が不自然なのだろうか?
むかし「自然に生きているってわかるなんて、なんて不自然なんだろう」という歌があった。

79ページ
「そう、そのとおり。さらに説明させて下さい。こういうことです。人間ひとりひとりはそれぞれの原理に基づいて行動をしておるです。誰一人として同じ人間はおらん。なんというか、要するにアイデンティティーの問題ですな。アイデンティティーとは何か?
一人ひとりの人間の過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性のことです。もっと簡単に心と呼んでもよろしい」
80ページ
「・・・正確には象工場と呼んだ方が近いかもしれん。そこでは無数の記憶や認識の断片が選りわけられ、選りわけられた断片が複雑に組みあわされて線を作り、その線がまた複雑に組みあわされて束を作り、そのバンドルがシステムを作りあげておるからです。それはまさに<工場>です。それは生産をしておるのです」
81ページ
「・・・しかしですな、自発性とは何かと訊かれても、誰にもうまく答えられんです。我々の中の象工場の秘密を誰も把握してはおらんからです。フロイトやユングが様々な推論を発表したが、あれはあくまでそれについて語ることができるだけの述語を発明したにすぎんです」

工場というのかどうかは知らないが、無数の記憶素子(ニューロン)とそれらを結ぶ配線(シナプス)が思考システムを作り出していると私たちは想定している。そしてそこには「自発性」とか「意思」といった神がかり的要素はないだろう。コンピューターのメモリにはプログラムとデータが格納されているが、どちらも数値であって物理的には識別はできない。私たち自身の頭の中の記憶素子及び配線についても、どこまでがシステムで、どこからがデータ(狭義の記憶)なのかわからない。そしてデータについても取り扱えるもの(意識)であったり、取り扱えないもの(無意識)であったりする。もしかすると無意識というのはスーパーバイザーであれば扱えるのかもしれない。呼吸とか消化とか純粋なハードウェア(身体)も脳は制御している。身体と無意識と意識の境界がどうなっているか私たちは知らない。おそらくは明確な境界なんてないのだろう。

93ページ
「それだけの理由で」と私は言った。
「あなたは我々の頭の中に電気機関車の線路みたいなややっこしい回路をいくつも組みこんだわけですか?」
95ページ
「私がジャンクションを切りかえて第三の回路を解放してしまったからです」と博士は言った。
102ページ
「そのことと世界が終ることとがどう関係しているのですか?」と私は質問してみた。
「正確に言うと、今あるこの世界が終るわけではないです。世界は人の心の中で終るのです」
「わかりませんね」と私は言った。
「要するにそれがあんたの意識の核なのです。あんたの意識が描いておるものは世界の終りなのです」
105ページ
「・・・何故かといえば第三回路は正確にはあんた自身のものではないからです。放っておけばその誤差のエネルギーが生じてジャンクションBを焼き切り、恒久的に第三回路につながったままになり、その放電でジャンクションAをポイント②にひきよせ、ついではそのジャンクションをも焼ききってしまうからです」

物語の進行についての物理的な(あるいは論理的な)説明が加えられる。

108ページ
「・・・僕は世の中に存在する数多くのものを嫌い、そちらの方でも僕を嫌っているみたいだけど、中には気に入っているものもあるし、気に入っているものはとても気に入っているんです。向うが僕のことを気に入っているかどうかには関係なくです。僕はそういうふうにして生きているんです」

嫌うということが禁じられている世界ではある。そういうことは大人気ないのだ。ゴルフをしたり、会食をしたりして、一流のビジネス・ピープルはコミュニケーション能力を磨く。彼らには実際のところ、とても気に入っているものはあるのだろうか?
他人の嗜好に振り回されることなく、とても気に入ったものといっしょに生きるということは、なかなかむずかしい。

123ページ
「・・・そしてそれはやがてその新しい記憶による世界の再編へと向う」
「世界の再編?」
「そうです。あんたは今、別の世界に移行する準備をしておるのです」

125ページ
「それが違うのです。思念には時間というものがないのです。それが思念と夢の違いですな。思念というものは一瞬のうちにすべてを見ることができます。永遠を体験することもできます」
127ページ
「そうです。思念の中に入った人間は不死なのです。正確には不死ではなくとも、限りなく不死に近いのです。永遠の生です。
127ページ
「・・・そして私は発見した。人間は時間を拡大して不死に至るのではなく、時間を分解して不死に至るのだということをですよ」

思念には時間がないので思念の中で生きるのが不死であるのか、「心をなくすことで、それぞれの存在を永遠にひきのばされた時間の中にはめこんでいるんだ。だから誰も年老いないし、死なない」ので不死であるのか、よくわからない。思念が心の働きによるものであるなら、心を失くすことで不死ということとは矛盾するのではないだろうか?
どちらにしても観念論をこねくりまわしているだけではないかと思う。
精神の無限性を信じているキリスト教のようだ。

150
「でもね、もし」と娘は言った。「『組織』と『工場』が同じ一人の人間の手によって操られていたとしたらどう? つまり左手がものを盗み、右手がそれを守るの」

175
「前にもこれと同じことをした覚えがある」と私は言った。
「地下鉄の構内を歩いたの?」
「まさか、そうじゃないよ。光さ。眩しい光で涙をこぼしたことさ」

187ページ
「あの穴はいったい何のための穴なのですか?」と僕は大佐に質問してみた。
「あれは何でもないよ」と老人はスプーンを口にはこびながら言った。「彼らは穴を掘ることを目的として穴を掘っているんだ。
そういう意味ではとても純粋な穴だよ」
187ページ
「たぶん私がチェスに凝るのと原理的には同じようなものだろう。意味もないし、どこにも辿りつかない。しかしそんなことはどうでもいいのさ。誰も意味なんて必要としないし、どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね。我々はここでみんなそれぞれに純粋な穴を掘りつづけているんだ。目的のない行為、進歩のない努力、どこにも辿りつかない歩行、素晴らしいとは思わんかね。誰も傷つかないし、誰も傷つけない。誰も追い越さないし、誰にも追い抜かれない。勝利もなく、敗北もない」

因果関係に縛られている人間にとっては目的が必要であり、純粋な穴掘りなんてものはない。この物語では、目的がないことが虚しいこととされているようだが、目的から逃れられないということも相当虚しいのではないかと思う。たとえば進歩が私たちをどこに連れて行くというのか、快適な暮しだろうか?、民主主義的な政治システムだろうか?、人類の繁栄だろうか?、人間としての成長だろうか?、結局のところ進歩に目的はないのだし、目的に目的はない。私たちはアンパンマンの歌にあるように何のために生きるのか理由を欲しがっている。行為があれば目的なんてどうでもいいような気がする。

205ページ
結局私に思いつけるのは女の子と二人で美味い食事をして酒を飲むことだけだった。その他にはやりたいことといっても何もなかった。

あと一日で死ぬということであれば、きっと同じような選択をするのだろう。余命が一年ということであれば、何かを一生懸命書いているかもしれない。仕事をしなくてもいいのであれば辞めてしまうだろう。いつか死ぬという認識が、物事の優先順位を決定する。私たちが普段だらだらと生活しているのは、いつか死ぬなんてことを、これっぽっちも考えていないからだろう。たとえば病気になって死にそうになったら、人生における優先順位が変ってしまうなんてことはよくある。何が大切かということも経験の蓄積によってバイアスがかかった思考システムが決めることではある。本当の自分とかなんとか言っているのはバイアスがかかった思考システムそのものではある。それでもそれが私であり、私はそのような選択をするのだ。

210ページ
「いや、違うな、そういうものじゃない」と私は言った。「もっとべつのものだよ。本能とか直感とか、それに近いものだな。あるいは記憶の逆流に関係しているかもしれない。うまく説明することができない。僕自身は今すごく君と寝たいと思っているよ。でもその何かが僕を押しとどめているんだ。今はその時期じゃないってね」

217ページ
「・・・俺もこんなところで死なずに済むし、君も記憶をとり戻してまたもとどおりの君自身になれる」

影と記憶は関連がありそうだ。

218ページ
「金も財産も地位も存在しない。訴訟もないし、病院もない」と影はつけ加えた。「そして年老いることもなく、死の予感に怯えることもない。そうだね?」
219ページ
「この街の完全さは心を失くすことで成立しているんだ。心をなくすことで、それぞれの存在を永遠にひきのばされた時間の中にはめこんでいるんだ。だから誰も年老いないし、死なない。まず影という自我の母体をひきはがし、それが死んでしまうのを待つんだ。影が死んでしまえばあとはもうたいした問題はない。日々生じるささやかな心の泡のようなものをかいだしてしまうだけでいいのさ」
「かいだす?」
219ページ
「・・・しかし戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。それが俺の言う自然ということさ。それからもちろん愛情のことがある。君のいうその図書館の女の子のことにしてもそうだ。君はたしかに彼女を愛しているかもしれない。しかしその気持ちはどこにも辿りつかない。何故ならそれは彼女に心というものがないからだ」
222ページ
「じゃあ教えてやる。心は獣によって壁の外に運び出されるんだ。それがかいだすということばの意味さ。獣は人々の心を吸収し回収し、それを外の世界に持っていってしまう。そして冬が来るとそんな自我を体の中に貯めこんだまま死んでいくんだ。彼らを殺すのは冬の寒さでもなく食料の不足でもない。彼らを殺すのは街が押しつけた自我の重みなんだ」

