4月になった。
勉強しなければ、と思う心に反して、気力は生まれてこなかった。このまま気力なんて喪失してしまうのではないかとさえ思うほどだった。寝転び天井を見つめまどろみ、想い浮かべるのは、初恋の人とのごくわずかの時間と、啓子と過ごした2時間のことばかり。突然背中を突き抜ける不安に目覚めても、身体は敷きっ放しの布団の上にだらしなく沈みこんだまま、という状態に陥っていた。
啓子に返事を書いた。伝え . . . 本文を読む
京都駅山陰線ホーム。春の光を背に現れた啓子は、最後に会った夏の終わりよりもスマートに見えた。日差しに黄色く染まったピンクのジャケットと白のスカートが目に鮮やかだった。左手に下げたすみれ色のハンドバッグのように、啓子は大人へと花開いていた。
ぎごちなく言葉を交わし、僕たちはともかく北へと歩いた。まだ春浅いというのに暖かく、僕の下着はたちまち汗に濡れた。
目標にしていた四条河原町南の喫茶店に、想定 . . . 本文を読む
1969年4月下旬。かくして僕は、19歳の新聞配達少年になった。給料は、23,000円。生活費は、下宿代5,000円を含め17,000~20,000円なので、十分な額だった。
その夜、いつもの定食屋の100円定食に生卵1個を追加した。早く寝なくてはと思ったが寝つけなかった。枕元にラジオと日記帳を置いてうつ伏せになった。
“いよいよ自立への第一歩だ。足は軽やかだ。澱が落ちたような気分 . . . 本文を読む
「なんや、とっちゃん!大きな声はあかん言うてるやろ、いつも。もう~!」
小太りのおっちゃんが奥から出てきた。歩くと汗ばむほどの陽気とはいえ、クレープのシャツにステテコは早過ぎる。おまけに、上から二つボタンの外れた胸元からは貧相な胸毛が覗いている。僕は一瞬、目を背けた。
とっちゃんから僕へと向けられたおっちゃんの大きな目は、一瞬ギラリとした後、すぐ柔らかくなった。
「配達?したいんか?」
お . . . 本文を読む
玄関、ガラスの引き戸を開けて正面、2階へと続く階段の下から3段目に、とっちゃんは大股開きで座っていた。タバコを挟んだ人差し指と中指の先を鼻の穴に突っ込んでいた。入り口に向かってVサインをしているようにも見えた。
僕は一瞬ひるんだ。元気いっぱい張り上げたはずの「ごめんくださ~~い」の声がか細い。
すると、とっちゃんは、フィルター部分まですっぽり口の中に納まっていたタバコを引き抜いた。ジュポンと音 . . . 本文を読む