「ダンス・ダンス・ダンス」は、いるかホテルの回想から始まる。すっかり忘れていたが、この作品は「羊をめぐる冒険」の続きだった、つまり四部作だったということになる。
鼠が化けて出て来るわけではないが、羊男が影のような役割で登場する。完全な耳を持つ女性も回想や夢の中で登場する。そうした「彼」や「彼女」のキャラクターからは固有性が失われ、「僕」の付属物か分身のような様相を帯びている。そして前作に引き続いて何人かの女と寝る。相手はプロであったり都合よく「僕」の魅力に惹きつけられる素人だったりする。プロと寝る場合だって自分からはガツガツとはしない。誰かが都合よく女を用意してくれる。まとめてしまうと、まわりの人間は自己の付属物のようであり、いろんなことが自己都合に満ちていると言えなくもない。あるいはここで想定されている読者とは、そういう身勝手な人間に似ているのだろう。
・・・「ノルウェイの森」のラストで「僕は今どこにいるのだ?」というシーンがあったが、その回答であるかのように「ここは僕の人生なのだ」という台詞でこの小説は始まる。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「ノルウェイの森」のような明確なストーリーは設定されない。札幌とかハワイとか場当たり的に物語は進行する。白骨死体が出て来るまでとにかく場当たり的に進行する。白骨死体が六体というところで、ようやく物語は終結へと向う。今までに何人死んだか、あと何人死ぬのか、そういうことだ。その数は六に近づくに違いない。だが六に達してしまうと緊張感が途切れてしまうので、六になる前に終るのだろう。
・・・最後になって、ひとまわりして現実に戻ってきたと書かれている。「やれやれ」と言いたくなる。「現実」に引き戻されるのだか、「現存在」が知らぬ間に世界に投げ出されているのだか、そういうことで決着しようとしている。「こちらの世界」という場合は現実の世界で「そちらの世界」という場合は死者の世界か可能性の世界か幻想の世界か、いずれにしても私たちが属していない世界のことであるらしい。著者は「そちらの世界」を引きずり回したあげく「こちらの世界」で生きることを「僕」に選ばせる。「やれやれ」そんなことはあたり前ではないだろうか?
[上巻]
8ページ
ここは僕の人生なのだ。僕の生活。僕という現実存在の付属物。特に認めた覚えもないのにいつの間にか僕の属性として存在するようになったいくつかの事柄、事物、状況。
「僕という現実存在」の付属物なのか、僕という「現実存在の付属物」なのか一瞬判断に迷った。後に続く文章から著者は前者を指しているのだと思われるが、もしかすると「自我」が「存在」の付属物であるかもしれない。人生を積み重ねるにつれて記憶素子は固着し、属性は固定され、状況における判断は一定の傾向を持つようになる。そういうものを私たちは「僕」とか「自我」と呼んでいる。
30ページ
僕は三年半の間、こういうタイプの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。
たとえば三年前も一生懸命仕事をしていたのだろうが、何をしていたのか覚えていないし、その時その仕事自体の価値は確かにあったのだろうが、時の流れと共に、その意味は失われていく。そうやって私たちは過去から未来へ「雪かき」を続けている。その時に何かしらの意味はあったのだろうが、過ぎ去ってしまうとみんな忘れてしまう。お互い要求し合い、睡眠時間を削り、休日を返上してまで、やがて忘れられるであろう「雪かき」をするのだ。それも私たちの場合はただひたすらに「エコノミックな雪かき」でしかない。「文化的雪かき」の方がまだ救いがありそうだ。
34ページ
彼はもう死んでしまった。
あらゆる物を抱え込んで、彼は死んでいった。
入り口と出口
入り口と出口、1973年のピンボール、出口がないという話はもう出てこない。
41ページ
我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。考え方の違いだ。でもたとえ考え方に相違があるにせよ、それがとにかく我々の生きている社会なのだ。それが気にいらなければ、バングラデシュかスーダンに行くしかない。
消費を継続しなければ産業が維持できない、つまり私たちは給料がもらえなくなる。この本が書かれた時点でそうであったし、今ではいっそう自転車操業的になってしまった。「それがとにかく我々の生きている社会なのだ」ということであり、そういう社会でしか私たちは生きていけないことになる。もっと違う社会あるいは世界もあったのだろうが、列強が植民地を拡大しようとして衝突を繰り返す世界であったり、農民が汗水垂らして収穫した米を無産階級が当然のように召し上げる世界であったり、誰もが気に入るような世界なんて存在したこともなければ存在する予定もないのだろう。原子力発電をなくそうとか、もしかしたらそういうことぐらいは変えることができるかもしれない。生産と消費の規模を加速度を増して拡大している資本主義は何処にたどり着こうとしているのだろうか?
