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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

カンガルー日和

2015-10-03 00:05:57 | 村上春樹
「中国行きのスロウ・ボート」は比較的まじめで受け取り方によっては重たいものを含む短編集という感じがするが、「カンガルー日和」にはそれほど深刻な要素はないのではないかと思う。(たぶん)
本当はとても重大なことが書かれているのだが見落としているだけかもしれない。(あるいは)
時には軽快な音楽を聴いて何も考えずに、ぼーっとしていた方がよいのだろう。(気分転換に)
そのような珠玉の名曲を集めたような短編集ではないかと思う。
感想は楽に、時にマニアックに書こうと思う。

【カンガルー日和】
「いちばん巨大で、いちばん物静かなのが父親カンガルーだ。彼は才能が枯れ尽きてしまった作曲家のような顔つきで餌箱の中の緑の葉をじっと眺めている」
「我々が立ち去る時にも父親カンガルーはまだ餌箱の中に失われた音符を捜し求めていた」
カンガルーの赤ちゃんを見に行く話なのだが、
「餌箱の中に失われた音符を捜し求める才能の枯渇してしまった物静かな父親カンガルーの姿」を払いのけることができない。じっと餌箱をのぞき込んでいる彼の肩をやさしく叩いて励ましてあげたいという気持ちになる。そんな寡黙な父親カンガルーとは対照的に赤ちゃんカンガルーは元気に飛び跳ねている。檻の外では身勝手な会話が続いている。
「ねえ、あの袋に入るって素敵だと思わない?」
「そうだね」
「ドラえもんのポケットって胎内回帰願望なのかしら?」
「どうかな」
「きっとそうよ」

【4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて】
100パーセントの男の子と100パーセントの女の子が出会う。「100パーセント」とはどういうことなのだろうか?
キズキと直子のことかもしれないし、佐伯さんとその恋人のことかもしれない。長編小説だと必ず不幸になってしまう組合せが「100パーセント」なのかもしれない。男性が心の中に抱き続ける一人の乙女の絵姿が「100パーセントの女の子」なのかもしれない。
「100パーセントの女の子」に出会ったとして「末永く幸せに暮らしました」といったことが約束されている人生を選ぶだろうか?
「100パーセントの女の子」は残りの可能性を1パーセントだって与えてはくれないかもしれない。そして可能性のないところで人は生きることができない。

【眠い】
「僕はあきらめてかきのグラタンを食べはじめた。古代生物のような味のするかきだった。かきを食べているうちに僕は見事な翼手竜になってあっという間に原生林を飛び越え、荒涼とした地表を冷ややかに見下ろした。
地表では大人しそうな中年のピアノ教師が小学校時代の新婦についての思い出を語っていた」
年に一回くらいは古代生物料理を食してみたいものだ。三葉虫のムニエルとか、堅くて無理?

【タクシーに乗った吸血鬼】
「もうひとつ質問していいかな?」
「どうぞどうぞ」
「どうしてタクシーの運転手やってるの?」
「吸血鬼という概念に捉われたくないからです。マントかぶったり、馬車に乗ったり、城に住んだりって、そんなの良くないですよ。私はちゃんと税金だって納めてるし、印鑑登録だってしています。ディスコにだって行くし、パチンコもします。おかしいですか?」
おかしいです。

【彼女の町と、彼女の緬羊】
「彼女の町。
僕は彼女の町の姿を想像することができた。一日に八回しか列車の停まらない駅、ストーヴのある待合室、寒々とした小さなロータリー、字が消えて半分も読めなくなってしまった町の案内図、マリーゴールドの花壇とななかまどの並木、人生に疲れ果てた汚れた白い犬、やけに広々とした通り、自衛隊員募集のポスター、三階建ての雑貨デパート、学生服と頭痛薬の看板、小さな旅館が一軒、農業協同組合と林業センターと畜産振興会の建物、風呂屋の煙突が一本だけぽつんと灰色の空に向かって立っている。大通りの先を左に折れ、二筋進んだところに町役場があり、広報課には彼女が座っている。小さな、退屈な町だ。一年の半分近くを雪に覆われている。そして彼女はその町のために広報の原稿を書きつづけている。<来る何月何日、緬羊消毒のための薬剤を配布致します。ご希望の方は何月何日までに所定の申し込み用紙んみ記入の上・・・>」
細部を描くことで悲しみが増していく。細部を読んでいると悲しみがつのって来る。私が訪れた、うらぶれた町にも「人生に疲れ果てた汚れた白い犬」がいて「駅のプラットホームの端から端まで」歩いていた。しけた町にはどこにでもそんな犬が歩いている。

【あしか祭り】
「僕はなんだかよくわからないまま肯いた。典型的なあしかレトリックだ。あしかはいつもこういったしゃべり方をする」
最初から最後まで「あしかレトリック」に満ちた話だ。

【鏡】
「いや、違うな、正確に言えばそれはもちろん僕なんだ。でもそれは僕以外の僕なんだ。それは僕がそうあるべきではない形での僕なんだ。うまく言えないよ。でもその時ただひとつ僕に理解できたことは、相手が心の底から僕を憎んでいるってことだった。まるで暗い氷山のような憎しみだった。僕にはそれだけを理解することができた」
「心の底から僕を憎んでいる僕以外の僕」というのはいったい何なのだろう?
「ヘタレな自分を変えたい」というような場合には、僕と「僕以外の僕」に分離されることはないのだと思う。僕は単に僕が嫌なのだ。それに「ヘタレな僕」が僕を心の底から憎むなんてあり得ないだろう。僕と「ヘタレな僕」はそれなりに協調しながらうまく行かない人生を共に歩んできたのだ。長年の功績を讃えて互いに感謝し合ってもいいくらいだ。
「心の底から僕を憎んでいる僕以外の僕」の心のうちを僕は読み取ることができるようだ。その憎悪を肌で感じているのだから。それでも僕は「僕以外の僕」に決して出番を与えない。意識の表層に現れることを許さない。
「そうあるべきではない」と僕が考えているのだから当然だ。でも完全に押さえ込むことができていたのなら僕が「僕以外の僕」の姿を見るはずはないだろう。おそらく僕は「彼」を知らなくてはならない。理解しなくてはならない。許さなくてはならない。

【1963/1982年のイパネマ娘】
ブラジルにイパネマという美しい海岸があるということだ。
「ブラジルの首都リオデジャネイロにある海岸。リオデジャネイロの南地区に位置し、コパカバーナ南端の岬の先にある高級住宅地に面した、しゃれた雰囲気の静かな海岸である」
「イパネマの娘」は1962年に作曲(1963年に録音)されたボサノヴァの名曲ということだ。「もし齢をとっていたとしたら、彼女はもうかれこれ四十に近いはずだ」
1982年から1963年を回顧して著者はそのように書いている。ところが今は2015年(そしてすぐに過去となる)であり、彼女は七十ということになる。そして彼女の孫か曾孫が彼女そっくりの姿で海をみつめているかもしれない。

【バート・バカラックはお好き】
バート・バカラックは作曲家で「雨にぬれても」「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」でアカデミー賞を受賞している。タイトルはサガンの「ブラームスはお好き?」との組合せらしい。「僕はあの時彼女と寝るべきだったんだろうか? これがこの文章のテーマだ」ということである。
そんなことしらない。

【5月の海岸線】
「僕は預言する。
五月の太陽の下を、両手に運動靴をぶら下げ、古い防波堤の上を歩きながら僕は預言する。君たちは崩れ去るだろう、と。何年先か、何十年先か、何百年先か、僕にはわからない。でも、君たちはいつか確実に崩れ去る。山を崩し、海を埋め、井戸を埋め、死者の魂の上に君たちが打ち建てたものはいったい何だ? コンクリートと雑草と火葬場の煙突、それだけじゃないか」
そんな感じの「僕と鼠の物語」的な情景が描かれている。ここはかつて子供の頃によく泳いだ海岸であったと、今ではコンクリートが敷き詰められてしまったのだと、墓標のような高層アパートが立ち並ぶようになってしまったのだと。
長崎の出島を訪れた時にがっかりしたことがある。観光案内によると、どの教科書にも描かれている扇形をした人工の島がむかしここにあったんですということだがどこを見ても普通の建物しかなく、普通の道路しかなく、おまけに普通の自動車が走っていた。埋め立てられてしまった海岸にはそのような悲しみがつきまとう。

【駄目になった王国】
「我々はスポンサーなしではやってけないんだよ」
そんな感じで、かつての魅力的な青年がすっかり落ちぶれてしまったということが「駄目になった王国」の意味するところらしい。その落差が物悲しいということだ。

【32歳のデイトリッパー】
タイトルはビートルズの「デイ・トリッパー」を指している。この曲は1965年に作曲されている。半世紀も前のことになる。私は中学生の頃からビートルズを聴いている。時々ものすごく聴きたくなる。デイ・トリッパーには「日帰り旅行客」の他に「ドラッグでトリップする人」という意味があるそうだ。どうりでビートルズはやみつきになるわけだ。

【とんがり焼の盛衰】
とんがり鴉がとんがり焼を求めて激しい乱闘を繰り広げる。
「それがとんがり焼であるか非とんがり焼であるか、それだけが生存をかけた問題なのだ」ということだ。「とんがり焼」というのは、それをめぐって人々が争う価値観の象徴なのだろう。たかが菓子なのであって、たいていの場合は命をかけるに値しないのだろう。「とんがり鴉」はきっとあなたのそばにもいることだろう。彼らの乱闘に巻き込まれてはいけない。

【チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏】
もう少し具体的には「両脇を二種類の線路が走るチーズ・ケーキのような三角地帯に建てられた家賃が格安の物件に住むという形の貧乏」ということだ。
「日が暮れると僕と彼女と猫は布団の中にもぐりこみ、文字どおり抱きあって眠った」ということだ。
「冬が終わると、春がやってきた。春は素敵な季節だった。春がやってくると、僕も彼女も猫もほっとした」ということだ。
「僕と彼女と猫」「僕も彼女も猫も」というところが微笑ましくて、うちにも猫がいればいいなと思った。

【スパゲティーの年に】
「そして冷蔵庫の余り物を出鱈目に放り込まれた悲劇的な名もないスパゲティーたち」
同じ麺類でも、うどんやそばでは悲劇は起きないだろう。ラーメンではその確率は増すような気がする。けっこうなんでも入れてしまう。みそ・しょうゆ・塩のいずれかに味が支配されるのでラーメンの悲劇はスパゲティーほどではない。

【かいつぶり】
「だって合言葉はかいつぶりじゃないんだから」
「じゃあ何だい?」
彼は一瞬絶句した。「それは言えない」
「存在しないからさ」と僕は能力の許す限り冷ややかに言い放った。「かいつぶり以外に水に関係があって、手のひらに入るけど食べられない五文字のことばなんてひとつもないよ」
「でもあるんだよ」と彼は泣きそうな声で言った。
「ないよ」
「ある」
「あるという証拠がない」と僕は言った。
かいつぶりは水には関係があるだろうが、手のひらに入るか微妙だし食べられるかも微妙で、
開き直って論理破綻した答えを押し付けているようだ。その間違いを指摘したくても合言葉を口にはできない「彼」が泣きそうな気持ちになるのはよくわかる。
「あるという証拠がない」だって・・・ははは。

【サウスベイ・ストラット】
「サウスベイ・ストラット」は「ドゥービー・ブラザーズ」の「ワン・ステップ・クローサー」に収録されている曲ということだ。一度も聴いたことがない。YouTubeで検索してみたが見つからなかった。仕方がないのでしばらくの間、ドゥービー・ブラザーズの他の曲を聴いていた。YouTubeで曲が簡単に聴けるようになったので音楽で金儲けをすることは以前より困難になってしまったかもしれない。

【図書館奇譚】
<羊男さんには羊男さんの世界があるの。私には私の世界があるの。あなたにはあなたの世界がある。そうでしょ?>
「そうだね」と僕は言った。
<だから羊男さんの世界で私が存在しないからって、私がまるで存在しないことにはならないでしょ?>
「うん」と僕は言った。「つまり、そんないろんな世界がみんなここでいっしょになっているってことなんだね。そして重なりあってる部分もあるし、重なりあっていない部分もある」
そういうことが書かれていた。
いろんな価値観を持つ様々な人々がいるので「各々の世界は独立している」というようなことではないと思う。ここは「図書館」であり「いろんな世界」を描いた本が「みんなここでいっしょになっている」ということかもしれない。あるいは僕と羊男と美少女と老人はひとりの人間の意識の中に住まう別々の人格であり、その一部が「重なりあっている」ということかもしれない。老人は他の人格の存在を許さない「超自我」のようなものかもしれない。老人が脳味噌をちゅうちゅう吸うことで他の人格は毀損されてしまい、その結果、美少女に会えなくなってしまうのかもしれない。そのようにして意識の中で戦いが繰り広げられ「僕」は美少女(むくどり)に助けてもらう。「僕」の大好きなむくどり(親しみのようなもの)が、小さい頃の「僕」を噛んだ犬(痛みのようなもの)の口を裂き骨を砕く。あるいは「僕」は本を読んでいる間に物語の世界から抜け出せなくなったのかもしれないし、自ら迷路を抜けて意識の最下部へと降って行ったのかもしれない。死んでしまった妻を冥界に尋ねるオルフェウスのように。そういうところを訪れて、元の世界に戻ってくるというのは、けっこうたいへんなことなのだろう。最後に母親が死ぬ。おそらく母親は、図書館でむくどりの攻撃を受けた老人ではないかと思う。
図書館:老人(犬)―美少女
家:母親(犬)―むくどり
そうするとこの物語は「僕」の自立を暗示していることになるのだろう。母親以外のものに向けられた親しみが「僕」を自立させると共に母親が存在する意味をなくしてしまうのだろう。

※図書館(普通の図書館)でカット・メンシックがイラストを描いている「図書館奇譚」を見つけた。ものすごくリアルな羊男のイラストがあった。
「こんなの羊男じゃねーっ」
「羊をめぐる冒険」に描かれているあのしょぼい羊男のイメージから抜け出せない読者は
そう思うに違いない。

中国行きのスロウ・ボート

2015-09-26 00:05:28 | 村上春樹
【中国行きのスロウ・ボート】
「僕」が出会った中国人について書かれている。
最初の中国人は模擬テストの会場にあてられた中国人小学校の監督官だった。彼はテストを受けに来た日本人の小学生たちに、机を傷つけてはいけない、落書きをしてはいけない、椅子にチューインガムをくっつけてはいけないといったことを注意する。「もしあなた方の小学校に中国人の子供たちが来てそんなことをしていったらどう思いますか」そのような言い回しで子供たちを納得させようとする。小学校の先生は立場を入れ替えることによって子供たちを相互理解へと導こうとする傾向がある。「相手の立場にたって考えなさい」と全都道府県の小学校の先生が子供たちに語りかける。もしかするとそういうことは世界規模で行われているのかもしれない。そして中国人の先生であっても日本人の先生であっても同じような言い回しで語りかける。中国人の子供も日本人の子供も同じようなことを聞いている。
おそらくは小学校というものができてからずっと。
二人目の中国人は大学生の時にアルバイト先で知り合った女子大生ということだ。門限を気にする彼女を電車に乗せて見送った「僕」はしばらくしてから逆まわりの山手線に乗せてしまったことに気付く。「あなたが本当に間違えたんだとしても、それはあなたが実は心の底でそう望んでいたからよ」と彼女は言う。子供の頃にバスケットボールのゴール・ポストに激突して脳震盪を起こして倒れていた「僕」は「大丈夫、埃さえ払えばまだ食べられる」としゃべったということだが、それと同じようなことが山手線のホームで起きてしまったのだろう。彼女が「そう望んでいたからよ」と言うのは言いすぎなのだ。ただ、そうなってしまったのだ。
三人目の中国人は高校時代の友人の友人といったあたりの中国人ということだ。その男が中国人にだけその百科事典を売っていると語るまで「僕」は知り合いであることを思い出せなかった。おそらくは記憶を紐付けているタグに中国人というキーワードがあったのだろう。そのようにして三人の中国人について語られているが彼らが中国人である必然性はどこにもないように感じられる。人類は平等であるとか、どのような民族も尊重されるべきとか、そんなふうなことではなくて、中国人と日本人を隔てるようなものは特に見あたらないということだろう。

【貧乏な叔母さんの話】
「僕は貧乏な叔母さんについて書いてみたい」、そういうところから始まる。
いったい「貧乏な叔母さん」とは何なのだろう? 何かを象徴しているのだろうか?
「あなたはそれを認めて、受け入れなくちゃいけない。理由も原因も、そんなものはどうでもいいことなのよ。貧乏な叔母さんはただそこに存在するのよ。貧乏な叔母さんというのは、その存在そのものが理由なのよ。私たちが特別な理由も原因もなくこうして今ここに存在しているのと同じことなのよ」
そのような解答が与えられる。それを解答と捉える人はあまりいないかもしれないが・・・科学的とか、合理的とか、私たちの住む世界では結果に対する理由や原因が常に求められる。予期せぬ結果が生じてしまった場合には、どのような意図で何をしようとして何処で間違えたのかが追求される。意図もなく漠然とそうなりましたという発言は受け入れられない。結果が生じてしまったのであれば、5W1Hがなければならないと彼らは考えている。PDCA(Plan/Do/Check/Action)のサイクルを回して常に改善を心掛けねばならないのだ。そんな人たちに向かって「Planがありませんでした」ということを口にするとひどい目に遭う。現象がただ生じているだけなのだが、そのようなことは科学的合理精神を尊重する現代では受け入れられないのだ。純粋理性批判の二律背反のところを読めば少しは寛容になれるのではないかと思う。私たちは理性や悟性の罠に落ち込んでしまっているのだ。

ひとつにはそのような因果関係に囚われてしまいがちな私たちのことを書いているのだと思う。次に気になるのは「貧乏な叔母さん」の持つ「無名性」のようなものだ。「彼女には名前はない。ただの貧乏な叔母さん、それだけだ」、そういうことだ。ただ無名であるというだけでは捉えられないので、ある人にとっては母親であったり、昨年の秋に食道ガンで死んだ秋田犬であったり、ずっと昔の小学校の女教師であったりする。そのような属性を頼りに私たちは現象を時系列に整理して記憶する。ただの「貧乏な叔母さん」というのでは誰も覚えられない。だが時間の経過と共にさして重要ではない記憶は「貧乏な叔母さん」化してしまいやがて忘却される。とても悲しいことだが、悲しんだことすら忘れ去れてしまう。無名とはそういうものだ。混沌もそうだが私たちには理解できないことかもしれない。

「貧乏な叔母さんはただそこに存在するのよ。貧乏な叔母さんというのは、その存在そのものが理由なのよ」
「分数ができる犬はただそこに存在するのよ。分数ができる犬というのは、その存在そのものが理由なのよ」
「トローリとろけるお肉が入ったビーフシチューはただそこに存在するのよ。
トローリとろけるお肉が入ったビーフシチューというのは、その存在そのものが理由なのよ」
この言い回しは、いろいろ遊べそうだ。

「もちろん世界の全ては道化だ。誰がそれを逃れられるだろう? 強いライトに照らし出されたテレビ局のスタジオから、暗い森の隠者の庵に至るまで、状況の根もとはみんなひとつだ」
いつから道化になったのかはよくわからないが、そう言われるとそういう気がしてくる。最近ではエンターテインメント(娯楽)と呼ばれて立派な産業となっている。

【ニューヨーク炭鉱の悲劇】
「僕のまわりでは、友人たちやかつての友人たちが次々に死んでいった」、そういうことが書かれている。「僕」は喪服を持っていないので、その度に友人に借りに行く。「世の中には葬式の出ない死に方もある。匂いのない死もある」と、その友人は語る。タイトルの「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は、そのことと関連があるのだろう。ただ、たくさんの人々が死んだと、そこに個別の死がないということが、別の意味での「悲劇」なのだろう。あるいは「悲劇」として語られるべき個別性とか具体性に欠けているという「悲劇」なのだろう。最後の方に「あなたって私の知っている方にそっくりなのよね」という女性が現れる。その似ている人を「私が殺したの」と彼女は語る。おそらくこの女性は「僕」にとって専属の「死神」なのではないかと思う。友人が次々に死んでいく中で、死は例外なくあなたにも訪れるのだと、そういうことを告げに来たのだろう。
「みんな、なるべく息をするんじゃない。残りの空気が少ないんだ」年嵩の坑夫がそう言った。時々、大きな地震が発生し、瓦礫に生き埋めにされてしまう人々がいる。数千人の被害者がいたとする。その一人ひとりの死を悼むことはできない。そのための想像力が欠けている。戦争で命を落とした数百万人の一人ひとりを追悼することはできない。どういう人が生きていたのかさえわからない。スターリン・毛沢東・ヒットラーに殺された数え切れない人々がいた。葬式は出ない。

【カンガルー通信】
この小説は独白(モノローグ)形式となっている。手紙(カセット・テープ)によりメッセージが伝えられる。その名称が「カンガルー通信」となっている。とても素敵な名前だ。メッセージの宛て先の女性は特に知り合いというわけではない。そのような相手に一人芝居を打っているので、まともなコミュニケーションが成立するとは思えない。「貧しき人々」でワルワーラさんに宛てた手紙でさえ、これほど孤立してはいないだろう。このほとんど行き先のないメッセージは、自分のことを語りたいという願望はあるのだが、実際に聞いてくれる相手はいないという状況を暗示しているのかもしれない。手紙が長ければ長いほど、個人的なことを語れば語るほど、悲しみは増していく。
「しかし何にせよ、僕は不完全さを志したのです」
その不完全さというのは、ものごとのあり方に挑んで敗れていくという、あの不完全さのことなのだろうか? 「海辺のカフカ」で大島さんがシューベルトのピアノ・ソナタについて語っている、あの不完全さなのだろうか? 「大いなる不完全さというのは、まあ簡単にいっちゃえば、誰かが誰かを結果的に許すということかもしれません」
不完全さがなければ「カンガルー通信」というようなものは、かたちを持たなかったかもしれない。不完全さを自覚した者が成立する見込みのないコミュニケーションにあえて挑戦するということかもしれない。

【午後の最後の芝生】
「僕の求めているのはきちんと芝を刈ることだけなんだ、と僕は思う」と書かれている。芝生を刈る作業が持つ現実感と、別れた恋人が残していった薄っぺらな言葉が対照的だ。ここでは芝生を刈ることにまじめに取り組むほど、他の物事の現実味が薄れていく。「適当にやろうと思えば適当にやれるし、きちんとやろうと思えばいくらでもきちんとやれる。しかしきちんとやったからそれだけ評価されるかというと、そうとも限らない。ぐずぐずやっていると見られることもある。それでも前にも言ったように、かなり僕はきちんとやる。これは性格の問題だ。それからたぶんプライドの問題だ」
プロ意識を持って仕事に取り組むのは大切なことだと思うが、そのモチベーションをどこまで維持できるかが問題になる。適当にやることと、きちんとやることの境界は明確ではないし、評価する側に問題がないわけではない。一般的なことを言えば、仕事の成果で評価されることは稀だと思う。評価されたいならボスの言うことに敏感に反応して気に入ってもらうことが大切だろう。ニホンザルの群れと同じだ。

【土の中の彼女の小さな犬】
八年間を一緒に過ごしたとても仲の良かった犬が死んでしまい深い悲しみに沈んでいた彼女は、写真とかドッグフードとかハンカチ、それから預金通帳と一緒に木箱に入れて庭に埋めたのだという。ところが十七の時に、いちばん仲の良い友だちがお金に困っているのを聞いて、その預金通帳を掘り起こした。その時に怯えもせず、怖くもなく、つらくも悲しくもなく何の感情もなかった自分に驚くという話。
犬を飼い始めたのが八つの時だということだから死んでから一年で掘り返したということになる。その犬の死は一時的には悲しみをもたらしたが、実際には「ちょっとした転換期」、
「無口な少女が外に向けて目を開いていく時期」の訪れと同期していた。あんなに仲の良かった犬のことを一年ですっかり忘れてしまえるような冷たい人間なのだと、そんなふうなことを考えたかもしれない。あるいは本当に何の感情もなく自己批判さえなかったかもしれない。あるいは仲の良かった誰かが死んでしまった場合も同じようなことになるのかもしれない。その時には死を悼むのだろう。だが日常生活を積み重ねている間に悲しみは忘れ去られてしまう。

【シドニーのグリーン・ストリート】
あり余るほどの金を持った男が南半球でいちばんしけた通りで私立探偵事務所を開いているというところで「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」に出てきた情景を思い出した。「エリオット・ローズウォーターは、財閥の跡取りとして使い尽くせないほどの財産と地位を手に入れた。彼はそれを貧しい人々に分かち与えることにした。彼は貧者の町に住んで張り紙を出す。
『ローヴウォーター財団、なにかお力になれることは?』」
ただ情景が似ているというだけで内容は全然違うのだが、そのような記憶の連鎖が私の頭の中にあるようだ。この短編では羊男や羊博士が出て来る。ここでは羊男は「僕」や「鼠」の影ということではなくて、ただの羊男のようだ。原因も理由もなく純粋に羊男として存在している。戦争に行きたくないというのではなくて単に「みっともない格好して楽しそうに暮らしている」のが羊男なのだ。「鼠」とか「戦争に行きたくない」という属性がないという意味で純粋であり、自立した羊男なのだ。そして「願望憎悪」を抱いていた羊博士も羊男になることができて幸せそうだということだ。
めでたし。めでたし。

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著者の長編小説は「1Q84」と「多崎つくる」は単行本で他は文庫本を持っている。
(ブログに引用した部分のページ番号は上記に準じている。)
「ノルウェイの森」は単行本も持っている。「羊をめぐる冒険」も単行本を買ったと思うが手元にない。「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」は文庫本を3回くらい買った記憶があるが手元には1冊ずつしかない。短編集は「神の子どもたちはみな踊る」と「東京奇譚集」の文庫本が手元にある。「カンガルー日和」「螢・納屋を焼く・その他の短編」「回転木馬のデッド・ヒート」「TVピープル」を持っていたと思うのだが見あたらない。
図書館で「中国行きのスロウ・ボート」を探したが見つからなかった。代わりに「村上春樹全作品1979~1989③短篇集Ⅰ」を借りてきて読んだ。この全集に収められた作品はオリジナルバージョンではなく改訂されているらしい。どこが変更されているか私にはわからない。
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

2015-09-19 00:05:38 | 村上春樹
読書家でもなく音楽に詳しくもない主人公が登場する。本は「知覚の扉」、音楽は「巡礼の年」以外では「ラウンド・ミッドナイト」くらいしか引用されていない。そして自分を切り捨てた人たちにわざわざ会いに行く。そういうところが今までの作品とは違っている感じがする。

従来よく用いられていた二つの物語が交錯する展開ではなく、一つの小説に二つの物語が含まれている感じがする。
アカ・アオ・シロ・クロ・つくるで構成していたグループの物語と
緑川・灰田・シロという音楽(あるいは悪霊)に関わる人たちの物語

5ページ
多崎つくるがそれほど強く死に引き寄せられるようになったきっかけははっきりしている。彼はそれまで長く親密に交際していた四人の友人たちからある日、我々はみんなもうお前とは顔を合わせたくないし、口をききたくもないと告げられた。きっぱりと、妥協の余地なく唐突に。そしてそのような厳しい通告を受けなくてはならない理由は、何ひとつ説明してもらえなかった。彼もあえて尋ねなかった。

8ページ
また多崎つくる一人を別にして、他の四人はささやかな偶然の共通点を持っていた。名前に色が含まれていたことだ。二人の男子の性は赤松と青海で、二人の女子の性は白根と黒埜だった。多崎だけが色とは無縁だ。そのことでつくるは最初から微妙な疎外感を感じることになった。

35ページ
「こんな風になって残念だ」とアオは言った。
「それは全員の意見なのか?」
「ああ。みんな残念に思っている」
「なあ、いったい何があったんだ?」とつくるは尋ねた。
「自分に聞いてみろよ」とアオは言った。哀しみと怒りの震えが僅かにそこに聴き取れた。しかしそれも一瞬のことだった。つくるが言うべきことを思いつく前に電話は切れた。

40ページ
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」。
沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を殺すのと同じだから」

「記憶」と「歴史」はどう違うのだろうか? 時系列に連なっている「記憶」を「歴史」と呼んでいるのだろうか? 「歴史を消すこと」が「あなたという存在を殺す」のと「同じ」というのであれば、そう解釈しても良さそうだ。論理的に筋道の通ったことが時系列に並べられた記憶が私の歴史であり、私という個の生存期間より長く、不特定多数に共有される記録が私たちの歴史であり、民族の歴史であり、世界の歴史ということになるのかもしれない。もちろん「私たちの」と言った時点で「歴史」は捏造される。作り変えることができないのは「私」の場合に限る。そして「記憶」にしても決して消すことはできない。それはふとしたときに「歴史」に介在してくる。そして「歴史」が要求する因果関係にそぐわない場合には「未決」となる。