『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』ということで仏道を習うというのは「自我という囚われから脱する」ということであった。そうすると仏道は、世界の終りと同じなのだろうか?
おそらく仏教に、喜びや至福や愛情といった要素はないのだろう。男女の愛情といったものも関係なさそうだ。<世界の終り>に、東洋的な要素は見あたらないので、あるいは関係ないのかもしれない。だが自我の重みを獣に押し付けるというのは、仏教で経済的な活動を在家の信者に押し付けていることと同じであるかもしれない。家を捨てるという点で出家者の覚悟にはすさまじいものがあるが、修行に専念するということは、壁の中で心を捨てて生きるということと似ているかもしれない。

234ページ
しかしもう一度私が私の人生をやりなおせるとしても、私はやはり同じような人生を辿るだろうという気がした。何故ならそれが―――その失いつづける人生が―――私自身だからだ。

確かに人生をやり直したとしても、やはり同じになってしまうと思う。今度生まれてくるとしたら男がいいか、女がいいか、そういう問題ではなくて、どちらであっても同じになってしまうと思う。それでいいのかと問われても答えようがない。

237ページ
ビヤホールではブルックナーのシンフォニーがかかっていた。何番のシンフォニーなのかはわからなかったが、ブルックナーのシンフォニーの番号なんてまず誰にもわからない。

262ページ
「『ブランデンブルク』ね?」
「好きなの?」
「ええ、大好きよ。いつも聴いてるわ。」
・・・
「パブロ・カザルスの『ブランデンブルク』は聴いたことある?」
「ない」
「あれは一度聴いてみるべきね。正統的とは言えないにしてもなかなか凄味があるわよ」

269ページ
「意識の底の方には本人に感知できない核のようなものがある。僕の場合のそれはひとつの街なんだ」

272ページ
「・・・なにしろ今回の出来事に関しては僕の主体性というものはそもそもの最初から無視されてるんだ。あしかの水球チームに一人だけ人間がまじったみたいなものさ」

絶対にパスしてもらえないだろう。

273ページ
「コンピューターはいつか自我を持つようになるの?」
「たぶんね」と僕は言った。

いまのところ、コンピューターに自我のようなものはないらしい。もっとも自我とは何かと聞かれてもよくわからないのでコンピュータに自我がないと言ったところで何を表現しているかは怪しい。それはコンピューターと私たちは違うと言っているだけではないかと思う。子供を作ろうとする本能と生存を維持しようとする本能がコンピューターにはない。つまりコンピューターには身体がない。身体がなければ時系列に経験を整理して活用するなんてことは必要ないからきっと心も要らないのだと思う。

279ページ
「何もかも昔に起ったことみたいだ」と私は目を閉じたまま言った。
「もちろんよ」と彼女は言った。
・・・
「どうしてわかる?」
「知ってるからよ」と彼女は言った。
・・・
「みんな昔に一度起ったことなのよ。ただぐるぐるとまわっているだけ。そうでしょ?」

この部分はニーチェのことを書いているのではないかと思う。仏教の輪廻も同じだが。私という人格を含めてぐるぐるまわっている場合と、人格は含めず生き物が生き死にを繰り返している場合で多少解釈は異なる。心が幻想であると割り切ってしまえば、どちらも同じことになる。

284ページ
僕には心を捨てることはできないのだ、と僕は思った。

287ページ
ここにあるすべてのものが僕自身であるように感じられた。壁も門も獣も森も川も風穴もたまりも、すべてが僕自身なのだ。彼らはみんな僕の体の中にいた。この長い冬さえ、おそらくは僕自身なのだ。

287ページ
僕は立ちあがって天井の電灯を消した。そしてその光がどこからやってくるのかをみつけることができた。頭骨が光っているのだ。
291ページ
とにかくテーブルの上でクリスマス・ツリーのように光っているのは私が持ってきた一角獣の頭骨だった。光が頭骨の上に点在しているのだ。

ここで二つの世界はつながっているようだし、図書館の女の子も愛情の対象であるという点で同じということになるのだろう。ピンクのスーツの博士の孫娘の存在が何と結びついているのかはよくわからない。

322ページ
「それが立派な世界かどうかは俺にもわからない」と影は言った。
「しかしそれは少なくとも俺たちの生きるべき世界だ。良いものもあれば、悪いものもある。良くも悪くもないものもある。君はそこで生まれた。そしてそこで死ぬんだ。君が死ねば俺も消える。それがいちばん自然なことなんだ」

何が自然で、何が不自然かというのはよくわからない。
思念によるユートピア的な思想が不自然ということかもしれない。

328ページ
私は目を閉じて『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟の名前を思いだしてみた。ミーチャ、イヴァン、アリョーシャ、それに腹違いのスメルジャコフ。『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前をぜんぶ言える人間がいったい世間に何人いるだろう?

著者の作品で「カラマーゾフの兄弟」が紹介されるのは三度目になる。それほど薦めるのであれば、と思って読んでみた人も多いのではないかと思う。私もその中の一人だ。当時はドストエフスキーと言えば「罪と罰」だったと思う。新潮文庫の100冊にも入っていた。「カラマーゾフの兄弟」が普及したのは小説で何度も紹介した著者の功績ではないかと思う。私はもちろん兄弟の名前はぜんぶ言える。ブルックナーのシンフォニーの違いだってわかる。

331ページ
しかしそんな風景をじっと眺めているうちに、この何日かではじめて私はこの世から消えたくないと思った。
341ページ
やがてその雨はぼんやりとした色の不透明なカーテンとなって私の意識を覆った。

博士が脳をいじくりまわしたせいで「私」はこの世から消滅することになってしまったのだが、結局のところ「この世から消えたくない」と誰もが思っていても、例外なく全ての人が「この世から消えてしまう」ことになる。死にたくない、死にたくない、と自我は、心は、私は考えるのだが、そういうわけにはいかない。そして心は自らの死を経験することはできないから、脳のジャンクションをいじくりまわされなかったとしても、私たちはこの物語の「私」と同じような立場に立たされてしまうのだと思う。

345ページ
「・・・この街を作ったのは君自身だよ。君が何もかもを作りあげたんだ。壁から川から森から図書館から門から冬から、何から何までだ。このたまりも、この雪もだ。それくらいのことは俺にもわかるんだよ」
346ページ
「君のことは忘れないよ。森の中で古い世界のことも少しずつ思いだしていく。思いださなくちゃならないことはたぶんいっぱいあるだろう。いろんな人や、いろんな場所や、いろんな光や、いろんな唄をね」
346ページ
「そろそろ俺は行くよ」と影は言った。
347ページ
たまりがすっぽりと僕の影を呑みこんでしまったあとも、僕は長いあいだその水面を見つめていた。水面には波紋ひとつ残らなかった。水は獣の目のように青く、そしてひっそりとしていた。影を失ってしまうと、自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じられた。僕はもうどこにも行けず、どこにも戻れなかった。そこは世界の終りで、世界の終りはどこにも通じてはいないのだ。そこで世界は終息し、静かにとどまっているのだ。

284ページに「僕には心を捨てることはできないのだ、と僕は思った」と書いてある。僕は心を捨てることはできないと思いながら、心を失くすことで完全さを実現している街に残る。それが123ページに書かれていた「世界の再編」のことであるかもしれない。そして「いろんな人や、いろんな場所や、いろんな光や、いろんな唄」を思い出すのだろう。それは世界の終りの中にあって世界を創始するようなものかもしれない。

羊をめぐる冒険

2015-07-11 00:05:08 | 村上春樹
「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」は僕と鼠とジェイが登場する三部作ということだが、「羊をめぐる冒険」は前二作とはかなり様相が異なる作品となっている。「シャーロック・ホームズの事件簿」を引用していたりして推理小説のような感じもする。「1973年のピンボール」に出て来るような謎ではなく、誰もがきちんと把握できるタイプの謎しか出てこない。読者と一緒に解いていきましょうということなのだろう。
そういうことなのでひとつひとつの文章の重みは取り除かれ、害もなくテンポよくスラスラ読める作品になっている。前二作の読者は、こんなふうにして僕と鼠の話を閉じてしまっても良いのだろうかと思うのではないだろうか?
出口がなくてはならないと書いてあったのは何だったのか?
よく考えてみると、出口がないと書いた時点で、出口が見つかるはずなんてないのだろう。
出口のことは封印して、鼠にはそっと退場してもらうことになるのだろう。
そして閉塞感は別のものにすりかえられるのだろう。

それから、この小説では「羊」という悪が登場する。
悪の系譜は「羊」「やみくろ」「綿谷昇」「ジョニー・ウォーカー」「リトル・ピープル」と続いていく。
それは「集合的無意識」における「否定的な影」のようなものだと考えられている。

[上巻]

13ページ
「―――昔、あるところに誰とでも寝る女の子がいた。
それが彼女の名前だ。」

前二作でもそうだったが、この小説にも名前、つまり固有名詞、は出てこない。鼠、羊博士、羊男、誰とでも寝る女の子、立派な耳のガールフレンド・・・名前なんてどうでもよいのかもしれない。

79ページ
『ねえ、あと十分ばかりで大事な電話がかかってくるわよ』
『電話?』僕はベッドのわきの黒い電話機に目をやった。
『そう、電話のベルが鳴るの』
『わかるの?』
『わかるの』
・・・
『羊のことよ』と彼女は言った。『たくさんの羊と一頭の羊』

