「中国行きのスロウ・ボート」は比較的まじめで受け取り方によっては重たいものを含む短編集という感じがするが、「カンガルー日和」にはそれほど深刻な要素はないのではないかと思う。(たぶん)
本当はとても重大なことが書かれているのだが見落としているだけかもしれない。(あるいは)
時には軽快な音楽を聴いて何も考えずに、ぼーっとしていた方がよいのだろう。(気分転換に)
そのような珠玉の名曲を集めたような短編集ではないかと思う。
感想は楽に、時にマニアックに書こうと思う。
【カンガルー日和】
「いちばん巨大で、いちばん物静かなのが父親カンガルーだ。彼は才能が枯れ尽きてしまった作曲家のような顔つきで餌箱の中の緑の葉をじっと眺めている」
「我々が立ち去る時にも父親カンガルーはまだ餌箱の中に失われた音符を捜し求めていた」
カンガルーの赤ちゃんを見に行く話なのだが、
「餌箱の中に失われた音符を捜し求める才能の枯渇してしまった物静かな父親カンガルーの姿」を払いのけることができない。じっと餌箱をのぞき込んでいる彼の肩をやさしく叩いて励ましてあげたいという気持ちになる。そんな寡黙な父親カンガルーとは対照的に赤ちゃんカンガルーは元気に飛び跳ねている。檻の外では身勝手な会話が続いている。
「ねえ、あの袋に入るって素敵だと思わない?」
「そうだね」
「ドラえもんのポケットって胎内回帰願望なのかしら?」
「どうかな」
「きっとそうよ」
【4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて】
100パーセントの男の子と100パーセントの女の子が出会う。「100パーセント」とはどういうことなのだろうか?
キズキと直子のことかもしれないし、佐伯さんとその恋人のことかもしれない。長編小説だと必ず不幸になってしまう組合せが「100パーセント」なのかもしれない。男性が心の中に抱き続ける一人の乙女の絵姿が「100パーセントの女の子」なのかもしれない。
「100パーセントの女の子」に出会ったとして「末永く幸せに暮らしました」といったことが約束されている人生を選ぶだろうか?
「100パーセントの女の子」は残りの可能性を1パーセントだって与えてはくれないかもしれない。そして可能性のないところで人は生きることができない。
【眠い】
「僕はあきらめてかきのグラタンを食べはじめた。古代生物のような味のするかきだった。かきを食べているうちに僕は見事な翼手竜になってあっという間に原生林を飛び越え、荒涼とした地表を冷ややかに見下ろした。
地表では大人しそうな中年のピアノ教師が小学校時代の新婦についての思い出を語っていた」
年に一回くらいは古代生物料理を食してみたいものだ。三葉虫のムニエルとか、堅くて無理?
【タクシーに乗った吸血鬼】
「もうひとつ質問していいかな?」
「どうぞどうぞ」
「どうしてタクシーの運転手やってるの?」
「吸血鬼という概念に捉われたくないからです。マントかぶったり、馬車に乗ったり、城に住んだりって、そんなの良くないですよ。私はちゃんと税金だって納めてるし、印鑑登録だってしています。ディスコにだって行くし、パチンコもします。おかしいですか?」
おかしいです。
【彼女の町と、彼女の緬羊】
「彼女の町。
僕は彼女の町の姿を想像することができた。一日に八回しか列車の停まらない駅、ストーヴのある待合室、寒々とした小さなロータリー、字が消えて半分も読めなくなってしまった町の案内図、マリーゴールドの花壇とななかまどの並木、人生に疲れ果てた汚れた白い犬、やけに広々とした通り、自衛隊員募集のポスター、三階建ての雑貨デパート、学生服と頭痛薬の看板、小さな旅館が一軒、農業協同組合と林業センターと畜産振興会の建物、風呂屋の煙突が一本だけぽつんと灰色の空に向かって立っている。大通りの先を左に折れ、二筋進んだところに町役場があり、広報課には彼女が座っている。小さな、退屈な町だ。一年の半分近くを雪に覆われている。そして彼女はその町のために広報の原稿を書きつづけている。<来る何月何日、緬羊消毒のための薬剤を配布致します。ご希望の方は何月何日までに所定の申し込み用紙んみ記入の上・・・>」
細部を描くことで悲しみが増していく。細部を読んでいると悲しみがつのって来る。私が訪れた、うらぶれた町にも「人生に疲れ果てた汚れた白い犬」がいて「駅のプラットホームの端から端まで」歩いていた。しけた町にはどこにでもそんな犬が歩いている。
【あしか祭り】
「僕はなんだかよくわからないまま肯いた。典型的なあしかレトリックだ。あしかはいつもこういったしゃべり方をする」
最初から最後まで「あしかレトリック」に満ちた話だ。
【鏡】
「いや、違うな、正確に言えばそれはもちろん僕なんだ。でもそれは僕以外の僕なんだ。それは僕がそうあるべきではない形での僕なんだ。うまく言えないよ。でもその時ただひとつ僕に理解できたことは、相手が心の底から僕を憎んでいるってことだった。まるで暗い氷山のような憎しみだった。僕にはそれだけを理解することができた」
「心の底から僕を憎んでいる僕以外の僕」というのはいったい何なのだろう?