62ページ
「フランツ・リストの『ル・マル・デュ・ペイ』です。『巡礼の年』という曲集の第一年、スイスの巻に入っています」
「『ル・マル・デュ・・・』?」
「Le Mal du Pays フランス語です。一般的にはホームシックとかメランコリーといった意味で使われますが、もっと詳しく言えば、『田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ』。正確に翻訳するのはむずかしい言葉です」

66ページ
「『コックはウェイターを憎み、どちらもが客を憎む』」と灰田は言った。「アーノルド・ウェスカーの『調理場』という戯曲に出てくる言葉です。自由を奪われた人間は必ず誰かを憎むようになります。そう思いませんか? 僕はそういう生き方をしたくない」

68ページ
「様々な宗教において預言者は多くの場合、深い恍惚の中で絶対者からのメッセージを受け取る」
「そのとおりです」
「そしてそのメッセージは預言者個人の枠を超えて、広く普遍的に機能することになる」
「そのとおりです」
「そこには背反性もなければ、二義性もない」
灰田は黙って肯いた。
「僕にはよくわからないんだ。だとすれば人間の自由意思というのは、いったいどれほどの価値を持つのだろう?」
「素晴らしい質問です」と灰田は言った。そして静かに微笑んだ。それは猫が日向で眠りながら浮かべる微笑みだった。
「僕はまだその質問には答えられません」

「自由意思なんてない」と書くと、そのこと自体があなたの意見ではないか、「意思」がないのであれば主張もはないはずだ、ということになってしまいそうだが、もちろん、そういうことを書いているわけではない。もともと「意思」や「思考」といったものは、徐々に発達してきた「身体」の働きの一部であって、様々な種類の制限に晒されている身体を克服したり超越したりするものではない。「有限の肉体」を蔑むために「無限の精神」が賞賛されるべきではない。記憶(情報)を組織化していっそう複雑な総体へと進行して行く「思考」の働きを私たちは理解できずにいる。「自我」は組織化された情報を一元管理するために必要とされる仮想的なものであって「実体」があるわけではない。「意思」は行動(行為)を制御するために必要とされる仮想的なものであって「実体」があるわけではない。そのような形而上学的幻想を実体あるものとして扱ってしまうと「自我」とは何ぞや「意思」とは何ぞやという不毛な問いを抱えてしまうことになる。(あるいは「思考」とは何ぞやと問いかける「思考」そのものはもっと不毛と言えるかもしれない。)
宗教においては「自由意思」や「精神」を神からの賜物と考える傾向があるので益々混乱する。神は自分に似せて人を作ったのであって、人は意思を持たない動物よりもすぐれているのだということだ。その尊い自由意志でもって、自らを神に捧げる(自由でなくなる)選択をすることことが最も尊い自己犠牲であるとかなんとか、いやまったく何がなんだかわからない。

78ページ
それから緑川は、『ラウンド・ミッドナイト』をためらいがちに弾き始めた。

84ページ
「モーツァルトやシューベルトは若死にしたが、その音楽は永遠に生きている。君の言いたいのはそういうことか」
「たとえばそういうことです」
「そこまでの才能はあくまで例外的なものだ。そして多くの場合、彼らは生命を削り、早すぎる死を受容することによって、その天才の代価を支払うことになる。それは命を懸けた取り引きのようなものだ。取り引きの相手が神なのか悪魔なのか、そこまではわからんが」、緑川はため息をついてしばし沈黙し、付け加えるように言った。「それとは別の話になるが、実を言うと俺は死期を迎えている。おおよそあと一か月の命しかない」

89ページ
緑川は言った。「死を引き受けることに合意した時点で、君は普通ではない資質を手に入れることになる。特別な能力と言ってもいい。人々の発するそれぞれの色を読みとれるのは、そんな能力のひとつの機能に過ぎない。その大本(おおもと)にあるのは、君が君の知覚そのものを拡大できるということだ。君はオルダス・ハクスレーがいうところの『知覚の扉』を押し開くことになる。そして君の知覚は混じりけのない純粋なものになる。霧が晴れたみたく、すべてがクリアになる。そして君は普通では見られない情景を俯瞰することになる」

それはたとえば画家が見ているような情景を俯瞰するということらしい。私たちの知覚は制限を受けているということなので、そのリミッターを外すということらしい。そのようなものを見たならそこで満足することができて「もっと見たい」とは思わなくなるのだろうか?
「ねじまき鳥クロニクル」で井戸の中の間宮中尉に訪れた恩寵というのも、そういうものの一種かもしれない。生命が誕生してまもない頃には、生き物が周囲の環境(餌、敵など)を把握する手段は発達していなかった。原始的な生命体は直接触れるものしか認知することができなかっただろう。そういう状況の中で視覚を備えるというのは革新的なことであったに違いない。いちはやく敵から逃れ、獲物を捕らえるために、その能力は発達してきたのだと考えられている。聴覚や嗅覚も物理的に離れた状況を把握するために発達してきたのだと考えられている。そのような知覚を私たちは文化と呼ばれるものに適用し、生存競争以外の目的にも適用してきた。音楽を聴いていて呼び起こされる感覚や感情というのは遺伝子が生存に役立てるために用意した機能ではないだろう。色や図形や模様やら視覚の認知するものも生存に役立つというだけのものではないだろう。生存競争が発端となって発達したものであったとしても、見るとか聴くということは、そのことに限定されるものではないということらしい。図形を認識するというのは知覚(視力)だけの働きではないので、人間(現存在)だけがその能力を拡張しているということかもしれない。そうすると薬物がそのリミッターを外すというよりは、存在一般を捉えようとする知性や感性がそうしているのではないかと思う。「普通ではない資質」「特別な能力」「純粋な知覚」というのは超自然的な解釈と呼べるかもしれない。
モーツァルトやシューベルトの残した音楽というのは、彼らが知覚したものを無理やり音に閉じ込めたものであるかもしれない。楽譜にできないような、楽器で鳴らせないような、そんな生々しい知覚を彼らは捉えていたのかもしれない。そういうものに触れることができたなら、それは恩寵であり、「普通では見られない情景を俯瞰する」ということかもしれない。ここの部分では、緑川や灰田やシロのような普通ではない人たちが、普通では見られないものを見ることができるのではないかと、そういうことを示唆しているのではないかと思う。彼らは「死を引き受け」「悪魔と取り引き」したのかもしれない。
304ページでエリがユズにとり憑いていた悪霊について語っている。
そこにつながっているのではないかと思う。

102ページ
「でもそれからもう十六年以上が経っているのよ。あなたは今では三十代後半の大人になっている。そのときのダメージがどれほどきついものだったにせよ、そろそろ乗り越えてもいい時期に来ているんじゃないかしら?」

112ページ
父親が若い頃に九州の山中の温泉で出会った、緑川というジャズ・ピアニストについての不思議な話を灰田が語った夜、奇妙なことがいくつか起こった。
116ページ
彼女たちは生まれたままの姿でベッドの中にいた。そして彼の両脇にぴたりと寄り添っていた。シロとクロ。
彼女たちは十六歳か十七歳だった。
129ページ
そしてつくるが最後に射精する相手は常にシロだった。クロと激しく交わっているときでも、最後の段階が近づき、ふと気がついたときにはパートナーが入れ替わっていた。そして彼はシロの体内に精液を放出していた。そのような決まったかたちの夢を見るようになったのは、大学二年生の夏に彼がグループから放逐され、彼女たちと会う機会が失われてしまってからだった。つまり、つくるがその四人のことをなんとか忘れてしまおうと心を固めてからだった。それ以前にそのようなパターンの夢を見た記憶はない。なぜそんなことが起こるのか、もちろんつくるにはわからない。それもまた彼の意識のキャビネットの「未決」の抽斗に深くしまい込まれている問題のひとつだ。

グループを放逐された後にシロの体内に射精する夢を見るようになったのだから、時系列的には夢の中でさえも、つくるは無実ということになる。だがシロには、つくるにそのような傾向があることが見えていたのではないかと思う。そして、つくるだけが「レイプ魔」ということではなくて、多かれ少なかれ誰にでもそのような傾向があるのではないかと思う。そのような持ってはいけない願望をフロイトの超自我であるとか世間の常識が封じ込めているのだが、夢の中ではその監視機能が弱まり「裏の顔」が奔放に活動を始める。夢というのは部分的には眠りであり部分的には覚醒であり、全体としては調和も取れてなければ論理的でもない。それは全体的に覚醒している意識の容認するところではなく「未決」の抽斗に入れるしかない。

162ページ
アオはひとしきり考えを巡らせていた。それから言った。「おまえの方に思い当たる節がまったくないというのは、どう言えばいいんだろう、それはつまり、おまえはシロと性的な関係を持たなかったということなのか?」
つくるの唇はとりとめのない形をつくった。「性的な関係? まさか」
「シロはおまえにレイプされたと言った」とアオは言いにくそうに言った。「無理やりに性的な関係を持たされたと」
つくるは何かを言おうとしたが、言葉は出てこなかった。いま水を飲んだばかりなのに、喉の奥が痛いほど乾いていた

174ページ
「シロは音楽大学を卒業したあと、しばらく自宅でピアノの先生をしていたんだが、やがて家を出て浜松市内に移り、一人暮らしを始めた。それから二年ほどして、マンションの部屋で絞殺されているのが見つかった。

194ページ
「シロはおそらく心を病んでいた」、アカはデスクの上から金のライターを手に取り、それをいじりながら慎重に言葉を選んで言った。
「一時的なものなのか、傾向的なものなのか、それはわからない。しかし少なくとも当時、あいつはちょっとおかしくなっていた。シロにはたしかに優れた音楽の才能があった。美しい音楽を巧みに演奏することができた。おれたちから見れば、それだけでもたいしたものだ。しかしそれは残念ながら、彼女自身が必要としているレベルの才能ではなかった。小さな世界ではやっていけても、広い世界に出ていくだけの力は具わっていなかった。どんなに熱心に練習しても、自分が設定した水準まで到達できなかった。知ってのとおり、シロは真面目で内向的な性格だ。音楽大学に入ってから、そうういうプレッシャーがますます強くなっていった。そして少しずつ妙なところが出てきた」

「海辺のカフカ」の大島さんによれば音楽には私たちを変えてしまう力があるのだという。
そして、つくるがシロの演奏をすばらしいと思って聴くことがあったとしても、もっとすばらしい才能が世の中には溢れていて、その世界で生き延びていくために凌ぎを削っている。「スプートニクの恋人」には現役のピアニストは二十人いればよいと書いてあった。そのような才能どうしの競争は、資本主義社会の企業間の競争よりもはるかにシビアなものに違いない。そういうわけで、ギレリスに「私とリヒテルが4本の腕でかかってもかなわない」と言わしめたラザール・ベルマンの演奏でしか、「巡礼の年」であるとか「ル・マル・デュ・ペイ」が聴けないというようなことを言ってはいけない。耳が良くなければ上達しないだろうし、耳が良ければ至らぬ技量にうんざりしてしまうだろうし、他者と競争するまでに心が折れてしまうかもしれない。プレッシャーに潰されて頭がおかしくなってしまうかもしれない。そういう状況に対して「おれたち」凡人は口出しできない。

201ページ
「・・・大事なのは、シロはそのとき既に、生命力がもたらす自然な輝きを失っていたということだ。あの子は性格的には内気だったが、その中心には、本人の意思とは関係なく活発に動く何かがあった。その光と熱があちこちの隙間から勝手に外に洩れ出ていた。言ってることはわかるだろう? でもおれが最後に会ったとき、そういうものは既に消えてなくなっていた。・・・」

217ページ
「そしてあなたにはふたつの顔があると彼女は言った」
「『表の顔からは想像もできない暗い裏の顔がある』と彼女は言った」

244ページ
それでも人々は時としてささやかな記念品を残していく。灰田が残していったのは、この『巡礼の年』の箱入りのレコードだ。彼はおそらく意図してそれをつくるの部屋に置いていったのだろう。決して単純に忘れておいったわけではない。そしてつくるはその音楽を愛した。その音楽は灰田に繋がっていたし、シロにも繋がっていた。それはいわば、散り散りになった三人の人間をひとつに結びつける血脈だった。儚いほど細い血脈だが、そこにはまだ赤い生きた血が流れている。音楽の力がそれを可能にしているのだ。彼はその音楽を聴くたびに、とりわけ『ル・マル・デュ・ペイ』のトラックに耳を傾けるたびに、二人のことを鮮やかに思い出すことになる。時には彼らが今も自分のすぐそばにいて、密やかに呼吸しているようにも感じられる。

285ページ
「ひとつだけお願いがあるの」とクロは言った。「私のことをもうクロって呼ばないで。呼ぶならエリって呼んでほしいの。柚木のこともシロって呼ばないで。できれば私たちはもうそういう呼び方をされたくないから」
「そういう呼び名はもう終わってしまったんだね?」
彼女は肯いた。

289ページ
つくるは続けた。「どう言えばいいんだろう、まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分だった」
そう言ってからつくるは、それが先日アカが口にした表現であることに思い当たった。

291ページ
「じゃあ、どうして・・・」
「どうして私が君のために立ち上がって弁護しなかったか。どうしてユズの言い分を信じてグループから追放したか。そういうこと?」
つくるは肯いた。
「それは私が、ユズのことを護らなくてはならなかったからよ」とエリは言った。「そしてそのためには、どうしても君を切らなくてはならなかった。一方で君を護りながら、もう一方でユズを護ることは現実的に不可能だった。私としてはどちらかを百パーセント受け入れ、どちらかを百パーセント捨てるしかなかったの」

292ページ
エリはもう一度首を振った。「相手が誰だかはわからはない。でもユズが自分の意思に反して、おそらく力尽くで、誰かと性的な関係を持たされたことは確かだよ。だって妊娠していたから。そしてあの子は自分をレイプしたのは君だと主張した。とてもはっきりと、相手は多崎つくるだと。そのときの状況を気が滅入るくらい詳細にリアルに描写してくれた。だから私たちとしては彼女の言いぶんをそのまま受け入れないわけにはいかなかった。たとえ君がそんなことをするわけないと、心の奥ではわかっていてもね」

299ページ
「ユズはもう白雪姫ではなくなっていた。あるいは白雪姫であり続けることにもう疲れていたのかもしれない。そして私も、七人のこびとであることにいささか疲れてしまっていた」

304ページ
「あの子には悪霊がとりついていた」、エリは密やかな声で打ち明けるように言った。「そいつはつかず離れずユズの背後にいて、その首筋に冷たい息を吐きかけながら、じわじわとあの子を追い詰めていった。そう考える以外にいろんなことの説明がつかないんだ。君のことにしても、拒食症のことにしても、浜松でのことにしてもね。私としてはそんなことは言葉にしたくなかった。いったん口にしたら、それが実在するものになってしまいそうだったから。だからこれまでずっと私ひとりの胸のうちにしまい込んできた。このまま死ぬまで黙っているつもりだった。でも今ここで思い切って言葉にしてしまうよ。この先、私たちが会うことはもうないかもしれないからね。君はたぶんそのことをしっかり知っておかなくてはならない。それは悪霊だった。あるいは悪霊に近い何かだった。そしてユズにはとうとうそいつを振り払うことができなかった」

「カラマーゾフの兄弟」でイワンが「悪魔」と対話するシーンがあったと思う。彼自身は「悪魔」の実在を認めていないのだが、彼はその実在しない相手と話している。「それが実在するものになってしまいそうだったから」というところで、そのことを思い出した。もちろん、悪魔とか悪霊を生み出しているのは人間であり、あるいは人間そのものが悪魔か悪霊か悪霊に近い何かなのだろう。そして彼らは感受性の強い人間にとり憑く、あるいは感受性の強い人間が彼らの養分となり、彼らを養っている。生まれつき悪霊と縁のない人間にとっては振り払う必要すらないだろう。そして悪霊にとり憑かれた人間は、スタヴローギンとかキリーロフのような結末を迎えてしまうのだろう。あるいは彼らはそんなふうな人間に生まれてきたくはなかっただろうし、そんなふうに死にたくもなかっただろう。自分の傾向を選択できないということが既に悪霊にとり憑かれているということかもしれない。そのこともまた時系列的に一元管理されているところの「歴史」なのだろう。悪霊を振り払うことは「あなたという存在を殺す」ことなのだ。そう考えると救いはどこにもない。

307ページ
そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底になるものなのだ。

「『ル・マル・デュ・ペイ』のトラックに耳を傾けるたびに、二人のことを鮮やかに思い出すことになる」というのがそういうことなのだろう。私たちは日常を離れて音楽を聴いている時に「傷と傷による結びつき」を感じているのかもしれない。「理由のない哀しみ」を感じているのかもしれない。

311ページ
「結局のところ私はユズを置き去りにしてきたのよ。私はなんとかして彼女から逃げ出したかった。あの子にとり憑いているものから、それがなんであれ、できるだけ遠く離れたかった。だから陶芸にのめり込み、エドヴァルトと結婚し、フィンランドまでやってきた。もちろんそれは私にとってあくまで自然な成り行きだった。何も意図してそうしたわけじゃないよ。でもね、そうすればもうこれ以上ユズの面倒をみなくても済むんだ、という気持ちもなくはなかった。・・・」

317ページ
そんな夢について考えると、ユズが彼にレイプされたと主張しても(その結果彼の子供を受胎したと主張しても)、それはまったくの作り話だ、自分には思い当たるところはないと断言することはつくるにはできなかった。夢の中での行為にすぎないとしても、自分にも何かしらの責任があるのではないかという気がしてならなかった。いや、レイプの件だけじゃない。彼女が殺されたことだってそうだ。その五月の雨の夜、自分の中の何かが、自分でも気づかないまま浜松まで赴き、そこで彼女の鳥のように細く、美しい首を絞めたのかもしれない。

つくるの「そうであったかもしれない」が読者の中の何かに働きかける時、
この作品の不気味さを理解することになる。

1Q84(BOOK3)

2015-09-13 00:05:17 | 村上春樹
[BOOK3]

124ページ
天吾は思わず顔を赤らめた。彼がこの町にいるのは父親の看護をするためではない。仄かに発する空気さなぎと、そこに眠っている青豆の姿をもう一度目にしたいからだ。

142ページ
暴力的なるものを巡る何らかの因子が、老婦人と青豆をそこで結びつけたのかもしれない。

191ページ
世の中の人間の大半は、自分の頭でものを考えることなんてできない―――それが彼の発見した「貴重な事実」のひとつだった。そしてものを考えない人間に限って他人の話を聞かない。

世の中の人間の大半が「自分の頭でものを考えることなんてできない」というのであれば、「一九八四年」で描かれた管理社会(監視社会)が非難される謂われはないのかもしれない。

218ページ
私が性行為抜きで妊娠したと告げたら、母親はいったいなんと言うだろう? それを信仰に対する重大な冒涜だと考えるかもしれない。

228ページ
「しかしいったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない。よく覚えておいた方がいい」
「誰がそんなことを言ったの?」
「ヴィトゲンシュタイン」

ヴィトゲンシュタインを読むゲイの用心棒はタマル以外には世界にそう何人もいないのではないかと思う。ヴィトゲンシュタインはトルストイの要約福音書を何度も読んでいたということだ。そういえば彼も同性愛者だった。

236ページ
「・・・何日か前にやってきたNHKの集金人のことを、その子が電話で説明してくれた。その男がドアをノックしながら廊下でどんなことを言って、どんなことをしたか。それはお父さんのかつてのやり口に不思議なほどそっくりだった。彼女が聞いたのは、僕が記憶しているのとまったく同じ台詞だ。できることならそんなものはそっくり忘れてしまいたいと思っている言い回しだ。そしてその集金人は実はあなたじゃないかと僕は考えている。僕は間違っているだろうか?」

BOOK3ではNHKの集金人が活躍する。青豆の潜伏先を訪れ、ふかえりが潜んでいる天吾のアパートを訪れ、天吾の周囲を見張る牛河の元を訪れる。天吾の父は隠れている人のところを訪れることが、ことのほか得意なのだろう。彼はそこまで意識を飛ばすことができるらしい。

272ページ
神とリトル・ピープルは対立する存在なのか。それともひとつのものごとの違った側面なのか? 青豆にはわからない。彼女にわかるのは、自分の中にいる小さなものがなんとしても護られなくてはならないということであり、そのためにはどこかで神を信じる必要があるということだ。あるいは自分が神を信じているという事実を認める必要があるということだ。

「自分の中にいる小さなもの」を護るために「神を信じる必要がある」という論理はよくわからない。

320ページ
あの少女は知っている。自分が牛河に密かに見つめられていることを。カメラで隠し撮りされていることも知っている。何故かはしらないがふかえりにはそれがわかるのだ。おそらくは一対の特別な触覚を通して、彼女はその気配を感じ取ることができる。

醜い者は美しい者を本能的に怖れている。
それは彼の遺伝子に染み付いている。

353ページ
「『空気さなぎ』を出版することによって、結果的に我々はその宗教団体にいささか迷惑をかけることになった。そういうことですね?」
「いささかの迷惑ではない」と坊主頭は言った。彼の顔が僅かに歪んだ。「声はもう彼らに向かって語りかけることをやめたのです。それが何を意味するか、あなたにはわかりますか?」
「わかりません」と小松は乾いた声で言った。

読者の多くは小松に同意するのではないかと思う。正気でいるならば「わかりません」と答えるしかない。

366ページ
「なあ、天吾くん。ちょっと思ったんだが、俺たちが目にしているふかえりが実はドウタで、教団の中に残っているのがマザだという仮説は成り立たないだろうか?」
・・・
天吾は言った。「ふかえりにははっきりとしたパーソナリティーがあります。独自の行動規範もある。それは分身にはおそらく持てないものです」

「パーソナリティー」や「行動規範」の有無で「マザ」と「ドウタ」を区別できるということだが、そもそも「パーソナリティー」というのは何なのだろうか? 「行動規範」というのは何なのだろうか? それは習慣(反復される行動)によって強化された記憶素子どうしの特定の結びつき方でしかないのではないだろうか? 分身が本体の記憶や習慣まで引き継いでいるのだとしたら「パーソナリティーや行動規範」も復元できるのではないだろうか? そのような創造的・主体的な機能が人間と他のものを区別しているという人間礼賛的な神秘思想がなくなることはないのだろう。そしてそういう考え方をする人は自分のことをヒューマニズムの守護神のように考えているのだろう。私はそこに留まり続ける人々があまり好きではない。卑怯だからだ。

396ページ
やがて牛河は息を呑んだ。そのまましばらく呼吸することさえ忘れてしまった。雲が切れたとき、そのいつもの月から少し離れたところに、もうひとつの月が浮かんでいることに気づいたからだ。

牛河にも何らかの「資格」があるということが示唆される。

452ページ
「お父さんはよほどそのお仕事が好きだったのね。NHKの受信料を集金して回ることが」
「好きとか嫌いとか、そんな類のものじゃなかったと思う」と天吾は言った。
「じゃあいったいどういうタグイのものだったの?」
「それが父にとって、いちばん上手にできることだったんだ」

ここから得られる教訓は、人は得意なことをすべきということだろう。
それがNHKの受信料の集金であったとしても。

476ページ
ここにいることは私自身の主体的な意思でもあるのだ。彼女はそう確信する。そして私がここにいる理由ははっきりしている。理由はたったひとつしかない。天吾と巡り合い、結びつくこと。それが私がこの世界に存在する理由だ。

「天吾と巡り合い、結びつくこと」というのは、どちらかというと遺伝子の命じていることではないかと思う。

506ページ
「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と牛河は今度はできるだけはっきりとした声で言った。

512ページ
「もう少しわかりやすく事情を話してもらえないかな。なぜあんた方がそこまで彼女を必要とするのか。いったい何が持ち上がって状況がかくも変化したのか」
相手は小さく一度呼吸をした。そして言った。「我々は声を聞き続けなくてはなりません。我々にとっては豊かな井戸のようなものです。それを失うわけにはいきません。ここで申し上げられるのはそれくらいです」

524ページ
彼らは私を必要としているんじゃない」と青豆は言う。「必要としているのは、私のお腹の中にいるものだと思う。彼らはどこかの時点でそれを知ったのよ」
「ほうほう」とはやし役のリトル・ピープルがどこかで声を上げる。

531ページ
リーダーは死に際して、私の胎内にこの小さなものをセットしていった。それが私の推測だ。あるいは直感だ。とすれば結局のところ、私はあの死んだ男の遺していった意思に操られ、彼の設定した目的地に向けて導かれているということになるのか。青豆は顔を歪める。なんとも判断がつかない。私はリーダーの企みの結果<声を聴くもの>を受胎しているのではないかとタマルは推測する。おそらくは「空気さなぎ」として。でもなぜそれがこの私でなくてはならないのだ? そしてなぜその相手が川奈天吾でなくてはならないのだ? それも説明のつかないことのひとつだ。

①ふかえりの「空気さなぎ」はリトル・ピープルの通路となるドウタを産み出した。
②天吾のための「空気さなぎ」では十歳の青豆が眠っていた。
③今度は青豆自身が「空気さなぎ」となり<声を聴くもの>を産み出すということだろうか?
各々の事例について書き出すと次のようになる。
事例 作り手 マザ ドウタ 役割
① リトル・ピープル ふかえり ふかえり リトル・ピープルのための通路
② 天吾? ? 十歳の青豆 青豆への通路?
③ リーダー ? <声を聴くもの> ①と同じ?

<声を聴く>ということが、閉じている無意識への回線を開くということであれば、「リトル・ピープルのための通路」というのは、自らのうちにある無意識、常識とか超自我を問題としない善悪を超えた無意識を目覚めさせるものであるかもしれない。そして「十歳の青豆」が天吾の中に開いたのは、今を生きている青豆への強い関心、つまりは愛ということであるかもしれない。彼の中で長い間、眠っていた感情、表層意識に上ることのなかった思い出が次第に力を増して、通路を開いたということかもしれない。「空気さなぎ」というのは、おそらくは子宮のことなのだろう。青豆自身が「空気さなぎ」となって受胎したのだから。

566ページ
しかし牛河の大きく開かれた口から声は出てこなかった。そこから出てきたのは言葉ではなく、吐息ともなく、六人の小さな人々だった。

牛河は「通路」として活用された。「めくらのヤギ」のような仮の通路なのだろうか?

573ページ
私たちはこの世界をそれぞれに違う言葉で呼んでいたのだ、と青豆は思う。私はそれを「1Q84年」という名で呼び、彼はそれを「猫の町」という名で呼んだ。でも示されているのは同じひとつのものだ。青豆は彼の手をいっそう強く握る。

「そこは彼が失われるべき場所だった。それは彼自身のために用意された、この世ではない場所だった」
「猫の町」についてはそのような説明があったので、「1Q84年」とは違うのではないかと思う。それは「1Q84年」の中でもさらに限定された場所ではないかと思う。

580ページ
「そう。細かい原理はわからないけれど、空気さなぎを通じて、それとも私自身が空気さなぎとしての役割を果たして、私はドウタを生もうとしている。そして彼らは私たち三人をそっくり手に入れようとしている。新たな<声を聴く>システムとして」

593ページ
ひょっとしてここはもうひとつの違う場所ではあるまいか。私たちはひとつの異なった世界からもうひとつ更に異なった、第三の世界に移動しただけではないのか。タイガーが右側ではなく左側の横顔をにこやかにこちらに向けている世界に。そしてそこでは新しい謎と新しいルールが、私たちを待ち受けているのではないのか?