93ページ
『君は昔はもっとナイーブだったぜ』
『そうかもしれない』と言って僕は灰皿の中で煙草をもみ消した。
『きっとどこかにナイーブな町があって、そこではナイーブな肉屋がナイーブなローストハムを切ってるんだ。・・・』

ナイーブな肉屋のナイーブなローストハムを食べてみたい。
オープンな魚屋のオープンなアジの開きでもOK

119ページ
「夢の中には乳牛が出てきた。わりにこざっぱりとしているが、それなりに苦労もしてきたといったタイプの乳牛である。我々は広い橋の上ですれちがった。気持ちの良い春の昼下がりだった。乳牛は片手に古い扇風機を下げていて、僕にそれを安く買い取ってくれませんかと言った。金はない、と僕は言った。本当になかったのだ。それじゃやっとこと交換でっもいいですが、と乳牛は言った。悪くない話だった。僕は乳牛と一緒に家に帰り一所懸命やっとこを探した。しかしやっとこはみつからなかった。」

乳牛だの、やっとこだの、そういったっものは因果関係の外にある。私たちは常に因果関係に縛られている。夢を見ている時には私たちの働きの一部は眠っているのでガチガチの因果関係に綻びが生じる。そういう時には、乳牛がやっとこを探していたりする。

143ページ
「僕は五年前に街を出る時、とても混乱して急いでいたので、何人かの人間にさよならを言い忘れた。具体的に言うと、君とジェイと、君の知らない一人の女の子だ。」

ジェイにはさよならを言ったと思うのだが?
違ったっけ?

148ページ
「僕は二十九歳で、そしてあと六ヶ月で僕の二十代は幕を閉じようとしていた。何もない、まるで何もない十年間だ。僕の手に入れたものの全ては無価値で、僕の成し遂げたものの全ては無意味だった。僕がそこから得たものは退屈さだけだった。最初に何があったのか、今ではもう忘れてしまった。しかしそこにはたしか何かがあったのだ。僕の心を揺らせ、僕の心を通して他人の心を揺らせる何かがあったのだ。結局のところ全ては失われてしまった。失われるべくして失われたのだ。それ以外に、全てを手放す以外に、ぼくにどんなやりようがあっただろう?」

「喪失感」が著者の代名詞だった頃もあったのではないかと思う。「誰にもそれを捉えることはできない」そんな感じで私たちは失い続ける。全ては無価値で無意味なものというわけだ。絶対的に普遍的に価値のあるもの、意味のあるものはないということを自覚するのがニヒリズムであった。日常を生きる私たちは目標を持って、目的を持って、積極的に、主体的に、前向きに行動しようとする。そうした習慣が染み付いているのでニヒリズムに耐えることができない。それは失敗した人の失敗した考え方であって、成功したいのであれば、そんなことを考えてはいけないと彼らは考える。一方で、絶対的なものを信じない健全な知性は、7つの習慣、といったものは、どちらかというと信仰のようなものなのだと考える。信じる者は救われるのだろう。(そして信じない愚か者は地獄に堕ちる。)
健全な意味では「喪失感」が出発点となる。ニヒリズムと同様に自覚が出発点となる。

153ページ
『気持ちはよくわかるよ。山を崩して家を建て、その土を海まで運んで埋めたて、そこにまた家を建てたんだ。そういうのを立派なことだと考えている連中がまだいるんだ』

この街は、おそらくは神戸のことだろう。六甲の山を切り崩した土で海を埋め立ててポートアイランドを作った。似たようなことは、江戸を切り開いた徳川家康もやっているということだ。日本一の大都市の礎を築く歴史に残る大事業であったり、持ち家を望む多くの人々の夢を実現しようという民間会社顔負けの地方公共団体の資本主義的な取り組みであったり、そういうのを立派なことだと考えている連中はいつの世にもたくさんいる。それが立派でないならば、何が立派なのかと、彼らは考えている。べつに立派なことなんて、あってもなくてもいいのだ。

155ページ
『子供は作らないの?』とジェイが戻ってきて訊ねた。『もうそろそろ作ってもいい年だろう?』
『欲しくないんだ』
『そう?』
『だって僕みたいな子供が産まれたら、きっとどうしていいかわかんないと思うよ』

確かに私みたいな子供が産まれたら、どうしようかと思ったが、案ずるより産むが易しとも言う。(産んだのは私ではなくて妻だが。)
どうしたらいいかなんて考えても仕方ないので、小さい頃はいっしょに遊んで、大きくなったらごはんを作ってあげるのだ。子供なんて、そのうち自立していく。放っておいても、生き物は生まれて来るし、成長して大人になる。世界がどうとか、社会がどうとか、関係がない。生き物の仕組みは、人間の社会が成立するずっと前から確立されている。心配することなんて何もない。逆に心配したからといって、うまくいくわけでもない。たくさんのタマゴのうちの、ほんの数パーセントしか生き延びることができない、それが生き物の住む世界だ。そういう残酷な世界ではなおさら、心配したって仕方がない。

193ページ
『・・・彼らの出した結論は、こんな羊は日本には存在しないということだった。そしておそらく世界にもな。だから、今君は存在しないはずの羊を見ているということになる』

そんなふうにして、羊を探すというのが、この小説のテーマになっている。
たしか、黄金の羊の毛皮を求める冒険のために建造されたのがアルゴー号。
ねずみ、うし、とら、うさぎ、たつ、へび、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、いのしし・・・
探すんだったら、やっぱり羊かな? 犬や猫を探しても冒険にならない。
そんな張り紙が近所にありそうだ。

195ページ
『・・・そしてカール・マルクスはプロレタリアートを設定することによってその凡庸さを固定させた。だからこそスターリニズムはマルクシズムに直結するんだ。私はマルクスを肯定するよ。彼は原初の混沌を記憶している数少ない天才の一人だからね。私は同じ意味でドストエフスキーも肯定している。しかし私はマルクシズムを認めない。あれはあまりにも凡庸だ』

マルクス主義というのは革命によってプロレタリアートを解放するといったものではなく、「世界にたいする人間的関係のどれもみな、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、思惟する、直観する、感じとる、意欲する、活動する、愛すること、要するに人間の個性のすべての諸器官は、その形態の上で直接に共同体的諸器官として存在する諸器官と同様に、それらの対象的な態度において、あるいは対象にたいするそれらの態度において、対象をわがものとする獲得なのである」といった感じのもの、ヘーゲルのような観念論に閉じているのではなく、知覚でき経験できる世界について語るものだと思うが、ここのところで著者が登場人物に何を語らせようとしているのかよくわからない。
なんでマルクスなんだろう?

206ページ
『『意志』とは何ですか?』と僕は訊ねてみた。
『空間を統御し、時間を統御し、可能性を統御する観念だ』
『わかりませんね』
・・・
『もちろん、私が今しゃべっているのはただの言葉だ。言葉はどれだけ並べたところで、先生の抱いておられた意志の形を君に説明することなんてできない。・・・』

ここも著者が何を語らせようとしているのかよくわからない。言葉にならない意志がある、と言わせているようだが、ソシュール的にはそういうことはあり得ないだろう。思考するためには言葉を使わなければならないし、意志と呼んでいるものは思考というシミュレーションによって導き出された方向性のようなものだ。それが言葉でないわけはないだろう。
それこそ凡庸な人間が何か勘違いして、大いなる意志であるとか、神の意志であるとか言ったりする。思考の有限性、精神の有限性を認めたくない人間が、魂の不死であるとか神を信じる。そのような胡散臭いものとしての意志を著者が知らないとは思えないので先ほどのマルクスのところと同様に、からかっているか、ふざけているのだろう。

215ページ
「僕は『カラマーゾフの兄弟』と『静かなドン』を三回ずつ読んだ。『ドイツ・イデオロギー』だって一回読んだ。円周率だって小数点以下十六桁まで言える。それでも彼らは僕を笑うだろうか? たぶん笑うだろう。死ぬほど笑うだろう。」

私だって「カラマーゾフの兄弟」は六回読んだ。「悪霊」「白痴」「罪と罰」も三回ずつ読んだ。ドストエフスキーだけ読んでいればいいというわけではないだろうが、著者は他の作品でも「カラマーゾフの兄弟」を紹介していたと思う。それは読んでくださいという意味だろう。そういう通過できそうで通過できないものが世の中にはある。神がどうとかいうのではなくて、貧しさがどうとか、ねじまがった知性がどうとかいうのではなくて、そこには見過ごすことのできないリアリティーとか生活といったものがある。マルクスとフロイトが扱っているものと同質のものでないかと思う。

231ページ
『でもみんな多かれ少なかれ命令されたり脅迫されたり小突きまわされたりしながら生きているわ。そしてその上に探すべきものもないってことだってあり得るのよ』

確かに会社にいると、命令されたり脅迫されたり小突きまわされたりする。特に苦痛なのが脅迫だが、脅迫している方は脅迫しているなんて思っていないらしい。そんなふうにして誰もが脅迫されながら生きている。そんなにまでして生き延びなければならないというのは子供を抱えているからなのだろうか?
子供たちのために苦虫を噛み潰すことを強いられる人々が絶えない。
お互いを不幸にし合うのが人間なのだろう。

238ページ
『・・・人間には欲望とプライドの中間点のようなものが必ずある。全ての物体に重心があるようにね。我々はそれを探し出すことができる。今に君にもわかるよ。そしてそれを失ってから、はじめてそんなものが存在していたことに気づくのさ』

そんなものはない方が楽かもしれないのに私たちはそんなものを持っている。
それがないと生きているとは言えないのだろうか?

