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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

ポラーノの広場

2013-04-13 00:05:05 | 宮沢賢治
角川文庫の宮沢賢治「ポラーノの広場」を読んだ。以下に示す短編が入っている。
ポラーノの広場・黄いろのトマト・氷と後光・革トランク・泉ある家・十六日・手紙一~四
毒蛾・紫紺染について・バキチの仕事・サガレンと八月・若い木霊
タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった

「ポラーノの広場」は2回読んだが、何が良いのかいまいちわからない。
解説によると「理想の共同体とはどうあるべきか、という問を私たちに投げかけています」ということらしい。

「そうだぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。
けれどもやっとのことでそれをさがすとそれは選挙につかう酒盛りだった。
けれどもむかしのほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない。」
「だからぼくらはぼくらの手でこれからそれを拵えようではないか。」
「そうだあんな卑怯な、みっともないわざとじぶんでごまかすようなそんなポラーノの広場でなく、
そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えばもう元気ついてあしたの仕事中
からだいっぱい勢がよくて面白いようなそういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」
「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」

共産主義という幻想は賢人を盲目にするのだろうか?
民主主義という共同体は機会は平等に与えられており
幸福や支配や勝利や報酬や社会的地位は自らの努力の賜物であると主張する。
封建社会は貴族という生得的な地位を正当化していたが
民主主義社会もまた個人の能力という生得的なものによる支配を正当化している。
それは自然な姿であり人為的な共産主義とは異なる。
封建社会であっても民主主義社会であっても強者が支配するという論理に変わりはない。
そのような不平等は決して是正されない。
裁判所が一票の格差を違憲としたところで強者による支配は揺るがない。
昔も今も共産主義の指導者が圧倒的な権力を保有してしまうということも
強者が支配するという論理を支持している。

だから「ぼくらの手でこれからそれを拵えようではないか」と言われてもねぇ。
そうやって拵えた共同体の指導者が独裁者になってしまうのだから
私にはよくわからない・・・

「サガレンと八月」がいちばんおもしろかった。
・・・するとすぐ私の足もとから引いて行った潮水はまた巻き返して波になって
さっとしぶきをあげながらまた叫びました。
「何にするんだ、何にするんだ、貝殻なんぞ何にするんだ。」
私はむっとしてしまいました。
「あんまり訳がわからないな、ものと云うものはそんなに何でもかでも何かにしなけぁ
いけないもんじゃないんだよ。そんなことおれよりおまえたちが
もっとよくわかってそうなもんじゃないか。」
すると波はすこしたじろいだようにからっぽな音をたててからぶつぶつ呟くように答えました。
「おれはまた、おまえたちならきっと何かにしかけぁ済まないものと思ってたんだ。」
・・・これはまるでカントだな。

ビジテリアン大祭

2013-04-07 00:05:05 | 宮沢賢治
角川文庫の宮沢賢治「ビジテリアン大祭」を読んだ。以下に示す短編が入っている。
ビジテリアン大祭・二十六夜・よく利く薬とえらい薬・馬の頭巾・税務署長の冒険
マリヴロンと少女・フランドン農学校の豚・葡萄水・車・虔十公園林
毒もみのすきな署長さん

背表紙に「迫力の大虚構劇「ビジテリアン大祭」をはじめ、「二十六夜」
「フランドン農学校の豚」など、生きるために他の命を奪わねばならぬ宿業に挑み、
生きとし生けるものすべてに対する慈しみと祈りに満ちた作品」と書いてある。
この三つの作品は肉食という同一のテーマを扱っているが、
それは菜食主義における誤解、あるいは生存のための殺生と宗教の関係、
畜産の生業の結果として殺される豚の心理描写というふうに
それぞれに異なる風景として現れる。

賢治もビジテリアン(ベジタリアン)なのだろうが作品中での指摘がおもしろい。
「ビジテリアンの主張は全然誤謬である。今この陰気な非学術的思想を動物心理学的に
批判してみよう。ビジテリアンたちは動物が可哀そうだから食べないという。
動物が可哀そうだということがどうしてわかるか。ただこっちが可哀そうだと
思うだけである。全体豚などが死というような高等な観念を持っているものではない。
あれはただ腹が空った、かぶらの茎、噛みつく、うまい、厭きた、ねむり、起きる、
鼻がつまる、ぐうと鳴らす、腹がへった、麦糠、たべる、うまい、つかれた、
ねむる、という工合に一つずつの小さな現在が続いているだけである」
そういうことが書かれている。