そうすると「1984年」であっても「1Q84年」であっても
あまり違いはないのだろう。

1Q84(BOOK1/2)

2015-09-12 00:05:05 | 村上春樹
「1Q84」は2009年5月にBOOK1/2、2010年4月にBOOK3が発行された。店頭に並んでいた本を即購入したので、5年くらい前に読んだことになる。その時にも感想を書いたが、ちゃんとしたことが書けなかった。まともなことが書ける程の知識がなかったのだろう。この5年の間に、この作品で紹介されている「一九八四年」とか「金枝篇」を含めていろいろな本を読んだ。「シンフォニエッタ」「平均律クラヴィーア曲集」「マタイ受難曲」も含めていろんな音楽を聴いた。平易な文章なので、そういう本を読んだことがなくても、音楽を聴いたことがなくても、読み通すことはできる。それに関連知識があるからといって著者と同じ見解を持つようになるものでもない。実際のところ「金枝篇」については著者と全然違う印象を持っていると思う。それは仕方のないことだろう。本は人々に様々なものを喚起させ、想起させるが、読者の中のどのスイッチがONするのかは本人にもわからない。本の中に本や音楽が引用されると、さらにその複雑さが増して行き、感想はそれぞれに異なることになる。「1Q84」の発行部数は国内だけでも300万部を超えていて海外を含めると相当な数になる。それほど多くの人々がそれぞれに楽しめる「総合エンターテインメント」になっていると言えるかもしれない。あるいは「貧乏な叔母さんの話」に出て来る言葉を使うならば「道化」ということになるだろう。それは仕掛けのたくさん入った本ということであって「必殺仕事人」が好きだという人も、少年と少女の純愛が好きだという人も共に満足を得ることができる。

この作品でも「カラマーゾフの兄弟」が引用されている。トータルで5回目ではないかと思う。
風の歌を聴け154ページ(文庫本)
羊をめぐる冒険[上巻]215ページ(文庫本)
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド[下巻]328ページ(文庫本)
ねじまき鳥クロニクル[第1部 泥棒かささぎ編]69ページ(文庫本)
1Q84[BOOK2]244ページ

投稿しようとしたら「本文は、全角20000文字以内にしてください」という表示が出た。
引用箇所だけでも1万文字を超えている。
仕方がないので分割する。

[BOOK1]

89ページ
天吾は言った。「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する。そうすることで、僕という人間がこの世界に間違いなく存在していることを確かめる。それは数学の世界にいるときとはずいぶん違う作業だ」

97ページ
「リトル・ピープルはほんとうにいる」と彼女は静かな声で言った。
「あなたやわたしとおなじ」
「僕や君と同じように」と天吾は反復した。
「みようとおもえばあななにもみえる」

154ページ
「私たちは間違ったことは何もしていません」と女主人は青豆の顔をまっすぐ見ながら言った。
155ページ
「私たちは正しいことをしたのです」と女主人は言った。

「間違ったことは何もしていません」とか「正しいことをしたのです」というセリフが繰り返されているということは、おそらくは「正しくない」ということなのだろう。その相手がどんなカス野郎であるとしても私刑で殺人を行うのは狂気と言えるだろう。個人から復讐する権利を取り上げるのが法治国家であって、裁きに不満があったとしても従わねばならない。そして不服があったとしても力のない個人はどうすることもできない。加害者に害を為すことはできない。老婦人の財力と、青豆の殺傷能力によって、彼女らは個人として他人を裁いている。そうすると力のある者が他人を裁くという、弱者には納得のいかない論理で彼女らは動いていることになる。そんなものは人道的でもなんでもない、ただの狂気だろう。

180ページ
そして彼女は読字障害を抱えており、本をまともに読むことができない。天吾はディスレクシアについて持っている知識を整理してみた。大学で教職課程をとったときに、その障害についてレクチャーを受けた。ディスレクシアは原理的には読み書きはできる。知能は問題ないとされる。しかし読むのに時間がかかる。短い文章を読むぶんには支障はないが、それが積み重なって長いものになると、情報処理能力が追いつかなくなる。文字とその表意性が頭の中でうまく結びつかないのだ。それが一般的なディスレクシアの症状だ。原因はまだ完全には解明されていない。

222ページ
「しかし言うまでもないことだが、ユートピアなんていうものは、どこの世界にも存在しない。錬金術や永久運動がどこにもないのと同じだよ。人の頭から、自分でものを考える回線を取り外してしまう。ジョージ・オーウェルが小説に書いたのと同じような世界だよ。」

265ページ
「ともあれ『さきがけ』はただの農業コミューンであることをやめて、宗教団体になった。それも恐ろしく閉鎖的な宗教団体になった」
「新宗教。もっと率直な言葉で言えば、カルト団体になったわけだ」

この宗教団体は「オウム真理教」をモデルにしているということだ。教義がインチキであるとか、教祖がニセモノであるとか、そういうことはとりあえず無視することにして、ここでは宗教団体という枠組みの中で、私たちが知ることができない、関与することができない、あるいは公権力すら場合によっては出し抜かれてしまうような、無差別テロの発生すら予測できないような、そんな集団が蠢いていた、ここで再現されているのはそういう事象だろう。「そんなことがあった」のだと、過去のものとして葬り去ることはできないのだと、著者は考えているのではないかと思う。そして私たちは実際のところ、そいつらよりももっと巧妙に身を隠しているカルト団体の活動を停止させることができないのだろう。今も私たちの知らない暴力が閉ざされた扉の中で蠢いている。

270ページ
その少女の目は、天吾に一人の少女のことを思い出させた。彼が小学校の三年生と四年生の二年間、同じクラスにいた女の子だ。彼女もさっきの少女と同じような目をしていた。その目で天吾をじっと見つめていた。そして・・・

275ページ
そしてあるときその少女は天吾の手を握った。よく晴れた十二月初めの午後だった。窓の外には高い空と、白いまっすぐな雲が見えた。

301ページ
あの男に制裁を加えなくてはならない、青豆はそのときにそう心を決めた。何があろうと世の終わりを確実に与えなくてはならない。そうしなければ、あいつは別の誰かを相手にまた同じことを繰り返すに違いない。

親友が自殺に追い込まれたということで加害者を殺害するに至った青豆の心境はいまひとつわからない。他人を支配できるような力を持っていたのに娘を守れなかった老婦人の狂気に協力するかたちで青豆が殺人者になったというのであれば理解できる。それ以前に既に手を染めていたというのであれば弁解の余地はないだろう。たとえその相手がクソ野郎であったとしても。

322ページ
ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』は高校生が演奏するには難曲だった。そして冒頭のファンファーレの部分では、ティンパニが縦横無尽に活躍する。バンドの指導者である音楽教師は、自分が優秀な打楽器奏者を抱えていることを計算に入れてその曲を選んだのだ。ところが先に述べたような理由で、急にその打楽器奏者がいなくなったものだから、頭を抱え込んでしまった。当然のことながら、代役の天吾の果たす役割が重要なものになった。しかし天吾はプレッシャーを感じることもなく、その演奏を心から楽しんだ。

「シンフォニエッタ」を聴いていると、天吾くんのテーマソングという感じがしてくる。
それほどイメージがぴったりしている。

329ページ
人が自由になるというのはいったいどういうことなのだろう、と彼女はよく自問した。たとえひとつの檻からうまく抜け出すことができたとしても、そこもまた別の、もっと大きな檻の中でしかないということなのだろうか?

342ページ
「一人でもいいから、心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。たとえその人と一緒になることができなくても」

344ページ
青豆は言った。「でもね、メニューにせよ男にせよ、ほかの何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ」

「(運命として)最初からあらかじめ決まっている」から自由意志がないというわけではなく、自分がその身を委ねている環境(世界)に対する反応としての行動(行為)があるだけだという意味で自由意志なんてものはないのだろうう。

351ページ
空には月が二つ浮かんでいた。小さな月と、大きな月。それが並んで空に浮かんでいる。大きな方がいつもの見慣れた月だ。満月に近く、黄色い。しかしその隣にもうひとつ、別の月があった。見慣れないかたちの月だ。いくぶんいびつで、色もうっすら苔が生えたみたいに緑がかっている。それが彼女の視野の捉えたものだった。

368ページ
「趣味はなんですか?」
「オンガクをきくこと」
「どんな音楽?」
「バッハがいい」
「とくにお気に入りのものは?」
「BWV846からBWV893」
天吾はしばらく考えてから言った。「『平均律クラヴィーア曲集』。第一巻と第二巻」
・・・
「ほかには?」
「BWV244」
・・・
天吾はしばらく言葉を失っていた。音程はそれほど確かではないが、彼女のドイツ語の発音は明瞭で驚くばかりに正確だった。
「『マタイ受難曲』と天吾は言った。「歌詞を覚えているんだ」
「おぼえていない」とその少女は言った。

「マタイ受難曲」はヘンデルの「メサイア」と並んで、キリスト教を扱った音楽の中では最も有名な曲ではないかと思う。演奏時間が非常に長く、ドイツ語もわからないが、感情移入しやすく、購入後1週間くらいは毎日聴いていた記憶がある。「わがイエスを再び返せ」という感動的なアリアがあるのだが、ここで「返せ」と言っているのはイエスの身内というわけではなく、ユダ(もちろん彼も身内であったわけだが)であるということをインターネットからダウンロードした歌詞の対訳を読んで知った。ユダと言えば「神曲」などでは酷い目に遭っているが、バッハはユダに対して比較的寛容であるということかもしれない。
「マタイ受難曲」が扱っているのは「マタイによる福音書」の一部なので、福音書の内容も把握しておくと良い。福音書は4つ(マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ)あって、バッハが作曲したとされる受難曲も各々数えられているが、マルコ受難曲は消失し、ルカ受難曲はニセモノということで、マタイ受難曲とヨハネ受難曲が伝えられている。マタイ受難曲に比べると多少その評価は下がるのだろうが、ヨハネ受難曲もけっこう好きだ。各々の福音書(エヴァンゲリオン)に書かれている内容は、かなり違っている。マタイでは精霊によりマリアが身重になったという記述があるが、マルコにはそのような言及は一切なく、ルカでは大天使ガブリエルが受胎告知に訪れる。ルカは女性信者を獲得するための福音書ということで、そのような破格の待遇となっているようだ。とりあえずエヴァンゲリオンとは碇シンジや綾波レイが操縦している巨大な人型兵器のことではないということだ。だが福音書はかなりとっつきにくい書物なので(おそらくは成立した時期の価値観に我々がついていけないのだと思う)
聖書の入門書のようなものを読んだ方が良いのだろう。
西洋化が近代化とほとんど同じ意味を持つ世界にあっては「キリスト教」的な価値観はあらゆるところに及んでいて、そのことを避けていると、どこにもたどり着けないのではないかと思う。カントやヘーゲルにしてもキリスト教の観念論に振り回されていたのではないかと思うこともあるし、村上春樹もキリスト教と一定の距離を保っているように見えるが、実はその観念論に影響されているのではないかと考えられる部分がけっこうあると思う。

384ページ
「しかしそこは残酷な世界でした。子供たちの半分以上は、慢性的な疫病や栄養不足で成長する前に命を落としました。ポリオや結核や天然痘や麻疹で人はあっけなく死んでいきました。一般庶民のあいだでは、四十歳を超えた人はそんなに多くはいなかったはずです。女はたくさんの子供を産み、三十代になれば歯も抜け落ちて、おばあさんのようになっていました。人々は生き延びるために、しばしば暴力に頼らなくてはならなかった。子供たちは小さいときから、骨が変形してしまうくらいの重い労働をさせられ、少女売春は日常的なことでした。あるいは少年売春も。多くの人々は感受性や魂の豊かさとは無縁の世界で最低限の暮らしを送っていました。都心の通りは身体の不自由な人々と乞食と犯罪者で満ちていました。感慨をもって月を眺めたり、シェイクスピアの芝居に感心したり、ダウランドの美しい音楽に耳を澄ますことのできるのは、おそらくほんの一部の人だったでしょう」

400年前の人々の感性の方が優れていたのかもしれないが、そんな人は僅かしかいなかったのだと青豆は語る。彼らが生きた時代を「残酷な世界」と私たちは言うのだが、その時代を生きる人々にとっては「普通の世界」であったのではないかと思う。あるいは単に「世界」であったのではないかと思う。病気・暴力・重労働・売春・乞食・犯罪者、そういうものがありふれているというのであれば、誰も気にとめない。

385ページ
「・・・人間というものは結局のところ、遺伝子とってのただの乗り物であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が自分たちにとっていちばん効率的かということだけです」

私たちが遺伝子の「乗り物」であると言い出したのは、リチャード・ドーキンスだったと思う。とても適切な表現だと思う。その次に「通り道」と書かれているが、これはどういうことなのだろうか? めくらのヤギやドウタがリトル・ピープルの「通路」であることと重ねようとして「通り道」と書いているのではないかと思う。「遺伝子は何が善で何が悪かを考えない」というのと同様にリトル・ピープルも善悪のことなど知らないのだろう。遺伝子的な善悪に対する無頓着さをリトル・ピープルは備えているのかもしれない。あるいはリトル・ピープルには遺伝子的なところがあるのかもしれない。

388ページ
「あなたは正しいことをしたのです」と老婦人はゆっくり噛んで含めるように言った。
389ページ
彼女の実の娘もやはり、大塚環と似たような経緯で自らの命を絶った。娘は間違った相手と結婚したのだ。

狂気と正当化、老婦人に敵対するものが同じことを考えていたのなら、どちらが正しいかなんて私たちにはわからない。おそらくは生き残った方が「正しい」ということになる。「勝てば官軍」だ。

404ページ
「しかし彼女の卵子が受胎をすることはありません」と老婦人は言った。「先週、知り合いの医者に検査をしてもらいました。彼女の子宮は破壊されています」

417ページ
「『空気さなぎ』という作品を世に出すことで、エリさんの両親の身に何が起こったのか、真相が暴かれるかもしれない。それが池に意思を放り込むことの意味ですか?」

421ページ
「エリの描くところのリトル・ピープルが何を意味しているのか、私にはわからない。彼女にもリトル・ピープルが何であるかを言葉で説明することはできない。あるいはまた説明するつもりもないみたいだ。しかしいずれにせよ、農業コミューン『さきがけ』が宗教団体に急激に方向転換するにあたって、リトル・ピープルが何らかの役割を果たしたことは、どうやら確からしい」

小松と戎野先生の思惑が交錯するが、結局のところ二人とも出し抜かれることになる。

443ページ
老婦人が言ったように、もし我々が単なる遺伝子の乗り物に過ぎないとしたら、我々のうちの少なからざるものが、どうして奇妙なかたちをとって人生を歩まなくてはならないのだろう。我々がシンプルな人生をシンプルに生きて、余計なことは考えず、生命維持と生殖だねに励んでいれば、DNAを伝達するという彼らの目的はじゅうぶん達成されるのではないか。ややこしく屈折した、ときには異様としか思えない種類の人生を人々が歩むことが、遺伝子にとって何らかのメリットを生むのだろうか。

446ページ
やがて彼女の口がゆっくり開き、そこから、リトル・ピープルが次々に出てくる。彼らはあたりの様子をうかがいながら、用心深く一人、また一人と姿を現す。

459ページ
「そう、今年がちょうど一九八四年だ。未来もいつかは現実になる。そしてそれはすぐに過去になってしまう。ジョージ・オーウェルはその小説の中で、未来を全体主義に支配された暗い社会として描いた。人々はビッグ・ブラザーという独裁者によって厳しく管理されている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き換えられる。主人公は役所に勤めて、たしか言葉を書き換える部署で仕事をしているんだ。新しい歴史が作られると、古い歴史はすべて廃棄される。それにあわせて言葉も作り替えられ、今ある言葉も意味が変更されていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられているために、そのうちに何が真実だか誰にもわからなくなってしまう。誰が敵で誰が見方なのかもわからなくなってくる。そんな話だよ」

「ビッグ・ブラザー」はスターリンをモデルにしているということだ。ただ「一九八四年」はそのような独裁者が支配する暗い社会というのではなく、そんな人物が実在するのかしないのかわからないが全体として人々が監視されているという不気味さを描いているのではないかと思う。ひとりの独裁者を怖れているというのではなく、独裁者がいなくても支配が続くシステムの方が怖ろしい。(あるいは日本では、それを実現する官僚システムが既に構築されているのかもしれない。) もはやテレスクリーンによる監視が実現されることはないのだろうが、私たちの一人ひとりが撮影手段と通報手段を備えることによって偶然あるいは必然として高度監視社会が実現されてしまったのではないかと思う。
「ビッグ・ブラザーはあなたを見ている」

[BOOK2]

91ページ
そして天吾は三十歳になろうとしている今でも、何もすることがなく、ただぼんやりとしているようなときに、自分が知らず知らず、その十歳の少女の姿を思い浮かべていることに気がついて、驚かされた。その少女は放課後の教室で彼の手を堅く握り締め、澄んだ瞳で彼の目をまっすぐのそぎ込んでいた。あるいは体操着にやせた身体を包んでいた。あるいは日曜日の朝、母親の後ろをついて市川の商店街を歩いていた。唇はいつも堅く結ばれ、その目はどこでもない場所を見ていた。

123ページ
「物語としてはとても面白くできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していくのだが、空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かということになると、我々は最後までミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままになる。あるいはそれこそが著者の意図したことなのかもしれないが、そのような姿勢を<作家の怠慢>と受け取る読者は決して少なくはないはずだ。この処女作についてはとりあえずよしとしても、著者がこの先も長く小説家としての活動を続けていくつもりであれば、そのような思わせぶりは姿勢についての真摯な検討を、近い将来迫られることになるかもしれない」と一人の批評家は結んでいた。

批評を回避するために架空の批評を記載しているのではないかと思う。別に「作家の怠慢」というふうには思わない。「空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かという」疑問でBOOK2の終わりまでは興味が持続する。さすがにBOOK3までは続かない。「遺伝子」やら「金枝篇」やら「カラマーゾフの兄弟」を持ち出して、何処にも着地する気はないのだろう、とは思う。物語を物語ることが大切であると著者はしばしば表明しているように思うが、その意図を私は理解できていない。私たちが生きていく中で大切なこと、私たちの心にとって大切なこと、そういうことよりも、その働き自体が不思議でならない。小説を読んでいておもしろいと思うのだが、一方では別の人格が冷徹に分析・総合を進めている。

167ページ
ここは猫の町なんかじゃないんだ、と彼はようやく悟った。そこは彼が失われるべき場所だった。それは彼自身のために用意された、この世ではない場所だった。そして列車が、彼を元の世界に連れ戻すために、その駅に停車することはもう永遠にないのだ。

174ページ
「私に息子はおらない」と父親はあっさりと言った。
「あなたには息子はいない」と天吾は機械的に反復した。
父親は肯いた。
「じゃあ、僕はいったい何なのですか?」と天吾は尋ねた。
「あなたは何ものでもない」と父親は言った。そして簡潔に二度首を振った。

198ページ
「彼女たちはわたしのまわりで巫女の役割を果たしている。私と交わることは、彼女たちの務めのひとつでもある」
「務め?」
「役割として決められていることだ。後継者をみごもるように務めることが」

241ページ
「リトル・ピープルが何ものかを正確に知るものは、おそらくどこにもいない」と男は言った。
「人が知り得るのはただ、彼らがそこに存在しているということだけだ。フレイザーの『金枝篇』を読んだことは?」
「ありません」
「興味深い本だ。それは様々な事実を我々に教えてくれる。歴史のある時期、ずっと古代の頃だが、世界のいくつもの地域において、王は任期が終了すれば殺されるものと決まっていた。任期は十年から十二年くらいのものだ。任期が終了すると人々がやってきて、彼を惨殺した。それが共同体にとって必要とされたし、王も進んでそれを受け入れた。その殺し方は無惨で血なまぐさいものでなくてはならなかった。またそのように殺されることが、王たるものに与えられる大きな名誉だった。どうして王は殺されなくてはならなかったか? その時代にあって王とは、人々の代表として<声を聴くもの>であったからだ。そのような者たちは進んで彼らと我々を結ぶ回路となった。そして一定の期間を経た後に、その<声を聴くもの>を惨殺することが、共同体にとっては欠くことのできない作業だった。地上に生きる人々の意識と、リトル・ピープルの発揮する力とのバランスを、うまく維持するためだ。古代の世界にといては、統治することは、神の声を聴くことと同義だった。しかしもちろんそのようなシステムはいつしか廃止され、王が殺されることもなくなり、王位は世俗的で世襲的なものになった。そのようにして人々は声を聴くことをやめた」

「金枝篇」は膨大な著作であり私たちが手にすることができるのは簡約本ということである。その簡約本にしても岩波文庫だと5冊に及ぶ。絶版だが、永橋卓介訳の中古本を購入することができる。レヴィ=ストロースなどのフィールドワークを重視する人類学者のフレイザーに対する評価はかなり低いようだ。そういう事情は素人にはよくわからないが「悲しき熱帯」よりは「金枝篇」の方がおもしろいのではないかと思う。好みの問題だが。
ここでは「王が進んでそれを受け入れた」ということが書かれているのだが、私はそのような印象は持っていない。<声を聴くもの>という視点がそれほど強調されていたとも思わない。その時に書いた感想を修正しながら、当時どのような印象を受けたか、思い出してみることにする。

[金枝篇(二)より]
「・・・ネミの『森の王』が樹木の精霊あるいは植物生育の精霊であったと考えられる理由、
および、このような者として、彼が樹木に果を結ばせたり農作物を生育させたりする
呪術的な力を賦与されていると礼拝者たちが信じていた理由を見た。
・・・しかし、この人間神の生命に結びつけられた価値そのものが、その生命を不可避の
老衰から救う唯一の手段として、彼の非業の最期を必要としたことをわれわれは見た。
・・・すなわち彼もまた、その身に受肉している神的精神が無瑕のまま継承者に
転移されるために殺されねばならなかった。彼はより強い者が彼を殺すまではその職を
保つことができるという規定は、神的生命を最も活発な状態に保つこと、および、
その活発さが害われはじめるや否や適当な後継者にそれを転移すること、の二つを
証明するものと考えられたであろう」

「殺される神」あるいは「神聖な王の弑殺」についてそのようなことが書かれている。
ここで「神的生命」とされているのは「霊魂」ということらしい。
宗教的な霊魂(あるいは精神)は有限な肉体に対して無限であるとされるが、
未開人が霊魂を無限なものとして捉えていたかについては、よくわからない。
きっと有限とか無限とか、そんなことは考えていなかったのだろう。
「彼の非業の最期を必要とした」理由は「人々の代表として<声を聴くもの>であったから」ではなく、
「その生命を不可避の老衰から救う」ためだった。
「神的精神」だか「神的生命」を「最も活発な状態に保つ」ことが何より重要であり、
それは衰えてから伝承されるものではあり得なかった。

[金枝篇(三)より]
エジプトの農民は収穫時において、「穀物神の身を鎌でもって切断し、
それを打穀場で家畜の爪にかけて粉々に砕いてしまった」・・・

「オシーリスの切断された骸が国のあちこちに撒き散らされた」という神話は
「穀物を播くこと」を伝える方法であったらしいし、
「穀物霊の代表である人間犠牲を殺して、畑を豊饒肥沃にするためその肉を配布し、
あるいはその灰を撒布した慣習」について説明したものらしい。
「生贄」は、神とか自然とか超自然的なものに犠牲を捧げるというよりは、
「畑を豊饒肥沃にするため」のものであったらしい。
「最も活発な状態に保つ」という点で「神聖な王の弑殺」と同じということなのだろう。
「活発な生命力」が次の豊作を保障してくれるはずだと飢えた人々は考えたことだろう。
ここでの犠牲者は、神の代理を務めているということだ。
そうでなければ「効き目」はない。

[金枝篇(四)より]
「これまでのところでは、神を殺す慣習を、農耕の社会段階に達した諸民族の間でたどって見た。
われわれは穀物霊または他の栽培植物の霊が、一般に人間の形か動物の形で表されていることを
見たし、さらにある地方では毎年神の表象である人間を殺す慣習か、神の表象である動物を殺す
慣習のいずれかが、よりよく普及していることを見た。
このように穀物霊をその表象の身柄において殺す理由の一つは、本書の初めの部分に暗々裡に
与えられている。つまりそのねらいは、精霊がなお強健かつ多産なうちに、それを生気溌剌たる
後継者の身柄に転移することによって、彼または彼女を老年の衰弱から護ろうとするものだ、と
想像することができる。彼の神的精力の更新を希求する願望とは別に、穀物霊の死は刈り手の
鎌や小刀のもとでは不可避だと考えられただろうから、その礼拝者たちはおのずとこの悲しき
必然に盲従せざるを得ないものと感じたであろう。しかしさらに、神を表す人間の形につくった
ものにおいてか動物のかたちにつくったものにおいてか、あるいはまた人間もしくは動物に
似せてつくったパンの形においてか、礼典的に神を食べる慣習があまねく行われたことを
われわれは見出している。こうして神の体を食べる理由は、原始的思惟からすれば極めて
簡単である。一般に未開人は、動物または人間の肉を食べることによって、肉体的性質のみならず
その動物なり人間なりの特性となっている道徳的性質および知的性質までも獲得することが
できると信じている。」

「王殺し」にとどまらず「神を食べる」慣習があったということだ。
食べることで「肉体的性質」のみならず「道徳的性質および知的性質までも獲得することができる」と信じられていた。
キリストの血であるブドウ酒と肉であるパンを食べるという聖体拝領は、
キリスト教を普及させるためにが異教から取り入れた慣習のひとつだろう。
仏教もそうだと思うが世界宗教という性質を持つものは多くの信者を獲得するための変更を余儀なくされている。
それが普及したからと言って、真理であるとか普遍的なものであると見做すのは勘違いであって、どちらかというと逆なのだ。

「原始的思惟」が「呪術」という手段を用いるのは、あたり前ということだ。
私たちの思惟の形態を古代に適用して彼らは残酷だったとか未開だったとか言ったところで仕方がない。
政治と宗教が分離できない時代にあっては、王は<声を聴くもの>であったと思うが、民衆にとってはどうでも良いことであって、
彼らは単に自分たちの胃袋を満たしてくれる指導者を求めていただけではないかと思う。
いずれにしても私の中では「金枝篇」と「リトル・ピープル」はつながらない。

244ページ
「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男は言った。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間は悪に転換するかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ。わたしがバランスをとるために死んでいかなくてはならないというのも、その意味合いにおいてだ」

「善と悪とのバランスの維持が重要」「均衡そのものが善」というのは「カラマーゾフの兄弟」の読み方のひとつなのだろうが、初めからそんなふうに上から目線で考えていると、この本はおもしろくないのではないかと思う。
「三次元空間にへばりついて生きるしかない人間に何ができるのか?」
どちらかというとそんなふうに読んでいる。

249ページ
男は言った。「しかし正確に言えば、それはただの偶然ではない。君たち二人の運命が、ただの成り行きによってここで邂逅したわけではない。君たちは入るべくしてこの世界に足を踏み入れたのだ。そして入ってきたからには、好むと好まざるとにかかわらず、君たちはここでそれぞれの役割を与えられることになる」
「この世界に足を踏み入れた?」
「そう、この1Q84年に」
「1Q84年?」と青豆はいった。顔はもう一度大きく歪められた。それは私の作った言葉じゃないか。
「そのとおり。君が作った言葉だ」と男は青豆の心を読んだように言った。

273ページ
「この世界にいる人の多くは、時間性が切り替わったことに気づいていない?」
「そうだ。おおかたの人々にとってここは何の変哲もない、いつもの世界なんだ。『これは本当の世界だ』とわたしがいうのは、
そういう意味合いにおいてだよ」

276ページ
「・・・リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。この場合、わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった。そのようにして均衡が維持された」
「あなたの娘?」
「そうだ。まず最初にリトル・ピープルなるものを導き入れたのがわたしの娘だ。彼女はそのとき十歳だった。今では十七になっている。彼らはあるとき暗闇の中から現れ、娘を通してこちらにやってきた。そしてわたしを代理人とした。娘がパシヴァ=知覚するものであり、わたしがレシヴァ=受け入れるものとなった。わたしたちにはたまたまそういう資質が具わっていたようだ。いずれにせよ、彼らが私たちを見つけた。私たちが彼らを見つけたわけではない」

「娘がパシヴァ=知覚するものであり、わたしがレシヴァ=受け入れるものとなった」ということでリトル・ピープルを受け入れたということだが、その娘が「反リトル・ピープル作用の代理人」となり、「わたし」が「リトル・ピープルなるものの代理人」となり均衡が維持されたというのはどういう理屈なのだろうか? ふかえりが「パシヴァ=知覚するもの」、天吾が「レシヴァ=受け入れるもの」でホンを書いたことは「反リトル・ピープル作用」ということだろうか?
結局のところ、「知覚する」とか「受け入れる」ということがどういうことなのかはよくわからない。そして「リトル・ピープル」と「反リトル・ピープル」の相違というのもよくわからない。「善」と「悪」の区別もないのだから、同じものを別の名前で呼んでいるだけかもしれない。理由も知らずに戦わなければならないということかもしれない。きっと戦争のように避けがたいものであり、私たちの個別の事情など一切考慮してはもらえないのだ。
そして私たちがそのような抜き差しならない状況に落ち込んだとしても遺伝子は知らん振りをしている。空間に長く滞在することを巡って物質どうしが争っている。そのような世界をショウペンハウアーは「意志の世界」と呼んだ。

284ページ
「天吾くんはリトル・ピープルと、彼らの行っている作業についての物語を書いた。絵里子が物語を提供し、天吾くんがそれを有効な文章に転換した。それが二人の共同作業だった。その物語はリトル・ピープルの及ぼすモーメントに対抗する抗体としての役目を果たした。それは本として出版され、ベストセラーになった。そのせいでリトル・ピープルは一時的にせよ、いろんな可能性を潰され、いくつかの行動を制限されることになった。『空気さなぎ』という題名を耳にしたことはあるだろう」

285ページ
「私はつまり、天吾くんの物語を語る能力によって、あなたの言葉を借りるならレシヴァとしての力によって、1Q84年という別の世界に運び込まれたということなのですか?」
「少なくともそれが私の推測するところだ」と男は言った。