240ページ
「たしかに僕はもう子供が何人もいてもおかしくない歳なのだ。しかし父親としての自分を想像してみるとどうしようもなく気が滅入った。僕が子供だとしたら、僕のような父親の息子になりたいとは思わないだろうという気がした。」

242ページ
『変な言い方かもしれないけれど、今が今だとはどうしても思えないんだ。僕が僕だというのも、どうもしっくり来ない。それから、ここがここだというのもさ。いつもそうなんだ。ずっとあとになって、やっとそれが結びつくんだ。この十年間、ずっとそうだった』

私と今と此処が同じであるということは何回も書いてきたが、
その逆もあるということだろうか?

254ページ
「職を失ってしまうと気持ちはすっきりした。僕は少しずつシンプルになりつつある。僕は街を失くし、十代を失くし、友だちを失くし、妻を失くし、あと三ヵ月ばかりで二十代を失くそうとしていた。六十になった時僕はいったいどうなっているんだろう、としばらく考えてみた。考えるだけ無駄だった。一ヵ月先のことさえわからないのだ。」

[下巻]

60ページ
『君は思念のみが存在し、表現が根こそぎもぎとられた状態というものを想像できるか?』と羊博士が訊ねた。
『わかりません』と僕は言った。
『地獄だよ。思念のみが渦巻く地獄だ。一筋の光もなくひとすくいの水もない地底の地獄だ。
そしてそれがこの四十二年間の私の生活だったんだ』

知覚したものを表現する手段が見当たらないことはあるかもしれないが、思念のみが存在するということはないだろう。思念とか観念といったものは、私たちという複合体が、記号(あるいは言葉)を組み合わせて生成するものであり、思念そのもの、観念そのもの、なんてものはない。そういうものがあればいいと、精神の無限性とか永遠性を支持できるものがあればいいと、私たちは常日頃から考えている。そういうものに囚われてしまうことこそが、思念のみが渦巻く地獄であり、出口もなければ答えもない観念論の地獄ではないかと思う。

63ページ
『羊が人の体内に入るというのは中国北部、モンゴル地域ではそれほど珍しいことではないんだ。連中のあいだでは羊が体内に入ることは神の恩恵であると思われておる。たとえば元朝時代に出版されたある本にはジンギス汗の体内には『星を負った白羊』が入っていたと書いてある。どうだ、面白いだろう?』

ここで、ジンギス汗、と書いているのは、掴みなのだろうか?
ふーん、そうなのかと、なんとなく納得させる。

90ページ
「戦死者の一人は羊飼いとなったアイヌ青年の長男だった。彼らは羊毛の軍用外套を着て死んでいた。『どうして外国まででかけていって戦争なんかするんですか?』とアイヌ人の羊飼いは人々に訊ねてまわった。その時彼は既に四十五になっていた。」

106ページ
『この線だってさ、あんた、いつなくなるかわかんねえよ。なにせ全国で三位の赤字線だもんな』と年取った方が言った。これよりさびれた線が二つもあることの方が驚きだったが、僕は礼を言って駅を離れた。」

これよりさびれた線、というようなユーモアが、この作品には少ない。これよりさびれた線、というのも、プラットフォームを縦断する犬や野菜に見えないメロンに比べれば、それほどおもしろくはない。

128ページ
『あんたは自分の人生は退屈だと思うかい?』
『わからないわ』
『羊だってそれと似たようなもんだよ』と管理人は言った。
『そんなこと考えもしないし、考えてもわかりっこない。干草を食べたり、小便をしたり、軽い喧嘩をしたり、おなかの子供のことを考えたりしながら冬を過ごすんだ』

誰もが自分の人生を素晴らしいものにしようとしているはず、そのためにみんな努力している。そう考えている人が多いことは確かだが、夥しいほどの退屈な人生がそこら中に転がっているのも事実だろう。その人生の中で、ご飯を食べたり、軽い喧嘩をしたり、子供のことを考えたりしている。それが退屈なことであるとか、退屈なことであればもっと他のことをするのだとか、そんなことは考えない。それが素晴らしいものであるとか、そんなことも考えない。ただそんなふうにして過ごしている。目的もなく漠然と生きている。そのような人間の価値観を適用するには僭越な、何万何億という羊たちの、あるいは動物たちの暮らしがある。彼らは、おなかの中の子供のことを考えたりしながら冬を過ごしているだけなのだ。

そのような時の流れに逆らわぬ生き物の過ごし方とは裏腹に、私たちに退屈だと思わせる何者かはいつも私たちを変化へと向かわせている。そうして何かを為さずにはいられない性向によって経験が蓄積され続ける。私たちは常に何かを取り込んでいなければ気がすまない。休日であろうと深夜であろうと仕事ばかりしているというのもそうだし、本ばかり読んでいるというのもそうだろう。一度切りの人生なので退屈さに踏み止まることなんて考えられないのだろうし、生きられる時間は限られているので立ち止まっている時間はないというわけだ。そんなふうにして私たちは、感性的諸要素の複合体としては、物体であろうと概念であろうとなんだって取り込み、益々複雑な複合体を形成することを目指している。言葉を変えると、自分の人生を素晴らしいものにしよう、とそういうことを目指している。あえて退屈を志向するとすれば、より複雑な複合体になろうとすることや、人生を素晴らしいものにしようとすることから逃れられるかもしれない。もしかすると修行とはそういうことであり、極めると生き地獄から逃れることができるのかもしれない。それは動物たちと同じように生きることかもしれない。

144ページ
「報われぬ人生というものがタイプとして存在するとすれば、それは羊博士の人生のことだろう。僕は冷たい雨の中に立って、建物を見上げた。」

報われぬ人生というのは、どこにでもある。実にありふれている。
報いを求めて止まない私たちの願望の中に、既に報われぬ兆候が宿っている。
「望まなければ失わないのに」というわけだ。
羊博士は報いを望んだのだろうか?
彼はもっと別のものを望んだのではないかと思う。
望んだものを獲得できなかったにしても、何も望まぬよりはよいのかもしれない。
おお、神よ、報いを求める浅はかな我を罰したまえ!
アーメン!

151ページ
「暖炉のわきにはガラス戸つきの作りつけの書棚があり、おそろしいほどの数の古書がぎっしりと並んでいた。僕は何冊かを手にとってぱらぱらと眺めてみたが、どれもが戦前の本で、その大抵は無価値だった。地理や科学や歴史や思想、政治に関する本が多く、それらは四十年前の一般的知識人の基礎教養を研究する以外の目的にはまるで役立たない。」

本を書くというもは、すごいことなのだろうが、そのような人々の営みも数十年後には無価値になってしまう。私たちが毎日必死になって取り組んでいる仕事というのも、日々の糧を得るためではあるが、そんなに重要なことではない。やがて個々の人生は忘れ去られ、その時代を生きた一般大衆として一括りにされてしまうだろう。そういう意味では私が読んでいるこの三十年前の本にはそれなりの価値があるのだろう。著者の他の作品に比べると見劣りするところはあるかもしれない。そんなことはどうでもいいのだ・・・

164ページ
「十五分ばかりそこに座ってぼんやりしてから歩いて家に戻り、居間のソファーに座って
『シャーロック・ホームズの冒険』のつづきを読んだ。
二時に羊男がやってきた。」

178ページ
「ジェイ、もし彼がそこにいてくれたなら、いろんなことはきっとうまくいくに違いない。全ては彼を中心に回転するべきなのだ。
許すことと憐れむことと受け入れることを中心に。」

それはイエスのことだろうか?
受け入れるという行為はどんどん衰退していくように思える。
まもなく絶滅してしまうかもしれない。

192ページ
『どうしてここに隠れて住むようになったの?』
『きっとあんた笑うよ』と羊男は言った。
『たぶん笑わないと思うよ』と僕は言った。いったい何を笑えばいいのか見当もつかない。
『誰にも言わない?』
『誰にも言わないよ』
『戦争に行きたくなかったからさ』
・・・
『十二滝町の生まれかい?』
『うん。でも誰にも言わないでくれよ』

羊男は十二滝町の生まれということだから、もしかすると羊飼いのアイヌ青年が戦争で亡くしてしまった子供なのかもしれない。戦争に行きたくなかったという思いを抱きながら戦死してしまったのかもしれない。死んだ鼠が羊男の姿を借りていたから鏡に映らなかったのではなくて、もともと死んでいるから映らなかったのかもしれない。

203ページ
「僕は『自由意志』ということばを頭の中にキープしておいてから左手の親指とひとさし指で耳をつまんだ。鏡の中の僕もまったく同じ動作をした。彼もやはり僕と同じように『自由意志』ということばを頭の中にキープしているように見えた。僕はあきらめて鏡の前を離れた。彼もやはり鏡の前を離れた。」

意志もなければ、自由意志もない。だが自由意志がないというのは服従しているとか支配されているということでもない。
自由意志を讃えるのは観念論、特にキリスト教の特徴であるように思う。
自由意志でもって自らを教義に束縛するところが素晴らしいのだと言う。
なにもかもがまやかしだ。

207ページ
「僕は鏡の中の羊男の姿を確かめてみた。しかし羊男の姿は鏡の中にはなかった。」

228ページ
『そのあとには何が来ることになっていたんだ?』
『完全にアナーキーな観念の王国だよ。そこではあらゆる対立が一体化するんだ。その中心に俺と羊がいる』
『何故拒否したんだ?』
時は死に絶えていた。死に絶えた時の上に音もなく雪が積っていた。
『俺は俺の弱さが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや・・・・・・』鼠はそこで言葉を呑みこんだ。
『わからないよ』