まるで哲学でいうところの他我問題を扱っているようだ。
「一つずつの小さな現在が続いている」とは私たちのことを指しているようだ。
そして私たちには「他人がそう思っている」ことがわからない。
ただ「こっちが可哀そうだと思う」から「わかっている」と思うだけだ。

「フランドン農学校の豚」で殺される側に立つ豚の叫びは悲痛なものだ。
「死亡をするということは私が一人で死ぬのですか」と書いてある。
他人の死など関係がない。死とは「私が一人で死ぬ」ことであるからだ。
それ以外の死など死ではない。一人称で語る死以外は死ではない。
「ビジテリアン大祭」における死はどこまでも三人称で「私」には無関係なものであり、
「フランドン農学校の豚」における死は一人称で切実なものとなる。

「二十六夜」は宗教色が濃いが、それを強要しているわけではない。
「それも鳥に生まれてただやすやすと生きるというても、まことはただの一日とても、
ただごとではないのぞよ、こちらが一日生きるには、雀やつぐみや、たにしやみみずが、
十や二十も殺されねばならぬ、ただ今のご文にあらしゃるとおりじゃ。
ここの道理をよく聴きわけて、必らずうかうか短い一生をあだにすごすではないぞよ」
なんてことが書いてある。
「私」一人が一日生きていくためには、小さな生き物が「十や二十も殺されねばならぬ」という。
それは殺される側の論理からは容認できない。

「爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰く、諦に聴け、諦に聴け、善く之を思念せよ、
我今汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。
 爾迦夷、則ち、両翼を開張し、虔しく頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、
疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐に座に復し、拝跪して唯願ふらく、
疾翔大力、疾翔大力、たゞ我等が為に、これを説きたまへ。たゞ我等が為に、之を説き給へと」
一見するとどう読んでよいかわからない難しい文章だが、本にはふりがながうってある。
そして何度も読んでいると不思議なリズム感があることに気付く。

「うん。尤もじゃ。なれども他人は恨むものではないぞよ。みな自らがもとなのじゃ。
恨みの心は修羅となる。かけても他人は恨むでない」
坊さんの梟はそう語っている。

だが原因の原因のそのまた原因へと遡って行く私たちの知性は、
カンブリア紀に生じた「食う食われる」の関係が進化のスピードを加速させたと考えている。
「可哀そうだ」なんて感じる生き物に進化させた原因が「食う食われる」なのだとしたら?
その結果として私たちが存在するのだとしたら?
?????

風の又三郎

2013-03-30 00:05:05 | 宮沢賢治
新潮文庫の宮沢賢治「風の又三郎」を読んだ。以下に示す短編が入っている。
やまなし・貝の火・蜘蛛となめくじと狸・ツェねずみ・クンねずみ・蛙のゴム靴
二十六夜・雁の童子・十月の末・フランドン農学校の豚・虔十公園林・谷
鳥をとるやなぎ・祭の晩・グスコーブドリの伝記・風の又三郎

解説者によると飢饉に襲われた世界を出発点としているところは同じだが、
「グスコーブドリの伝記」は「蜘蛛となめくじと狸」のはるかな延長上に位置する
作品ということである。
私は「グスコーブドリの伝記」もよいけど「蜘蛛となめくじと狸」もお気に入りだ。
「さて蜘蛛はとけて流れ、なめくじはペロリとやられ、そして狸は病気にかかりました」
なんて書いてある。「ペロリとやられ」というところが良い。

どういうわけか今まで宮沢賢治の作品に入っていくことができなかったが
不思議なことに今回は、すっと入っていくことができた。何事もタイミングというものがあるらしい。
それが理解できるまで成熟していない場合には入っていけない。
何時、何に対して成熟しているかは人によって違うのだと思う。
それに何か難解なこと、高尚なことがわかるようになったというわけでもない。
ただそこに書いてあることを読んでおもしろいと思う。
それだけのことだ。