風船が膨らんでいるうちは誰も異論を差し挟んだりはしない。風船が破裂した時にはそれどころではないのでやはり誰も語りはしない。
44ページ
でも結局のところ僕は彼女を求めてはいなかったのだ。彼女が去ってしまった三日ばかり後で、僕はそのことをはっきりと認識した。そう、結局のところ彼女の隣にいながら僕は月の上にいたのだ。
物語の最初では求めていなかった「僕」は最後になって求めるようになる。
その違いが、決定的だということだろうか?
55ページ
お前は違う、と。お前は違うお前は違うお前は違う。
お前は違う、と。普通じゃない、と。ずっとそんなことを言われてきたような気がする。やがて、お前は違う、というのが、お前は人並みな努力をしていない、という言葉に置き換えられ、私はずっと罵倒されてきた。そうしたければそうすればよいのだ。私はもう、あなた方には一生関わり合いたくはないのだ。もう二度と会うこともないだろう。
さようなら。
114ページ
当時はそうは思わなかったけれど、一九六九年にはまだ世界は単純だった。機動隊員に石を投げるというだけのことで、ある場合には人は自己表明を果たすことができた。
行動が益々意味を失っていく世界に私たちは立ち会っている。情報が過多ということかもしれない。論理空間は結果を生み出し続けるが、その次の日の結果と共に忘れ去られてしまうのだ。そんな世界では誰も機動隊員に石を投げたりはしない。
機動隊員すら見あたらない。
151ページ
「待ってたよ」とそれは言った。「ずっと待ってた。中に入りなよ」
それが誰なのか目を開けなくてもわかった。
羊男だった。
158ページ
「・・・ここがあんたの場所なんだよ。それは変らない。あんたはここに繋がっている。ここがみんなに繋がっている。ここがあんたの結び目なんだよ」
161ページ
「ここでのおいらの役目は繋げることだよ。ほら、配電盤みたいにね、いろんなものを繋げるんだよ」
164ページ
「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?
踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」
166ページ
「・・・僕はこれまでの人生の中でずっと君のことを求めてきたような気がするんだ。そしてこれまでいろんな場所で君の影を見てきたような気がする。君がいろんな形をとってそこにいたように思えるんだ」
180ページ
僕が求め、羊男が繋げる。
「羊をめぐる冒険」に出てきた羊男と本作の羊男は違う感じがする。「羊をめぐる冒険」ではアイヌ青年の末裔という感じだった。ユングが影と呼んだ元型は「意識に比較的に近い層で作用し、自我を補完する作用を持つ元型。肯定的な影と否定的な影があり、否定的な場合は、自我が受け入れたくないような側面を代表することがある」というものであるらしい。そうすると本作品での羊男とは、自我を補完するが意識が気付いていないところの「肯定的な影」ではないかと思う。「いろんな場所で君の影を見てきたような気がする」とか「僕が求め、羊男が繋げる」と書いているのでそうだと思う。著者の作品は「河合隼雄さんくらいしか深いところで理解していない」ということだ。河合隼雄さんと言えばユングでしょう?
190ページ
それはキキだった。座席の上で僕の体は凍りついた。後ろの方でからからからという瓶の転がる音が聞こえた。キキだ。あの廊下の暗闇の中で見たイメージのとおりだ。本当にキキが五反田君と寝ているのだ。繋がっている、と僕は思った。
219ページ
「仕事用の名前を持ってるの」とユキは言った。「アメっていう名前で仕事してるのずっと。それで私の名前をユキにしたの。馬鹿みたいだと思わない? そういう人なの」
「おおかみこどもの雨と雪」という映画があったが、何か関係はあるのだろうか?
265ページ
「幸運だったことは認めるよ。でも考えてみたら、僕は何も選んでいないような気がする。そして夜中にふと目覚めてそう思うと、僕はたまらなく怖くなるんだ。僕という存在はいったい何処にあるんだろうって。僕という実体はどこにあるんだろう?