やはり観念論が否定されているような気がする。それにしても、出口がないという状況はいつのまにか弱さにすりかえられ、それを鼠が命をかけて守ったのだと、あるいは観念や権力を否定して、弱さやとりとめのない暮らしを選んだのだと、そんなことになってしまっている。出口と出口がない状況は封印されて物語は幕を閉じる。

1973年のピンボール

2015-07-04 00:05:00 | 村上春樹
村上春樹「1973年のピンボール」を読んだ。
どういうわけか紛失が多く、読もうと思う度にブックオフに出かけて100円+税で購入している。
以前、「1Q84」の感想を書いたが、あれは失敗だった。
他にも失敗した事例がたくさんある、例えば「存在と時間」。
その時点で理解できた範囲しか書けないということなので、理解が鈍いと罪を重ね続けることになる。
それで今回も失敗してしまうような気がするのだが、
ハンジさんも「調査兵団は負けたことしかない」と言っていることだし、
勝手ではありますが、あまり気にしないことにします。
(村上さん、ごめんなさい)

8ページ
「直子は日当たりの良い大学のラウンジに座り、片方の腕で頬杖をついたまま面倒臭そうにそう言って笑った。僕は我慢強く彼女が話しつづけるのを待った。彼女はいつだってゆっくりと、そして正確な言葉を捜しながらしゃべった。」
9ページ
『プラットフォームの端から端まで犬がいつも散歩してるのよ。そんな駅。わかるでしょ?』
10ページ
「ところで、プラットフォームを縦断する犬にどうしても会いたかった。」
12ページ
「目を覚ました時、両脇に双子の女の子がいた。」
12ページ
「『名前は?』と僕は二人に訊ねてみた。二日酔いのおかげで頭は割れそうだった。
『名乗るほどの名前じゃないわ』と右側に座った方が言った。
『実際、たいした名前じゃないの。』と左が言った。『わかるでしょ?』
『わかるよ。』と僕は言った。」
13ページ
「『もしどうしても名前が欲しいのなら、適当につけてくれればいいわ。』ともう一人が提案した。
『あなたの好きなように呼べばいい。』
彼女たちはいつも交互にしゃべった。」まるでFM放送のステレオ・チェックみたいに。おかげで頭は余計に痛んだ。
『例えば?』と僕は訊ねてみた。
『右と左。』と一人が言った。
『縦と横。』
『上と下。』
『表と裏。』
『東と西。』
『入口と出口。』僕は負けないように辛うじてそう付け加えた。二人は顔を見合わせて満足そうに笑った。」
14ページ
「入口があって出口がある。大抵のものはそんな風にできている。郵便ポスト、電気掃除機、動物園、ソースさし。もちろんそうでないものもある。例えば鼠取り。」
14ページ
「つかまえてはみたものの、どうしたものか僕にはわからなかった。後足を針金にはさんだまま、鼠は四日めの朝に死んでいた。彼の姿は僕にひとつの教訓を残してくれた。物事には必ず入口と出口がなくてはならない。そういうことだ。」
16ページ
「井戸について語る。」
18ページ
「そんなわけでこの土地の人々は美味い井戸水を心ゆくなで飲むことができた。まるでグラスを持つ手までがすきとおってしまいそうなほどの澄んだ冷たい水だった。富士の雪溶け水、と人々は呼んだが嘘に決まっている。とどくわけがないのだ。」
23ページ
「帰りの電車の中で何度も自分に言いきかせた。全ては終っちまったんだ。もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ。」
25ページ
「これは『僕』の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話でもある。その秋、『僕』たちは七百キロも離れた街に住んでいた。一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。」

ノルウェイの森の直子とは少しだけ設定が違っているが同一人物だろう。
よくある名前かもしれないが、あだち充のマンガを除けば、心に留める女性の名前が重なることは稀だ。そうするとこの小説はノルウェイの森につながっていることになる。そして井戸は、ねじまき鳥クロニクルにつながっているのだろう。
鼠はこの三部作のもう一人の主人公であり、ここで明示されているように出口のない状況に囚われてしまっている。出口がなくてはならないと言っても、大抵の場合には出口なんてないのだ。カゴの中のハムスターが同じところをグルグル駆け続けるように、人々は出口がないことも知らずに人生を駆け抜けようとする。そういうことを経験する前にその不毛さに気付いている鼠という男は、まさに不毛であることの象徴のようだ。何でもわかりきっているという彼の姿には閉塞感がまとわりつく。
そしてその秋、七百キロも離れて住んでいたという彼らは「『僕』たち」で括られている。それほど特別な『僕』ではなく、どこにでも居るような『僕』であり『僕』たちであるかもしれない。
名乗るほどの名前ではないという双子もまた特別な存在というわけではなさそうだが、いっそう匿名性を帯びているようであり、何かしらの象徴性を持っているようでもある。名付けられたものは「右と左」のように世界を区切るという性質を持たなければならないということであるかもしれないし、名付けてしまったなら嘘になってしまう存在そのものの匿名性を維持しようとしているのかもしれない。
そして、出口がなければ文章を書く意味なんてないということだが、出口があってもなくても文章を書く意味なんて、それほどないのではないかと思う。意味があってもなくても私たちは意味から逃れられない。そのことこそ出口がないということかもしれない。

27ページ
「ピンボール・マシーンとヒットラーの歩みはある共通点を有している。彼らの双方がある種のいかがわしさと共に時代の泡としてこの世に生じ、そしてその存在自体よりは進化のスピードによって神話的オーラを獲得したという点で。進化はもちろん三つの車輪、すなわちテクノロジーと資本投下、それに人々の根源的欲望によって支えられていた。」
28ページ
「これはピンボールについての小説である。」
28ページ
「ピンボール研究所『ボーナス・ライト』の序文はこのように語っている。『あなたがピンボール・マシーンから得るものは殆んど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。
失うものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と取り返すことのできぬ貴重な時間だ。あなたがピンボール・マシーンの前で孤独な消耗をつづけているあいだに、あるものはプルーストを読み続けているかもしれない。またあるものはドライヴ・イン・シアターでガール・フレンドと『勇気ある追跡』を眺めながらヘビー・ペッティングに励んでいるかもしれない。そして彼らは時代を洞察する作家となり、あるいは幸せな夫婦となるかもしれない。しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ・・・・・・、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。」

文章を書く意味なんてない、と書いた3ページ後に、これはピンボールについての小説であると、書かれている。きっとこの小説が、ある特定のピンボール・マシーンについての回想に限定されるならば、文章を書く意味なんてないのだろう。ピンボールを前にしての孤独な消耗に対置されているのは、読書でありヘビー・ペッティングであり、作家であり夫婦であるが、その不毛な活動と有益な活動(ヘビー・ペッティングを含む)を隔てるものは実際にはないのかもしれない。
私たちの生活もまた、リプレイ、リプレイ、リプレイ・・・・・・の繰り返しであり、賢明な人であれば、そんなことには気付かない振りをして、自分や他人を偽って生きるものだ。
そういうことができない鼠のような本物のバカは苦しむしかない。
そういうものだ。

33ページ
「考えるに付け加えることは何もない、というのが我々の如きランクにおける翻訳の優れた点である。左手に硬貨を持つ、パタンと右手にそれを重ねる、左手をどける、右手に硬貨が残る、それだけのことだ。」

『僕』は翻訳を専門とする小さな事務所を友人と開き、生計を立てている。そこでは、考えるに付け加えることはない、ということだ。仕事に対して、やりがいとか自己実現とかいったウザイことが、はじめから除外されているという点が実に優れている。硬貨が左手から右手に移る間に、私たちは商品やサービスに付加価値をつけ加え、その一部を受け取る。ある種の人々にとっては、それが自己実現なのだろう。

34ページ
「どれほどの時が流れたのだろう、と僕は思う。果てしなく続く沈黙の中を僕は歩んだ。仕事が終るとアパートに帰り、双子のいれてくれた美味いコーヒーを飲みながら、『純粋理性批判』を何度も読み返した。」

著者の作品には、音楽作品や本のタイトルがよく出てくるが、この小説では「純粋理性批判」が紹介されている。その意図はよくわからないが「グレート・ギャツビー」や「カラマーゾフの兄弟」を紹介することとは少し違うのだろう。
「純粋理性批判」は哲学書の中では割りと本格的で割りとわかりやすいもので、そういう意味ではあたりさわりがない。後世の哲学者は批判哲学を観念論として退けているので「純粋理性批判」がわかったからといってどうということもない。だが、現象学や実存主義やマルクス主義や構造主義が何かを解決してくれるわけでもない。哲学という営みもヒトの営みであるがゆえに、ある種のいかがわしさと不毛さから逃れられない。
そういう意図があるのだろうか?・・・たぶん違うだろう。

39ページ
「『考え方が違うから闘うんでしょ?』と208が追求した。
『そうとも言える。』
『二つの対立する考え方があるってわけね?』と208。
『そうだ。でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない。』
『殆んど誰とも友だちになんかなれないってこと?』と209。
『多分ね。』と僕。『殆んど誰とも友だちになんかなれない。』
それが僕の一九七○年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。」