「ヘタレな自分を変えたい」というような場合には、僕と「僕以外の僕」に分離されることはないのだと思う。僕は単に僕が嫌なのだ。それに「ヘタレな僕」が僕を心の底から憎むなんてあり得ないだろう。僕と「ヘタレな僕」はそれなりに協調しながらうまく行かない人生を共に歩んできたのだ。長年の功績を讃えて互いに感謝し合ってもいいくらいだ。
「心の底から僕を憎んでいる僕以外の僕」の心のうちを僕は読み取ることができるようだ。その憎悪を肌で感じているのだから。それでも僕は「僕以外の僕」に決して出番を与えない。意識の表層に現れることを許さない。
「そうあるべきではない」と僕が考えているのだから当然だ。でも完全に押さえ込むことができていたのなら僕が「僕以外の僕」の姿を見るはずはないだろう。おそらく僕は「彼」を知らなくてはならない。理解しなくてはならない。許さなくてはならない。
【1963/1982年のイパネマ娘】
ブラジルにイパネマという美しい海岸があるということだ。
「ブラジルの首都リオデジャネイロにある海岸。リオデジャネイロの南地区に位置し、コパカバーナ南端の岬の先にある高級住宅地に面した、しゃれた雰囲気の静かな海岸である」
「イパネマの娘」は1962年に作曲(1963年に録音)されたボサノヴァの名曲ということだ。「もし齢をとっていたとしたら、彼女はもうかれこれ四十に近いはずだ」
1982年から1963年を回顧して著者はそのように書いている。ところが今は2015年(そしてすぐに過去となる)であり、彼女は七十ということになる。そして彼女の孫か曾孫が彼女そっくりの姿で海をみつめているかもしれない。
【バート・バカラックはお好き】
バート・バカラックは作曲家で「雨にぬれても」「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」でアカデミー賞を受賞している。タイトルはサガンの「ブラームスはお好き?」との組合せらしい。「僕はあの時彼女と寝るべきだったんだろうか? これがこの文章のテーマだ」ということである。
そんなことしらない。
【5月の海岸線】
「僕は預言する。
五月の太陽の下を、両手に運動靴をぶら下げ、古い防波堤の上を歩きながら僕は預言する。君たちは崩れ去るだろう、と。何年先か、何十年先か、何百年先か、僕にはわからない。でも、君たちはいつか確実に崩れ去る。山を崩し、海を埋め、井戸を埋め、死者の魂の上に君たちが打ち建てたものはいったい何だ? コンクリートと雑草と火葬場の煙突、それだけじゃないか」
そんな感じの「僕と鼠の物語」的な情景が描かれている。ここはかつて子供の頃によく泳いだ海岸であったと、今ではコンクリートが敷き詰められてしまったのだと、墓標のような高層アパートが立ち並ぶようになってしまったのだと。
長崎の出島を訪れた時にがっかりしたことがある。観光案内によると、どの教科書にも描かれている扇形をした人工の島がむかしここにあったんですということだがどこを見ても普通の建物しかなく、普通の道路しかなく、おまけに普通の自動車が走っていた。埋め立てられてしまった海岸にはそのような悲しみがつきまとう。
【駄目になった王国】
「我々はスポンサーなしではやってけないんだよ」
そんな感じで、かつての魅力的な青年がすっかり落ちぶれてしまったということが「駄目になった王国」の意味するところらしい。その落差が物悲しいということだ。
【32歳のデイトリッパー】
タイトルはビートルズの「デイ・トリッパー」を指している。この曲は1965年に作曲されている。半世紀も前のことになる。私は中学生の頃からビートルズを聴いている。時々ものすごく聴きたくなる。デイ・トリッパーには「日帰り旅行客」の他に「ドラッグでトリップする人」という意味があるそうだ。どうりでビートルズはやみつきになるわけだ。