僕は次々に回ってくる役回りをただただ不足なく演じていただけじゃないかっていう気がする。僕は主体的になにひとつ選択していない」
「僕」は何も求めなかったし、五反田君は何も選んでいないのだという。そういうものは人生ではないということだろうか?
「次々に回ってくる役回り」を演じるのは役者だけではないのだと思う。そんなふうにして「自分のペースで仕事に取り組むことが出来ない多忙な人」こそが資本主義社会では有能ということだ。だが演じていても、選んでいても、存在とか実体なんて実感できないだろう、そんなものは初めからなかったのだ。
293ページ
踊るんだよ、と羊男は言った。それも上手く踊るんだよ、みんなが感心するくらい。
302ページ
「概念としての春は暗黒の潮流とともに激しくやってきた。その訪れは都市の間隙にこびりついた名も知れぬ人々の情念を揺すり起こし、それを不毛の流砂へ音もなく押し流していった」
僕はそういう文章を片っ端から添削していきたかった。
著者は誰を批判しているのだろうか?
308ページ
「ああいう時代はね、終わったんだよ。それで、私もあんたもみんなこの社会にきちっと埋めこまれてるの。権力も反権力もないんだよ、もう。誰もそういう考え方はしないんだよ。大きな社会なんだ。波風を立てても、いいことなんか何もないのよ。システムがね、きちっとできちゃってるの。この社会が嫌ならじっと大地震でも待ってるんだね」
310ページ
女が死んでいることには説明の必要がなかった。目が見開き、口もとが妙にこわばって歪んでいた。メイだった。
320ページ
フランツ・カフカの小説は果して二十一世紀まで生き残れるだろうか、とふと僕は心配になった。いずれにせよ、彼は「審判」のあらすじまで書類に書きつけた。どうしてそんなことをいちいち聞いて書類にしなくてはならないのか、僕には全然理解できなかった。実にフランツ・カフカ的だ。僕はだんだん馬鹿馬鹿しくなってうんざりしてきた。
346ページ
「君は僕の中にある、あるいは僕にくっついて存在している感情なり思念なりを感じとって、それを例えば象徴的な夢みたいに映像化できるということ?」
つまり「羊男」は「僕にくっついて存在している感情なり思念」であるということらしい。
351ページ
「ずっと昔から羊男はいたの?」
僕は肯いた。「うん、昔からいた。子供の頃から。僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。でもそれが羊男というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。羊男は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ」
358ページ
「大袈裟な道具とか偉そうなカートとか旗とか、着る服とか履く靴とか、しゃがみこんで芝を読む時の目付きとか耳の立て方とか、そういうのがひとつひとつ気に入らないんです」
「耳の立て方?」と彼は不思議そうな顔つきで聞き返した。
「ただの言い掛かりです」
[下巻]
10ページ
ピーク、と僕は思った。そんなものどこにもなかった。振り返ってみると、それは人生ですらないような気がする。少し起伏はあった。ごそごそと登ったり下りたりはした。でもそれだけだった。殆ど何もしていない。何も生み出していない。誰かを愛したこともあったし、誰かに愛されたこともあった。でも何も残っていない。
そんなふうに「僕」に人生を振り返ってもらうと気が滅入る。私も、何も生み出していない。つまりは凡庸なのだ。その凡庸さを認めてしまうと、もっとズルズル堕ちていきそうだが、乗り越えるほどの力もない。だから今はこうして、理解しようとしている。そこにどんなことが書かれていたのか、どんな意味があったのかを点検している。そういうこともしなかったなら、私はますます自分に幻滅してしまう。
22ページ
「昔よく聴いたな。中学校のころだね。ビーチ・ボーイズ―――何というか、特別な音だった。親密でスイートな音だ。いつも太陽が輝いていて、海の香りがして、となりに綺麗な女の子が寝転んでいるような音だ。唄を聴いているとそういう世界が本当に存在しているような気持ちになった。いつまでもみんなが若く、いつまでも何もかもが輝いているようなそういう神話的世界だよ。永遠のアドレセンス。お伽噺だ」
著者はビーチ・ボーイズがお気に入りということだが私は馴染めない。おそらくは「神話的世界、永遠のアドレセンス、お伽噺」というところに馴染めない。ミッキーマウス的なものから商業主義を幾分か取り除くとビーチ・ボーイズ的なものになるのかもしれない。
92ページ