考え方が同じでなければ友だちになれないということであれば、誰とも友だちになんかなれないだろう。それに考え方は、すぐに変わってしまうので、そんなことで友だちを失くしても仕方がない。そんなことで闘っていても仕方がない。そう思っていても、考え方を否定されることは自分を否定されることであり、結局のところお互いを排除しあうことになる。しかし、それは本当に自分であり、自分の考え方なのだろうか?
寄せ集めた知識という記憶の残りかすがシナプスを介して勝手につながっているだけのものが「自分の考え方」であるかもしれない。そんなもののために誰とも友だちになんかなれないというのは少し悲しいが、実際のところ「僕」は友だちを欲しいとすら思っていない。

44ページ
「もっともそれは誰がどう眺めまわしても苦労といった類のものではなかった。メロンが野菜に見えないのと同じことだ。」
プラットフォームを縦断する犬も好きだが、メロンが野菜に見えないというところも好きだ。

57ページ
「僕が学生の頃に住んでいたアパートでは誰も電話なんて持ってはいなかった。消しゴムひとつ持っていたかどうかだってあやしいものだ。」
ここも好きだ。「消しゴムひとつ」という響きがリフレインする。

63ページ
「『いったいどうやって暮してるの? まるでロビンソン・クルーソーじゃない?』
『それほど楽しくはないよ。』
『でしょうね。』
ここも好きだ。

66ページ
「何処まで行けば僕は僕自身の場所をみつけることができるのか? 例えば何処だ? 
複座の雷撃機というのが僕が長い時間かけて思いついた唯一の場所だった。」

考え方が異なるため、他者の中にあって自分の居場所を見つけるのは大変だ。複座というのは、わずかではあるが他者の存在を気にかけているということではないかと思う。そうでなければ単座の戦闘機の方が良いに決まっている。居場所が欲しいのであれば自分の考え方なんてものにはこだわらずに集団に馴染めるよう努力すべきだろう。会社にいる時間は長いのだから、そこで快適にすごせるようにコミュニケーション能力を磨き、考え方を改めるべきなのだろう。はじめからそうできる人はそうしているだろう。できない人には複座の雷撃機くらいしか場所はないということだ。

72ページ
①チャールズ・ランキン著
●「科学質問箱」動物編
●P68「猫は何故顔を洗うか」からP89「熊が魚を取る方法」まで
●十月十二日までに完了のこと

73ページ
「注文主の名前が書かれていないのが全く残念でならなかった。誰がどのような理由で、このような文書の翻訳を(それも至急に)望んでいるのか見当もつかなかったからだ。おそらくは熊が川の前にたたずんで僕の翻訳を心待ちにしているのかもしれない。」
翻訳を心待ちにしている熊に会ってみたい。

76ページ
「もし僕が両耳の穴にくちなしの花をさして、両手の指に水かきをつけていたとしたら何人かは振り返るかもしれない。でもそれだけだ。三歩ばかり歩けばみんな忘れてしまう。彼らの目は何も見てなんかいないのだ。そして僕の目も。僕は空っぽになってしまったような気がした。もう誰にも何も与えることはできないのかもしれない。」

78ページ
「一人が席を立ってレコードをかけた。ビートルズの「ラバー・ソウル」だった。
『こんなレコード買った覚えないぜ。』僕は驚いて叫んだ。
『私たちが買ったの。』
『もらったお金を少しずつ貯めたのよ。』
僕は首を振った。
『ビートルズは嫌い?』
僕は黙っていた。

ビートルズが嫌いな人はあまりいないと思う。それにしてもカセットテープも普及していない時代になんで「ラバー・ソウル」とわかるのか?
きっと「僕」は何か理由があって捨ててしまったのだ。「ラバー・ソウル」は割りと好きなアルバムだ。「ノルウェイの森」と「ひとりぼっちのあいつ(Nowhere Man)」が入っている。「ノルウェイの森」はきっと直子とつながっているのだろう。「ひとりぼっちのあいつ」というのは、あまりよいネーミングとは思えない。どちらかというと「どこにも居場所のないあいつ」だと思う。それはこの小説では鼠や「僕」のことなのだろう。

80ページ
「街はまるで平板な鋳型に流し込まれたどろどろした光のように見える。あるいは巨大な蛾が金粉を撒きちらした後のようにも見える。」
この風景も後に書かれた小説で展開されていたのではないかと思う。

80ページ
「女は眠るように目を閉じ鼠にもたれかかっていた。鼠は肩から脇腹にかけて、彼女の体の重みをずっしりと感じる。それは不思議な重みだった。男を愛し、子供を産み、年老いて死んでいく一個の存在の持つ重みであった。」

著者は子供を持たないという選択をした。「僕みたいな子が生まれると困る」というような冗談を言っていたと思うが本当にそう思っているのかもしれない。子供を育てるのは大変なことなので、そういう人生はアリかもしれない。生き物として自然な営みであるとか、女性が産みやすい社会といったことは、年金制度の維持のための方便だろう。生き物は、子供を産み死んでいく、ということを何回も繰り返してきた。
人間は動物と超人の狭間で、生まれては死ぬということを、何回も繰り返してきた。子供を産むという働きを内在している存在は、男にとっては異質であり、男にはどうあっても理解できない。その存在にもたれかかられた時ほど男にとって恐ろしいことはない。

80ページ
「霊園は墓地というよりは、まるで見捨てられた町のように見える。敷地の半分以上は空地だった。そこに収まる予定の人々はまだ生きていたからだ。彼らは時折、日曜の午後に家族を連れて自分の眠る場所を確かめにやってきた。そして高台から墓地を眺め、うん、これなら見晴しも良い、季節の花々も揃っている、空気だっていい、芝生もよく手入れされている、スプリンクラーまである、供え物を狙う野良犬のいない。それに、と彼らは思う、なにより明るくて健康的なのがいい、と。そんな具合に彼らは満足し、ベンチで弁当を食べ、またあわただしい日々の営みの中に戻っていった。」

そこに収まる予定の人々が墓地に明るさと健康を求める姿というのは、かなりシニカルであると思う。そこに収まると言っても、彼らは何の覚悟もしてはいない。でも墓地を購入するのだ。カネが余っているのだろうか?
墓地も葬式仏教も、ビジネスの匂いがぷんぷんする。

87ページ
「女と会い始めてから、鼠の生活は限りない一週間の繰り返しに変っていた。日にちの感覚がまるでない。何月? たぶん十月だろう。わからない・・・・・・。土曜日に女と会い、日曜日から火曜日までの三日間その思い出に耽った。木曜と金曜、それに土曜の半日を来たるべき週末の計画にあてた。そして水曜日だけが行き場所を失い、宙に彷徨う。前に進むこともできず、後に退くこともできない。水曜日・・・・・・。」

1Q84に書かれていたように彼は一週間分の性欲を抜いてもらっていたのかもしれない。それが愛のあるセックスであったとしても、やがてそういうことを繰り返している自分にウンザリしてしまう。尽きることのない欲望を処理しているうちに、かけがえのない時間が通り過ぎていく。誰かのため、たとえば子供を育てるためであったなら、単調な生活の繰り返しにも耐えることができるだろう。そうではない若い精神は、繰り返しには耐えられないだろう。

92ページ
「そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんて何もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね。」

無意味で理由のない悪意がもっと邪悪な姿となって、ねじまき鳥クロニクルや海辺のカフカで展開される。そこのところは何回読んでも私にはわからない。理由のある悪意については何回も体験してきたが、理由のない悪意というのはよくわからない。無意味なもの、無秩序なものを理解できるように私たちは作られていない。

99ページ
「『哲学の義務は、』と僕はカントを引用した。『誤解によって生じた幻想を除去することにある。・・・・・・配電盤よ貯水池の底に安らかに眠れ。』」

カントにそんなことを書いてあったか覚えていないが、後世の哲学者にとっては純粋理性批判も誤解であり幻想であるかもしれない。エルンスト・マッハによれば自我も物体も形而上学的幻想のようなものらしいから、本当に幻想を除去しようというのなら、正法眼蔵に精通すればよいと思う。
『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』ということだ。

104ページ
「『でも私はまだ二十歳なのよ。』と彼女は続けた。『こんな風にして終りたくなんかないのよ。』」
104ページ
『誰も私のことなんて好きにならないわ。ロクでもないゴキブリ取りを組み立てたり、セーターを繕ったりして一生終るのよ。』

人生を無駄にしたくないという思いは二十歳くらいにピークを迎えるのかもしれない。そして何かをしようとしても何もできないことを次の二十年で学ぶ。どうすれば人は自分の人生に納得するのだろうか?
地位が約束されたなら虚栄心は満たされバカにされずに済むが、地位が高くなるにつれて地位につける人間の数は減るため競争が激しくなる。そこで繰り広げられるのは、報復人事であり、お友だち人事であり、まっとうな人間であればとっとと退場したくなるだろう。そうした理不尽な世界に住むよりは、ゴキブリ取りを組み立てている方がマシかもしれない。
成熟するとはそういうことかもしれない。

106ページ
「ある日、何かが僕たちの心を捉える。なんでもいい、些細なことだ。バラの蕾、失くした帽子、子供の頃に気に入っていたセーター、古いジーン・ピットニーのレコード・・・・・・、もはやどこにも行き場所のないささやかなものたちの羅列だ。二日か三日ばかり、その何かは僕たちの心を彷徨い、そしてもとの場所に戻っていく。・・・・・・暗闇。僕たちの心には幾つもの井戸が掘られている。そしてその井戸の上を鳥がよぎる。」

107ページ
「その秋の日曜日の夕暮時に僕の心を捉えたのは実にピンボールだった。」

何かが心を捉えるとはどういうことだろうか?
一般的には自我とか心と呼ばれる感性的諸要素の複合体は、何かとか物体と呼ばれる他の複合体を取り込もうとする。取り込んで、いっそうその複雑さを増していこうとする。それが他愛のないものであったなら取り込まれず、忘れ去られるのだろう。幾つもの井戸が取り込もうとする複合体であり、井戸の上をよぎる鳥が取り込まれる複合体である。
私たちはそういう存在だ。

115ページ
「あなたのせいじゃない、と彼女は言った。そして何度も首を振った。あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない。違う、と僕は言う。左のフリッパー、タップ・トランスファー、九番ターゲット。違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。人にできることはとても限られたことなのよ、と彼女は言う。そうかもしれない、と僕は言う、でも何ひとつ終っちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ。リターン・レーン、トラップ、キックアウト・ホール、リバウンド、ハギング、六番ターゲット・・・・・・ボーナス・ライト。121150、終ったのよ、何もかも、と彼女は言う。」

上記の文章のうち、以下の部分に線が引かれている。「あなたのせいじゃない。あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない。違う。違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。人にできることはとても限られたことなのよ。そうかもしれない、でも何ひとつ終っちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ。終ったのよ、何もかも。」

何をやろうとしたのだろう? 指一本動かせなかったというのはどういうことなのだろう?

