「実は俺、退学することにした」
手塚の言葉に、手にした水を落としそうになる。
ナオミが訪ねてきてから3日が過ぎた夜。隆志は手塚に呼び出されていた。
身に覚えのない罪を裁かれる気分でやってきた“ブラック&ホワイト”のカウンター。
手塚の第一声は、しかし、思いもよらないものだった。
「どうしたんですか、いきなり」
「いきなりじゃない。半年間考え抜いたことだ」
「退学するかどうかを?」
「考え抜いたと言うよりも、仮説の検証を繰り返していたと言った方がいいかもしれない」
「…………」
「いきなり、と君が感じるのは無理もない。君に俺の仮説を語ったことはないのだから。検証の過程を君に話したこともない」
「…………」
「仮説そのものが曖昧だったから半年もかかってしまった」
「説と言えるほど明確になっていない仮説だったとか」
「仮説って、本来、ありうべき結果とそこに至る道程が論理的に組み立てられたものでなくてはならない。法則性さえ求められるものだ、と俺は思う。もし、仮説ありき、という状態があるとして、その仮説が正しく優れたものだと証明されたとしたら、その仮説を主張した人物は思考の領域を超越して到達すべき地点を見出すことができる、言わば特殊な能力を持ち合わせている……」
「イメージ力とか直観力とか、ですか?」
「勘とか第六感などと言う人もいる」
「退学した方がいいと第六感で感じたので、それが正しいか否かを検証していたと……」
いつもはバーボンの手塚の手に、今夜はビアグラスが握られている。隆志もビールを注文し、手塚の次の言葉を待つ。
「う~~~ん」
一度深く唸り、手塚はビアグラスを飲み干す。
「手塚君の同棲相手……だった」というナオミの言葉を生々しく思い出す。この3日間、しばしば浮かんできていた言葉だ。
「理学部に受かって、哲学科に転科して、留年して……」
独白するかのように、静かに手塚は語り始める。二人の前にはいつものようにバーボンの水割りが置かれる。
「残り1年になったこの春、強烈な空虚感に襲われた。ナオミが……知ってるよね、ナオミ……彼女が一歩先に社会に出たことが影響してるのかな、と最初は思った。取り残された者の孤独感、学校に行かない昼を一人で部屋で過ごす寂寥感だと思った。が、違うと思い始めた。空虚感ではなく虚無感なのではないかと」
「虚無感の方が根が深そうですね」
「根は深い。だが、それだけじゃない。空虚は埋めることができるが、虚無は容易には払いのけることができない。過去のすべて、経験や知識すべての意味が問われる」
「随分大袈裟な話になりましたね」
「過去すべて、は言い過ぎかもしれない。大学3年からのすべて、と言った方がいいかもしれない。哲学科に移って以降であり、ほぼナオミと同棲を始めた時期以降のすべて」
手塚は続けざまにバーボンを口に運んでいる。口にしにくいことを口にする時の手塚の癖だ。ナオミと結婚を語った3日前の夜もそうだった。
「ということは、哲学を学んだこととナオミさんと暮らしたことが虚無感を生んだと……」
「そう言い切ってしまうと、前者は自己嫌悪につながるし、後者はナオミへの責任転嫁になってしまう……」
空いたグラスの底を、手塚は睨み付ける。グラスが次のバーボンで満たされる。
「うまくいってると思ってた。言葉と格闘している間に生じる人間に対する不信感なんて、人の肌が与えてくれる愉悦があっさりとかき消してくれるものだと、ナオミは教えてくれたし……」
「あ、思い出した!」
「なに?どうした?」
「同級生の女の子に言われた言葉」
19歳の春だった。帰省中の高校の同級生男女数名で食事をした。1軒目はお好み焼きを食べた。2軒目の居酒屋では、お好み焼屋で飲んだビールのほろ酔いに日本酒で拍車をかけた。3軒目は18歳で結婚した同級生の男の家で、ということになった。
さんざん飲んだ。が、酔いが回ることはなかった。深夜2時。眠っていないのは2人だけになっていた。
隆志がトイレに立つと、ユリエがすすっと後を追ってきた。同級生の男数人と関係があると噂されていた子だった。