ブルース・スプリングスティーンが「ハングリー・ハート」を歌った。良い歌だ。世界もまだ捨てたものではない。
128ページ
キキだ、と僕は思った。間違いない、僕は今そこでキキを見かけたのだ。このホノルルのダウンダウンで。
136ページ
僕は部屋をぐるりと歩いてまわってみた。それぞれの椅子の上には、それぞれの人骨が座っていた。骨は全部で六体あった。ひとつを除けばどれも完全な人骨で、死んでから長い時間が経っていた。
143ページ
まさか、と僕は思った。
159ページ
高度資本主義はあらゆる隙間から商品を掘りおこす。幻想。それがキーワードだ。売春だって人身売買だって階層差別だって個人攻撃だって倒錯性欲だってなんだって、綺麗なパッケージにくるんで綺麗な名前をつければ立派な商品になるのだ。
売春とか人身売買といった反社会的な性質のものはとりあえず置いておくとして、資本主義(高度資本主義とは言わない)が、商品を掘りおこす様子は今では洗練された言葉(たとえばイノベーション)で語られる。陳腐化した商品は「コモディティー化した」などと言われる。今ではスマホも「コモディティー化」してしまった。薄くて軽くてRetinaディスプレイを備えている商品にはディズニーの魔法がかけられているようであり、そうした流行だか幻想だか魔法に対して人々はお金を支払う。魔法も含めてマーケティングということなのだろう。だがそういうヒット商品がないと産業が停滞してしまい、物やカネの流れが滞り、みんなが困るのだが、それこそ自転車操業ではないのだろうか?
208ページ
ディック・ノースは月曜日の夕方に箱根の町に買い物に出て、スーパーマーケットの袋を抱えて外に出たところをトラックにはねられて死んだ。
250ページ
「残念ながらちゃんと動いてるね。時はどんどん過ぎ去っていく。過去が増えて未来が少なくなっていく。可能性が減って、悔恨が増えていく」
白骨の部屋に至るまで時は流れ続ける。可能性がひとつひとつ消され、「僕」の中で死の占める割合が増えていく。過去も未来も現在という瞬間に投影された幻想であり、私たちはただ現在しか体験できないということは真実であると思われるが、一方で自我を統合する働きは、今までに積み重ねた経験を振り返ると共に、経験を活かすべき機会が随分と減っていることに気付く。選択したことを悔やむのではなく、選択しなかったことを悔やむのではなく、まもなく選択できなくなるという事態におびえている。たとえば将来に不安のないよう蓄財できれば、成功体験の余韻に浸りながら平穏な老後を過ごせるかもしれない。だがその平穏な老後なり、余生という設定自体が、そもそも哀しいのだ。
271ページ
「彼があの女の人を殺したのよ」
「あの女の人。日曜日の朝に彼と一緒に寝てた人」
289ページ
「どうしてキキを殺したの?」と僕は五反田君に訊いてみた。
290ページ
「僕がキキを殺したのか?」と彼はゆっくりと言葉を区切るようにして言った。
293ページ
「でも何故君がキキを殺すんだ? 意味がないじゃないか?」
「わからない」と彼は言った。「たぶんある種の自己破壊本能だろう。僕には昔からそういうのがあるんだ。一種のストレスだよ。自分自身と、僕が演じている自分自身とのギャップがあるところまで開くと、よくそういうことが起きるんだ」
キキはすでに死んでいて、それも五反田君が殺したのだという。だが、五反田君はそのことを自分自身で把握できていない。五反田君は数少ない「僕」の友だちということであり、二人は全編を通してお互いを理解しようとする。五反田君自身が把握できていない五反田君は、おそらくは「僕」の「否定的な影」ではないかと思う。
303ページ
何はともあれ死体がまたひとつ増えた。鼠、キキ、メイ、ディック・ノース、そして五反田君。全部で五つだ。残りはひとつ。僕は首を振った。嫌な展開だった。次に何が来るのだろう? 次に誰が死ぬのだろう? 僕はユミヨシさんのことをふと考えた。
322ページ
「あれはいったい何を意味してたんだろう? 六体の白骨」
「あなた自身よ」とキキは言った。「ここはあなたの部屋なんだもの、ここのあるのはみんなあなた自身なのよ。何もかも」
身近な人が次々と死んでいく。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という「ノルウェイの森」の主題が繰り返されているのではないかと思う。「あなた自身」の中で死は、現存在が現に存在しなくなることの可能性として成長していく。そのような死を抱えた部屋を「僕」は持っている。
おそらくはみんな持っている。