123ページ
「『大学でスペイン語を教えています。』と彼は言った。『砂漠に水を撒くような仕事です。』」
ここもとても好きだ。

133ページ
「生まれて初めて心の底から恐怖が這い上がってくる。黒々と光る地底の虫のような恐怖だった。彼らは目を持たず、憐みを持たなかった。そして鼠を彼らと同じ地の底にひきずり込もうとしていた。鼠は彼らのぬめりを体中に感じる。缶ビールを開ける。」

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドに出てくる「やみくろ」のことではないかと思う。

133ページ
「その三日ばかりのあいだに鼠の部屋はビールの空缶と煙草の吸殻でいっぱいになった。ひどく女に会いたかった。女の肌の温もりを全身に感じ、いつまでも彼女の中に入っていたかった。」

肌の温もりを感じたいと思うこと、中に入っていたいと思うこと
そういう抑えきれない情動というのは
どうなんだろう?

137ページ
「『それでも人は変りつづける。変ることにどんな意味があるのか俺にはずっとわからなかった。』
鼠は唇を噛み、テーブルを眺めながら考え込んだ。『そしてこう思った。どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程に過ぎないんじゃないかってね。違うかい?』
『違わないだろう。』
『だから俺はそんな風に嬉々として無に向おうとする連中にひとかけらの愛情も好意も持てなかった。
・・・・・・この街にもね。』
ジェイは黙っていた。鼠も黙った。彼はテーブルの上のマッチを取り、ゆっくりと軸に火を燃え移らせてから煙草に火を点けた。
『問題は、』とジェイが言った。『あんた自身が変ろうとしてることだ。そうだね?』
『実にね。』」

自分が入る予定の墓地の立地条件をチェックしているような連中に親しめないでいるが、
変ろうとしている自分とその連中は実は同じだと気付いて愕然としてしまっているのだろうか?
崩壊というのは単に個人のそれではなく、種族や生命現象でさえも、いずれ崩壊するのだという確信に違いない。あるいは私たちが生きている間に普遍的な価値に到達することはあり得ないという確信に違いない。私たちの信念、思想、考え方、そういったものは全て次の世代によって修正されてしまう。その次の世代にしても、次の次の世代によって修正されてしまう。その努力の集積が何処かに辿り着くということはない。崩壊が待ち受けているのであれば、何のための進歩か?、何のための変化か?
そのような因果関係の地獄から逃れるためには、目的といった考え方を捨てなければならないだろう。だが生体に刻み込まれた本能は、子孫を残すことと生き延びることを厳命している。進化の果てに知性を獲得したヒトの場合は、進歩や変化を避けることができない。変ろうとすることは意志と呼ばれる形而上学的幻想の働きではなくて私たちがそのように作られているという事実による。だからどんなにバカバカしくても、そのことを受け入れなければならない。

158ページ
「なんだか不思議ね。何もかもが本当に起ったことじゃないみたい。
いや、本当に起ったことさ。ただ消えてしまったんだ。
辛い?
いや、と僕は首を振った。無から生じたものがもとの場所に戻った、それだけのことさ。
僕たちはもう一度黙り込んだ。僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。」

私たちは楽しかった思い出に執着する。
死んでしまった時間の断片とは記憶のことだろう。
現在しか捉えることができない私たちは、それが本当に起ったことなのか確認することができない。
そんなふうにして本当に起ったことは過ぎ去り、消えてしまう。
そして現在もまた瞬く間に過ぎ去ってしまう。
そんなことを繰り返している。

174ページ
「『何処に行く?』と僕は訊ねた。
『もとのところよ。』
『帰るだけ。』

そうすると双子というのはやはり意味になることのできない混沌であったかもしれない。
心に住まう無意識であったかもしれない。
彼女らは私たちのところをしばしば訪れては元の場所へと
混沌へと帰っていく。

風の歌を聴け

2015-06-27 00:05:56 | 村上春樹
これからしばらくの間は村上春樹さんの本について、感想を書いていきたいと思います。
「村上春樹は、結局はサクセスしか求めていない」という話もあるが、作家がいい人か悪い人か、そういうことを気にしても仕方がないと思う。本当は悪い人の小説を読んで感動してしまうのは癪であるとか、本当は悪い人を儲けさせるのは嫌だとか、そんなことを考えても仕方がないと思う。
「もちろん世界の全ては道化だ。誰がそれを逃れられるだろう?」と「貧乏な叔母さんの話」に書いてある。「道化」を最近の言葉に直すと「エンターテインメント」になるのではないかと思う。それを「プロ意識」と呼ぶのか「商業的」と呼ぶのか、人それぞれだろう。
著者の作品には喪失感とか空白とか謎のようなものが意図的に挿入されていて読者がカスタマイズできる点が人気の秘訣なのではないかと思う。それが総体としては何なのかはよくわからないので書かない。書かないというよりは書けない。
織り込まれた文章を一つひとつ取り上げてみて、そこから喚起されることを綴って行く。
そういうことしかできない。

7ページ
『完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。』
8ページ
「結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。」
9ページ
「僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。殆ど全部、というべきかもしれない。」
9ページ
「ただ残念なことに彼ハートフィールドには最後まで自分の闘う相手の姿を明確に捉えることはできなかった。
結局のところ、不毛であるということはそういったものなのだ。」

完璧な文章などといったものは存在しない、という文章はインターネット上ではよく引用されている。完璧な文章、というよりは、完璧といったものがないのだということなのだろう。そういうのは観念上の妄想でしかない。
文章を書くことは自己療養へのささやかな試みに過ぎない、ということは拙い文章を書いている私にも少しは理解できる。何か足跡を残そうという試みは寿命が限られていることを知っている生き物が無限に対して行うささやかな抵抗といったものだ。何かしら生きた証が残ることを彼は期待しているのだが、そんな数々の試みは悠久の時の流れの中で消失してしまうことになる。優れた文章であっても忘却されてしまうのであって、凡庸な存在者たちが何を試みようとも誰も覚えてはいないのだ。夥しいほどの凡庸な文章をいちいち覚えていなければならないとしたら、一日中読んでいたってとうてい足りるものではない。インターネットはそのような文章で溢れている。この文章もその一部ではある。
そういうわけだから、死後の名声というような救済ではなく、文章を書くという行為そのものが救済であると考える方が良いだろう。修行そのものが涅槃という意味で・・・
デレク・ハートフィールドは架空の作家だ。デビュー作でそんなインチキをするなんて、著者はずいぶんと大胆な人だと思う。そんなことをするから芥川賞をもらえなかったのではないかと思うが、きっとどうでもいいことなのだろう。
自分の闘う相手の姿であるとか、何を為すべきかといったことが明確にわかっていて、そのような迷いのない人生が死ぬまで続くということであれば、人生は素晴らしいものであり有意義なものなのだろう。人生にはいろんなタイプの有意義が用意されているものだが、そのどれも選択できないような人種がいるのであって、不毛とはそういうことなのだと思う。

12ページ
「僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。教訓なら少しはあるかもしれない。」

認識しようと努める対象とは物自体ではなくて、世界の成り立ちであるとか私たち自体の仕組みのことではないかと思う。私たちが認識する仕組みを、認識しようと努めるのであれば、循環に陥る。
ここでものさしというのは、やはり言葉ではないかと思う。そして言葉で認識そのものを測るのは無理がある。哲学者が行っているのはそういうことであり、しばしば彼らは言語の限界に突入してしまう。言語の限界をこえる文章は当然のことながら理解できない。
そうすると認識からは益々遠ざかる。

26ページ
「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」

ここのところを読むたびに、となりのトトロを思い出す。
人は死なないしセックス・シーンもない。迷子を助けるというだけのことで非常に盛り上がる。一方たいていの売れ筋の映画といったものは殺戮に満ちている。敵の残虐行為の描写のために無数の人々が死ぬものだし、主人公に試練を与えるだけの理由で殺される登場人物もいる。
そんな死に方だけはしたくないと、いつも考える。

28ページ
『ねえ、人間は生まれつき不公平に作られている。』
『誰の言葉?』
『ジョン・F・ケネディー』

生まれつき不公平なだけに、機会の均等が叫ばれる。
誰にでもチャンスはあるのに金持ちになれないのは、あなたのせいというわけだ。まったくその通りであって言葉もない。そのような無能力な個性を抱えて数十年を生きるというのは苦痛ですらある。人がたくさんいるということは、権力者に媚びたり、はいつくばらなければならないたくさんの人がいるということだ。そのひとりひとりがプライドを持っているということがやりきれない。
そんなものはない方が幸せだろう。

60ページ
『ほう・・・動物は好き?』
『ええ。』
『どんなところが?』
『・・・笑わないところかな。』
『ほう、動物は笑わない?』
『犬や馬は少しは笑います。』
『ほほう、どんな時に?』
『楽しい時。』
僕は何年かぶりに突然腹が立ち始めた。
『じゃあ・・・ムッ・・・犬の漫才師なんてのがいてもいいわけだ。』
『あなたがそうかもしれない。』
『はっはっはっはっは。』

動物の笑わないところが好きなのだという。そんなふうに考える人はあまりいないだろう。人間にあわせて生きている犬や馬は少しは笑うのだという。それが良いことなのか悪いことなのかよくわからない。笑いはとてもお金になる。本当は楽しくないことが多いということだろうか?