レシヴァとしての力には「声を聴く」ということと「物語を語る」ということがあるのだろうか? それとも「声を聴く」ことと「物語を語る」ことは同じなのだろうか?
「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する」と天吾は語っている。そうすると二つの能力は同じことなのかもしれない。

394ページ
それから天吾はその月から少し離れた空の一角に、もう一個の月が浮かんでいることに気づいた。最初のうち、彼はそれを目の錯覚だと思った。あるいは光線が作り出した何かのイリュージョンなのだと。

398ページ
「集まり」の中で暮らす大人たちは、その外にある世界のあり方を嫌っている。自分たちの住んでいる世界は、シホンシュギの海の中に浮かんだ美しい孤島であり、トリデなのだ、と彼らはことあるごとに言う。少女はシホンシュギ(時にはブッシツシュギという言葉が使われる)が何であるかを知らない。ただ人々がその言葉を口にするときに聞き取れるさげすむような響きからすると、それはどうやら自然や正しさに反する、ゆがんだものごとのあり方であるらしい。自分の身体や考え方をきれいに保つために、外の世界とできるだけかかわってはならないと少女は教えられる。そうしないと心がオセンされていくことになる。

「剰余価値は不払い労働から成る」という、なんとかの法則みたいなことが資本論に書いてあり、なるほどと思ったことがある。そして「資本の目的は自己増殖である」という、なんだかあたり前のようなことも書いてあった。資本が一度成立してしまうと、それは人の手を借りて、どんどん自己増殖していくものらしい。そうすると資本には、私たちを乗り物としている遺伝子と、どこか共通点があるように思えてくる。資本も遺伝子も物質もショウペンハウアーふうには「意志」を持って世界に留まろうとするのだが、実際のところ彼らに「意志」なんてものはないし「効率化」みたいなことを考えているわけでもない。彼らに意志はないにしても、彼らの意のままに動いているのは私たちであり、それはなんとアイロニーに満ちていることだろう。資本を蓄積するためには剰余価値を積み重ねていく必要があり、不払い労働を増やして行かなければならない。アップルやディズニーがそうしているように。それが「ゆがんだものごとのあり方」と呼ばれているものなのだろう。遺伝子と同じように資本には善悪の区別なんてないのであって、ゆがんでいると言ったところでどうということはないのだ。生存・生殖と倫理が無関係であるように、売上・利益と倫理も無関係だろう。主義主張を比較してより良いものを採用していけば解決するといった問題ではないのだし、ましてや革命によって成就されるものでもない。革命とは支配者の入れ替えに必要なものであって人民を解放するためのものではない。そもそも人民を解放するということに意味はない。善悪に無関心な遺伝子や資本に対して、弱肉強食を振りかざす遺伝子や資本に対して、私たちは、それもまた生存・生殖から派生したであろう愛や倫理で対抗するしかないのだろう。手詰まりという感じはする。だが他にどうすることもできない。コミューンに閉じこもって心がオセンされないように務めていたとしても、いつか鎖国は解かれるものだ。「自分をきれいに保つ」よりはイカレタ世界を見つめ続けることの方が大事だろう。

411ページ
さなぎの中にいるのが少女自身であることを、少女は発見する。彼女はさなぎの中に裸で横たわっている自分の姿を眺める。そこにいる彼女の分身は仰向けになって目を閉じている。意識はないようだ。呼吸もしていない。まるで人形のように。
「そこにいるのはキミのドウタだ」としゃがれた声のリトル・ピープルが言った。そしてひとつ咳払いをした。後ろを振りかえると、いつの間にか七人のリトル・ピープルが、そこに扇形に並んで立っていた。
「ドウタ」と少女は自動的に言葉を繰り返す。
「そしてキミはマザと呼ばれる」と低音が言った。
「マザとドウタ」と少女は繰り返す。
「ドウタはマザの代理をつとめる」と甲高い声のリトル・ピープルが言う。
「わたしはふたりにわかれる」と少女は尋ねる。
「そうじゃない」とテノールのリトル・ピープルが言う。「キミは何も二つに分かれるわけじゃないぞ。キミは隅から隅までもとのままのキミだ。
心配はいらない。ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない。それがかたちになったものだ」

「ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない」ということだが、二つに分離してしまったのであれば、どちらが光でどちらが影かということも曖昧になる。おそらくはどちらもが自分を光と考え相手を影と考えるのだ。あるいはひとつの身体に光と影が住まう時も、厳密に光と影が区別されるものではないだろう。「思考する主体」としてそれ自体が認識されるような「意識」が光と呼ばれ、決して表層には浮かばない事象が影と呼ばれるならば、その影が通路となってリトル・ピープルが現れるという時のそれは「無意識」とか「エス」と呼ばれているもののことかもしれない。私たちは便宜的に「無意識」という言葉を使ってはいるが、本来その言葉は「混沌」と同じように何も示してはいない。言葉で示せないという点ではそういうものかもしれない。そしてその「言葉で示せない」ものが善であるか悪であるかという問いも意味をなさないことになる。そのような状況にも関わらず「それ」は私たちを規定している。

418ページ
少女があとに残してきたドウタは、おそらくリトル・ピープルのための通路となって、彼らをリーダーである少女の父親へと導き、その男をレシヴァ=受け入れるものに変えてしまった。そして不必要な存在となった「あけぼの」を血なまぐさい自滅へと追い込み、そのあとに残された「さきがけ」をスマートで先鋭的な、そして排他的な宗教団体へと変貌させていった。それがリトル・ピープルにとってもっとも快適で都合の良い環境だったのだろう。

455ページ
天吾は顔を少し歪めた。「つまり君は僕がレシヴァであることを知っていて、あるいはレシヴァの資質を持つことを知っていて、だからこそ僕に『空気さなぎ』の書き直しをまかせた。君が知覚したことを、僕を通して本のかたちにした。そういうことなのか?」
返事はなかった。

496ページ
さなぎの中にはいったい何があるのだろう?
それは彼に何を見せようとしているのだろう?
・・・
自分のために用意された空気さなぎの中に何が入っているか、彼はそれを知りたくはなかった。知らないままで済ませられるものなら、
済ませてしまいたかった。
・・・
しかしそれができないことは、天吾にもわかっていた。もしその中にあるものの姿を目にしないままここを立ち去ってしまったら、俺は一生そのことを後悔するに違いない。その何かから目を背けたことで、おそらくはいつまでも自分自身を赦すことができないだろう。

498ページ
天吾がそこに見出したのは、美しい十歳の少女だった。

アフターダーク

2015-09-05 00:05:45 | 村上春樹
25ページ
「なんで僕らはみんなべつべつの人生を歩むようになるんだろうね? つまりさ、君たちの場合でいえばだけど、同じ両親から生まれて、同じ家で育って、同じ女の子で、それがどうしてそんなにがらっと色あいの違う人格になってしまうんだろう? どこにその、別れ道みたいなものがあるんだろう? 一人は手旗信号サイズのビキニを着て、プールサイドでチャーミングにただ横になっていて、一人はスクール水着みたいなのを着て、水の中をイルカ並みに泳ぎまくっていて・・・」

生まれと育ち、気質と環境、遺伝子と経験というように「私たち」を規定する二種類の要因があり、そうしたものが複雑に組み合わさた結果として「人格」が形成されるのだと、そんなふうに考えられている。どこまで同じであれば、同じ人格が形成されるのか、具体的なことは何もわからない。きっと生年月日と血液型ですべての組合せが網羅できると信じている人も少しはいるのだろう。双子は遺伝子レベルで同一であって第三者が容姿を区別するのはとても困難だ。人格も似ているのではないかと思う。だが当人たちは容姿も人格もまったく異なると考えていたりする。「同じ」とか「違う」といったとしても、どの程度で「同じ」と判断するか人によって「違う」のだ。仮にクローン人間の製造が許可されたとして人格まで同じにすることができるだろうか? その人間がどのような環境で育ったのか記録が残っているわけではないので、彼と相互作用を起こしたであろう、他者の人格であるとか、食事やら芸術やら自然の風景といったものも、その時々の一回限りのことであって、それと同じ現象をことごとく寸分の狂いもなく再現させることなんてできないだろう。そうすると同じ人格は作れないということになりそうだ。
もしも物質をコピーすることができる装置があったなら、脳・神経・血管・内臓・骨・筋肉の組成や構造が瞬時に再現され、ニューロンの数とか配置とかその接続状況も再現され、その結果「私」のコピー(つまりは同じ人格)ができるかもしれない。ここで脳内に記録されたものを私たちは「記憶」と呼び、それを記憶素子(ニューロン)と接続状況(シナプス)が担っていると考えている。しかしそのようにして出来上がった「別の私」が「私」と「同じ」なのか「違う」のかどうやって知ることができるだろう? (そして「別の私」にしても「同じ」かどうか判断がつかないに違いない。) おそらくはコピーした瞬間は「同じ」であったとしても時間の経過と共に異なる事象に遭遇し「私たち」は「違う私たち」へと変化して行く。私たちは常に選択に晒されているのであって、その結果「べつべつの人生を歩む」ことになる。

28ページ
「その話には教訓みたいなものはあるの?」
「教訓はたぶんふたつある。ひとつは」と彼は指を一本立てる。「人はそれぞれに違うということ。たとえ兄弟であってもね。もうひとつは」と二本目の指を立てる。「何かを本当に知りたいと思ったら、人はそれに応じた代価を支払わなくてはならないということ」

「何かを本当に知りたい」と思った時には時間が必要になる。本を一冊読むのに何時間もかかる。一週間くらいかかる場合もある。知っていることであれば理解も早いが、そもそも「知らないこと」を知りたいのだから、時間がかかるのは仕方がない。そしてたいていの場合、時間を手に入れるのは難しい。お客様の要望が時々刻々と変化する市場にあっては一瞬でも手を抜くと他社(他者)に出し抜かれてしまう。そのために経営者は顧客に忠実であらねばならないし、部下は上司に服従しなければならない。高度に発達した資本主義社会にあっては連鎖反応的に他者のために生きることになり、他者のために自らの大切な時間(つまりは命)のほとんどすべてを差し出すことになる。(いつ携帯電話が鳴り出しても不思議はない。) そうまでしてしか生きられない世界から逃れるためには、それなりの代価を支払い、報いを受けなければならない。

32ページ
「・・・でもとにかく、A面の一曲めに『ファイブスポット・アフターダーク』っていう曲が入っていて、これがひしひしといいんだ」

私の人生とジャズとの関係は非常に希薄だが、YouTubeで「ファイブスポット・アフターダーク」を検索して聴いてみた。便利な時代だ。「ひしひしといい」ということで確かにそうなのだが、それ以上は追求しない。きっと「本当に知りたい」と思っていないのだろう。著者のように全方位的に音楽に触れることができればと考えたこともあったが実現できなかった。仕事が忙しいこともあったし、子供たちと遊ぶのが楽しかったということもある。ブログを始めた頃に「子供たちと遊ぶ」時間を代価として支払うようになったが、その時の子供の残念そうな顔は忘れることはできない。著者はあるいは「子供を持たない」という代価を支払っているのだろう。

39ページ
浅井エリの姿を眺めているうちに、その眠りの中には何かしら普通ではないところがあると、次第に感じるようになる。彼女の眠りはそれほど純粋であり、完結的である。顔の筋肉ひとつ、まつげひとつ動かすわけでもない。ほっそりとした白い首は工芸品のような濃密な静謐を守り、小さなあごはかたちのよい岬となって、端正な角度を指している。いくら熟睡するにせよ、人はここまで奥深く眠りの領域に足を踏み入れはしない。ここまで全面的に意識を放棄することはない。

どうしてそのよう眠りにつく必要があるのか、どうして全面的に意識を放棄しなければならないのか、最後の方になって、その解答が与えられたような気もするが、実際のところよくわからない。

75ページ
マスクの真の不気味さは、顔にそれほどぴたりと密着しているにもかかわらず、その奥にいる人間は何を思い、何を感じ、何を企てているのか(あるいはいないのか)、まったく想像がつかないところにある。男の存在が良きものなのか、悪しきものなのか、彼の抱いている思いが正しきものなのか、歪んだものなのか、その仮面が彼を隠すためのものなのか、それとも彼を護るためのものなのか、判断するための手がかりがない。男は精緻な匿名の仮面を顔にかぶせられ、静かに椅子に座り、テレビ・カメラにとらえられ、そこにひとつの状況を作り出している。とりあえず私たちは判断を保留し、その状況をありのまま受け入れるしかなさそうだ。彼を「顔のない男」と呼ぶことにする。

「顔のない男」は「名前のない男」とどう違うのだろう?
匿名性が罪の意識を軽減していて、無名性を帯びた不特定多数の人間を抑圧するという図式が思い浮かぶ。一方で虐げられている無名の人々が匿名を確保した場合には容易に立場が逆転し得る。(ここでは、白川という人物がその代表と考えられる。)
仮面は彼を隠すと共に護っている。しかしいつまでも「顔のない男」でいることはできずやがて「名前のない男」に戻ってしまう。その時に彼を護るものはない。彼は「逃げ切れない」のだ。

88ページ
「『アルファヴィル』って、私のいちばん好きな映画のひとつだから。ジャン・リュック・ゴダールの」

118ページ
男が一人、コンピュータの画面に向かって仕事をしている。ホテル「アルファヴィル」の防犯カメラに映っていた男だ。

131ページ
たぶんあちらが本物のベッドなのだろうと、私たちは推測する。本物のベッドは、しばらく目を離しているあいだに(私たちがこの部屋を離れてから、二時間以上が経過している)、エリごとあちら側に運びさられてしまったのだ。

あちらが本物で、こちらがコピーということを、私たちが判断する材料は実際にはない。

142ページ
「で、いったんそういう風に考えだすとね、いろんなことがそれまでとは違った風に見えてきた。裁判という制度そのものが、僕の目には、ひとつの特殊な、異様な生き物として映るようになった」
「異様な生き物?」
「たとえば、そうだな、タコのようなものだよ。深い海の底に住む巨大なタコ。たくましい生命力を持ち、たくさんの長い足をくねらせて、暗い海の中をどこかに進んでいく。僕は裁判を傍聴しながら、そういう生き物の姿を想像しないわけにはいかなかった。そいつはいろんなかたちをとる。国家というかたちをとるときもあるし、法律というかたちをとるときもある。もっとややこしい、やっかいなかたちをとることもある。切っても切っても、あとから足が生えてくる。そいつを殺すことは誰にもできない。あまりに強いし、あまりにも深いところに住んでいるから。心臓がどこにあるかだってわからない。僕がそのときに感じたのは、深い恐怖だ。それから、どれだけ遠くまで逃げても、そいつから逃れることはできないんだという絶望感みたいなもの。そいつはね、僕が僕であり、君が君であるなんてことはこれっぽっちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくしてしまうんだ。僕らはみんなただの記号になってしまう。ただの番号になってしまう」
145ページ
高橋は続ける。「僕が言いたいのは、たぶんこういうことだ。一人の人間が、たとえどのような人間であれ、巨大なタコのような動物にからめとられ、暗闇の中に吸い込まれていく。どんな理屈をつけたところで、それはやりきれない光景なんだ」

その「異様な生き物」とか「巨大なタコ」というのは「リヴァイアサン」のことかもしれない。ホッブズは「コモンウェルス」を「リヴァイアサン(レヴィアタン)」になぞらえていて、それは単に怪物である「クラーケン(その多くが巨大なタコやイカのような頭足類の姿で描かれる北欧伝承の海の怪物)」とは違って神聖や正義を帯びているのだとウィキペディアに書いてあった。(本当かどうか知らない。ウィキペディアにはガセネタがけっこうある。) どちらかというと「クラーケン」の方がここに出て来る「巨大なタコ」のイメージに似ているのだろう。ホッブズには「怪物」のつもりはなかったとしても現代に生きる私たちは「怪物」のように感じてしまうのだろう。
一般にそれは個々人の「権利」が譲渡・集積された「権力」と見做される。その起源についてはよくわからない。「投票」というのは個々人の「権利」を譲渡する仕組みであり、集積され一元化された「権力」の正当化に役立っている。その「権力」は「あまりに強い」「心臓がどこにあるかだってわからない」ような怪物なのだろう。そして国家や法律というかたちをとった「怪物」が司法制度や官僚制度のようなたくさんの長い足を発展させ、その制度に支配された官吏や警官が「僕」や「君」を捕らえることになる。逃げることはできない。
(売春組織の男が高橋に「逃げ切れない」というのも同じような意味なのだと思う。) 逃げる方は「名前をなくし」捕らえる方は「顔をなくす」。あるいは双方とも名前も顔もなくしてしまうのかもしれない。匿名性は加害者の罪を隠蔽し被害者の存在を隠蔽して「やりきれない光景」を覆い隠す。ナチスの一人ひとりがユダヤ人の一人ひとりを意識していたなら虐殺は起きなかっただろうし、広島市民や長崎市民の一人ひとりの表情を思い浮かべることが出来たなら原爆が投下されることもなかっただろう。それらの残虐行為が一方は「悪」で一方は「正義」と見做されているのは別の意味でおかしなことだろう。ときには「怪物」どうしが争って、敗れた方の「怪物」は「悪魔」ということになる。そして福島では「名前を失ってしまった」人々が「クラーケン」の責め苦にあっている。その「怪物」には心臓もないし心もない。

149ページ
「ハッピーエンド。二人で末永く幸福に健康に暮らすんだ。愛の勝利。昔は大変だったけど、今はサイコー、みたいな感じで。ぴかぴかのジャガーに乗って、スカッシュして、冬にはときどき雪投げをして」

感動する「映画」とはそのようなものではないかと思う。「感動したがっている」人々がどういう映画を望んでいるのかを業界の人々は知り尽くしているのだろう。努力は実を結ばねばならないし、虐げられた個人はいつか解放されなければならない。非業の死を遂げる者があったなら誰かが仇を討ってやらねばならない。もしかすると私は自分では気がついていない隠れた能力を秘めていて修行をすれば「かめはめ波」くらいは打てるようになるかもしれない。あるいは「そちらの国」では王子や皇女ということになっているかもしれない。そうした一人ひとりの願望を満足させるのが「映画」という巨大産業の役割に違いない。「車」や「スマホ」が充足させる即自的な願望とはちょっと違うかもしれないが、
本質は似ているのではないかと思う。

165ページ
その部屋が白川が深夜に仕事をしていたオフィスに似ていることに、私たちは気づく。

167ページ
これは現実なのだ、と彼女は結論を下す。別の種類の現実が、なぜか私の本来の現実に取って代わっているのだ。

「別の種類の現実」と「本来の現実」はどのように違うのだろうか? 個体にとって望ましい現実が「本来の現実」でそうでないのが「別の種類の現実」ということだろうか? そこで各個体の見解や要望が異なるというのであれば「本来の現実」とは多数決とか需要や供給の一致で決まるようなものなのだろうか? 様々な可能性を持ち得る論理空間のただ一つが実現された「現実」なのだろうか? とにかく「現実」というのはよくわからない。

189ページ
「・・・でも浅井エリにはそれができなかった。与えられた役割をこなし、まわりを満足させることが、小さい頃から彼女の仕事みたいになった。君の言葉を借りれば、立派な白雪姫になろうと努めてきたんだ。たしかにみんなにちやほやされただろうけど、それは時にはしんどいことだったと思うよ。人生のいちばん大事な時期に、自分というものをうまく打ち立てることができなかった」

193ページ
「エリは今、眠っているのよ」とマリは打ち明けるように言う。「とても深く」
「みんなもう眠っているよ、今の時間は」
「そうじゃなくて」とマリは言う。「あの人は目を覚まそうとしないの」

204ページ
それからふと思いついて、コートのポケットから中国女の携帯電話を取り出す。まわりを見まわし、誰にも見られていないことを確かめてから、チーズの箱の隣りに並べて置く。銀色の小さな電話は、その場所に不思議なくらい自然に収まる。まるでずっと昔からそこにあったもののようだ。それは白川の手を離れ、セブンイレブンの一部になる。

214ページ
「つまりさ、僕はそのときこう感じたんだよ。お父さんはたとえ何があろうと僕を一人にするべきじゃなかったんだって。ぼくをこの世界で孤児にするべきじゃなかったんだ」

「海辺のカフカ」で母に捨てられた主人公が同じようなこととを言っている。

233ページ
「マリちゃん。私らの立っている地面いうのはね、しっかりしてるように見えて、ちょっと何かがあったら、すとーんと下まで抜けてしまうもんやねん。それでいったん抜けてしもたら、もうおしまい、二度と元には戻れん。あとは、その下の方の薄暗い世界で一人で生きていくしかないねん」

一度、足を踏み外したなら、二度と元には戻れない。だが足を踏み外さないように戦々恐々としているというのもどうかと思う。いずれにしても救いはない。それに元に戻る言ったって、どこに戻るというのだろう?
末永く幸福に暮らしましたということであれば、さっきの映画と変わりはない。
そうしたプチ優越感に浸れるステレオタイプな人生は望んでいないのではなかったのか?
あるいはなくしてみるとそちらの方が良かったということか?

237ページ
「それで、姉は二ヵ月ほど前に『これからしばらくのあいだ眠る』と言いました。夕食のときに、家族の前でそう宣言したんです。そいう言われても、誰も気にしませんでした。まだ七時だったけど、姉はいつも不規則な眠り方をしているし、とりたててびっくりするようなことでもなかったんだす。私たちは『お休み』と言いました。姉は食事にはほとんど手をつけず、自分の部屋に行って、ベッドに入りました。それ以来ずっと眠り続けているんです」

244ページ
「・・・それやったら輪廻を信じてた方がまだしも楽や。どんなひどいもんにこの次生まれ変わるとしても、少なくともその姿を具体的に想像することはできるやんか。たとえば馬になった自分とか、かたつむりになった自分とかね。この次はたぶんあかんとしても、そのまたネクスト・チャンスに賭けることかてできる」
「でも、私にはやはり、死んだらなんにもないという方が自然な気がします」とマリは言う。
「それはね、たぶんマリちゃんが精神的に強いからやないかな」

信じていれば「かたつむり」くらいには生まれ変わることができるのだろうか?
私たちは「百年後の自分の不在」を決して容認することができない。「百年前の不在」であれば容認できる。それは仕方がないのだけど、たとえば一神教のようにありもしないもののために現世を生きる人々が争うのはバカバカしいと思う。執着をなくすことができなければいつまでたっても同じだろう。

250ページ
「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙切れでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」

火が紙を燃料としているように、人間は記憶を燃料にして生きていくのだという。その記憶であるとか、記憶が指している内容がどのようなものかは問わないのだという。きっと思考といったものは参照する方と参照される方の総体を指しているのだろう。火も実際には燃える方と燃やされる方の区別はない。それは反応と呼ばれたり、関係と呼ばれたりする。食べる方と食べられる方の関係が次の瞬間の食べる方を形成し、参照する方と参照される方の関係が次の瞬間の参照する方を形成する。口に合わなかったり、思想がむずかしかったりすると、消化されない場合も生じる。まずい食事であっても栄養であり、役に立たない記憶もまた燃料というわけだ。それが何であったとしても供給されなければ生きてはいけない。

259ページ
浅井エリの部屋。
浅井エリはいつの間にか、こちら側にいる。自分の部屋の自分のベッドに戻って、そこで眠っている。

262ページ
「もしもし」と高橋は言う。
「逃げ切れないよ」と男の声が出し抜けに言う。「逃げ切れない。どこまで逃げてもね、わたしたちはあんたをつかまえる」
267ページ
「逃げ切れない」と高橋は、その三日月を見上げながら声に出してみる。その言葉の謎めいた響きは、ひとつの隠喩として彼の中に留まることになる。逃げ切れない。あんたは忘れるかもしれない、わたしたちは忘れない、と電話をかけてきた男は言う。言葉の意味について考えているうちに、そのメッセージはほかの誰かにではなく、彼個人に直接向けられたものであるように思えてくる。ひょっとして、あれは偶然に起こったことじゃないのかもしれない。携帯電話はあのコンビニの棚の上で静かに身をひそめ、高橋が前を通りかかるのを待ち受けていたのかもしれない。わたしたち、と高橋は思う。わたしたちって、いったい誰のことなんだ? そして彼らはいったい何を忘れないんだろう?

「異様な生き物」について語った高橋に、この言葉が向けられるのは必然であるかもしれない。その言葉は「彼個人に直接向けられたもの」なのだろう。

273ページ
「ねえ、僕らの人生は、明るいか暗いかだけで単純に分けられているわけじゃないんだ。そのあいだには陰影という中間地帯がある。その陰影の段階を認識し、理解するのが、健全な知性だ。そして健全な知性を獲得するには、それなりの時間と労力が必要とされる。君はべつに性格的に暗いわけじゃないと思う」

人生において「明るさ」と「健全な知性」は相反している。

280ページ
「・・・そのとき私は、エリの両腕の中にそっくり自分を預けることができた。私たちは暗闇の中で隙間なくひとつになることができた。心臓の鼓動まで、私たちは分け合うことができた」
286ページ
エリ、帰ってきて、と彼女は姉の耳元で囁く。お願い、と彼女は言う。それから目を閉じ、身体の力を抜く。目を閉じると、柔らかな大波のように、眠りが沖合からやってきて、彼女を包み込む。涙はもうとまっている。

この小説の主人公は「マリ」と「高橋」なのだろうか?
「マリ」が主人公ということであれば、著者の長編小説としては初の女性の主人公ということになる。エレベーターの暗闇の中でエリがマリを守ろうとするシーンは感動的であり、そうした姉妹間の愛情や相互理解といったものが、あるいはこの作品の主題ということかもしれない。それは闇から守られねばならないのだ。

289ページ
「もしもし!」と店員はどなる。
「でもね、逃げられない。どこまで逃げても逃げられない」、暗示的な短い沈黙があり、電話は切れる。

293ページ
今の震えは、来るべき何かのささやかな胎動であるのかもしれない。あるいはささやかな胎動の、そのまたささやかな予兆であるのかもしれない。しかしいずれにせよ、意識の微かな隙間を抜けて、何かがこちら側にしるしを送ろうとしている。そういう確かな印象を受ける。私たちはその予兆が、ほかの企みに妨げられることなく、朝の新しい光の中で時間をかけて膨らんでいくのを、注意深くひそやかに見守ろうとする。夜はようやく明けたばかりだ。次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある。

海辺のカフカ

2015-08-29 00:05:21 | 村上春樹
「海辺のカフカ」に登場する人物の相関関係を洗い出すと次のようになる。

■予言
僕 田村カフカ/カラスと呼ばれる少年
姉 さくら
母 佐伯さん
父 田村浩一/ジョニー・ウォーカー

■父殺し
加害者 田村カフカ/ナカノさん/ホシノちゃん
被害者 田村浩一/ジョニー・ウォーカー/白い物体

■恋人
昔 海辺のカフカ/佐伯さん
今 田村カフカ/佐伯さん

■案内役
大島さん(田村カフカ)
カーネル・サンダース(ホシノちゃん)

■敵対関係
芸術 ジョニー・ウォーカー
論理 カーネル・サンダース

■あの絵の中の人物
海辺のカフカ/ナカノさん

■半分しか影がない人たち(出入りした人たち)
佐伯さん/ナカノさん

■物語の進行
表 田村カフカ/大島さん/佐伯さん
裏 ジョニー・ウォーカー/ナカノさん/ホシノちゃん/カーネル・サンダース

■海辺のカフカ
佐伯さんの恋人/絵/曲

かなり入り組んでいて、正直よくわからない。影やトリックスターが錯綜している感じがする。エディプス・コンプレックスという点でフロイトだがタイトルはカフカとなっている。「世界の仕組みそのものが滅びと喪失の上に成り立っている」ということなので根底には「喪失感」が潜んでいる。「僕」や大島さんの持つ知性が表であるならば、およそ知性とは無縁であるナカノさんとホシノちゃんが裏で活躍する。そこには「知性」という落とし穴を逃れるためのヒントみたいなものがあるのだろうか?
物語の最後の方では「僕」は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」にかなり似た内面の世界を訪れる。「僕」と違って成長著しいホシノちゃんは「無味乾燥ではない世界」を捉える感性を発展させて行く。激烈な人生を送ったベートーヴェンの「大公トリオ」の良さを感じとれるようになったホシノちゃんが、芸術生活に疲れ果てたのではないかと疑われるジョニー・ウォーカーの化身の息の根を止めるというのはなにかしら矛盾しているのではないかと思われるのだが、あまり気にしない方がよいかもしれない。だが、猫の魂で作ったとくべつな笛とは、まさに「大公トリオ」のことであるかもしれない。そうだとすると物語りは循環しているようだ。

[上巻]

65ページ
「名前はなんていうんですか?」と僕はたずねてみる。
「私の名前のこと?」
「そう」
「さくら」と彼女は言う。「君は?」
「田村カフカ」と僕は言う。
「田村カフカ」とさくらは反復する。「変わった名前だね。覚えやすいけど」
僕はうなずく。べつの人間になることは簡単じゃない。でもべつの名前になることは簡単にできる。

79ページ
「昔の世界は男と女ではなく、男男と男女と女女によって成立していた。つまり今の二人ぶんの素材でひとりの人間ができていたんだ。それでみんな満足して、こともなく暮らしていた。ところが神様が刃物を使って全員を半分に割ってしまった。きれいにまっぷたつに。その結果、世の中は男と女だけになり、人々はあるべき残りの半身をもとめて、右往左往しながら人生を送るようになった」

94ページ
「そうです。ナカタと申します。猫さん、あなたは?」
「名前は忘れた」と黒猫は言った。「まったくなかったわけじゃないんだが、途中からそんなもの必要もなくなってしまったもんだから、忘れた」
・・・
「・・・名前があるとなにかと便利なのであります。そうすればたとえば、何月何日の午後に**2丁目の空き地で黒猫のオオツカさんに出会って話をしたという具合に、ナカタのような頭の悪い人間にも、ものごとをわかりやすく整理することができます。そうすれば覚えやすくなります」

どちらかと言うとナカタさんも記憶とは関係が薄く現在にへばりついて生きている。猫はいっそう記憶とは無縁でほとんど現在に生きている。だから名前も要らない。映像とか音についての記憶であれば、名前は要らないかもしれないが、因果関係であれば名前や記号が必要になる。たいていの場合、体験を記憶して生存競争に役立てるためには、時刻と場所と客体を識別するための名称が必要になる。それらに先立って経験を一元的に管理するための主体が必要になる。そういういっさいのものが「猫」には必要ない。この物語では「名前の必要ない場所」がいくつか出て来る。たいていは記憶と無縁ということになる。記憶がなければ不幸になることはないのだろうが、幸福になることもない。そういうことは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に書かれていた。

101ページ
「・・・性欲というのは、まったく困ったものなんだ。でもそのときには、とにかくそのことしか考えられない。あとさきのことなんてなんにも考えられないんだ。それが・・・性欲ってもんだ・・・」

105ページ
「あんたの問題点はだね、オレは思うんだけれど、あんた・・・ちょっと影が薄いんじゃないかな。最初に見たときから思ってたんだけど、地面に落ちている影が普通の人の半分くらいの濃さしかない」

114ページ
今から百年後には、ここにいる人々はおそらくみんな(僕をもふくめて)地上から消えて、塵か灰になってしまっているはずだ。そう考えると不思議な気持ちになる。そこにあるすべてのものごとがはかない幻みたいに見えてくる。風に吹かれて今にも飛び散ってしまいそうに見える。僕は自分の両手を広げてじっと見つめる。僕はいったいなんのためにあくせくとこんなことをしているのだろう? どうしてこんなに必死に生きていかなくてはならないんだろう?