鼠が化けて出て来るわけではないが、羊男が影のような役割で登場する。完全な耳を持つ女性も回想や夢の中で登場する。そうした「彼」や「彼女」のキャラクターからは固有性が失われ、「僕」の付属物か分身のような様相を帯びている。そして前作に引き続いて何人かの女と寝る。相手はプロであったり都合よく「僕」の魅力に惹きつけられる素人だったりする。プロと寝る場合だって自分からはガツガツとはしない。誰かが都合よく女を用意してくれる。まとめてしまうと、まわりの人間は自己の付属物のようであり、いろんなことが自己都合に満ちていると言えなくもない。あるいはここで想定されている読者とは、そういう身勝手な人間に似ているのだろう。
・・・「ノルウェイの森」のラストで「僕は今どこにいるのだ?」というシーンがあったが、その回答であるかのように「ここは僕の人生なのだ」という台詞でこの小説は始まる。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「ノルウェイの森」のような明確なストーリーは設定されない。札幌とかハワイとか場当たり的に物語は進行する。白骨死体が出て来るまでとにかく場当たり的に進行する。白骨死体が六体というところで、ようやく物語は終結へと向う。今までに何人死んだか、あと何人死ぬのか、そういうことだ。その数は六に近づくに違いない。だが六に達してしまうと緊張感が途切れてしまうので、六になる前に終るのだろう。
・・・最後になって、ひとまわりして現実に戻ってきたと書かれている。「やれやれ」と言いたくなる。「現実」に引き戻されるのだか、「現存在」が知らぬ間に世界に投げ出されているのだか、そういうことで決着しようとしている。「こちらの世界」という場合は現実の世界で「そちらの世界」という場合は死者の世界か可能性の世界か幻想の世界か、いずれにしても私たちが属していない世界のことであるらしい。著者は「そちらの世界」を引きずり回したあげく「こちらの世界」で生きることを「僕」に選ばせる。「やれやれ」そんなことはあたり前ではないだろうか?
[上巻]
8ページ
ここは僕の人生なのだ。僕の生活。僕という現実存在の付属物。特に認めた覚えもないのにいつの間にか僕の属性として存在するようになったいくつかの事柄、事物、状況。
「僕という現実存在」の付属物なのか、僕という「現実存在の付属物」なのか一瞬判断に迷った。後に続く文章から著者は前者を指しているのだと思われるが、もしかすると「自我」が「存在」の付属物であるかもしれない。人生を積み重ねるにつれて記憶素子は固着し、属性は固定され、状況における判断は一定の傾向を持つようになる。そういうものを私たちは「僕」とか「自我」と呼んでいる。
30ページ
僕は三年半の間、こういうタイプの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。
たとえば三年前も一生懸命仕事をしていたのだろうが、何をしていたのか覚えていないし、その時その仕事自体の価値は確かにあったのだろうが、時の流れと共に、その意味は失われていく。そうやって私たちは過去から未来へ「雪かき」を続けている。その時に何かしらの意味はあったのだろうが、過ぎ去ってしまうとみんな忘れてしまう。お互い要求し合い、睡眠時間を削り、休日を返上してまで、やがて忘れられるであろう「雪かき」をするのだ。それも私たちの場合はただひたすらに「エコノミックな雪かき」でしかない。「文化的雪かき」の方がまだ救いがありそうだ。
34ページ
彼はもう死んでしまった。
あらゆる物を抱え込んで、彼は死んでいった。
入り口と出口
入り口と出口、1973年のピンボール、出口がないという話はもう出てこない。
41ページ
我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。考え方の違いだ。でもたとえ考え方に相違があるにせよ、それがとにかく我々の生きている社会なのだ。それが気にいらなければ、バングラデシュかスーダンに行くしかない。
消費を継続しなければ産業が維持できない、つまり私たちは給料がもらえなくなる。この本が書かれた時点でそうであったし、今ではいっそう自転車操業的になってしまった。「それがとにかく我々の生きている社会なのだ」ということであり、そういう社会でしか私たちは生きていけないことになる。もっと違う社会あるいは世界もあったのだろうが、列強が植民地を拡大しようとして衝突を繰り返す世界であったり、農民が汗水垂らして収穫した米を無産階級が当然のように召し上げる世界であったり、誰もが気に入るような世界なんて存在したこともなければ存在する予定もないのだろう。原子力発電をなくそうとか、もしかしたらそういうことぐらいは変えることができるかもしれない。生産と消費の規模を加速度を増して拡大している資本主義は何処にたどり着こうとしているのだろうか?