【とんがり焼の盛衰】
とんがり鴉がとんがり焼を求めて激しい乱闘を繰り広げる。
「それがとんがり焼であるか非とんがり焼であるか、それだけが生存をかけた問題なのだ」ということだ。「とんがり焼」というのは、それをめぐって人々が争う価値観の象徴なのだろう。たかが菓子なのであって、たいていの場合は命をかけるに値しないのだろう。「とんがり鴉」はきっとあなたのそばにもいることだろう。彼らの乱闘に巻き込まれてはいけない。
【チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏】
もう少し具体的には「両脇を二種類の線路が走るチーズ・ケーキのような三角地帯に建てられた家賃が格安の物件に住むという形の貧乏」ということだ。
「日が暮れると僕と彼女と猫は布団の中にもぐりこみ、文字どおり抱きあって眠った」ということだ。
「冬が終わると、春がやってきた。春は素敵な季節だった。春がやってくると、僕も彼女も猫もほっとした」ということだ。
「僕と彼女と猫」「僕も彼女も猫も」というところが微笑ましくて、うちにも猫がいればいいなと思った。
【スパゲティーの年に】
「そして冷蔵庫の余り物を出鱈目に放り込まれた悲劇的な名もないスパゲティーたち」
同じ麺類でも、うどんやそばでは悲劇は起きないだろう。ラーメンではその確率は増すような気がする。けっこうなんでも入れてしまう。みそ・しょうゆ・塩のいずれかに味が支配されるのでラーメンの悲劇はスパゲティーほどではない。
【かいつぶり】
「だって合言葉はかいつぶりじゃないんだから」
「じゃあ何だい?」
彼は一瞬絶句した。「それは言えない」
「存在しないからさ」と僕は能力の許す限り冷ややかに言い放った。「かいつぶり以外に水に関係があって、手のひらに入るけど食べられない五文字のことばなんてひとつもないよ」
「でもあるんだよ」と彼は泣きそうな声で言った。
「ないよ」
「ある」
「あるという証拠がない」と僕は言った。
かいつぶりは水には関係があるだろうが、手のひらに入るか微妙だし食べられるかも微妙で、
開き直って論理破綻した答えを押し付けているようだ。その間違いを指摘したくても合言葉を口にはできない「彼」が泣きそうな気持ちになるのはよくわかる。
「あるという証拠がない」だって・・・ははは。
【サウスベイ・ストラット】
「サウスベイ・ストラット」は「ドゥービー・ブラザーズ」の「ワン・ステップ・クローサー」に収録されている曲ということだ。一度も聴いたことがない。YouTubeで検索してみたが見つからなかった。仕方がないのでしばらくの間、ドゥービー・ブラザーズの他の曲を聴いていた。YouTubeで曲が簡単に聴けるようになったので音楽で金儲けをすることは以前より困難になってしまったかもしれない。
【図書館奇譚】
<羊男さんには羊男さんの世界があるの。私には私の世界があるの。あなたにはあなたの世界がある。そうでしょ?>
「そうだね」と僕は言った。
<だから羊男さんの世界で私が存在しないからって、私がまるで存在しないことにはならないでしょ?>
「うん」と僕は言った。「つまり、そんないろんな世界がみんなここでいっしょになっているってことなんだね。そして重なりあってる部分もあるし、重なりあっていない部分もある」
そういうことが書かれていた。