どうせ死んでしまうのに、どうしてあくせくしなければならないのか? 
べつに生きたいと思って生まれてきたわけでもない。死にたくないと思っても永遠の命が与えられるわけでもない。意思とは生物に自動操縦させるための仕掛けのようなものだ。それは用意されたものであってそれについて不満を言っても仕方がないのだし、人生を切り開くために神様から賜った最高の贈り物であると賞賛するようなものでもない。

118ページ
「もちろん君はフランツ・カフカの作品をいくつか読んだことはあるんだろうね?」
僕はうなずく。「『城』と『審判』と『変身』と、それから不思議な処刑機械の出てくる話」
「『流刑地にて』」と大島さんは言う。「僕の好きな話だ。世界にはたくさんの作家がいるけれど、カフカ以外の誰にもあんな話はかけない」

140ページ
意識が戻ったとき、僕は深い茂みの中にいる。湿った地面の上に丸太のように横になっている。あたりは深い闇に包まれていて、なにも見えない。

146ページ
やれやれ、君はいったいどこでこんなたくさんの血をつけてきたんだ? 君はいったいなにをしたんだ? でも君はなにひとつ覚えちゃいない。君自身の身体には傷らしきものは見あたらない。左肩のうずきをべつにすれば、痛みらしい痛みもない。だからそこについている血は君自身の血じゃない。それは誰かべつの人間の流した血だ。

208ページ
でもしばらくしてふと気がつくと、一人の男の子が何かを手に持って、私の方に歩いてくるのが見えました。中田という男の子でした。そうです。その事件後意識を回復しないまま、長いあいだ病院に入っていた子どもです。その子が手に持っているのは、血に染まった私の手拭いでした。
・・・
気がついたとき私はその子を、中田君を、叩いていました。肩のあたりをつかんで、何度も何度も平手で頬を張ってました。
213ページ
能力のある子どもは、能力があるが故に、まわりの大人の手によって、達成するべき目標をどんどん絶え間なく積み上げられていくことがあります。そうすると、目の前の現実的な課題の処理に追われるあまり、当然そこにあるべき子どもとしての新鮮な感動や達成感が
徐々に失われていくことが多いのです。
214ページ
もうひとつ、私はそこに暴力の影を認めないわけにはいきませんでした。彼のちょっとした表情や動作に、瞬間的な怯えのしるしを感じとることが再三ありました。それは長期間にわたって加えられてきた暴力に対する、反射的な反応のようなものです。
・・・
しかし中田君のお父さんは大学の先生でした。お母さんも、いただいた手紙を拝見する限り、高い教養を備えた方のようでした。つまり都会のエリートの家庭です。もしそこに暴力があったとしたら、それはおそらく田舎の子どもたちが家の中で日常的に受ける暴力とは異なった、もっと複雑な要素を持つ、そしてもっと内向した暴力であったはずです。子どもが自分一人の心に抱え込まなくてはならない種類の暴力です。ですから私がそのとき山の中で、無意識的ではあるにせよ、彼に対して暴力を振るわなくてはならなかったのは、まことに残念なことでしたし、それについて私は深く悔やんでおります。それは私がもっともやってはならないことだったのです。彼は集団疎開によって半ば強制的に親元から離され、新しい環境に入れられ、それをひとつの機会として私に対して少しずつ心を開こうと準備していたところだったのですから。

私の奥底に潜み、時々その姿を見せる怯えは、かつて家庭という名の監獄で繰り広げられた暴力の痕跡なのだろう。経済的に自立していない子供には逃げ場所がなく、成人してからも育ててもらった負い目が彼の逃げ場所を奪う。しかしそんな暴力に屈してはいけないのだし、そんな連中の相手をまともにしていても仕方がないのだろう。その子のためだとか、競争に生き残るためとかなんとか言って、彼らが自分たちの独善的な生き方を子供に押し付けようとするのは、自分たちの存在を世の中に承認させようとする欲求のひとつのあり方なのだろう。だから世襲の芸とか職業とか、親から子に一流の才能が引き継がれるというのであれば、みんながハッピーになれるのだろうが、カフカの小説の主人公のように疑問を持ってしまうと様相が異なってくる。それはある種の人間にとっては避けようのないことだ。

220ページ
「ここに来てからどんなものを読んだの?」
「今は『虞美人草』、その前は『坑夫』です」

231ページ
「フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタを完璧に演奏することは、世界でいちばんむずかしい作業のひとつだからさ。とくにこのニ長調のソナタはそうだ。とびっきりの難物なんだ」
235ページ
「シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、シューベルトの音楽はそういう意味においてはロマンティシズムの精華なんだ」

18番から21番までののシューベルトのピアノ・ソナタを愛好している。
旧約聖書と呼ばれる平均律クラヴィーア曲集や新約聖書と呼ばれるベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタよりも好きだ。ものすごく演奏時間が長いのだが、ブルックナーやマーラーの交響曲と同様に、長いと感じることはない。ここで「ニ長調のソナタ」というのは番号で言えば17番にあたる。18番以降の作品に比べると「不完全」ということになる。そこに愛着を感じる著者の嗜好もどうかと思うが、この作曲家の特徴を的確に捉えているということかもしれない。フランツ・シューベルトが「ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽」というのであればフランツ・カフカもまた「ものごとのありかたに挑んで敗れるための小説」ということかもしれない。そういう滅びのあり方が、この小説の根底にあるのではないかと思う。

264ページ
「ウィスキーを嗜む人なら一目見てわかるんだが、まあよろしい。私の名前はジョニー・ウォーカーだ。ジョニー・ウォーカー。世間のだいたいの人は私のことを知っている。自慢するんじゃないが全地球的に有名なんだ。イコン的な有名さと言ってもいい。とはいえ、私は本物のジョニー・ウォーカーではない。英国の酒造会社とは何の関係もない。とりあえずラベルにあるその格好と名前を無断で拝借して使っているだけだ。格好と名前というのはなんといっても必要だからね」

295ページ
「いいかい、私がこうして猫たちを殺すのは、ただの楽しみのためではない。楽しみだけのためにたくさんの猫を殺すほど、私は心を病んではいない。というか、私はそれほど暇人ではない。こうやって猫を集めて殺すのだってけっこう手間がかかるわけだからね。私が猫を殺すのは、その魂を集めるためだ。その集めた猫の魂を使ってとくべつな笛を作るんだ。そしてその笛を吹いて、もっと大きな魂を集める。そのもっと大きな魂を集めて、もっと大きい笛を作る。最後にはおそらく宇宙的に大きな笛ができあがるはずだ」

すぐれた芸術とは「集めた猫の魂を使ってとくべつな笛を作る」ということなのかもしれない。どうしてそうなのかはよくわからない。

298ページ
「時間があまりない。単刀直入に言ってしまおう。私が君にやってもらいたいのは、私を殺すことだ。私の命を奪うことだ」

301ページ
「というわけでつまり、君はこう考えなくちゃならない。これは戦争なんだとね。それで君は兵隊さんなんだ。今ここで君は決断を下さなくてはならない。私が猫たちを殺すか、それとも君が私を殺すか、そのどちらかだ。君は今ここで、その選択を迫られている。もちろんそれは君の目から見れば実に理不尽な選択だろう。しかし考えてもみてごらん、この世の中のたいていの選択は理不尽なものじゃないか」

確かに、たいていの選択は理不尽であり、カフカであれば不条理と呼んだかもしれない。ひっそりと心静かに暮らしたいと願っても、そっとしておいてはくれない。世界にたった一人の例外もない。互いの存在目的を掲げてエゴとエゴが衝突し合う世界というのは、結局のところ万人にとって理不尽な世界になってしまう。そもそも個人の衝突を回避するためのシステムがいちばん理不尽なものであるかもしれない。世界がその結びつきを強固にすれば個人にとってはますます理不尽になって行く。戦争がなくなっても、戦争のようなものはなくならない。

314ページ
ジョニー・ウォーカーはくすくすと笑った。「人が人でなくなる」と彼は繰り返した。「君が君でなくなる。それだよ、ナカタさん。素敵だ。なんといっても、それが大事なことなんだ。『ああ、おれの心のなかを、さそりが一杯はいずりまわる!』、これもまたマクベスの台詞だな」

331ページ
「僕がいつか図書館で君に話したことを覚えているかな? 人はみんな自分の片割れを求めてさまよっているという話を」
「男男と女女と男女の話」
「そう。アリストパネスの話。僕らの大部分は自分の残り半分を必死に模索しながら、つたなく人生を送ることになる。しかし佐伯さんと彼にはそんな模索をする必要もなかった。二人は生まれながらにして、まさにその相手をみつけていたんだ」

335ページ
「曲のタイトルななんていうんですか?」
「『海辺のカフカ』」と大島さんは言った。
「『海辺のカフカ』?」
「そうだよ、田村カフカくん。君と同じ名前だ。奇しき因縁というところだね」

341ページ
「図書館がどうしてそんなに大事だったんだろう」
「ひとつには、そこに彼が住んでいたからだよ。彼は、佐伯さんの亡くなってしまった恋人は、今の甲村図書館がある建物で、
つまりかつての甲村家の書庫の中で生活していたんだ」

345ページ
「ナカタは寝ていたのでしょうか?」と彼は猫たちに尋ねた。2匹の猫は何かを訴えるように、口々に鳴いた。しかしナカタさんはその言葉を聞き取ることができなかった。

364ページ
部屋の中には装飾的なものはなにもないが、壁に一枚だけ小さな油絵がかかっている。海辺にいる少年の写実的な絵だった。悪くない絵だ。名のある画家が描いたのかもしれない。少年はたぶん12歳くらい。白い日よけ帽をかぶり、小振りなデッキチェアに座っている。手すりに肘をつき、頬杖をついている。いくぶん憂鬱そうな、いくぶん得意そうな表情を顔に浮かべている。黒いドイツ・シェパードが少年を護るような格好でそのとなりに腰をおろしている。背景には海が見える。何人かの人々も描きこまれているが、とても小さくて顔までは見えない。沖には小さな島が見える。海の上には握り拳のようなかたちをした雲がいくつか浮かんでいる。夏の風景だ。僕は机の前の椅子に座って、しばらくその絵を眺める。見ていると、実際に波の音が聞こえ、潮の匂いがかぎとれそうな気がしてくる。

380ページ
ただ、僕はこんな格好はしていても、レズビアンじゃない。性的嗜好でいえば、僕は男が好きです。つまり女性でありながら、ゲイです。

385ページ
「・・・結局のところ、佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのも、そういった連中なんだ。想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。・・・」

想像力が欠けているというのであれば、思想の表面的な部分が伝播していって世界がますます混乱してしまうというのは、当然のことであるように思える。いちばん薄っぺらなところがいちばん伝わりやすいのだろう。そして結局のところ私たちという複合体は、想像力や責任を欠いたところで、もっともその正体を曝け出してしまうのだろう。そうすると大島さんはいったい誰を非難して何を怖れているのだろうか?
そういった連中とは誰のことなのか? 
自分ではない誰かのことなのか?
人間そのものか?

393ページ
「わかりません。でもそこに行けばわかります。とりあえず、トーメイ高速道路を西に向かいます。それからあとのことは、またあとで考えようと思います。とにかくナカタは西に向かわなくてはならないのです」

424ページ
「君のお父さんが殺された翌日、その現場のすぐ近くに、イワシとアジが2000匹空から降ってきた。これはきっと偶然の一致なんだろうね」
「たぶん」
「そして新聞には、東名高速道路の富士川サービスエリアで、同じ日の深夜に大量のヒルが空から降ってきたという記事が載っていた。狭い場所に局地的にふったんだ。そのおかげでいくつか軽い衝突事故が起こった。かなり大きなヒルだったらしい。どうしてヒルの大群が空から雨みたいにばらばらと降ってきたのか、誰にも説明できない。風もほとんどない、晴れた夜だった。それについても心当たりはない?」

427ページ
「僕はどんなに手を尽くしてもその運命から逃れることはっできない、と父は言った。その予言は時限装置みたいに僕の遺伝子の中に埋めこまれていて、なにをしようとそれを変更することはできないんだって。僕は父を殺し、母と姉と交わる」

429ページ
大島さんは言う。「君のお父さんの作品を作品をこれまで何度か実際に見たことがある。才能のある優れた彫刻家だった。オリジナルで、挑戦的で、おもねるところがなく、力強い。彼の造っているものはまちがいなく本物だった」
「そうかもしれない。でもね、大島さん、そういうものをひっぱりだしてきたあとの残りかすを、毒のようなものを、父はまわりにまきちらし、ぶっつけなくちゃならなかったんだ。父は自分のまわりにいる人間をすべて汚して、損なっていた。父が求めてそうしていたのかどうか、僕は知らない。ただそうしないわけにはいかなかったということなのかもしれない。もともとそういうふうにつくられていたということなのかもしれない。
でもどっちにしても父はそういう意味では、とくべつななにかと結びついていたんじゃないかと思うんだ。僕の言いたいことはわかる?」
「わかると思う」と大島さんは言う。「そのなにかはおそらく、善とか悪とかという峻別を超えたものだったんだろう。力の源泉と言えばいいのかもしれない」

芸術がなければ「無味乾燥な人生を送る」であろう私たちは、毒をまきちらされたり猫が殺されたりしても芸術を欲するのだろう。それは「善とか悪とかという峻別を超えたもの」なのだ。ワーグナーのパトロンが芸術にハマッて財政が傾いて当時生きていた人々は迷惑しただろうが、その時代が過ぎ去ってしまえば偉大な芸術作品として人類共通の財産となる。そういう作品に接することで私たちは自分自身を向上させることができるのだろうか?
おそらくは作品の生い立ちと作品そのものは別なのだろう。人格の優れた人物が偉大な作品を生み出すというわけではないのだろう。

432ページ
「とにかくそれが君がはるばる四国まで逃げてきた理由なんだね。お父さんの呪いから逃れることが」と大島さんは言う。

472ページ
そしてもうひとつ大事な事実―――僕はその<幽霊>に心をひかれている。僕は今そこにいる佐伯さんにではなく、今そこにはいない15歳の佐伯さんに心をひかれている。

476ページ
「・・・怪奇なる世界というのは、つまりは我々自身の心の闇のことだ。19世紀にフロイトやユングが出てきて、僕らの深層意識に分析の光をあてる以前には、そのふたつの闇の相関性は人々にとっていちいち考えるまでもない自明の事実であり、メタファーですらなかった。いや、もっとさかのぼれば、それは相関性ですらなかった。エジソンが電灯を発明するまでは、世界の大部分は文字通り深い漆黒の闇に包まれていた。そしてその外なる物理的な闇と、内なる魂の闇は境界線なくひとつに混じり合い、まさに直結していたんだ―――こんな具合に」
大島さんは両方の手のひらをぴたりとひいとつにあわせる。「紫式部の生きていた時代にあっては、生き霊というのは怪奇現象であると同時に、すぐそこにあるごく自然な心の状態だった。そのふたつの種類の闇をべつべつに分けて考えることは、当時の人々にはたぶん不可能だったろうね。しかし僕らの今いる世界はそうではなくなってしまった。外の世界の闇はほとんどそのまま残っている。僕らが自我や意識と名づけているものは、氷山と同じように、その大部分を闇の領域に沈めている。そのような乖離が、ある場合には僕らの中に深い矛盾と混乱を生みだすことになる」

「心の闇」という表現は、すべてが自我や意識に管理されるべきとか、認識されるべきといった傲慢さから派生しているのではないかと思う。自我そのものは幻想にすぎないのだから、無意識の欲求を承認できないとか、そんなことで苦しむ必要もないのではないかと思う。奔放の限りを尽くす夢にしたって自分を知るための手がかりにすれば良いのではないかと思う。脳の活動を心であるとか精神であるとか自我、意識に限定してしまうことがすでに誤りではないかと思う。精神とは身体という大きな自分の中の部分に過ぎないと確かニーチェがそんなことを書いていた。人間以外の脳の働きなんてものは、すべてが無意識であるかもしれない。内臓を含む身体の制御を脳が司るとして、そんなことをいちいち意識に報告する必要なんてないのだ。誰が逐一、呼吸や消化の状況を知りたがるだろう。そのような伝える必要のない身体の制御状況、無意識、意識といったことの総称が脳の活動ということになる。意識以外の領域を「闇」と呼ぶ必要さえないのではないかと思う。

480ページ
『海辺のカフカ』

あなたが世界の縁にいるとき
私は死んだ火口にいて
ドアのかげに立っているのは
文字をなくした言葉。

眠るとかげを月が照らし
空から小さな魚が降り
窓の外には心をかためた
兵士たちがいる

(リフレイン)
海辺の椅子にカフカは座り
世界を動かす振り子を想う。
心の輪が閉じるとき
とこにも行けないスフィンクスの
影がナイフとなって
あなたの夢を貫く。

溺れた少女の指は
入り口の石を探し求める。
青い衣の裾をあげて
海辺のカフカを見る。

484ページ
佐伯さんは『海辺のカフカ』の歌詞をこの部屋の中で書いたのだろう。レコードを何度も聴いているうちに、僕はだんだんそう確信するようになる。そして海辺のカフカとは、壁にかかった油絵の中に描かれている少年のことなのだ。

『海辺のカフカ』とは、佐伯さんの恋人であり、佐伯さんの書いた曲のタイトルであり、この部屋にある油絵であり、そして田村カフカのことでもある。

[下巻]

45ページ
「あなたを見ていると、ずっと昔に15歳だった男の子のことを思いだすわ」
「その人は僕に似ている?」
「あなたのほうが背は高いし、体つきもがっしりしている。でも似ているかもしれない。
彼は同年代の子どもたちとは話があわなくて、いつもひとりで部屋にこもって、本を読んだり音楽を聴いたりしていた。
むずかしい話をするときには、あなたと同じように眉のあいだにしわが寄った。あなたもよく本を読むということだけれど」

67ページ
「ホシノちゃん」とその老人は呼んだ。よくとおるきんきんとした声だった。少し訛がある。
星野青年は呆然としてその男の顔を見ていた。「あんたは―――」
「そうだ。サンダース大佐だ」
「そっくりだ」と青年は感心して言った。
「そっくりではない。わしがカーネル・サンダースだ」

89ページ
「ねえ田村くん、悪いとは思うんだけど、そのことについてはイエスともノオとも言えない。少なくとも今は。私は疲れているし、風も強いし」

96ページ
「『純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ』」
青年は顔をあげ、口を半分あけて、女の顔を見た。「それ、何?」
「アンリ・ベルグソン」と彼女は亀頭に唇をつけ、精液の残りを舐めてとりながら言った。

知覚を語ろうとしても記憶しか参照できないので「知覚が記憶である」ことになってしまうのではないかと思う。文章にする時には、すでに「現在」は失われてしまうのだ。

98ページ
「『<私>は関連の内容であるのと同時に、関連することそのものでもある』」
「ふうん」
「ヘーゲルは<自己意識>というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。それが自己意識」
「ぜんぜんわからないな」
「それはつまり、今私があなたにやっていることだよ、ホシノちゃん。私にとっては私が自己で、ホシノちゃんが客体なんだ。ホシノちゃんにとってはもちろん逆だね。ホシノちゃんが自己で、私が客体。私たちはこうしてお互いに、自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。行為的に。簡単に言えば」
「まだよくわからないけど、なんか励まされるような気がする」
「それがポイントだよ」と女は言った。

考えている時に意識は自分のことを考えたりはしないが、意識が自分は考えていると思ったときには自己を意識している。「対自」というのは、そのことをうまく表現しているのではないかと思う。「自己と客体を交換」しているのかどうかわからない。

111ページ
彼女は頬杖をつくのをやめ、僕のほうに顔を向ける。それが佐伯さんであることに僕は気づく。僕は息を呑んだまま、吐きだすことができない。そこにいるのは、現在の佐伯さんなのだ。べつの言いかたをするなら、それは現実の佐伯さんなのだ。

121ページ
「・・・私の役目は世界と世界とのあいだの相関関係の管理だ。ものごとの順番をきちんと揃えることだ。原因のあとに結果が来るようにする。意味と意味が混じり合わないようにする。現在の前に過去が来るようにする。現在のあとに未来が来るようにする。・・・」
「私は人じゃない。何度言えばわかるんだ」

「原因のあとに結果が来るようにする。意味と意味が混じり合わないようにする。現在の前に過去が来るようにする」というのはとても人間的なことであるように思える。人間が介在しないのであれば、そんなことは誰も気にしないだろう。だからカーネル・サンダース本人が「人じゃない」と言ったとしても「人である」としか解釈できない。

127ページ
「いいか、ホシノちゃん。すべての物体は移動の途中にあるんだ。地球も時間も概念も、愛も生命も信念も、正義も悪も、すべてのものごとは液状的で過渡的なものだ。ひとつの場所にひとつのフォルムで永遠に留まるものはない。宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便なんだ」

138ページ
「その仮説の中では、私はあなたのお母さんなのね」

143ページ
彼女は首を振る。「べつに死のうとしているわけじゃないのよ。ほんとうのところ。私はここで、死ややってくるのをただ待っているだけ。
駅のベンチに座って列車を待っているみたいに」

145ページ
「あなたはあの二つのコードをどこでみつけたんですか?」
「二つのコード?」
「『海辺のカフカ』のブリッジのコード」
彼女は僕の顔を見る。「あのコードは好き?」
僕はうなずく。
「私はあの二つのコードを、とても遠くにある古い部屋の中で見つけたの。そのときにはその部屋のドアは開いていたの」と彼女は静かに言う。
「とてもとても遠くにある部屋」

153ページ
「ねえ知ってる? ずっと前に私はこれとまったく同じことをしていたわ。まったく同じ場所で」
「知ってるよ」と君は言う。

168ページ
「ナカタは頭が悪いばかりではありません。ナカタは空っぽなのです。それが今の今よくわかりました。ナカタは本が一冊もない図書館のようなものです。昔はそうではありませんでした。ナカタの中にも本がありました。ずっと思い出せずにいたのですが、今思い出しました。はい。ナカタはかつてはみんなと同じ普通の人間だったのです。しかしあるとき何かが起こって、その結果ナカタは空っぽの入れ物みたいになってしまったのです」
「でもさ、ナカタさん。そんなこと言い出したら、俺たちはみんな多かれ少なかれ空っぽなんじゃないのかい。メシ食って、クソして、ろくでもない仕事をして安い給料をもらって、ときどおきオマンコするだけじゃないか。それ以外に何があるんだい。・・・」

172ページ
「でもさ、どうしてナカタさんがその石を扱わなくちゃならないんだろう? どうしてそれはナカタさんじゃなくちゃいけないんだろう?」、星野青年は雷鳴が一段落したときに尋ねた。
「ナカタは出入りをした人間だからです」
「出入りをした?」
「はい。ナカタは一度ここから出ていって、また戻ってきたのです。日本が大きな戦争をしておりました頃のことです。そのときに何かの拍子で蓋があいて、ナカタはここから出ていきました。そしてまた何かの拍子に、ここに戻ってきました。そのせいでナカタは普通のナカタではなくなってしまいました。影も半分しかなくなってしまいました。そのかわり、今はうまくできませんが、猫さんと話をすることもできました。おそらくは空からものを降らせることもできました」

174ページ
「ジョニー・ウォーカーさんはナカタの中に入ってきました。ナカタが望んだことではないことをナカタにさせました。ジョニー・ウォーカーさんはナカタを利用したのです。でもナカタはそれに逆らうことができませんでした。ナカタには逆らえるだけの力がありませんでした。なぜならばナカタには中身というものがないからです」

192ページ
「誰も助けてはくれない。少なくともこれまでは誰も助けてはくれなかった。だから自分の力でやっていくしかなかった。そのためには強くなることが必要です。はぐれたカラスと同じです。だから僕は自分にカフカという名前をつけた。カフカというのはチェコ語でカラスのことです」

「カフカというのはチェコ語でカラスのこと」なのだと言う。そうするとべつに不条理だとか理不尽ということではないかもしれない。

199ページ
僕が誰なのか、それは佐伯さん」にもきっとわかっているはずだ、と君は言う。僕は『海辺のカフカ』です。あなたの恋人であり、あなたの息子です。カラスと呼ばれる少年です。そして僕らは二人とも自由にはなれない。僕らは大きな渦の中にいる。ときには時間の外側にいる。僕らはどこかで雷に打たれたんです。音もなく姿も見えない雷に。

209ページ
たとえば俺はこれまで中日ドラゴンズを熱心に応援してきた」。でも俺にとって中日ドラゴンズというのはいったい何なんだ? 中日ドラゴンズが読売ジャイアンツに勝つことで、俺という人間が少しでも向上するのだろうか? するわけないよな、と青年は思った。じゃあなんでそんなものを、まるで自分の分身みたいに今まで一生懸命応援してきたんだろう?