風船が膨らんでいるうちは誰も異論を差し挟んだりはしない。風船が破裂した時にはそれどころではないのでやはり誰も語りはしない。
44ページ
でも結局のところ僕は彼女を求めてはいなかったのだ。彼女が去ってしまった三日ばかり後で、僕はそのことをはっきりと認識した。そう、結局のところ彼女の隣にいながら僕は月の上にいたのだ。
物語の最初では求めていなかった「僕」は最後になって求めるようになる。
その違いが、決定的だということだろうか?
55ページ
お前は違う、と。お前は違うお前は違うお前は違う。
お前は違う、と。普通じゃない、と。ずっとそんなことを言われてきたような気がする。やがて、お前は違う、というのが、お前は人並みな努力をしていない、という言葉に置き換えられ、私はずっと罵倒されてきた。そうしたければそうすればよいのだ。私はもう、あなた方には一生関わり合いたくはないのだ。もう二度と会うこともないだろう。
さようなら。
114ページ
当時はそうは思わなかったけれど、一九六九年にはまだ世界は単純だった。機動隊員に石を投げるというだけのことで、ある場合には人は自己表明を果たすことができた。
行動が益々意味を失っていく世界に私たちは立ち会っている。情報が過多ということかもしれない。論理空間は結果を生み出し続けるが、その次の日の結果と共に忘れ去られてしまうのだ。そんな世界では誰も機動隊員に石を投げたりはしない。
機動隊員すら見あたらない。
151ページ
「待ってたよ」とそれは言った。「ずっと待ってた。中に入りなよ」
それが誰なのか目を開けなくてもわかった。
羊男だった。
158ページ
「・・・ここがあんたの場所なんだよ。それは変らない。あんたはここに繋がっている。ここがみんなに繋がっている。ここがあんたの結び目なんだよ」
161ページ
「ここでのおいらの役目は繋げることだよ。ほら、配電盤みたいにね、いろんなものを繋げるんだよ」
164ページ
「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?
踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」
166ページ
「・・・僕はこれまでの人生の中でずっと君のことを求めてきたような気がするんだ。そしてこれまでいろんな場所で君の影を見てきたような気がする。君がいろんな形をとってそこにいたように思えるんだ」
180ページ
僕が求め、羊男が繋げる。
「羊をめぐる冒険」に出てきた羊男と本作の羊男は違う感じがする。「羊をめぐる冒険」ではアイヌ青年の末裔という感じだった。ユングが影と呼んだ元型は「意識に比較的に近い層で作用し、自我を補完する作用を持つ元型。肯定的な影と否定的な影があり、否定的な場合は、自我が受け入れたくないような側面を代表することがある」というものであるらしい。そうすると本作品での羊男とは、自我を補完するが意識が気付いていないところの「肯定的な影」ではないかと思う。「いろんな場所で君の影を見てきたような気がする」とか「僕が求め、羊男が繋げる」と書いているのでそうだと思う。著者の作品は「河合隼雄さんくらいしか深いところで理解していない」ということだ。河合隼雄さんと言えばユングでしょう?
190ページ
それはキキだった。座席の上で僕の体は凍りついた。後ろの方でからからからという瓶の転がる音が聞こえた。キキだ。あの廊下の暗闇の中で見たイメージのとおりだ。本当にキキが五反田君と寝ているのだ。繋がっている、と僕は思った。
219ページ
「仕事用の名前を持ってるの」とユキは言った。「アメっていう名前で仕事してるのずっと。それで私の名前をユキにしたの。馬鹿みたいだと思わない? そういう人なの」
「おおかみこどもの雨と雪」という映画があったが、何か関係はあるのだろうか?
265ページ
「幸運だったことは認めるよ。でも考えてみたら、僕は何も選んでいないような気がする。そして夜中にふと目覚めてそう思うと、僕はたまらなく怖くなるんだ。僕という存在はいったい何処にあるんだろうって。僕という実体はどこにあるんだろう?