いろんな価値観を持つ様々な人々がいるので「各々の世界は独立している」というようなことではないと思う。ここは「図書館」であり「いろんな世界」を描いた本が「みんなここでいっしょになっている」ということかもしれない。あるいは僕と羊男と美少女と老人はひとりの人間の意識の中に住まう別々の人格であり、その一部が「重なりあっている」ということかもしれない。老人は他の人格の存在を許さない「超自我」のようなものかもしれない。老人が脳味噌をちゅうちゅう吸うことで他の人格は毀損されてしまい、その結果、美少女に会えなくなってしまうのかもしれない。そのようにして意識の中で戦いが繰り広げられ「僕」は美少女(むくどり)に助けてもらう。「僕」の大好きなむくどり(親しみのようなもの)が、小さい頃の「僕」を噛んだ犬(痛みのようなもの)の口を裂き骨を砕く。あるいは「僕」は本を読んでいる間に物語の世界から抜け出せなくなったのかもしれないし、自ら迷路を抜けて意識の最下部へと降って行ったのかもしれない。死んでしまった妻を冥界に尋ねるオルフェウスのように。そういうところを訪れて、元の世界に戻ってくるというのは、けっこうたいへんなことなのだろう。最後に母親が死ぬ。おそらく母親は、図書館でむくどりの攻撃を受けた老人ではないかと思う。
図書館:老人(犬)―美少女
家:母親(犬)―むくどり
そうするとこの物語は「僕」の自立を暗示していることになるのだろう。母親以外のものに向けられた親しみが「僕」を自立させると共に母親が存在する意味をなくしてしまうのだろう。
※図書館(普通の図書館)でカット・メンシックがイラストを描いている「図書館奇譚」を見つけた。ものすごくリアルな羊男のイラストがあった。
「こんなの羊男じゃねーっ」
「羊をめぐる冒険」に描かれているあのしょぼい羊男のイメージから抜け出せない読者は
そう思うに違いない。
本当はとても重大なことが書かれているのだが見落としているだけかもしれない。(あるいは)
時には軽快な音楽を聴いて何も考えずに、ぼーっとしていた方がよいのだろう。(気分転換に)
そのような珠玉の名曲を集めたような短編集ではないかと思う。
感想は楽に、時にマニアックに書こうと思う。
【カンガルー日和】
「いちばん巨大で、いちばん物静かなのが父親カンガルーだ。彼は才能が枯れ尽きてしまった作曲家のような顔つきで餌箱の中の緑の葉をじっと眺めている」
「我々が立ち去る時にも父親カンガルーはまだ餌箱の中に失われた音符を捜し求めていた」
カンガルーの赤ちゃんを見に行く話なのだが、
「餌箱の中に失われた音符を捜し求める才能の枯渇してしまった物静かな父親カンガルーの姿」を払いのけることができない。じっと餌箱をのぞき込んでいる彼の肩をやさしく叩いて励ましてあげたいという気持ちになる。そんな寡黙な父親カンガルーとは対照的に赤ちゃんカンガルーは元気に飛び跳ねている。檻の外では身勝手な会話が続いている。
「ねえ、あの袋に入るって素敵だと思わない?」
「そうだね」
「ドラえもんのポケットって胎内回帰願望なのかしら?」
「どうかな」
「きっとそうよ」
【4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて】
100パーセントの男の子と100パーセントの女の子が出会う。「100パーセント」とはどういうことなのだろうか?
キズキと直子のことかもしれないし、佐伯さんとその恋人のことかもしれない。長編小説だと必ず不幸になってしまう組合せが「100パーセント」なのかもしれない。男性が心の中に抱き続ける一人の乙女の絵姿が「100パーセントの女の子」なのかもしれない。
「100パーセントの女の子」に出会ったとして「末永く幸せに暮らしました」といったことが約束されている人生を選ぶだろうか?