212ページ
ある日お釈迦様が彼に言った。「よう、茗荷、お前頭わるいから、経典もう覚えなくていい。そのかわりずっと玄関の土間に座ってみんなの靴を磨いてな」とか。茗荷は素直だったので、「ふざけんじゃねえや、お釈迦。てめえのケツでもなめてろ」とは言わなかった。それから10年も20年も言われたとおりみんなの靴をせっせと磨き続けた。そしてある日ぽんと悟りを開き、お釈迦様の弟子たちの中でももっともすぐれた人物の一人になった―――というような話だったと星野青年は記憶していた。

216ページ
「ピエール・フルニエは私のもっとも敬愛する音楽家の一人です。上品なワインと同じです。香りがあり、実体があり、血を温め、心臓を静かに励ましてくます。・・・」

フルニエの無伴奏チェロ組曲をよく聴く。

226ページ
君もその老人も、中野区野方からまっすぐ高松に向かっている。偶然の一致にしてはできすぎている。当然、そこにはなにかがあると警察は考える。たとえば君たちが共謀して今回の事件を仕組んだんじゃないかとね。

233ページ
大島さんは長いあいだ黙っている。それから口を開く。「そのとおりだ」と彼は認める。「君の言うとおりだ。僕はそう考えている」
「僕が佐伯さんに死をもたらそうとしている、ということだね」

234ページ
「いろんなことは君のせいじゃない。僕のせいでもない。予言のせいでもないし、呪いのせいでもない。DNAのせいでもないし、不条理のせいでもない。構造主義のせいでもないし、第三次産業革命のせいでもない。僕らがみんな滅び、失われていくのは、世界の仕組みそのものが滅びと喪失の上に成り立っているからだ。僕らの存在はその原理の影絵のようなものに過ぎない。風は吹く。荒れ狂う強い風があり、心地よいそよ風がある。でもすべての風はいつか失われて消えていく。風は物体ではない。それは空気の移動の総称にすぎない。君は耳を澄ます。君はそのメタファーを理解する。

仏教では「無自性―空―縁起」ということだろう。
もともと生き物は永遠にその形を留めるようには作られてはいない。
そしてその世代交代は微生物によって支えられている。
死んだ個体が分解されないとしたら子孫の身体を作るための材料は提供されない。
そのような物質が循環する仕組みというのも世界の成り立ちであるかもしれない。
とりあえず元素を構成している陽子の崩壊はないと私たちは考えている。
核融合や核分裂が起こる条件下でなければ元素も安定しているのではないかと考えている。
だが世界を捉えようとする生き物はそれ自体が不安定なのだ。
一瞬のあいだだけその形を留める生き物は「影絵」のようなものに過ぎない。
そのことに不平を言ったところで不死が与えられるわけではない。
キリスト教やイスラム教であれば気前よく不死がもらえるかもしれない。

281ページ
1週間前だったら、俺はこんな音楽を聴いても、たぶんただの一切れも理解できなかっただろう、と青年は思った。理解しようという気持ちにだってなれなかっただろう、と青年は思った。理解しようという気持ちにだってなれなかっただろう。しかしふとした巡り合わせでたまたまあの小さな喫茶店に入って、座り心地のいいソファに座ってうまいコーヒーを飲み、おかげでこの音楽を自然に受け入れることができるようになった。

295ページ
「申しわけありませんんが、石さんは無口なのです」
「そうか、石は無口ときたね―――見かけからしてだいたいの想像はつくよ」と星野青年は言った。「石さんはきっと無口で、水泳がことのほか苦手なんだろう。まあいい。今更なにも考えるまい。ぐっすり眠って、明日になったらまた続きをやろう」

311ページ
君はもういろんなものに好き勝手に振りまわされたくない。混乱させられたくない。君はすでに父なるものを殺した。すでに母なるものを犯した。そしてこうして姉なるものの中に入っている。もしそこに呪いがあるのなら、それを進んで引き受けようと思う。そこにある一連のプログラムをさっさと終えてしまいたいと思う。一刻も早くその重荷を背中からおろして、そのあとは誰かの思惑の中に巻きこまれた誰かとしてではなく、まったくの君自身として生きていく。それが君の望んでいることだ。

330ページ
「じゃあひとつ訊きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う? つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にある何かが、がらっと大きく変わっちまう、みたいな」
大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります。たまにしかありませんが、たまにはあります。恋と同じです」
星野さんにはそんな大がかりな恋をした経験はなかったが、とりあえずうなずいた。「そういうのはきっと大事なことなんだろうね?」と彼は言った。「つまりこの俺たちの人生において」
「はい。僕はそう考えています」と大島さんは答えた。「そういうものがまったくないとしたら、僕らの人生はおそらく無味乾燥なものです。ベルリオーズは言っています。もしあなたが『ハムレット』を読まないまま人生を終えてしまうなら、あなたは炭坑の奥で一生を送ったようなものだって」

「一段階上にあがっている」とか「ひとまわり広がっている」かはわからないが、「それまでとは違う」というのは確かなことだろう。音楽が「人間を向上させる」ものであるかは私にはわからない。知らない作曲家の知らない曲の魅力がわかるようになって何かしら変わったのだと思う。そしていろいろな作曲家のいろいろな魅力がわかるということは何もわからないよりは良いことなのだろう。きっと人生においては大事なことなのだろう。だが実態としては「大公トリオ」を知らない人の方が知っている人よりもずっと多いだろう。そして知らない人は趣味というのは相対的なものであって、知らないことで非難される謂われはないと主張することだろう。あるいはクラシックなんて聴いている暇はないのだと主張することだろう。それぞれに忙しい人生というのは相対化した趣味が世俗化していくという道をたどる。そんなふうにして音楽も小説も映画も最大公約数化されて行く。誰かを「一段階上にひきあげる」音楽があるとすればリスナーの都合など考慮しない一方的圧倒的な音楽だろう。ベートーヴェンというのはそういう作曲家だろう。相対的ではなく一方的なのだ。

353ページ
「もし思い違いでなければ、たぶん私は、あなたがいらっしゃるのを待っていたのだと思います」と彼女は言った。

355ページ
「むずかしい問題です。思い出のことは、ナカタにはまだよくわかりません。ナカタには現在のことしかよくわからないのです」
「私はどうやらその逆のようです」と佐伯さんは言った。

360ページ
「・・・だから私はそのような侵入や流出を防ぐために入り口の石を開きました。どうやってそんなことができたのか、今となってはよく思い出せません。でも彼を失わないために、外なるものに私たちの世界を損なわせないために、何があろうと石を開かなくてはならないと私は心を決めたのです。それが何を意味するのか、そのときの私には理解できていませんでした。そして言うまでもなく、私は報いを受けました」

363ページ
「ナカタさん」
「なんでありましょう?」
「ずいぶん昔からあなたを知っているような気がするんです」と佐伯さんは行った。「あなたはあの絵の中にいませんでしたか? 海辺の背景にいる人として。白いズボンをたくしあげて、足を海につけている人として」

上巻364ページに「何人かの人々も描きこまれているが、とても小さくて顔までは見えない」と書かれている。

373ページ
どうして彼女は僕を愛してくれなかったのだろう。
僕には母に愛されるだけの資格がなかったのだろうか?

383ページ
「あのままでいれば、どうせ兵隊として外地につれていかれたんだ」とがっしりしたほうが言う。「そして人を殺したり、人に殺されたりしなくちゃならなかった。俺たちはそんなところに行きたくはなかった。俺はもともと百姓で、この人は大学を出たばかりだった。どっちにしても人なんて殺したくなかったし、殺されるのはもっと嫌だった。あたりまえの話だけどな」

理不尽な選択の続きかもしれないが、ここのところは「羊男」の台詞に似ている。

385ページ
「今はこの入り口はたまたま開いている」と背の高いほうが僕に説明する。

395ページ
「俺は思うんだけど、その中でもいちばん不思議なのは、なんといってもおじさん自身だ。そう、ナカタさんだよ。なぜおじさんが不思議かってえとだね、おじさんは俺という人間を変えちまったからだ。・・・」

417ページ
電気はどこからやって来るんですか?
二人は顔を見あわせる。
「小さな風力発電所だけど、森の奥のほうで電気をつくっている。そこでは風はいつも吹いている」と背の高いほうが説明する。
425ページ
台所ではひとりの少女が食事をつくっている。背中を向けて鍋の上にかがみこみ、スプーンで味見をしていたが、僕がドアを開けると顔を上げ、こちらを振りむく。甲村図書館で毎夜僕の部屋を訪れ、壁の絵を見つめていた少女だ。そう、15歳のときの佐伯さんだ。
428ページ
「君の名前は?」と僕はべつの質問をする。
彼女は小さく首を振る。「名前はないの。私たちはここでは名前をもたないの」

このあたりの記述は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に似ている。記憶がないので名前もない。あるいはその逆かもしれない。記憶がなければ不幸になることもないのかもしれないが結局のところ私たちは記憶のない世界で生きることはできない。それは理不尽で不条理なことかもしれないが、そんなふうに無防備に世界に投げ出されているのが私たちだろう。

445ページ
「よう、猫くん。今日はいい天気だな」
「そうだね、ホシノちゃん」と猫は返事をかえした。
「参ったなあ」と青年は言った。そして首を振った。

449ページ
「・・・こいつはね、善とか悪とか、情とか憎しみとか、そういう世俗の基準を超えたところにある笛なんだ。それをこしらえるのが長いあいだ私の天職だった。・・」

芸術は善悪を超えている。

463ページ
「記憶はここではそんなに重要な問題じゃない」

467ページ
「私があなたに求めていることはたったひとつ」と佐伯さんは言う。そして顔をあげ、僕の目をまっすぐに見る。
「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」

このあたりの記述は「ノルウェイの森」に似ている。誰か大切な人に私が生きていたことを覚えていてもらいたいのだと、他には何も望まないと、そういうことかもしれない。そういうことはこれまでに何億回も、あるいは何億×何億回も繰り返されてきたのかもしれない。そして誰かが生きていたことを覚えていた人が死んでしまったことすら何億回も忘れ去られて来たのだろう。実に私たちの存在というのはそんなふうにして軽々しく忘れ去られてしまうものなのだ。私が死んでもあなたは生き続けるという思い込みか無知が刹那的に「あなたに覚えていてほしい」と望むのだ。

468ページ
「ねえ、田村くん。あなたにお願いがあるの。あの絵を持っていって」
「図書館の僕のいた部屋にかかっていた、あの海辺の絵のことですか?」
佐伯さんはうなずく。「そう。『海辺のカフカ』。あの絵をあなたに持っていってほしいの。どこでもかまわない。これからあなたが行くところに」

471ページ
お母さん、と君は言う、僕はあなたをゆるします。そして君の心の中で、凍っていたなにかが音をたてる。

捨てられたと思っていた子供が母を許すということで問題が解決するというのは
どうなんでしょう?

482ページ
「名前はあるの?」
「名前くらいある」
「どんな名前?」
「トロ」と猫は言いにくそうに言った。

いわし、かもめ、サワラ、オオツカさん、カワムラさん、ミミ、ゴマちゃん、そしてトロ
猫の名前の系譜。

494ページ
懐中電灯の光は白く細長い物体を照らし出した。物体は死んだナカタさんの口から、もぞもぞと身をくねらせながら出てくるところだった。そのかたちはウリを思わせた。
500ページ
いったん入り口を閉めてしまうと、その白いものを片づけるのは思ったよりずっと簡単だった。もう行き場は塞がれてしまったのだ。白いものにもそのことはわかっていた。

ジョニー・ウォーカーの化身である白い物体は、猫のトロのチクリとホシノちゃんの活躍により滅ぼされてしまったのでした。

スプートニクの恋人

2015-08-22 00:05:51 | 村上春樹
[スプートニク]
「1957年10月4日、ソヴィエト連邦はカザフ共和国にあるバイコヌール宇宙基地から世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げた。直径58センチ、重さ83.6kg、地球を96分12秒で一周した。翌月3日にはライカ犬を乗せたスプートニク2号の打ち上げにも成功。宇宙空間に出た最初の動物となるが、衛星は回収されず、宇宙における生物研究の犠牲者となった。(「クロニック世界全史」講談社より)」

この作品には今までの作品との関連はないようだ。
「風の歌を聴け」から「ねじまき鳥クロニクル」まで何かしら関連はあったと思うのだが、この作品は独立しているのだと思う。26ページに「物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」と書かれている。全体としては、小説家を目指す登場人物が「あっち側」の世界について考察し、体験するということが主題ではないかと思う。物語の中に、そのような物語をものがたるのに必要な体験が含まれているので、そこには合わせ鏡のような妖しさが生じる。すみれが小説を書きたいと言い、ぼくがこっち側とあっち側を結びつけるための洗礼が必要だと言い、すみれがあちら側に行ってくる、そんなふうに「物語」は進行する。ところで「こっち側」と「あっち側」とはどういうことなのだろう?
別に「あちら側」が死の世界を代表しているというのではなさそうだ。次の部分がヒントかもしれない。
202ページ「わたしたちの世界にあっては、「知っていること」と「知らないこと」は、実はシャム双子のように宿命的にわかちがたく、混沌として存在している。混沌、混沌。」
205ページ「夢の中ではあなたはものを見分ける必要がない。ぜんぜん、ない。そもそもの最初からそこには境界線というものが存在しないからだ。だから夢の中では衝突はほとんど起こらないし、もし仮に起こってもそこには痛みはない。でも現実は違う。現実は噛みつく。現実、現実。」
「知っていること」と「知らないこと」を区別しなければならないのが「こっち側」で「知っていること」と「知らないこと」を区別しなくてもよい方が「あっち側」ではないかと思う。あるいはそれを「現実」と「混沌」という言葉で説明してもよいかもしれない。もちろん現実の世界は本当は混沌としているので「現実」が「こっち側」で「混沌」が「あっち側」ということではない。「知っていること」と「知らないこと」を区別せず、主体と客体を区別せずという姿勢は、どこか仏教に似ている。知性を放棄した仏教は「あっち側」に含まれているのだろう、きっと修行僧は「あっち側」で暮らしている。そして「この世のものではない」という物語は、「こっち側」で消耗し疲れ果ててしまった人々を癒そうとするものなのだろうか?
おそらく人々は論理であるとか、金儲けであるとか、そういうことを日々強要されて疲れ果ててしまっている。そのような世界がとことん嫌いになってしまったなら雲水にでもなって「あっち側」で生きるのも有りだろう。そこまで思い切れない大多数の人間はおそらくは娯楽やファンタジーでリフレッシュしてすぐに元の世界に戻るのだ。その欺瞞に馴染めない少数の人間は物語の中に何かを求めようとする。

14ページ
すみれはそれ以来ミュウのことを心の中で、「スプートニクの恋人」と呼ぶようになった。すみれはその言葉の響きを愛した。それは彼女にライカ犬を思い出させた。宇宙の闇を音もなく横切っている人工衛星。小さな窓からのぞいている犬の一対の艶やかな黒い瞳。その無辺の宇宙的孤独の中に、犬はいったいなにを見ていたのだろう?

26ページ
「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」

73ページ
「ここにいるわたしは本当のわたしじゃないの。今から14年前に、わたしは本当のわたしの半分になってしまったのよ。わたしがそっくりわたし自身であったときに、あなたに会えたらどんなにか良かっただろうと思う。でもそれはいまさら考えても仕方のないことなの」

84ページ
しかし自分について語ろうとするとき、ぼくは常に軽い混乱に巻き込まれることになる。「自分とはなにか?」という命題につきものの古典的なパラドックスに足をとられてしまうわけだ。つまり純粋な情報量から言えば、ぼく以上にぼくについての多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにもいない。しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによって―――その価値観や、感覚の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によって―――取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。とすれば、そこに語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真実があるのだろう? ぼくにはそれが非常に気にかかる。というか、昔から一貫して気にかかってきた。

最近は、自分について語ろうなんて考えない。自分について語っても仕方がない。別に卑下しているのではない。もっと違うことが気になって仕方がない。そしてもう「客観的真実」なんてどうでもよくなったのだろう。客観的に語ることができるものはごく僅かであって、それはあまり重要なこととは思えない。

122ページ
その夜にギリシャから電話がかかってきた。夜中の二時。しかし電話をかけてきたのはすみれではなく、ミュウだった。

143ページ
「いったいなにがあったんですか?」とぼくは尋ねた。
ミュウはテーブルの上で両手の指を組み合わせ、ほどき、また組み合わせた。
「すみれは、消えてしまったの」
「消えた?」

180ページ
朝の七時に目が覚めたとき、すみれの姿は家の中のどこにもなかった。

187ページ
この女性はすみれを愛している。しかし性欲を感じることはできない。すみれはこの女性を愛し、しかも性欲を感じている。ぼくはすみれを愛し、性欲を感じている。すみれはぼくを好きではあるけれど、愛してはいないし、性欲を感じることもできない。ぼくは別の匿名の女性に性欲を感じることはできる。しかし愛してはいない。

性欲と愛情が一対一に対応しているのなら、ずいぶんと楽なのだろう。
ここではそういうことは稀にしか起こらないと言っているのだろうか?

198ページ
どうして書かずにはいられないのか? その理由ははっきりしている。何かについて考えるためには、ひとまずその何かを文章にしてみえる必要があるからだ。

誰にも共通していることだが、言葉がなければ考えることなんてできない。そんなあたり前のことに気付いて呆然としていた時もあった。そして考えるということは、結局のところ、より多くの秩序を取り込もうとする生体の働きのことではないだろうか?
混沌として意味不明な体験を少しずつ言葉にすることによって自らのうちに取り込んでいくことを私たちは「そと」から命じられている。私たちが自分たちの意思によってそうしているというわけではない。私たちは書かずにはいられないし、考えずにはいられない。だがしかし、言葉に置き換える過程でどんどん欠落しているものもあるのだろう。きっと現象学はその欠落を補おうとして単に記述することに撤しているのではないかと思う。説明するよりも記述することが大切なのだろう。

202ページ
わたしたちの世界にあっては、「知っていること」と「知らないこと」は、」実はシャム双子のように宿命的にわかちがたく、混沌として存在している。混沌、混沌。

205ページ
夢の中ではあなたはものを見分ける必要がない。ぜんぜん、ない。そもそもの最初からそこには境界線というものが存在しないからだ。だから夢の中では衝突はほとんど起こらないし、もし仮に起こってもそこには痛みはない。でも現実は違う。現実は噛みつく。現実、現実。

217ページ
わたしは彼女に率直にたずねる。そう、わたしは率直にものをたずねずにはいられない性格なのだ。

222ページ
でもフェルディナンドの出現はあくまでしみの一部に過ぎない。10日ばかりそこで暮らしたあとで、彼女は町での生活全体にある種の閉塞感を感じ始める。町は隅々まで美しく清潔なのだが、どこかしら狭量で独善的であるように思え始める。人々は親切で愛想がいい。しかし彼女はそこに東洋人に対する目には見えない感情的な差別があるように感じ始める。レストランで出されるワインには奇妙な後味がある。買った野菜には虫がついている。音楽祭の演奏はどれも気が抜けて聞こえる。彼女は音楽に意識を集中することができない。最初は居心地よく感じられたアパートメントも、趣味の悪い田舎じみた部屋のように見えてくる。いろんなものが最初の輝きを失っていく。不吉なしみは広がっていく。そして彼女はそのしみから目をそらせることができなくなる。

「不吉なしみ」というのは「気の持ちよう」でなんとでもなると、そんな感想が返ってきそうだ。ここでは夢とか現実とかいっているのも、おそらくは「気の持ちよう」なのだ。夢の中では自分の一部しか働いていないので、あらゆる部分が覚醒している時の「気の持ちよう」とは異なることになる。「こっち側」と「あっち側」という違いが生じるのも、私たちの感じ方とか捉え方が大きく関係しているのだろう。そうすると次の質問は「私たちの感じ方」というのはいったいなんなのだろうかということに向けられるのだろう。「ぼく自身」というのは存在を始めたものが生きて経験を積むことによって考え方・感じ方・捉え方が特定の方向にバイアスされたものだから蓄積された経験のある部分と別の部分が対立してしまうことで私たちは「こっち側」と「あっち側」に引き裂かれてしまうかもしれない。「不吉なしみ」というのは顕在化してきた別の部分の働きによるものだろう。「強い意志」はそのような「気の迷い」を一蹴してしまうに違いない。
だがそれは「鈍感」というだけのことなのだ。

234ページ
あの男はわたしの部屋でいったい何をしているのだ。

248ページ
すみれの夢。ミュウの分裂。
ふたつの異なった世界だ、としばらくあとでふと思った。それが、すみれの書いたふたつの「文書」に共通している要素だ。
(文書1)
ここでは主にすみれがその夜に見た夢の話が語られている。彼女は長い階段を上って死んだ母親に会いに行く。でも彼女がたどり着いたとき、母親はすでにあちらの世界に向けて去ろうとしていた。すみれにはそれを止めることができない。そして行き場のない塔のてっぺんで異界のものたちにとりかこまれることになる。すみれは同じパターンの夢をこれまでに何度も見ている。
(文書2)
ここに書かれているのはミュウが14年前に体験した不思議な事件だ。ミュウはスイスの小さな町の遊園地で、一晩観覧車の中に閉じこめられ、双眼鏡で自分の部屋の中にいるもう一人の自己の姿を見る。ドッペルゲンガーだ。そしてその体験はミュウという人間を破壊してしまう(あるいはその破壊性を顕在化する)。ミュウ自身の表現によれば、彼女は一枚の鏡を隔てて分割されてしまったわけだ。すみれはミュウを説得してその話を聞き出し、文章にまとめた。

自己の中の部分が解放されているのが夢であり、自己の中の部分が互いに相反することによって分裂が生じるのかもしれない。それは不思議な世界というよりは、実際にそこにある世界なのではないかと思う。自己の矛盾に耐え切れなくなったなら、おそらくはその矛盾を切り捨ててしまう方が楽なのだ。そんなふうにして自分の半分を「あちら側」のものとして諦めなくてはならなくなるのかもしれない。どちらの半分も捨てることができなければ人格が二重になってしまうのかもしれない。私たちは時系列的に一元管理された人格に慣れているので、そうではないものを異質なものとして捉えてしまうのだろう。ここで、すみれが母親とミュウを並べているのなら、母親の存在とすみれの愛情・性欲は関連があるものなのかもしれない。彼女のリビドーは母親から受けることのできなかった愛情に左右されているのかもしれない。

251ページ
ぼくは思い切ってひとつの仮説をたててみる。
すみれはあちら側に行ったのだ。

251ページ
疑問がひとつある。大きな疑問だ。どうやったらそこに行けるのだ?
254ページ
音楽の音で目がさめた。

論理的には「そこには行けない」のだが、意外とあっさり「ぼく」も「あちら側」に行けるのだということが示される。「どうやったら」とかそんなことは関係なくて、論理を捨ててしまえば「あちら側」に行けるのだろう。そういう意味では「こちら側」で疑問を感じているうちは「あちら側」には行けない。

303ページ
「わたしがまだ若かったころには、たくさんの人がわたしに進んで話しかけてくれた。そしていろんな話を聞かせてくれたわ。楽しい話や、美しい話や、不思議な話。でもある時点を通り過ぎてからは、もう誰もわたしには話しかけてこなかった。誰ひとりとして。夫も、子供も、友だちも・・・みんなよ。世の中にはもう話すべきことなんてなにもないんだというみたいに。ときどきね、自分の身体が向こう側まですっかり透けて見えるんじゃないかって気がすることがあるの」

「ぼく」の浮気相手である女性はそのように語る。そんなことを「愛情を感じることなく性欲しか感じていない」浮気相手に語っても仕方がないのではないかと思う。一般的に言えば、若くて美しい女性にはたくさんの人が話しかける。年取った女性に話しかける人はあまりいない。男性の場合も同様の傾向があるが、女性ほど極端ではない。「性欲しか感じていない」相手との関係をずるずる継続している「ぼく」には「けじめが必要」ということだろうか?
すみれやミュウだけが傷つくわけではないのだ。

309ページ
にんじんのような子供はこれからどんな日々(永遠に続くかと思える長い成長期)を通り抜け、大人になっていくのだろうとぼくは思った。それはおそらくきついことであるにちがいない。きつくないことよりは、きついことの方がずっと多いだろう。ぼく自身の経験から、そのきつさの概要は予測することができた。彼は誰かを愛するようになるのだろうか?
そしてその誰かは彼をうまく受け入れてくれるだろうか? でも言うまでもなく、それはぼくが今ここで考えてもしかたないことだった。小学校を卒業すれば、彼はぼくとは関係のないより広い世界に出ていってしまう。そしてぼくはぼく自身の考えるべき問題を抱えている。

物語の終盤では、すみれとミュウの存在感が薄くなり、どういうわけだか教師の「ぼく」が受け持っている小学生の話が続く。クラスで「にんじん」と呼ばれているその少年は万引きで補導され、保護者であるその母親と浮気をしている「ぼく」が呼び出される。「にんじん」はなんらかのトラブルを抱えており、あるいはトラブルを抱えてしまう性分であり、「ぼく」と似ている。「ぼく」が「にんじん」に語りかけるシーンはなんとなくアリョーシャがコーリャ・クラソートキンに語りかけるシーンに似ている。「君は将来とても不幸になるよ」と言ったりはしないが、彼らはみんな「きつい」日々を過ごしている。自分と似ている誰かの存在は、いっそう孤独を意識させる。そして自分の抱えている問題を再認識させる。

315ページ
でもあるとき電話のベルが鳴りだす。ぼくの目の前で本当に鳴りだしたのだ。それは現実の世界の空気を震わせている。ぼくはすぐに受話器を取った。
「もしもし」
「ねえ帰ってきたのよ」とすみれは言った。

ねじまき鳥クロニクル

2015-08-15 00:05:00 | 村上春樹
第1部 泥棒かささぎ編、第2部 予言する鳥編、第3部 鳥刺し男編の3部構成となっている。
「泥棒かささぎ 序曲」はあまり聴かない。「ウィリアム・テル 序曲」すら聴かない。序曲すら聴かないので本編を聴くこともない。イタリアオペラに関心がない。もちろんこれは偏見なのだろう。
「予言する鳥」はシューマンの「森の情景」に含まれているとても幻想的な曲だ。私はシューマンが好きで、ピアノ曲・弦楽四重奏曲・ピアノ協奏曲・交響曲などを聴いている。弦楽四重奏曲はベートーヴェン・バクトークに次ぐ傑作ではないかと思っている。
「鳥刺し男」は「魔笛」に出て来るパパゲーノのことだが、現代で「鳥刺し男」といっても意味がよくわからない。「魔笛」はモーツァルト最後のオペラであり、彼の最高傑作であると共にその分野での最高傑作となっている。パパゲーノやらパパゲーナやら、気楽に楽しめる作品となっている。モーツァルトには、人を寄せ付けない天才的な要素と、大衆的な要素が混じっているのだろう。

本作品の第1部・第2部は同時期に発表されたが、第3部は遅れて発表され内容も第1部・第2部とは異質なものとなっている。ただ「ねじまき鳥クロニクル」についての謎解きは第3部になってやっと登場するので第2部で完結という意図は初めからなかったのだろう。

獣医と僕が「あざ」という共通点を持ち、同質の役割を担っているのであれば、獣医の運命との不毛な戦いは、僕と綿谷ノボルとの骨肉の争いに相当するのかもしれない。そうすると綿谷ノボルとは、人格を持った人間というよりは、運命のようなものに近いのかもしれない。綿谷ノボルという絶対的な悪が僕と妻の間を引き裂いてしまったというようなことではなく戦争のように根こそぎ私たちを台無しにしてしまうものの象徴が綿谷ノボルであり、
そういったものと戦っていかなければならないということかもしれない。あるいは綿谷ノボルが「僕」の「否定的な影」という見方をするのであれば、「私たちを台無しにしてしまうもの」というのは結局のところ「私たち自身」ということになるのだろう。「羊」「やみくろ」「リトル・ピープル」の示すところは「普遍的無意識」における「否定的な影」であるのだと、そういうことだとすれば「私たち」は「私たち自身」と戦わなければならないということになる。しかしそれはバットで叩きのめせるような相手なのだろうか?