64ページ
『偶然さ。レコードを買いにきたんだ。』
『どんな?』
『<カリフォルニア・ガールズ>の入ったビーチ・ボーイズのLP。』
・・・
『これでいいのね。』
・・・
『それからベートーベンのピアノ・コンチェルトの3番。』
・・・
『他には?』
『<ギャル・イン・キャリコ>の入ったマイルス・デイビス。』

ベートーヴェンは今でもよく聴く。ビーチボーイズは何度聴いても馴染めない。マイルス・デイビスも馴染めない。
いろんな音楽を好きになるには、、ある種の才能が必要なのだろう。

80ページ
『お父さんは五年前に脳腫瘍で死んだの。ひどかったわ。丸二年苦しんでね。私たちはそれでお金を使い果たしたのよ。きれいさっぱり何もなし。おまけに家族はクタクタになって空中分解。よくある話よ。そうでしょ?』

実によくある話で、ノルウェイの森にもそういう話が出てくる。

95ページ
「僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを『あなたのレーゾン・デートゥル』と呼んだ。」

それが存在理由というよりは、それに命じられて生きている。ヘーゲルやアインシュタインであっても逆らえない。この女の子は死んでしまったが、種の維持・個体の維持という本能に対して抵抗を試みたということかもしれない。
ペニスを抱えた男の方は命じられるままに生きて行くしかない。

123ページ
『私はこの部屋にある最も神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。人生は空っぽである、と。しかし、もちろん救いはある。というのは、そもそもの始まりにおいては、それはまるっきりの空っぽではなかったからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまったのだ。どんな風に苦労し、どんな風にすり減らしてきたかはいちいちここには書かない。面倒だからだ。どうしても知りたい方はロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』を読んでいただきたい。そこに全部書かれている。』

「ジャン・クリストフ」は学生の時に読んだ。「風の歌を聴け」を読む前だったので、なるほどと思ったものだ。とても長い小説だった。その長さというのは人生をすり減らすに十分な長さなのだろう。特に他人と違うことをしようとすると、すり減らす機会が増えるのではないかと思う。放っておいてくれればいいと思うのだが、同じように振舞わないと気に食わないらしい。ジャン・クリストフのように才能があり、歴史に名を止めようというのであれば、すり減らしても報われるかもしれない。才能もないし、死んでも誰も覚えていないような人間が、すり減らしながら生きて行く意味はあるのだろうか?
おそらく意味があるとかないとかいうことで決まるものではないのだろう。
意味のない退屈な人生に耐えることを学ばねばならない。

126ページ
『あと25万年で太陽は爆発するよ。パチン・・・OFFさ。25万年。たいした時間じゃないがね。』
風が彼に向ってそう囁いた。
『私のことは気にしなくていい。ただの風さ。もし君がそう呼びたければ火星人と呼んでもいい。悪い響きじゃないよ。
もっとも、言葉なんて私には意味がないがね。』
『でも、しゃべってる。』
『私が? しゃべっているのは君さ。私は君の心にヒントを与えているだけだよ。』
『太陽はどうしたんだ、一体?』
『年老いたんだ。死にかけてる。私にも君にもどうしようもないさ。』
『何故急に・・・?』
『急にじゃないよ。君が井戸を抜ける間に約15億年という歳月が流れた。君たちの諺にあるように、光陰矢の如しさ。
君の抜けてきた井戸は時の歪に沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。
宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。』
『ひとつ質問していいかい?』
『喜んで。』
『君は何を学んだ?』

百年も生きられない生き物には、15億年という歳月は想像もできない。
恒星の運命はその質量で決まるのだという。核融合反応がゆっくり進む場合もあれば、急速な場合もある。中性子星になったりブラックホールになるものもあれば、超新星爆発を起こすものもある。鉄までの元素は恒星の内部で作られたものであり、鉄より重い元素は超新星爆発で作られたのだという。いずれにしても、はるか昔に存在した天体で作られた元素が私たちの身体を構成しているのだし、身の回りに存在するものも全てそうだ。それらは、15億年前の恒星、あるいはもっと昔に作られたのかもしれない。
時空とか、宇宙の創生なんてことは、私たちにはよくわからない。時の間を彷徨いつづけているもの、あるいは時の流れそのものが、風ということであるらしい。
風の歌を聴け、というのはそういうことらしい。しかし実際のところ、なんのことだかよくわからない。

136ページ
『ねえ、私が死んで百年もたてば、誰も私の存在なんか覚えてないわね。』
『だろうね。』と僕は言った。

百年後の自分の不在、と大江健三郎さんが書いていたと思う。

147ページ
「私は17歳で、この三年間本も読めず、テレビを見ることもできず、散歩もでず、・・・それどころかベッドに起き上がることも、寝返りを打つことさえできずに過ごしてきました。この手紙は私にずっと付き添ってくれているお姉さんに書いてもらっています。彼女は私を看病するために大学を止めました。もちろん私は彼女には本当に感謝しています。私がこの三年間にベッドの上で学んだことは、どんなに惨めなことからでも人は何かを学べるし、だからこそ少しずつでも生き続けることができるのだということです。私の病気は脊髄の神経の病気なのだそうです。ひどく厄介な病気なのですが、もちろん回復の可能性はあります。3%ばかりだけど・・・
・・・
時々、もし駄目だったらと思うととても怖い。叫び出したくなるくらい怖いんです。一生こんな風に石みたいにベッドに横になったまま天井を眺め、本も読まず、風の中を歩くこともできず、誰にも愛されることもなく、何十年もかけてここで年老いて、そしてひっそりと死んでいくのかと思うと我慢できないほど悲しいのです。夜中の3時頃に目が覚めると、時々自分の背骨が少しずつ溶けていく音が聞こえるような気がします。そして実際そのとおりかもしれません。
・・・
もし、たった一度でもそうすることができたとしたら、世の中が何故こんな風に成り立っているのかわかるかもしれない。そんな気がします。そしてほんの少しでもそれが理解できたとしたら、ベッドの上で一生を終えたとしても耐えることができるかもしれない。」

ここのところは、重い病気の人でも力強く前向きに生きているのだから、そうした人たちより恵まれている私たちはもっと力強く生きていこう、とそんなことを主張しているふうにも見えない。つまり、一生何も出来ずに、何十年かけて年老いて、ひっそり死んでいくというのは、実は私たち一人ひとりのことなのだと思う。世の中が何故こんなふうに成り立っているのか、ほんの少しでも知ることができたら良いのだが、現象は、世界は、認識は、私たちを寄せ付けようとはしない。

152ページ
「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている。」

この文章が、喪失感を代表しているように思われる。

154ページ
「鼠はまだ小説を書き続けている。彼はその幾つかのコピーを毎年クリスマスに送ってくれる。昨年のは精神病院の食堂に勤めるコックの話で、一昨年のは『カラマーゾフの兄弟』を下敷きにしたコミック・バンドの話だった。」

著者の作品では「カラマーゾフの兄弟」がしばしば登場する。

160ページ
『宇宙の複雑さに比べれば』とハートフィールドは言っている。『この我々の世界などミミズの脳味噌のようなものだ。』
そうであってほしい、と僕も願っている。

宇宙は四次元の球であると言われている。
いくつもの印をつけた風船を膨らませると、印どうしは互いに遠ざかっていく。
特定の印から見れば自分を中心に空間が広がっているように見える。
それと同じようなことが宇宙で起きているのだという。
もちろん風船は三次元の球であり、四次元の球である宇宙とは違う。
だがどうあっても四次元の球なんて私たちは理解できない。
そんなふうに宇宙は複雑だ。
しかも宇宙が膨張する速度は一定ではなく、どんどん速くなっているのだという。
空間が膨張する速度は、空間の中を光が伝わる速度とは違うので、光速度を越えることもできるということだ。
やがて遠方の天体は光を越える速度で遠ざかり、見えなくなってしまうだろう。
宇宙には私たちの銀河系しかないということになってしまうだろう。
そうすると何が真実であるかなんて永久にわからなくなるのであり、
今、観測している空間が宇宙の全てであると信じる確証もなくなってしまうだろう。
全体が想定できないほどに宇宙は得体が知れない。
一方で私たち自身が何なのかもよくわからない。
そう卑下することもないだろう。