「100パーセントの女の子」は残りの可能性を1パーセントだって与えてはくれないかもしれない。そして可能性のないところで人は生きることができない。
【眠い】
「僕はあきらめてかきのグラタンを食べはじめた。古代生物のような味のするかきだった。かきを食べているうちに僕は見事な翼手竜になってあっという間に原生林を飛び越え、荒涼とした地表を冷ややかに見下ろした。
地表では大人しそうな中年のピアノ教師が小学校時代の新婦についての思い出を語っていた」
年に一回くらいは古代生物料理を食してみたいものだ。三葉虫のムニエルとか、堅くて無理?
【タクシーに乗った吸血鬼】
「もうひとつ質問していいかな?」
「どうぞどうぞ」
「どうしてタクシーの運転手やってるの?」
「吸血鬼という概念に捉われたくないからです。マントかぶったり、馬車に乗ったり、城に住んだりって、そんなの良くないですよ。私はちゃんと税金だって納めてるし、印鑑登録だってしています。ディスコにだって行くし、パチンコもします。おかしいですか?」
おかしいです。
【彼女の町と、彼女の緬羊】
「彼女の町。
僕は彼女の町の姿を想像することができた。一日に八回しか列車の停まらない駅、ストーヴのある待合室、寒々とした小さなロータリー、字が消えて半分も読めなくなってしまった町の案内図、マリーゴールドの花壇とななかまどの並木、人生に疲れ果てた汚れた白い犬、やけに広々とした通り、自衛隊員募集のポスター、三階建ての雑貨デパート、学生服と頭痛薬の看板、小さな旅館が一軒、農業協同組合と林業センターと畜産振興会の建物、風呂屋の煙突が一本だけぽつんと灰色の空に向かって立っている。大通りの先を左に折れ、二筋進んだところに町役場があり、広報課には彼女が座っている。小さな、退屈な町だ。一年の半分近くを雪に覆われている。そして彼女はその町のために広報の原稿を書きつづけている。<来る何月何日、緬羊消毒のための薬剤を配布致します。ご希望の方は何月何日までに所定の申し込み用紙んみ記入の上・・・>」
細部を描くことで悲しみが増していく。細部を読んでいると悲しみがつのって来る。私が訪れた、うらぶれた町にも「人生に疲れ果てた汚れた白い犬」がいて「駅のプラットホームの端から端まで」歩いていた。しけた町にはどこにでもそんな犬が歩いている。
【あしか祭り】
「僕はなんだかよくわからないまま肯いた。典型的なあしかレトリックだ。あしかはいつもこういったしゃべり方をする」
最初から最後まで「あしかレトリック」に満ちた話だ。
【鏡】
「いや、違うな、正確に言えばそれはもちろん僕なんだ。でもそれは僕以外の僕なんだ。それは僕がそうあるべきではない形での僕なんだ。うまく言えないよ。でもその時ただひとつ僕に理解できたことは、相手が心の底から僕を憎んでいるってことだった。まるで暗い氷山のような憎しみだった。僕にはそれだけを理解することができた」
「心の底から僕を憎んでいる僕以外の僕」というのはいったい何なのだろう?