「国境の南、太陽の西」でそれまでの「誰にも理解されなくてもいいや」と思っている「僕」は実は「誰も理解することのできない僕」であるということが明らかにされ、
僕一人の喪失感から誰かと共有する喪失感へと視点が移されるという変化があった。ここでは他者理解の必要性がさらに拡大されているのだと思う。冒頭に出現する妙な電話をかけてくる女はクミコの「影」であって「ダンス・ダンス・ダンス」の「僕」という一人称の「影」から二人称の「影」へと発展しているのではないかと思う。

物語に登場する人物は一見すると奇妙だが「夢というかたちを取っている何か」の世界での対立関係と「現実」の世界での対立関係という形にまとめられるのではないかと思う。
「夢というかたちを取っている何か」の世界では、トリックスターと影のペアが不可解な何かと戦い、「現実」の世界では、他者と僕が相互理解を求めながら不可解な何かと戦う。

トリックスター 影           対立関係(あるいはテーマ)
加納マルタ   加納クレタ(クミコの影) 綿谷ノボル
本田さん    間宮中尉(僕の影)    皮剥ぎボリス/意識の核
赤坂ナツメグ  赤坂シナモン(僕の影)  存在理由
赤坂シナモン  獣医(僕の影)      戦争/世界/運命/諦観

他者      自己          対立関係
クミコ/電話の女 僕           精神の思い通りにならない身体/綿谷ノボル
笠原メイ    僕           精神の思い通りにならない身体/死

おそらくは「自分の属している世界の価値観をみじんも疑うことがない」人間であればこうした争いに巻き込まれることはないのだろうが、そのような人々に対して笠原メイは以下のように断言する。
「私はまだ十六だし、世の中のことをあまりよくは知らないけれど、でもこれだけは確信をもって断言できるわよ。もし私がペシミスティックだとしたら、ペシミスティックじゃない世の中の大人はみんな馬鹿よ」

[第1部 泥棒かささぎ編]

11ページ
台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。
11ページ
「十分間、時間を欲しいの」、唐突に女が言った。

18ページ
近所の木立からまるでねじまきでも巻くようなギイイイッという規則的な鳥の声が聞こえた。我々はその鳥を「ねじまき鳥」と呼んでいた。クミコがそう名づけたのだ。

クミコは最初から「ねじまき鳥」のことを知っていたのかもしれない。
その鳥は、人々を「避けがたい破滅」へ導くということだ。

24ページ
しかし路地には入口も出口もなく、両端は行き止まりになっている。それは袋小路でさえない。少なくとも袋小路には入口というものがあるからだ。

井戸の話と並んで著者の作品には入口と出口の話がよく出てくる。
今回は入口すらないのだという。

25ページ
妻がどういう目的でそんなところに何度も出入りしていたのか、見当もつかなかった。

クミコは「その部屋」に出入りしていたということになる。

47ページ
ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果して可能なことなのだろうか。つまり、誰かのことを知ろうと長い時間をかけて、真剣に努力をかさねて、その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことができるのだろうか。我々は我々がよく知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているのだろうか。
51ページ
「悪いわよ。私は青いティッシュペーパーと、柄のついたトイレットペーパーが嫌いなの。知らなかった?」
52ページ
「それからもうひとつついでに言わせてもらえるなら」と彼女は言った。
「私は牛肉とピーマンを一緒に炒めるのが大嫌いなの。それは知ってた?」
60ページ
僕はいつかその全貌を知ることができるようになるのだろうか? あるいは僕は彼女のことを最後までよく知らないまま年老いて、そして死んでいくのだろうか? もしそうだとしたら、僕がこうして送っている結婚生活というのはいったい何なんだろう? そしてそのような未知の相手と共に生活し、同じベッドの中で寝ている僕の人生というのはいったい何なんだろう? それがそのときに僕の考えたことであり、その後もずっと断続的に考えつづけたことだった。そしてもっとあとになってわかったことだが、そのとき僕はまさに問題の核心に足を踏み入れていたのだ。

綿谷ノボルとの対決がある一方で「相手のことを理解できるのか?」ということが主題ではないかと思う。それは自分を理解してもらいたいのであれば、まず相手を理解しなければならないといったちっぽけなことではなく、そもそも理解し合える見込みはあるのか、理解できないとすれば人生とか生活(つまりは生きること)に何か価値があるのか、そういう問題に発展してしまう。守るべきものが未知の相手というのであれば、戦うことにすら意味はなくなる。

69ページ
もちろん僕に特徴がないというわけではない。失業していて、『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部覚えている。でもそんなことはもちろん外見からはわからない。

ここでも「カラマーゾフの兄弟」が登場する。

76ページ
「加納というのは本当の名前です。でもマルタというのは職業上の名前です。マルタ島から取ったのです。岡田様はマルタには行かれたことはおありでしょうか?」

83ページ
「不思議な場所にお住まいですね」、彼女は僕の質問を無視して言った。

クミコの影である「電話の女」がいる不思議な部屋へと通じる井戸のことを指している。

93ページ
しかしそういった人物がなりがちなように、ひどくプライドが高く、独善的だった。命令することに馴れ、自分の属している世界の価値観をみじんも疑うことがなかった。彼にとってはヒエラルキーがすべてだった。自分より上の権威にはかんたんにかしこまったが、下のものを踏みつけることに対してはいささかの躊躇も感じなかった。

そういう人はたくさんいる。著者は組織で働いたことはないだろうからあまり知らないと思うが、会社は100%そういうところだ。上にはへらへらして、下は踏みつける、それがあたり前だと思っている。そんなふうにして彼らは何をしたいのだろうか? おそらくは上に登ることしか頭にないのだろう。「自分の属している世界」に疑いを持ってしまったなら、カフカの小説の主人公のように悲劇(あるいは喜劇)が訪れる。そして負け犬となって吠えるのだ。
「わおーん!」

124ページ
飛べない鳥、水のない井戸、出口のない路地、そして・・・。

因果関係あるいは論理性の否定

135ページ
彼の両親はそのひとり息子を溺愛したが、ただ可愛がるというだけでなく、同時にきわめて多くのものを彼に要求した。父親は日本という社会の中でまっとうな生活を送るだめには少しでも優秀な成績を取って、一人でも多くの人間を押しのけていくしかないという信念の持ち主だった。本当に真剣にそう信じていたのだ。
136ページ
その頭脳を支配しているのは「自分が他人の目にどのように映るか」という、ただそれだけなのだ。そのようにして、彼女は夫の省内での地位と、息子の学歴しか目に入らない狭量で神経質な女になった。そしてその狭い視野に入ってこないものは、彼女にとっては何の意味も持たないものになってしまった。

ここで綿谷ノボルの両親について書かれているが、私は自分の両親について書かれているのではないかと思った。父は優秀な成績を取って一流の学校へ進むべきという信念を幼い私に押し付け、母もまた息子の学歴にしか興味を示さなかった。こんな人たちといっしょにいても仕方がないと思った。私にとっては彼らは「ストレス」でしかない。

148ページ
彼にとって僕という人間は、あえて時間とエネルギーを費やしてまで叩きのめすに値しない相手だったのだ。僕が綿谷ノボルに対して苛立ったのはたぶんそのせいだと思う。彼は本質的には下劣な人間であり、無内容なエゴイストだった。でも僕よりは明らかに有能な人間だった。

存在を無視されることが最大の侮辱であるかもしれない。
信玄に素通りされた家康もカッとなって三方ヶ原で大敗したのだという。

169ページ
私の言う痛みとは純粋に肉体的な痛みのことです。
174ページ
『あなたに苦痛の何がわかるっていうのよ。私の感じている痛みは普通の痛みなんかじゃないのよ。痛みのことなら、、私はもうありとあらゆる種類の痛みについて知っているのよ。私が痛いというときは本当に痛いのよ』

他人を理解できないことを説明するのに他人の痛みが理解できないということがしばしば利用される。色彩とか音についても同じなのだろう。私が感覚したことは、私にしかわからないのだ。他者の痛みは想像するしかないし、他者の考えもまた想像するしかない。

200ページ
もし私が電話の一本も入れずに日曜日の朝の三時に家に帰ってきて、今まで男の人と一緒にベッドに入っていたんだけど、何もしなかったから大丈夫よ、私を信じてちょうだい。ただその人に充電してあげてただけだから。さあこれから朝ご飯を食べてぐっすり寝ましょうって言ったら、あなたは腹も立てずにそれを信じてくれる?」

211ページ
「でもね、ねじまき鳥さん、人生ってそもそもそういうものじゃないかしら。みんなどこかしら暗いところに閉じ込められて、食べるものや飲むものを取り上げられて、だんだんゆっくりと死んでいくものじゃないかしら。少しずつ、少しずつ」
僕は笑った。「君は君の歳にしては、ときどきものすごくペシミスティックな考え方をするね」
「そのペシなんとかってどういうこと?」
「ペシミスティック。世の中の暗いところだけを取り出して見るっていうことだよ」
ペシミスティック、と彼女は何度か口の中で繰り返した。
「ねじまき鳥さん」と彼女は僕の顔をじっと睨むようにことを見上げながら言った。「私はまだ十六だし、世の中のことをあまりよくは知らないけれど、でもこれだけは確信をもって断言できるわよ。もし私がペシミスティックだとしたら、ペシミスティックじゃない世の中の大人はみんな馬鹿よ」

少しずつ死んでいくのが人生であるかもしれない。死は避けがたいものであるので人々はそのことを忘れて暮らしている。当面は私の元を訪れないであろうし、訪れたとしてもどう対処してよいのかわからない。考えても仕方がないので考えないのだが「みんな馬鹿」と言われてしまうと返す言葉もない。

235ページ
出かける前にクミコは僕のところに来てワンピースの背中のジッパーをあげてくれと言った。

265ページ
生命と呼べるようなものは何ひとつ存在しなかった太古から、これと同じことが何億回も何十億回も行われてきたのです。私は見張りをしていることも忘れて、その夜明けの光景をただ呆然と眺めておりました。

287ページ
『・・・生きたまま皮を剥がれると、剥がれる方はものすごく痛い。想像もできないくらいに痛い。そして死ぬのに、ものすごく時間がかかる。出血多量で死ぬわけだが、これはなにしろ時間がかかる』

他人の痛みが想像できないことについて再考している。

298ページ
世界の果ての砂漠の真ん中の、深い井戸の底にひとりぼっちで残されて、真っ暗な中で激しい痛みに襲われるというのが、どれくらい孤独なものか、どれほど絶望的なものか、とてもおわかりいただけないだろうと思います。私は自分があの下士官にあっさりと射殺されてしまわなかったことを悔やみさえしました。私がもし誰かに撃ち殺されたとしたら、少なくとも私の死は彼らによって関知されます。しかしここで私が死ぬのだとしたなら、それは本当にひとりぼっちの死です。それは誰にも関知されない、無音の死なのです。

そうは言っても誰もがひとりで死んでいく。誰かに看取られて死んだとしても看取った人が死んでしまえば、その人がかつて生きていたことなんて誰も知らない。数十億の人間が暮らしていても100年後に生きている人間は僅かであって、数十億の人間が生きていたことなんて誰も知らない。ひとりひとりの名前を覚えることなんてできない。誰が数十億の名前を覚えることができるだろうか? その人たちの人生を知ることができるだろうか?
そうするとやはり人々は、ひとりぼっちの死を迎える。戸籍に記録されたとしても誰も覚えてはいない。数十億の人々に各々名前があったとしても、無名の死を迎えることになる。私が生きていたことなんて100年後の世界を生きる人々には何の関係もない。私にしたって100年前の人たちのことを何も知らない。

302ページ
何かの気配に気づいてはっと目を覚ましたとき、光は既にそこにありました。私は自分が再びその圧倒的な光に包まれていることを知りました。私はほとんど無意識に両方の手のひらを大きく広げて、そこに太陽を受けました。それは最初のときよりもずっと強い光でした。そして最初のときよりもそれは長く続きました。少なくとも私にはそう感じられました。私はその光の中でぼろぼろと涙を流しました。体じゅうの体液が涙となって、私の目からこぼれ落ちてしまいそうに思えました。私のからだそのものが溶けて液体になってそのままここに流れてしまいそうにさえ思いました。この見事な光の至福の中でなら死んでもいいと思いました。いや、死にたいとさえ私は思いました。そこにあるのは、今何かがここで見事にひとつになったという感覚でした。圧倒的なまでの一体感です。そうだ、人生の真の意義とはこの何十秒かだけ続く光の中に存在するのだ、ここで自分はこのまま死んでしまうべきなのだと私は思いました。
309ページ
長い話になってしまいまいしたが、私があなたにお伝えしたかったのは、私の本当の人生というのはおそらく、あの外蒙古の砂漠にある深い井戸の中で終わってしまったのだろうということなのです。私はあの井戸の底の、一日のうちに十秒か十五秒だけ射しこんでくる強烈な光の中で、生命の核のようなものをすっかり焼きつくしてしまったような気がするのです。

[予言する鳥編]の72ページでも「意識の中核」という言葉が用いられている。そのような特殊な状況下にあって、私の意識はきわめて濃密に凝縮されており、そしてそこに一瞬強烈な光が射し込むことによって、私は自らの意識の中核のような場所にまっすぐに下りていけたのではないでしょうか。とにかく、私はそこにあるものの姿を見たのです。

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも「意識の核」という言葉が用いられている。
上巻192ページ
「人は自らの意識の核を明確に知るべきだろうか?」
下巻269ページ
「意識の底の方には本人に感知できない核のようなものがある。僕の場合のそれはひとつの街なんだ」

本当にそんなものがあるのか、よくわからない。私はそういうものの姿を見たことがない。もしかすると言葉では語ることのできない宗教体験のようなものかもしれない。そして意識の中核を訪れた間宮中尉はその後、脱け殻のような人生を送ることになる。あるいは人生はもともと脱け殻のようなものであるが、意識の中核にあるものを見た間宮中尉にしか、
脱け殻であることがわからないのかもしれない。ちょっとずつ努力して、ひとつずつ階段を上るというスタイルが人生には適しているのだろう。いきなり核心に迫ってしまうのはよくないのだろう。

[第2部 予言する鳥編]

19ページ
少しあってから加納マルタは言った。「猫はよほどのことがない限り二度と見つからなのではないかと思うのです。お気の毒ですが、おあきらめになられた方がいいと思います。猫は去ってしまいました。おそらく猫はもう戻ってこないでしょう」

加納マルタの予言は外れることになる。第3部で猫は帰ってくる。「よほどのこと」があったのだろうか?

20ページ
「はっきりしたことはまだ何もわからないんです。ただ頭の中で考えているだけです。でもとにかく女房が家を出てどこかに行ってしまったと思うんです」

相互理解がテーマなら、第1部ですれ違い続け、第2部になって女房が家を出て行くということになるのだろう。

56ページ
「最初に君に会ったときから、私は君という人間に対して何の希望も持ってはいなかった。君という人間の中には、何かをきちんとなし遂げたり、あるいは君自信をまともな人間に育てあげるような前向きな要素というものがまるで見当たらなかった。そこには、もともと光るべきものもないし、何かを光らせようとするものだってなかった。君のやることは何から何までたぶん中途半端で終わるだろう、何ひとつ達成できないだろうと思った。そして事実そのとおりになった。君たちが結婚してから六年経った。そのあいだに、君はいったい何をした? 何もしてない―――そうだろう。君がこの六年のあいだにやったことといえば、勤めていた会社をやめたことと、クミコの人生を余計に面倒なものにしたことだけだ。今の君には仕事もなく、これから何をしたいというような計画もない。はっきり言ってしまえば、君の頭の中にあるのは、ほとんどゴミや石ころみたいなものなんだよ」

「何ひとつ達成できない」、あるいはそういうことかもしれない。いずれ死んでしまうのだから、生きているあいだに何かをなし遂げようと、一度しかない人生を悔いのないように生きようと、そんなふうに考えたとしても、結局のところ「何ひとつ達成できない」のかもしれない。私にできることは、家族が食べていくのに必要な分のお金を持って帰るということだけだ。「何かをなし遂げる」なんてとんでもない。私にできることは、こうやってつらつらと感想を書くことだけだ。もしかすると同じようなことを考えている誰かと出会えるかもしれない。そういうのも「ゴミや石ころみたいなもの」であるかもしれない。でもまあ、ゴミは嫌だけど、石ころでいいや。

63ページ
「どこかずっと遠くに、下品な島があるんです。名前はありません。名前をつけるほどの島でもないからです。とても下品なかたちをした下品な島です。そこには下品なかたちをした椰子の木がはえています。そしてその椰子の木は下品な匂いのする椰子の実をつけるんです。でもそこには下品な猿が住んでいて、その下品な匂いのする椰子の実を好んでたべます。そして下品な糞をするんです。その糞は地面に落ちて、下品な土壌を育て、その土壌に生えた下品な椰子の木をもっと下品にするんです。そういう循環なんですね」

これは『きっとどこかにナイーブな町があって、そこではナイーブな肉屋がナイーブなローストハムを切ってるんだ』を発展させたものだろうか?

72ページ
そのような特殊な状況下にあって、私の意識はきわめて濃密に凝縮されており、そしてそこに一瞬強烈な光が射し込むことによって、私は自らの意識の中核のような場所にまっすぐに下りていけたのではないでしょうか。とにかく、私はそこにあるものの姿を見たのです。私のまわりは強烈な光で覆われます。私は光の洪水のまっただなかにいます。私の目は何を見ることもできません。私はただ光にすっぽりと包まれているのです。でもそこには何かが見えます。一時的な盲目の中で、何かがその形を作ろうとしています。それは何かです。それは生命を持った何かです。光の中に、まるで日蝕のように、その何かが黒く浮かび上がろうとします。でも私にはその姿をはっきりと見定めることができません。それは私の方にやってこようとしています。それは私に何か恩寵のようなものを与えようとしているのです。私は震えながらそれを待ちます。でもその何かは、思いなおしたのか、それとも時間が足りなかったのか、結局私のところにはやってこないのです。それは形をはっきりと作り上げる直前でふっとその姿を溶解させ、再び光の中に消えてしまうのです。そして光が薄らいでいきます。光の射し込む時間が終わったのです。

81ページ
「二度目に岡田様の夢に現われたときに、私は岡田様と交わっている途中で知らない女性と交代いたしました。そうですね? その女性が誰であったのか、私にはわかりません。でもその出来事は岡田様に何かを示唆しているはずです。私はそのことを岡田様にお伝えしたかったのです」

「知らない女性」は「電話の女」で、加納クレタも「電話の女」もクミコの影なのだから、まったく知らないというわけではないだろう。お互いの存在は感知しているが、交わることのない人格ということなのだろう。

122ページ
「これはもうさんざん話し合ったことだけれど、今ここで子供を作ったら、私の仕事も終わってしまうし、あなたは私や子供を養うためにどこか別のところで、もっと給料のいい仕事をみつけなくてはならなくなるのよ。生活の余裕なんてものはまったくなくなってしまうし、やりたいことがあっても何もできなくなってしまうわよ。私たちがこれから何をするにせよ、その可能性は現実的にずいぶん狭められてしまうことになるわよ。あなたはそれでもいいの?」

堕胎は女性にとってはショックなことではないのだろうか?
子供を育てること以外の目的がある男女関係は稀であるに違いない。セックスがいつまでも目的というわけにはいかない。愛する男の子供を身篭ったとしたら普通は産みたいと思うのではないだろうか? 男が堕ろせと言ったなら一瞬にして愛情は醒めてしまうのではないだろうか?
ここではそのような展開はなく、妊娠したクミコが自らの呪われた血を意識するようになったということになっている。

130ページ
それから彼は、蝋燭の火の上に黙って左の手のひらをかざした。そして少しずつ、少しずつ、その手のひらを炎の先に近づけていった。客の一人がうなりともため息ともつかない声をだした。やがてその炎の先が彼の手のひらを焼くのが見えた。

「他者の痛み」を感じることはできないのだが、想像することはできる。想像することで理解し合えるのだろうか?

132ページ
夜明け前に井戸の底で夢を見た。でもそれは夢ではなかった。たまたま夢というかたちを取っている何かだった。

136ページ
ボーイが部屋から出てくるのを待った。部屋の番号は208だった。そうだ208だ、と僕は思った。どうして今までそれが思いだせなかったんだろう。

「1973年のピンボール」に出て来る双子のひとりが208だった。

138ページ
「ここに来ればたぶん君に会えるだろうと思った。あるいは君じゃなければ加納クレタにね。僕はクミコの行方を知らなくちゃならないんだ。いいかい、すべては君の電話から始まったんだよ」

電話の女、加納クレタ、クミコが並べられている。

140ページ
「あなたは私の名前を知りたいと思う。でも残念ながら私はそれを教えてあげることができない。私はあなたのことをとてもよく知っている。あなたも私のことをとてもよく知っている。でも私は私のことを知らない」

168ページ
「ねえ、ねじまき鳥さん、あなたが今言ったようなことは誰にもできないんじゃないかな。『さあこれから新しい世界を作ろう』とか『さあこれから新しい自分を作ろう』とかいうようなことはね。私はそう思うな。自分ではうまくやれた、別の自分になれたと思っていても、そのうわべの下にはもとのあなたがちゃんといるし、何かあればそれが『こんにちは』って顔を出すのよ。あなたにはそれがわかっていないんじゃない。あなたはよそで作られたものなのよ。そして自分を作り替えようとするあなたのつもりだって、それもやはりどこかよそで作られたものなの。ねえ、ねじまき鳥さん、そんなことは私にだってわかるのよ。どうして大人のあなたにそれがわからないのかしら?」

笠原メイは最年少だが、ずいぶんと哲学的なセリフが用意されている。人格というのは習慣の積み重ねによって形成された脳内の物理的な記憶情報とその接続情報の総体なのだから、
そんなものがいきなり、まっさらにはならないだろう。「自分を作り替えよう」とする自由意志はもちろん「意志」が作ったものではなく「遺伝子」に従って構築された身体の機能の
ひとつなのであって、「あなたはよそで作られたもの」ということになる。

183ページ
「岡田様」と現実の加納クレタが言った。「そこにいらっしゃるんですか?」

192ページ
どうしてそんなときに出し抜けに私の身にそれが起こったのか、どうしてあなた相手ではなく他の人を相手に起こったのか、私にもわかりません。

ここは「ノルウェイの森」の直子の身に起こったことと同じかもしれない。

199ページ
チャイコフスキーの弦楽セレナーデが終わったあとで、シューマンのものらしい小曲がかかった。聞き覚えのある曲だったがどうしても題名が思いだせなかった。演奏が終わったあとで女性のアナウンサーがそれを『森の情景』の第七曲『予言する鳥』だと言った。

212ページ
肌のその部分は顔のほかの部分に比べると微かな熱を帯びているようだったが、それ以外に特別な感触はなかった。それはあざだった。井戸の中で熱を感じていたちょうどその部分にあざができていたのだ。

221ページ
でも僕は突然思いだした。クミコはもういない―――彼女は家を出ていったのだ。誰か別の人間が僕の隣に寝ている。僕は思い切って枕元のスタンドの明かりをつけてみた。それは加納クレタだった。

238ページ
それから奇妙なことが起こりました。そのぱっくりとふたつに裂けた自分の肉の中から、私がこれまでに見たことも触れたこともなかった何かが、かきわけるようにして抜け出してくるのを私は感じたのです。その大きさはよくわかりません。でもそれはまるで生まれたての赤ん坊のようにぬるぬるしたものでした。それが何であるのか、私にはまったく見当もつきませんでした。それはもともと私の中にあるものでありながら、私の知らないものなのです。でもこの男が、私の中からとにかくそれを引き出したのです。

綿谷ノボルが加納クレタを犯したということは、クミコを損なったということと同じだろう。だがしかし「それを引き出した」と言われてもよくわからない。綿谷ノボルは、個人のうちに潜む破壊的な本能のようなものを引き出すことができるのだろうか?
歴史的に悪名が高い人物というのは、そういう能力を備えているのであって、その危険性を「綿谷ノボル」で描いているのだろうか?

244ページ
「つまり、その男が君に新しい自己をもたらしたということなんだね?」、僕はそう尋ねてみた。

クミコは損なわれたが、加納クレタには「新しい自己」がもたらされたのだという。

254ページ
服は思ったとおり、全部加納クレタにぴったりだった。

260ページ
「岡田様が失っていく世界で、綿谷様は獲得していきます。岡田様が否定される世界で、綿谷様は受け入れられていきます。またその逆のことも言えます。だからこそあの方は岡田様のことを激しく憎んでおられるのです」

岡田さんと綿谷さんは対になって二元論をなしている。

298ページ
「・・・暗闇の中でひとりでじっとしているとね、私の中にある何かが私の中で膨らんでいくのがわかったわ。鉢植えの中の樹木の根がどんどん成長していって、最後にその鉢を割ってしまうみたいに、その何かが私のからだの中でどこまでも大きくなって最後には私そのものをばりばりと破っちゃうんじゃないかっていうような感じがしたのよ。太陽の下では私のからだの中にちゃんと収まっていたものが、その暗闇の中では特別な養分を吸い込んだみたいに、おそろしい速さで成長しはじめるのよ。私はそれを何とか抑えようとしたわ。でも抑えることができなかった。そして私はどうしようもなく怖くなったの。そんなに怖くなったのは生まれて初めてのことだった。私という人間は私の中にあったあの白いぐしゃぐしゃとした脂肪のかたまりみたいなものに乗っ取られていこうとしているのよ。それは私を貪ろうとしているの。ねじまき鳥さん、そのぐしゃぐしゃは最初は本当に小さなものだったのよ」

その「白いぐしゃぐしゃとしたもの」というのは加納クレタから取り出されたものと同じなのだろうか?
バイクを運転している男の子の目を塞いでしまうような衝動が彼女の中で成長してしまう。強い意志で自己を制御していると吹聴している人を見かけるが、それはもともと内在している衝動が弱いだけだろう。

300ページ
「ねえ、ねじまき鳥さん」と笠原メイは言った。「私は思うんだけれど、人間というのはきっとみんなそれぞれ違うものを自分の存在の中心に持って生まれてくるのね。そしてそのひとつひとつ違うものが熱源みたいになって、ひとりひとりの人間を中から動かしているの。もちろん私にもそれはあるんだけれど、ときどきそれが自分の手に負えなくなってしまうんだ」

きっと私にも熱源のようなものもあるのだろう。感性的諸要素の複合体のことだろうか?

327ページ
男が苦痛にからだを折っているあいだに僕は男の手からバットをもぎ取った。
330ページ
結局僕はそのバットを家まで持って帰った。そして押入れの中に放り込んでおいた。

345ページ
私は思うのだが、おそらく本田さんは私とあなたとを引き合わせたかったのではないだろうか。本田さんは私とあなたとが会うことが、私のためにもあなたのためにも良いことだと思っていたのではないだろうか。

357ページ
それからさっと裏返るみたいに、僕はすべてを理解する。何もかもが一瞬のうちに白日のもとにさらけ出される。その光の下ではものごとはあまりに鮮明であり、簡潔だった。僕は短く息をのみ、ゆっくりとそれを吐き出す。吐き出す息はまるで焼けた石のように固く、熱い。間違いない。あの女はクミコだったのだ。

361ページ
それから僕は息を殺し、じっと耳を澄ませる。そしてそこにあるはずの小さな声を聞き取ろうとする。水しぶきと、音楽と、人々の笑い声の向うに、僕の耳はその音のない微かな響きを聞く。そこでは誰かが誰かを呼んでいる。誰かが誰かを求めている。声にならない声で。言葉にならない言葉で。

「1Q84」のBOOK2の終り方もこんな感じではなかっただろうか?
両作品は、第3部が後で書かれたとか、牛河が出て来るという共通点がある。

[第3部 鳥刺し男編]

40ページ
何があってもあの井戸を手に入れなくてはならない。
それが僕の到達した結論だった。

76ページ
僕の予感は間違ってはいなかった。家に帰ったとき、猫が僕を出迎えた。僕が玄関の戸を開けると待ちかねたように大きな声で鳴きながら、先が少し曲がった尻尾を上に立てて僕の方にやってきた。それは一年近く行方不明になっていたワタヤ・ノボルだった。僕は買い物の紙袋を置き、猫を抱きあげた。

鼠も妻も直子もキキも決して僕のところに帰ってはこなかったのだが、猫は帰ってきた。
著者の作品で帰ってきたのは「サワラ」が初めてなのではないかと思う。

87ページ
この猫にサワラという名前をつけようと僕は思った。僕は猫の耳のうしろを撫でながら、いいか、お前はもうワタヤ・ノボルなんかじゃなくてサワラなんだ、と教えた。僕はできることならそのことを世界中に大きな声で告げてまわりたかった。

いわし、かもめに続き、サワラが命名された。猫に他の動物の名前を付けるシリーズは継続されている。このときから「ワタヤ・ノボル」の支配は弱まっていくことになる。名前を変える意味はそこにある。

100ページ
「ナツメグ?」
「ふと頭に浮かんだの。それを私の名前にすればいいわ。もし嫌じゃなければ」
「別に僕はそれで構いませんが・・・じゃあ息子さんはなんて言うんですか?」
「シナモン」

105ページ
今ここにいる僕とその奇妙な部屋を隔てているものは、ただの一枚の壁に過ぎない。そして僕にはその壁を抜けることができるはずなのだ。僕自身の力と、そしてここにある深い暗闇の力によって。

113ページ
この潜水艦は、私たちみんなを殺すために深い海の底から姿を現わしたのだ。でもそれはべつに不思議なことじゃない、と彼女は思った。それは戦争とは関係なく、誰にでもどこにでも起こりうることなのだ。みんなはこれがみんな戦争のせいだと思っている。でもそうじゃない。戦争というのは、ここにあるいろんなものの中のひとつに過ぎないのだ。

私たちは自分の力で、あるいは自分の意志によって、人生を切り開いているなどと考えているのだが、どこにでも起こりうる何かによって常に蹂躙されてしまう。論理的な思考は「戦争のせい」とか「自分のせい」と考えようとする。そうでなければどうすればよいというのだろう?
私たちが不幸になるのは何か原因があるに違いないのであって、ネガティブな思考を退け、幸福を掴み取らなければならない・・・だが実際には、原因などどこにもないのだ。

126ページ
ナツメグは微笑んだ。「ねえ、それってなんだかモーツァルトの『魔笛』みたいな話じゃない。
魔法の笛と、魔法の鐘で、遠くのお城に囚われたお姫さまを救いだす。私、あのオペラが大好きよ。何度も何度も見た。台詞もそっくり覚えている。『国じゅうに知らぬものなき鳥刺し男、パパゲーノとは俺のことだ』。見たことある?」
・・・どちらがほんとうに正しい側なのか、主人公たちは途中でわからなくなってしまう。

162ページ
「いやいや、自己紹介が遅れましたね。失礼、失礼。牛河っていいます。動物の牛に、さんずいの河って書くんです。覚えやすい名前でしょう。まわりの人はみんな、ウシって呼ぶんです。<おい、ウシ>ってね。そういわれると変なもので、だんだん自分が本物の牛みたいな気がしてきますね。実際の牛をどこかで見たりすると、親しみさえ覚えますね。名前というのは妙なものです。そう思いませんか、岡田さん?」

牛河はフョードル・カラマーゾフのように自虐的な感じがする。
聞いてもいないのに余計なことをどんどんしゃべる。

217ページ
彼女は長い年月にわたって顧客たちが体内に抱えている何かを「仮縫い」し続けてきた。自分が何をやっているのか正確には理解できなかったけれど、とにかくできるかぎりの努力を続けた。しかしナツメグにはその何かを治癒することはできなかった。それは決して消え去らなかった。彼女の治癒する力によって一時的に活動をゆるめるだけだ。

221ページ
さて私は思うのですが、世の中の人々の大奥は人生とか世界というのは、多少の例外はあるものの、基本的にシュビ一貫した場所であると(あるいはそうあるべきだと)考えて生きているのではないでしょうか。

269ページ
<駄目になった>というのは、もっと長い時間のことです。クミコはいったい僕に何を伝えようとしているのだ?
275ページ
<駄目になった>というのは、もっと長い時間のことです。それはいったいどんな長い時間のことなのだろう?