僕は次々に回ってくる役回りをただただ不足なく演じていただけじゃないかっていう気がする。僕は主体的になにひとつ選択していない」
「僕」は何も求めなかったし、五反田君は何も選んでいないのだという。そういうものは人生ではないということだろうか?
「次々に回ってくる役回り」を演じるのは役者だけではないのだと思う。そんなふうにして「自分のペースで仕事に取り組むことが出来ない多忙な人」こそが資本主義社会では有能ということだ。だが演じていても、選んでいても、存在とか実体なんて実感できないだろう、そんなものは初めからなかったのだ。
293ページ
踊るんだよ、と羊男は言った。それも上手く踊るんだよ、みんなが感心するくらい。
302ページ
「概念としての春は暗黒の潮流とともに激しくやってきた。その訪れは都市の間隙にこびりついた名も知れぬ人々の情念を揺すり起こし、それを不毛の流砂へ音もなく押し流していった」
僕はそういう文章を片っ端から添削していきたかった。
著者は誰を批判しているのだろうか?
308ページ
「ああいう時代はね、終わったんだよ。それで、私もあんたもみんなこの社会にきちっと埋めこまれてるの。権力も反権力もないんだよ、もう。誰もそういう考え方はしないんだよ。大きな社会なんだ。波風を立てても、いいことなんか何もないのよ。システムがね、きちっとできちゃってるの。この社会が嫌ならじっと大地震でも待ってるんだね」
310ページ
女が死んでいることには説明の必要がなかった。目が見開き、口もとが妙にこわばって歪んでいた。メイだった。
320ページ
フランツ・カフカの小説は果して二十一世紀まで生き残れるだろうか、とふと僕は心配になった。いずれにせよ、彼は「審判」のあらすじまで書類に書きつけた。どうしてそんなことをいちいち聞いて書類にしなくてはならないのか、僕には全然理解できなかった。実にフランツ・カフカ的だ。僕はだんだん馬鹿馬鹿しくなってうんざりしてきた。
346ページ
「君は僕の中にある、あるいは僕にくっついて存在している感情なり思念なりを感じとって、それを例えば象徴的な夢みたいに映像化できるということ?」
つまり「羊男」は「僕にくっついて存在している感情なり思念」であるということらしい。
351ページ
「ずっと昔から羊男はいたの?」
僕は肯いた。「うん、昔からいた。子供の頃から。僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。でもそれが羊男というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。羊男は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ」
358ページ
「大袈裟な道具とか偉そうなカートとか旗とか、着る服とか履く靴とか、しゃがみこんで芝を読む時の目付きとか耳の立て方とか、そういうのがひとつひとつ気に入らないんです」
「耳の立て方?」と彼は不思議そうな顔つきで聞き返した。
「ただの言い掛かりです」
[下巻]
10ページ
ピーク、と僕は思った。そんなものどこにもなかった。振り返ってみると、それは人生ですらないような気がする。少し起伏はあった。ごそごそと登ったり下りたりはした。でもそれだけだった。殆ど何もしていない。何も生み出していない。誰かを愛したこともあったし、誰かに愛されたこともあった。でも何も残っていない。
そんなふうに「僕」に人生を振り返ってもらうと気が滅入る。私も、何も生み出していない。つまりは凡庸なのだ。その凡庸さを認めてしまうと、もっとズルズル堕ちていきそうだが、乗り越えるほどの力もない。だから今はこうして、理解しようとしている。そこにどんなことが書かれていたのか、どんな意味があったのかを点検している。そういうこともしなかったなら、私はますます自分に幻滅してしまう。
22ページ
「昔よく聴いたな。中学校のころだね。ビーチ・ボーイズ―――何というか、特別な音だった。親密でスイートな音だ。いつも太陽が輝いていて、海の香りがして、となりに綺麗な女の子が寝転んでいるような音だ。唄を聴いているとそういう世界が本当に存在しているような気持ちになった。いつまでもみんなが若く、いつまでも何もかもが輝いているようなそういう神話的世界だよ。永遠のアドレセンス。お伽噺だ」
著者はビーチ・ボーイズがお気に入りということだが私は馴染めない。おそらくは「神話的世界、永遠のアドレセンス、お伽噺」というところに馴染めない。ミッキーマウス的なものから商業主義を幾分か取り除くとビーチ・ボーイズ的なものになるのかもしれない。
92ページ
ブルース・スプリングスティーンが「ハングリー・ハート」を歌った。良い歌だ。世界もまだ捨てたものではない。
128ページ
キキだ、と僕は思った。間違いない、僕は今そこでキキを見かけたのだ。このホノルルのダウンダウンで。
136ページ