「ヘタレな自分を変えたい」というような場合には、僕と「僕以外の僕」に分離されることはないのだと思う。僕は単に僕が嫌なのだ。それに「ヘタレな僕」が僕を心の底から憎むなんてあり得ないだろう。僕と「ヘタレな僕」はそれなりに協調しながらうまく行かない人生を共に歩んできたのだ。長年の功績を讃えて互いに感謝し合ってもいいくらいだ。
「心の底から僕を憎んでいる僕以外の僕」の心のうちを僕は読み取ることができるようだ。その憎悪を肌で感じているのだから。それでも僕は「僕以外の僕」に決して出番を与えない。意識の表層に現れることを許さない。
「そうあるべきではない」と僕が考えているのだから当然だ。でも完全に押さえ込むことができていたのなら僕が「僕以外の僕」の姿を見るはずはないだろう。おそらく僕は「彼」を知らなくてはならない。理解しなくてはならない。許さなくてはならない。
【1963/1982年のイパネマ娘】
ブラジルにイパネマという美しい海岸があるということだ。
「ブラジルの首都リオデジャネイロにある海岸。リオデジャネイロの南地区に位置し、コパカバーナ南端の岬の先にある高級住宅地に面した、しゃれた雰囲気の静かな海岸である」
「イパネマの娘」は1962年に作曲(1963年に録音)されたボサノヴァの名曲ということだ。「もし齢をとっていたとしたら、彼女はもうかれこれ四十に近いはずだ」
1982年から1963年を回顧して著者はそのように書いている。ところが今は2015年(そしてすぐに過去となる)であり、彼女は七十ということになる。そして彼女の孫か曾孫が彼女そっくりの姿で海をみつめているかもしれない。
【バート・バカラックはお好き】
バート・バカラックは作曲家で「雨にぬれても」「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」でアカデミー賞を受賞している。タイトルはサガンの「ブラームスはお好き?」との組合せらしい。「僕はあの時彼女と寝るべきだったんだろうか? これがこの文章のテーマだ」ということである。
そんなことしらない。
【5月の海岸線】
「僕は預言する。
五月の太陽の下を、両手に運動靴をぶら下げ、古い防波堤の上を歩きながら僕は預言する。君たちは崩れ去るだろう、と。何年先か、何十年先か、何百年先か、僕にはわからない。でも、君たちはいつか確実に崩れ去る。山を崩し、海を埋め、井戸を埋め、死者の魂の上に君たちが打ち建てたものはいったい何だ? コンクリートと雑草と火葬場の煙突、それだけじゃないか」
そんな感じの「僕と鼠の物語」的な情景が描かれている。ここはかつて子供の頃によく泳いだ海岸であったと、今ではコンクリートが敷き詰められてしまったのだと、墓標のような高層アパートが立ち並ぶようになってしまったのだと。
長崎の出島を訪れた時にがっかりしたことがある。観光案内によると、どの教科書にも描かれている扇形をした人工の島がむかしここにあったんですということだがどこを見ても普通の建物しかなく、普通の道路しかなく、おまけに普通の自動車が走っていた。埋め立てられてしまった海岸にはそのような悲しみがつきまとう。
【駄目になった王国】
「我々はスポンサーなしではやってけないんだよ」
そんな感じで、かつての魅力的な青年がすっかり落ちぶれてしまったということが「駄目になった王国」の意味するところらしい。その落差が物悲しいということだ。
【32歳のデイトリッパー】
タイトルはビートルズの「デイ・トリッパー」を指している。この曲は1965年に作曲されている。半世紀も前のことになる。私は中学生の頃からビートルズを聴いている。時々ものすごく聴きたくなる。デイ・トリッパーには「日帰り旅行客」の他に「ドラッグでトリップする人」という意味があるそうだ。どうりでビートルズはやみつきになるわけだ。
【とんがり焼の盛衰】
とんがり鴉がとんがり焼を求めて激しい乱闘を繰り広げる。
「それがとんがり焼であるか非とんがり焼であるか、それだけが生存をかけた問題なのだ」ということだ。「とんがり焼」というのは、それをめぐって人々が争う価値観の象徴なのだろう。たかが菓子なのであって、たいていの場合は命をかけるに値しないのだろう。「とんがり鴉」はきっとあなたのそばにもいることだろう。彼らの乱闘に巻き込まれてはいけない。
【チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏】