285ページ
僕はこのあざによって、シナモンの祖父(ナツメグの父)と結びついている。シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という街で結びついている。間宮中尉と占い師の本田さんは満州と蒙古の国境における特殊任務で結びついて、僕とクミコは本田さんを綿谷ノボルの家から紹介された。そして僕と間宮中尉は井戸の底によって結びついている。
・・・でもどうして僕とクミコがそのような歴史の因縁の中に引き込まれて行くことになったのか、僕には理解できない。それらはみんな僕やクミコが生まれるずっと前に起こったことなのだ。

「僕とクミコ」が特別というわけではなくて、誰もが「歴史の因縁」のようなものに引き込まれて行くことになる。現代に生きる私たちが「インターネット」とは無縁の世界で生きることができないというのは何かの因縁に引き込まれているのと似ている。ただその因縁というのは個々の人間が相互に干渉した結果、生じてきたものだろう。一個の電子の振る舞いを決定するためには全宇宙の電子の位置情報が必要かもしれないのだし、そのようにしてお互いが干渉し状況は常に変化する。
「結びつき」というのはそのような状況をまとめる働きがある。
「結びつき」と無縁ではいられない。

310ページ
あなたが死んだクミコのお姉さんに何をしたかも、今では見当がついています。これは嘘じゃありません。あなたはこれまでにいろんな人々を一貫して損ない続けてきたし、これからも損なっていくことでしょう。

「損ない続ける」という表現は今までの作品でもしばしば出現していた。それは主に自分で自分を損なうという意味で使われてきた。この作品ではそうではなく、損なう側は一定している。しかも自分ではない。そうすると綿谷ノボルというのは、やはり人格ではなく、悪魔でもなく、私たちの世界に潜む何かである。いや悪魔というのは結局のところ人間に他ならないのだから、鏡に映った自分自身の姿かもしれない。あるいは思い通りに行かない人生を阻害するもろもろの現象の象徴かもしれない。

318ページ
運命は獣医の宿業の病だった。彼はまだ小さな子供のころから「自分という人間は結局のところ何かの外部の力によって定められて生きているのだ」という、奇妙なほど明確な思いを抱いていた。あるいはそれは、彼の右の頬についている鮮やかな青いあざのせいかもしれなかった。
・・・しかし成長するにつれて、彼はその顔のあざを、切り離すことのてきない自分の一部として、「受け入れなくてはならないもの」として静かに受け入れる方法を少しずつ覚えていった。そのことも彼の運命に対する宿命的諦観を形作った要因のひとつであったかもしれない。

338ページ
そのねじの音に耳を澄ませているうちに、さまざまな断片的なイメージが彼の前に現われて、そして消えていった。あの若い主計中尉はソビエト軍に武装解除されたあとで中国側に引き渡され、この処刑の責任を問われて絞首刑に処される。伍長はシベリアの収容所でペストで死ぬ。

「ねじまき鳥」というのは、いったい何なのだろう?

342ページ
この「ねじまき鳥クロニクル#8」がシナモンによって語られた物語であることはまず間違いがなかった。彼は「ねじまき鳥クロニクル」というタイトルのもとに16の物語をコンピューターの中に書き記し、僕はたまたまその中の8番目の物語を選択して読んだわけだ。

344ページ
おそらくシナモンは自分という人間の存在理由を真剣に探しているのだ。
彼はそれを自分がまだ生まれる以前に遡って探索していたに違いない。

ヘーゲルの観念論を放棄した時に宗教や人間の存在理由は無くなってしまったのだろう。もちろん私たちが生きていく上ではそれは必要である。理由がないのに生きるのは苦痛なのだ。存在理由を求めてしまうというのも宿業のひとつだろう。

345ページ
しかしそれが偶然の一致であるにせよないにせよ、シナモンの物語では「ねじまき鳥」という存在が、大きな力を持っていた。人々はとくべつな人間にしか聞こえないその鳥の声によって導かれ、避けがたい破滅へと向かった。そこでは、獣医が終始一貫して感じ続けていたように、人間の自由意志などというものは無力だった。

「ねじまき鳥」の声を聞き、「避けがたい破滅」を感知する能力を「僕」は備えている。
「ねじまき鳥」もただ「破滅」を感知して鳴いているだけなのだろうか?

360ページ
おそらくナツメグとシナモンは僕との関係を断ってしまうことにしたのだ。あの奇妙な母子は沈みかけた船を離れて、どこか安全な場所に逃れたのだろう。そのことは僕を意外なくらい悲しい気持ちにさせた。まるで実の家族に最後で裏切られたような気持ちに。

369ページ
「それであなたはそれをネタにしてうまく馬を乗り換えたというわけですね?」と僕は訊いた。

382ページ
加納クレタの生んだ子供の名前はコルシカです、と加納マルタは夢の中で言った。

391ページ
それは誰あろうハルハ河の対岸でモンゴル人に山本の皮を剥がさせたあのロシア人の将校だったのです。
394ページ
「それは皮剥ぎボリスだよ」と彼は言いました。

408ページ
そして覚えのある花粉の鋭い匂いが僕の鼻をついた。僕はあの奇妙なホテルの部屋の中にいた。僕は顔をあげ、あたりを見回し、息をのみこんだ。
壁を抜けたのだ。

413ページ
彼は前と同じようにロッシーニの『泥棒かささぎ』序曲を吹いていた。

448ページ
「あなたは誰ですか?」
顔のない男は、何かを引き渡すように僕の手の中にそっとライトを置いた。「私は虚ろな人間です」と男は言った。

453ページ
「実を言うと、僕は君のことをクミコだと思っている。最初は気がつかなかったけれど、だんだんそう思うようになった」

457ページ
それは君が僕の側の世界から、綿谷ノボルの側の世界に移ったということだ。

459ページ
「・・・そして彼は今その力を使って、不特定多数の人々が暗闇の中に無意識に隠しているものを、外に引き出そうとしている。それを政治家としての自分のために利用しようとしている。それは本当に危険なことだ。彼の引きずりだすものは、暴力と血に宿命的にまみれている。そしてそれは歴史の奥にあるいちばん深い暗闇にまでまっすぐ結びついている。それは多くの人々を結果的に損ない、失わせるものだ」

ひとりの悪人が、みんなが「無意識に隠しているもの」を引きずり出したなら、その責任はすべて「ひとりの悪人」に帰せられるのだろうか? そいつじゃなくても別の悪人がいずれは引きずり出してしまうのではないだろうか? そして引きずり出された方は被害者なのだろうか? そういうのも「相互作用」ではないのだろうか?
個々の人間の相互作用の結果として、ひとりの悪人が生み出される場合だってあるだろう。その悪人にしたって「白いぐしゃぐしゃしたもの」を抱えているのだろう。

460ページ
「・・・でも君にはぼんやりとわかっていた。綿谷ノボルが何らかの方法でお姉さんを汚して傷つけたということがね。そして自分の血筋の中に何か暗い秘密のようなものがひそんでいて、あるいは自分もそれと無縁ではいられないかもしれないということがね」

470ページ
完璧なスイングだった。バットは相手の首のあたりを捉えた。骨の砕けるような嫌な音が聞こえた。三度目のスイングは頭に命中し、相手をはじき飛ばした。男は奇妙な短い声を上げて勢いよく床に倒れた。彼はそこに横たわって少し喉を鳴らしていたが、やがてそれも静まった。僕は目をつぶり、何も考えず、その音のあたりにとどめの一撃を加えた。そんなことをしたくなかった。でもしないわけにはいかなかった。憎しみからでもなく恐怖からでもなく、やるべきこととしてそれをやらなくてはならなかった。

ここでは「僕」の方が、彼に襲いかかる「運命」のようなものになっている。
相対的ということかもしれない。

471ページ
「それを見ちゃいけない」、誰かが大声で僕を押しとどめた。奥の部屋の闇の中からクミコの声がそう叫んでいた。
・・・僕はそれが何なのかを知りたかった。この闇の中心にいたものの姿を、僕が今ここで叩き潰したものの姿を、自分の目で見てみたかった。

477ページ
笠原メイ、君は肝心なときにいったいどこで何をしているんだ?

488ページ
「シナモンがあなたをここまで運んできたのよ」とナツメグが言った。

493ページ
彼女は僕にこの子供の名前はコルシカで、その半分の父親は僕で、あと半分は間宮中尉なのだと言った。

498ページ
それは私が兄である綿谷ノボルを殺さなくてはならないということです。

507ページ
「もし僕とクミコとのあいだに子供が生まれたら、コルシカという名前にしようと思っているんだ」と僕は言った。

加納クレタはクミコの影だから、子供が生まれたらコルシカという名前にするのは、自然なことかもしれない。だがコルシカは、あのナポレオンの出身地ということだ。クミコが呪われた血を抱えていて、生まれてきた子供がナポレオンのような「化け物」であるとしたなら、「それを見ちゃいけない」と闇の中で叫ぶクミコの気持ちはよくわかる。彼女は「化け物」を産みたくはなかったのだ。それを見てほしくなかったのだ。

509ページ
「さよなら、笠原メイ」と僕は言った。さよなら、笠原メイ、僕は君が何かにしっかりと守られることを祈っている。

「笠原メイ」をしっかりと守るべきなのは「僕」かもしれない。
どうして守ってあげないのだろう?

国境の南、太陽の西

2015-08-08 00:05:18 | 村上春樹
「島本さん」は「僕」の心にずっと住み続けていた。
もっとも深い記憶に刻み込まれたその姿は、男性を支配し続け、ギャツビーにとってのデイジーのように破滅をもたらすことすらある。その女性は、実際の美点とは関係なく、実際の彼の生活とも関係なく、彼の心の中に住み続けてきた。そういうことを種族保存の本能で説明しようとしてもうまくいかない。子供の頃に刻み込まれた記憶、焼き付けられた心象風景といったものは子孫を残すこととはあまり関係がないようだ。私たちは、遺伝子が目論んだ本来の目的から逸脱しまう、ややこしい存在なのだろう。乙女の絵姿と共に、満たされない欲望、渇ききった心もまた住みついてしまった。私たちはそのような理不尽なものを死ぬまで抱えているのだろう

8ページ
僕の通っていた学校では、兄弟を持たない子供は本当に珍しい存在だった。小学校の六年間を通じて、僕はたったひとりの一人っ子にしか出会わなかった。たったの一人だ。
11ページ
僕らは本を読むのが好きだった。音楽を聴くのが好きだった。猫が大好きだった。他人に対して自分の感じていることを説明するのが苦手だった。
17ページ
クラシック音楽の他に、島本さんの家のレコード棚にはナット・キング・コールとビング・クロスビーのレコードが混じっていた。僕らはその二枚のレコードも本当によく聴いた。
21ページ
「ある時間が経ってしまうと、いろんなものごとがもうかちかちに固まってしまうのよ。セメントがバケツの中で固まるみたいに。そしてそうなると、私たちはもうあと戻りできなくなっちゃうのよ。つまりあなたが言いたいのは、もうあなたというセメントはしっかりと固まってしまったわけだから、今のあなた以外のあなたはいないんだということでしょう?」
22ページ
ナット・キング・コールが『国境の南』を歌っているのが遠くの方から聞こえた。

そんなふうにして子供の頃の「僕」と島本さんは心を寄せ合っていた。仲が良かったからいつもいっしょに居たのか、いつもいっしょに居たから仲が良くなったのか、ある傾向が生じると、結晶が一定の方向に成長していくように、二人は同じ嗜好を持ち、同じ思考に慣れ、同じ志向へと向う。そして二人が過ごした時間が十分であるなら、あなたというセメントは私というセメントも同じように固まるのかもしれない。お互いの心が変らぬなら、お互いをずっと理解し続けることができるかもしれない、死ぬまでずっと。だが変らないままいることなんてできるのだろうか? ある種の人間は変化なしには生きられない。退屈してしまった「僕」は違う本を読み、違う音楽を聴いているうちに別の「僕」になってしまうこともあるだろう。変らぬことを嘆き、変ってしまったことを嘆く。どちらに転んでも嘆きしかなくなるだろう。やがて再会する「僕」と「島本さん」は変らぬことに喜びを覚える。
そしてそれが落とし穴であることに気付く。

24ページ
小学校を出ると、僕と彼女は別の中学校に進んだ。いろんな事情があって、僕はそれまで住んでいた家を出て、違う町に移った。

そんなふうにして「僕」と島本さんはいっしょに居る理由を失くしてしまった。引っ越ししたから会えなくなったというのではなくて、ただ会いに行かなくなったというだけのことだ。そんな経験は誰にでもあるのかもしれない。
小学校の頃に隣の席に座っていた女の子に年賀状をもらったりバレンタインデーのチョコレートをもらったりして有頂天になったことがある。その子は今、どうしているだろう。私は違う町の違う中学校に移った。彼女に住所すら告げず、翌年の年賀状も送らず、姿を消してしまった。大人になって、その町を訪れたことがある。彼女の家の表札には父親らしき人物の名が残っていた。彼女は町を去ってしまったのだろう。おそらくは私の知らないどこかの町で子供を育てているのだろう。大人になってから訪れたその町は、なんとなく薄汚れていた。瑞々しさが無くなっていた。あるいは子供だけが町の良さに気付き、新鮮な気持ちで常に何かを発見し、楽しく暮していけるのかもしれない。
薄汚れてしまったのはきっと私の方なのだ。

30ページ
イズミというのが彼女の名前だった。素敵な名前だね、と最初に会って話をしたときに僕は彼女に言った。
59ページ
彼女と出会ったとき僕は十七歳の高校三年生で、相手の女性は二十歳の大学二年生だった。そして彼女はこともあろうにイズミの従姉だった。
64ページ
しかし実際にはそうはならなかった。
実際には僕は彼女をひどく傷つけてしまった。僕は彼女を損なってしまった。

そんなふうにして「僕」はイズミを傷つけ損なってしまった。
ここでは綺麗ごとで済ませられる程度の過去の過ちにしか聞こえないが、
イズミについての話には続きがある。

78ページ
僕は年末の渋谷の雑踏の中で、島本さんにそっくりな脚のひきずり方をする女性を見かけた。
88ページ
それからテーブルの上に置かれたその封筒を手に取って、中をのぞいてみた。封筒の中には一万円札が十枚入っていた。
90ページ
それは本当に起こったのだ。僕は時々その封筒を机の上に置いてじっと眺めた。それは本当に起こったのだ。

事実の積み重ねによって、物証の積み重ねによって、記憶の積み重ねによって私たちは「それが本当に起こった」のだと信じることができる。封筒がなくなってしまえば、事実は、存在は、覆されてしまうかもしれない。誰もそれが本当にあったことであると断言できなくなる。あるいはそのことを録画していたなら、それが本当にあったのだと確信できるかもしれない。だがすべてを録画したところで、すべてを再生して見ることはできない。繰り返されぬ経験は忘れ去られる。私たちはそんなふうに作られている。

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三十になって僕は結婚した。僕は夏休みに一人で旅行をしているときに彼女と出会った。

95ページ
結局僕はそのビルの地下でジャズを流す、上品なバーを始めることにした。
・・・
店は予想を遥かに越えて繁盛し、二年後にはやはり青山にもう一軒別の店を出したなんだか。

98ページ
でも今僕がいる世界は既に、より高度な資本主義の論理によって成立している世界だった。僕は知らず知らずのうちにその世界にすっぽりと呑み込まれてしまっていたのだ。・・・これは僕の人生じゃないみたいだな、と。まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ。いったいこの僕という人間のどこまでが本当の自分で、どこから先が自分じゃないんだろう。それについて考えれば考えるほど、僕にはわけがわからなくなった。

○○主義は受け入れられないと言ったところで誰も聞いていない。また、△△主義がいいと言ったところで誰も聞いていない。資本主義というのは顧客優先に撤するものであって、つまりは相手の意向に沿うことが原則であり、誰もが自分の主張を押し殺して生きているということになる。そうすると「これは僕の人生じゃない」と思うのは当然なのだ。相手の意向に左右されたくないと願う自分が「本当の自分」であるならば資本主義の中でしぶとく生き延びる自分とは一致するはずがない。どちらも自分であるような気もするし、そもそも「自分」なんてものは幻想であるような気もする。もし、寿命があと一年しかないとしたらどうするだろうか?
「本当の自分」なんていないかもしれないが、まもなく自分が失われてしまうという状況が、「本当の自分」を生み出すこともある。

101ページ
でも何度かその葉書を見ているうちに、僕はそこに彼女の硬く冷たい感情を読み取ることができた。イズミはまだ僕のやったことを忘れてもいないし、許してもいないのだ。そして彼女はそのことを僕に知らせたかったのだ。
109ページ
「あのマンションの子供たちの多くは彼女のことを怖がっているんだ」

「僕」のやったことで、イズミというセメントは歪な固まり方をしてしまった。人間は他人に対して悪を為すことができる。意図的にそうしたわけではなくても結果的にそうなってしまう。たとえば私だって、ずいぶんとひどいことをしてきた。どうしてそうなってしまったのか、よくわからない。欲望に流されてしまったということかもしれない。強い意思があればそんなことは起こらなかったのかもしれない。誰かの欲望であるとか考え方であるとか、そういうものを押し付けられるのはいつも近くにいる他者だ。誰も許されないし、誰も許しはしない。

111ページ
「・・・なあ小学校の頃にウォルト・ディズニーの『砂漠は生きている』っていう映画見たことがあるだろう?」
「あれと同じだよ。この世界はあれと同じなんだよ。・・・ひとつの世代が死ぬと、次の世代がそれにとってかわる。それが決まりなんだよ。みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ。本当に生きているのは砂漠だけなんだ」

115ページ
彼女は十一月初めの月曜日の夜に、僕の経営するジャズ・クラブのカウンターで、ひとり静かにダイキリを飲んでいた。
117ページ
「素敵なお店ね」
118ページ
「島本さん」と僕は乾いた声で言った。
「思い出すのにけっこう時間がかかったのね」

そんなふうにして「ロビンズ・ネスト」に島本さんはやってきた。

126ページ
「私もあなたに会いたかったのよ」と彼女は言った。「でもあなたがこなかったのよ。それはわかっているでしょう?」

138ページ
でも二月の初めの、やはり雨の降る夜に彼女はやってきた。

145ページ
僕は今の仕事が好きだよ。僕は今二軒の店を持っている。でもそれはときどき、僕が自分の頭の中に作りだした架空の場所にすぎないように思えることがある。それはつまり空中庭園みたいなものなんだ。僕はそこに花を植えたり、噴水を作ったりしている。とても精妙に、とてもリアルにそれを作っている。そこに人々がやってきて、酒を飲んで、音楽を聴いて、話をして、そして帰っていく。どうして毎晩毎晩多くの人が高い金を払ってわざわざここに酒を飲みに来ると思う? それは誰もがみんな、多かれ少なかれ架空の場所を求めているからなんだよ。精妙に作られて空中に浮かんだように見える人工庭園を見るために、その風景の中に自分も入り込むために、かれらはここにやってくるんだよ」

147ページ
「でもあなたにはわかってないのよ。何も生み出さないというのが、どんなに空しいものかということが」
149ページ
「あなたどこか川を知らない?」
161ページ
その袋の中には小さな壺が入っていた。彼女はその壺の紐をほどき、そっと蓋を開けた。
そしてしばらくのあいだ中をじっとのぞきこんでいた。
164ページ
「あれは私の赤ん坊の灰なのよ。私が生んだ、ただ一人の赤ん坊の灰」と島本さんは独り言を言うように言った。

仕事に就いたこともないし、赤ん坊はすぐに死んでしまった。彼女は二重の意味で何も生み出さない空しさを抱えている。やっつけ仕事であったり、「雪かき」や「砂漠に水を撒く」ような仕事であったとしても、何もしないよりは救いがある。どんなにつまらない人生であったとしても、子供を育てていれば何かしらの救いはある。島本さんにはそういうものが一切ない。主人公が彼女のことを知りたいと言っても何も話さない。彼女のイメージのために生活臭を消しているというよりは、本当に語るべきものがないという設定かもしれない。その方がいっそう寂しい。

191ページ
それから僕はイズミのことをふと思い出した。おそらくその男が有紀子を深く傷つけたのと同じように、僕もイズミを深く傷つけたのだろう。有紀子はそのあとで僕にめぐり会った。でもおそらくイズミは誰にもめぐり会わなかったのだろう。

202ページ
「それに私は男の子たちの足手まといになるのが嫌だったの」と彼女は言った。

204ページ
「ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとには戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」

ここで「固まってしまう」というのは、21ページの「あなたというセメントはしっかりと固まってしまったわけだから」というところに対応しているのだと思う。人格形成であるとか、考え方の傾向であるとか、そういうもののことだ。何かが原因で狂ってしまったなら、「狂ったまま固まってしまう」のだ。そのようなものを抱えてずっと生きていくことになるのだ。十字架を抱えて生きるとか、地獄を抱えて生きるというのは、おそらくはそういうことなのだ。その十字架も地獄も自分自身であるので決して逃れることはできない。そんなこととは無関係の人と話していて愕然とすることがある。彼らは地獄があることなんて知らないのだ。

233ページ
「悪い星のもとに生まれた恋人たち」と島本さんは言った。「まるでなんだか私たちのために作られた曲みたいじゃない?」

241ページ
「あなたが運転しているのをこうして横で見ていると、私ときどき手を伸ばしてそのハンドルを思い切りぐっと回してみたくなるの。でもそんなことをしたら死んじゃうでしょうね」

243ページ
「国境の南、太陽の西」と彼女は言った。
「なんだい、その太陽の西っていうのは?」
「そういう場所があるのよ」と彼女は言った。

245ページ
「わからないわ。何かよ。東の地平線から上がって、中空を通り過ぎて、西の地平線に沈んでいく太陽を毎日毎日繰り返して見ているうちに、あなたの中で何かがぷつんと切れて死んでしまうの。そしてあなたは地面に鋤を放り出し、そのまま何も考えずにずっと西に向けて歩いていくの。太陽の西に向けて。そして憑かれたように何日も何日も飲まず食わずで歩きつづけて、そのまま地面に倒れて死んでしまうの。それがヒステリア・シベリアナ」

247ページ
「・・・だからあなたは私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本的な原則なの。・・・でももしあなたがそういうのは嫌だ、二度と私にどこにも行ってほしくないというのであれば、あなたは私を全部取らなくてはいけないの。私のことを隅から隅まで全部。私がひきずっているものや、私の抱え込んでいるものも全部。そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかっているの? それが何を意味しているかもわかっているの?」
「よくわかっているよ」と僕は言った。

256ページ
それは僕が生まれて初めて目にした死の光景だった。僕はそれまでに身近な誰かを亡くしたという体験を持たなかった。

身近な人が次々と死んでいく。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という「ノルウェイの森」の主題が繰り返されているのではないかと思う。
「あなた自身」の中で死は、現存在が現に存在しなくなることの可能性として成長していく。そのような死を抱えた部屋を「僕」は持っている。おそらくはみんな持っている。
そんなことを「ダンス・ダンス・ダンス」の感想に書いた。
この作品でも繰り返されているのだと思う。

259ページ
「僕は君のことを知りたいんだ」と僕は島本さんに言った。

261ページ
明日はもちろんやってきた。でも目が覚めたとき、僕は一人きりだった。

268ページ
「私が何を考えているか、あなたには、おそらく、わからない、と思う」と有紀子は言った。彼女は子供に何かを説明するときのようにゆっくりと言葉をひとつひとつ丁寧に発音していた。

今までの作品では主人公が思い悩むだけだったが、ここのところでそうした独りよがりの世界観に釘が刺される。自分のことを理解してもらわなくてもいいと考えている人間に対して
あなたこそ誰も理解することができないのだと通達される。

272ページ
「そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかっているの? それが何を意味しているかもわかっているの?」

このあと説明があるように「あなたの全部を取る」というのは「あなたといっしょに死ぬ」ということだ。だがそのことを口にした時点で、彼女にそうする気はないのだろう。

275ページ
それはもうかつてのあの精妙で鮮やかな色彩を帯びた空中庭園ではなかった。どこにでもあるただのうるさい酒場だった。すべては人工的で、薄っぺらで、うらぶれていた。そこにあるのは酔っぱらいから金をむしりとることを目的として作り上げられた、ただの舞台装置に過ぎなかった。

145ページの記述と相反する。自分を忘れることができる架空の場所、夢とかファンタジーとか、いつもの自分が嫌で嫌でたまらない人、ポジティブに問題解決に取り組んではいるが本当はそんな自分が好きではない人、彼らは空中庭園とか人工庭園を求めるのだ。そしてそんなまがい物を差し出して夢を売る輩というのは「酔っ払いから金をむしりとっている」だけなのだ。あるいは経営者が自信に満ちている場合は空中庭園だが、内省的になると金をむしりとる舞台装置だと思うのかもしれない。都合の良いように思い込んでいる方がハッピーだろう。。

280ページ
でもその封筒が消えてしまったという事実を僕が認識し、僕の意識の中でその不在と存在とが位置をはっきりと交換してしまうと、封筒が存在するという事実に付随して存在していたはずの現実感も、同じように急速に失われていった。

今から百年後には、この小説があったことも忘れ去られているかもしれない。百年後の人々は私たちが喜んだことも悲しんだことも知らないし興味がないだろうし、ましてや何を認識していたか、何を事実だと思っていたか、そんなことはどうでもいいのだろう。私たちだって、百年前の人々が何を考えていたかだなんて知らないし興味がない。歴史上の人物についてのドラマを見たり、歴史小説を読んだりして、なんとなく自分がすごい人物の考え方に触れられるような気がしてなんとなくいい気分になっている。だが実際に、市民のひとりひとりが何を考え死んで行ったか、そんなことはわからないのだ。そうした些細な事実を拠り所にしてようやく成立する現実感というのは、おそらくは空想と紙一重なのだろう。自分自身の中ですら急速に失われてしまうのだ。

282ページ
ふと目をあげたとき、そこにはイズミの顔があった。
283ページ
彼女の顔には表情というものがなかったのだ。いや、それは正確な表現ではない。おそらく僕はこう言うべきだろう。彼女の顔からは、表情という名前で呼ばれるはずのものがひとつ残らず奪い去られていた、と。
285ページ
イズミはそこで僕を待っていたのだ、と僕は思った。彼女はいつもどこかで僕のことを待っていたのだ。どこかの街角で、どこかのガラス窓の奥で、彼女は僕がやってくるのを待っていたのだ。

「僕」の店が雑誌に載って島本さんが訪れてきたくらいだから、イズミが「僕」に近づいてきたとしても不思議はない。「僕」に損なわれてしまったイズミはずっと復讐の機会を窺っていたのだろうか?
復讐ということを明確に意識していなかったにしても、彼のまわりに居たかったのではないかと思う。表情のない、あるいは表情と呼ぶべきものがない彼女の様子は、すべてのものを呑み込もうとする「死」を象徴しているようだ。「あなたの全部を取る」と語る島本さんにも、その傾向はある。快活であったイズミは表情なき死神に転落してしまったが、そして島本さんは消えてしまう。

291ページ
でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。
295ページ
「・・・でもね、それにもかかわらず、何かがいつも私のあとを追いかけてくるの。真夜中に私は汗でぐっしょりになってはっと目が覚めるのよ。その、私が捨てたはずのものに追いかけられて。何かに追われているのはあなただけではないのよ。何かを捨てたり、何かを失ったりしているのはあなただけじゃないのよ」
299ページ
誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。

今までの作品では喪失感は「僕」固有のものだったが、本作では「私たち」の喪失感になっているのではないかと思う。だが「私たち」とは言っても共有するところまではいかない。
「背中にそっと手を置いた」のが誰かはわからない。喪失感を共有しようとする「誰か」かもしれない。