7月21日午前9時10分。わずかに遅れて石見空港に到着。その足で医師会病院に向かう。今回は、バスを利用。前回の帰郷が人との接点が少なかったことを反省してのことだ。
10時前、病院に到着。318号室。4人部屋の入り口で名札を確認し、入室した。
見当たらない。人探し顔の僕を見つけ、同室の人が近付き声を掛けてくる。
「今、トイレだと思うんじゃけどねえ。ま、腰掛けて待ってとりんさいや」と、手招きをする。ベ . . . 本文を読む
40歳になる直前、僕は日高という男を得た。やがて、これまでにはない未来への旅立ちを予感した。そして、50歳で、彼を失った。予感は失望へと変わった。それまでにも多くの知己を失っていたが、喪失感は比べようもなく大きかった。得ることに嬉々としていた時代は終わったのだ、と思った。これからは、失い続けていく……。失うことと向き合い、失った後をいかに生きていくか……。それを自分に問い続けなくてはならないのだ、 . . . 本文を読む
2~3時間の仮眠をとった朝、12月17日、事務所スタッフのスケジュールをまず確認。
全員、夕方になるまで動けない。僕も打ち合わせ3本。事務所全員、病院に行くことができなことがわかった。
ご両親への連絡が終わり、午後には病院に到着予定とのこと。できるだけ早い夕方に、手の空いた者が病院に駆け付けることにする。
こんな時だからこそ、仕事に支障が生じてはならない。彼が帰ってきた時に最も気にするのは、自分の . . . 本文を読む
「ガンマgtpが500を超えています。今は、自分で呼吸するのも覚束ない状態です。とりあえず集中治療室で、あらゆる手を尽くしてみます。ただ……なにしろ、原因がわからないもんで……。今のところ、本人の体力次第、としか言えませんねえ」
と言い残すと、検査医は小走りで集中治療室に向かって行った。
「まさか。まさか、あいつが死ぬなんてことありっこないから。大丈夫だよ。けろっとして、みんな大袈裟なんだから、と . . . 本文を読む
ずっと探していた相棒に、やっと巡り合った。僕はそう思っていた。
何度も何度も同じ話をして飽きることなく、共に仕事に向かうと役割は自然に出来上がっていく。そんな仲だった。
上司と部下という関係値を保ちつつ、それにこだわることのない友情が芽生え、大きくおおらかに育っていく、はっきりとした予感がお互いにあった。ずっと追い求めていた何か、それが見えてくるような気さえしていた。
知り合って3年。さらに、一緒 . . . 本文を読む
朝の光の中、機上から見る日本海は煌めいていた。頭の中に、帰郷の時のような茫洋とした眠気もない。
一泊二日で目にした断片、耳にしたかけらの一つひとつが鮮明に蘇ってきた。しかし、親父のイメージは実体を持って蘇ってこない。浮かんでくるのは、診察室で目にした透明な横顔の輪郭だけだ。
僕の帰省は結局、親父への旅にはならなかったんだ、と思う。いや、始まったばかりなんだろうな、とも思う。いずれにしろ、宿敵癌細胞 . . . 本文を読む
目覚ましの音に飛び起きる。午前7時半。ひどい寝汗だが、不快感はない。下着をハンガーから取り込み、シャワーを浴びる。歯磨き、髭剃り、着替え…。一連の朝の動きが淀みなく爽やかだ。
ベッドに腰掛け、タバコに火を点ける。親父の横顔が浮かぶ。長い時を経て、またも病室の人となった親父の心細さと覚悟を思う。タバコをもみ消し、立ち上がる。
午前8時前。チェックアウト。外の景色は変わらない。客待ちのタクシー。バス待 . . . 本文を読む
長い帰路の途中、親父と一緒に米子駅で列車を降りた。夜だった。駅からの道をまっすぐ歩いた。時々ふと振り向き、少しの間手をつないでくれる以外、親父はあまり振り向くこともなかった。僕は、親父の背中を見失うまいと、懸命に歩いた。
商店が途切れる寸前、本屋の前で親父は立ち止まり、「よく歩いたなあ」と頭を撫で、本を買ってくれた。
さらに少し歩き路地を曲がり、煌々と明かりのついた玄関に入った。親父の戦友の家だっ . . . 本文を読む
叔父夫婦には、娘が二人、息子が一人。長女は女学校の卒業間近。長男は中学生になったばかりで、次女はまだ小学生。働く当てのない叔父はニコヨンと呼ばれていた日雇い労務者となって、なんとか家庭を支えようとした。
しかし、家計の厳しさは日増しに増していく。そして、どうにもならない苛立ちと日々の疲労は、叔父夫婦の間に亀裂を生んでいった。
親父は20代後半にさしかかったところ。教職も得ていたとあって、言わば叔父 . . . 本文を読む
1922年(大正11年)、親父は福岡県久留米市に生まれた。父親は、八幡製鉄のサラリーマン。当時のエリートだった。中等学校野球大会の観戦が趣味で、甲子園で行われる全国大会には、わざわざ夜行列車に乗って出かけていた。幼い頃、久留米駅で見送った記憶が鮮明に残っている、と親父は語っていた。
しかし、1928年(昭和2年)、親父が尋常小学校1年生の時、父親を脳出血のために突然失う。一人いた弟は、まだ2才。福 . . . 本文を読む