僕は部屋をぐるりと歩いてまわってみた。それぞれの椅子の上には、それぞれの人骨が座っていた。骨は全部で六体あった。ひとつを除けばどれも完全な人骨で、死んでから長い時間が経っていた。
143ページ
まさか、と僕は思った。
159ページ
高度資本主義はあらゆる隙間から商品を掘りおこす。幻想。それがキーワードだ。売春だって人身売買だって階層差別だって個人攻撃だって倒錯性欲だってなんだって、綺麗なパッケージにくるんで綺麗な名前をつければ立派な商品になるのだ。
売春とか人身売買といった反社会的な性質のものはとりあえず置いておくとして、資本主義(高度資本主義とは言わない)が、商品を掘りおこす様子は今では洗練された言葉(たとえばイノベーション)で語られる。陳腐化した商品は「コモディティー化した」などと言われる。今ではスマホも「コモディティー化」してしまった。薄くて軽くてRetinaディスプレイを備えている商品にはディズニーの魔法がかけられているようであり、そうした流行だか幻想だか魔法に対して人々はお金を支払う。魔法も含めてマーケティングということなのだろう。だがそういうヒット商品がないと産業が停滞してしまい、物やカネの流れが滞り、みんなが困るのだが、それこそ自転車操業ではないのだろうか?
208ページ
ディック・ノースは月曜日の夕方に箱根の町に買い物に出て、スーパーマーケットの袋を抱えて外に出たところをトラックにはねられて死んだ。
250ページ
「残念ながらちゃんと動いてるね。時はどんどん過ぎ去っていく。過去が増えて未来が少なくなっていく。可能性が減って、悔恨が増えていく」
白骨の部屋に至るまで時は流れ続ける。可能性がひとつひとつ消され、「僕」の中で死の占める割合が増えていく。過去も未来も現在という瞬間に投影された幻想であり、私たちはただ現在しか体験できないということは真実であると思われるが、一方で自我を統合する働きは、今までに積み重ねた経験を振り返ると共に、経験を活かすべき機会が随分と減っていることに気付く。選択したことを悔やむのではなく、選択しなかったことを悔やむのではなく、まもなく選択できなくなるという事態におびえている。たとえば将来に不安のないよう蓄財できれば、成功体験の余韻に浸りながら平穏な老後を過ごせるかもしれない。だがその平穏な老後なり、余生という設定自体が、そもそも哀しいのだ。
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「彼があの女の人を殺したのよ」
「あの女の人。日曜日の朝に彼と一緒に寝てた人」
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「どうしてキキを殺したの?」と僕は五反田君に訊いてみた。
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「僕がキキを殺したのか?」と彼はゆっくりと言葉を区切るようにして言った。
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「でも何故君がキキを殺すんだ? 意味がないじゃないか?」
「わからない」と彼は言った。「たぶんある種の自己破壊本能だろう。僕には昔からそういうのがあるんだ。一種のストレスだよ。自分自身と、僕が演じている自分自身とのギャップがあるところまで開くと、よくそういうことが起きるんだ」
キキはすでに死んでいて、それも五反田君が殺したのだという。だが、五反田君はそのことを自分自身で把握できていない。五反田君は数少ない「僕」の友だちということであり、二人は全編を通してお互いを理解しようとする。五反田君自身が把握できていない五反田君は、おそらくは「僕」の「否定的な影」ではないかと思う。
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何はともあれ死体がまたひとつ増えた。鼠、キキ、メイ、ディック・ノース、そして五反田君。全部で五つだ。残りはひとつ。僕は首を振った。嫌な展開だった。次に何が来るのだろう? 次に誰が死ぬのだろう? 僕はユミヨシさんのことをふと考えた。
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「あれはいったい何を意味してたんだろう? 六体の白骨」
「あなた自身よ」とキキは言った。「ここはあなたの部屋なんだもの、ここのあるのはみんなあなた自身なのよ。何もかも」
身近な人が次々と死んでいく。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という「ノルウェイの森」の主題が繰り返されているのではないかと思う。「あなた自身」の中で死は、現存在が現に存在しなくなることの可能性として成長していく。そのような死を抱えた部屋を「僕」は持っている。
おそらくはみんな持っている。