もう少し具体的には「両脇を二種類の線路が走るチーズ・ケーキのような三角地帯に建てられた家賃が格安の物件に住むという形の貧乏」ということだ。
「日が暮れると僕と彼女と猫は布団の中にもぐりこみ、文字どおり抱きあって眠った」ということだ。
「冬が終わると、春がやってきた。春は素敵な季節だった。春がやってくると、僕も彼女も猫もほっとした」ということだ。
「僕と彼女と猫」「僕も彼女も猫も」というところが微笑ましくて、うちにも猫がいればいいなと思った。
【スパゲティーの年に】
「そして冷蔵庫の余り物を出鱈目に放り込まれた悲劇的な名もないスパゲティーたち」
同じ麺類でも、うどんやそばでは悲劇は起きないだろう。ラーメンではその確率は増すような気がする。けっこうなんでも入れてしまう。みそ・しょうゆ・塩のいずれかに味が支配されるのでラーメンの悲劇はスパゲティーほどではない。
【かいつぶり】
「だって合言葉はかいつぶりじゃないんだから」
「じゃあ何だい?」
彼は一瞬絶句した。「それは言えない」
「存在しないからさ」と僕は能力の許す限り冷ややかに言い放った。「かいつぶり以外に水に関係があって、手のひらに入るけど食べられない五文字のことばなんてひとつもないよ」
「でもあるんだよ」と彼は泣きそうな声で言った。
「ないよ」
「ある」
「あるという証拠がない」と僕は言った。
かいつぶりは水には関係があるだろうが、手のひらに入るか微妙だし食べられるかも微妙で、
開き直って論理破綻した答えを押し付けているようだ。その間違いを指摘したくても合言葉を口にはできない「彼」が泣きそうな気持ちになるのはよくわかる。
「あるという証拠がない」だって・・・ははは。
【サウスベイ・ストラット】
「サウスベイ・ストラット」は「ドゥービー・ブラザーズ」の「ワン・ステップ・クローサー」に収録されている曲ということだ。一度も聴いたことがない。YouTubeで検索してみたが見つからなかった。仕方がないのでしばらくの間、ドゥービー・ブラザーズの他の曲を聴いていた。YouTubeで曲が簡単に聴けるようになったので音楽で金儲けをすることは以前より困難になってしまったかもしれない。
【図書館奇譚】
<羊男さんには羊男さんの世界があるの。私には私の世界があるの。あなたにはあなたの世界がある。そうでしょ?>
「そうだね」と僕は言った。
<だから羊男さんの世界で私が存在しないからって、私がまるで存在しないことにはならないでしょ?>
「うん」と僕は言った。「つまり、そんないろんな世界がみんなここでいっしょになっているってことなんだね。そして重なりあってる部分もあるし、重なりあっていない部分もある」
そういうことが書かれていた。
いろんな価値観を持つ様々な人々がいるので「各々の世界は独立している」というようなことではないと思う。ここは「図書館」であり「いろんな世界」を描いた本が「みんなここでいっしょになっている」ということかもしれない。あるいは僕と羊男と美少女と老人はひとりの人間の意識の中に住まう別々の人格であり、その一部が「重なりあっている」ということかもしれない。老人は他の人格の存在を許さない「超自我」のようなものかもしれない。老人が脳味噌をちゅうちゅう吸うことで他の人格は毀損されてしまい、その結果、美少女に会えなくなってしまうのかもしれない。そのようにして意識の中で戦いが繰り広げられ「僕」は美少女(むくどり)に助けてもらう。「僕」の大好きなむくどり(親しみのようなもの)が、小さい頃の「僕」を噛んだ犬(痛みのようなもの)の口を裂き骨を砕く。あるいは「僕」は本を読んでいる間に物語の世界から抜け出せなくなったのかもしれないし、自ら迷路を抜けて意識の最下部へと降って行ったのかもしれない。死んでしまった妻を冥界に尋ねるオルフェウスのように。そういうところを訪れて、元の世界に戻ってくるというのは、けっこうたいへんなことなのだろう。最後に母親が死ぬ。おそらく母親は、図書館でむくどりの攻撃を受けた老人ではないかと思う。
図書館:老人(犬)―美少女
家:母親(犬)―むくどり
そうするとこの物語は「僕」の自立を暗示していることになるのだろう。母親以外のものに向けられた親しみが「僕」を自立させると共に母親が存在する意味をなくしてしまうのだろう。
※図書館(普通の図書館)でカット・メンシックがイラストを描いている「図書館奇譚」を見つけた。ものすごくリアルな羊男のイラストがあった。
「こんなの羊男じゃねーっ」
「羊をめぐる冒険」に描かれているあのしょぼい羊男のイメージから抜け出せない読者は
そう思うに違いない。