トイレから出てくると、「まだまだ寒いね」とユリエはしなだれかかってきた。隆志は身を固くしながらも、熱い期待で頭が一杯になっていくのを感じた。
「寒いって、肌が寒いのよね。だから、洋服着るんだもんね」
ユリエは腕を取り、まるで隆志の心を見透かしたかのように、同級生たちが眠りこけている座敷の隣の障子を開ける。
「ユリエ、俺は……」
何か言おうとしたが言葉にならない。
「ごちゃごちゃ言ってないで、早く脱ぎなさい」
押し殺した声で叱責したかと思うと、ユリエはするすると隆志のチノパンを下ろす。
ボクサーパンツに手がかかった時、隆志の口から声が漏れてしまう。見下ろすと、ユリエの妖しく笑う目と合った。
電光石火の初体験だった。
隆志の下半身を整え座敷に戻ったユリエは、ぬるくなったビールを注ぎながら言った。
「肌寒い時が一番イヤ。慣れるけどね。でも、慣れるのも寂しいよね」
記憶に残る言葉だった。人肌の魅力と魔力を若くして知ってしまった、ユリエらしい言葉だった。
「“人肌のぬくもりは大いなる癒しにも束縛にもなる。求めてもいいが慣れてはいけない”。そう言ったんですよ」
隆志はユリエの言葉を意訳して手塚に伝える。
「いい表現だ。俺には浮かばない表現だ。俺は、ユリエとの至福の時間にこんな言葉を与えた。“形而上は形而下にたやすく征服される。形而上の独立を取り戻すことは可能だが、元の姿に戻ることはない”」
「でも、だからと言って退学ということには……」
「外力とタイミング。隘路に入り込み壁に挟まれ、身動きできなくなる直前、ポンと後ろから押されて隘路の向こう、日当たりのいい広場に突き出される。そんな絶好のタイミングで、程よい力が加わった」
「自力ではなく他力?」
「それが俺の限界を示している。と言うより、既に自力の限界が見えていたからこそ、他力が作用する以前から、退学という2文字がぼんやりと浮かんでいたのかもしれない」
「その他力というのは?」
「親父の小さな印刷会社を継ぐこと。ただし、俺の役目は新事業開発。オイルショックの影響だけではなく、印刷業そのものの先が見えてしまっているから、会社は継いで欲しいが事業は継がなくていい。資金が多少残っている間に新事業を興してほしい。そう親父が……」
「そういうことですか……」
隆志の声に明らかな落胆の色が混ざる。形而上の限界と形而下の迷いを一刀両断にしたのが、つまるところ極めてリアルな経済活動の魅力だったとは……。
「一つの現実を使ってもう一つの現実から逃避する、というような……」
「感じは否めない。それは認める。ただ、逃避に利用した現実の方には、まだ現実になり切ってはいない不確かさがあって……」
「新事業開発だから、ですか?」
「リスクは大きい」
「待ってください。ナオミさんのリスクは置き去りじゃないでしょうね。逃避される側の現実にナオミさんはいるんですよ」
隆志は腹の奥にくぐもっていた怒りを吐き出し、バーボンをあおる。
「…………………」
手塚に長い沈黙が訪れる。隆志は続けざまにグラスを空ける。頭に「同棲相手……だった」というナオミの言葉が蘇る。
「手塚さんの部屋からナオミさんを追い出すんですか?いや、退学と同時にアパートは解約?ナオミさんとの関係は解消?」
「結婚を申込んだ。でも、OKはもらえていない」
「ナオミさんが、やりたいことを中途で辞めることになるからでは?」
「いや、俺はそんなことは望んでいない。彼女が仕事を続けたければ続けてもいいし、最近の彼女の夢“染織よりも染色”に邁進してもらっても構わない」
「でも、彼女もリスクは負うことになる。自由にしていいよ、っていうような言い方は手塚さんのエクスキューズあるいはプライドにしか僕には聞こえません。ひょっとすると、自己欺瞞かもしれない。ナオミさんの心の内側に入ってみたことはあるんでしょうか?手塚さんは」
手塚に顔を向けず、グラスに向かって疑問を吐き出す。吐き出し始めると、怒りが募ってきた。
「あの………」
バーテンダーが隆志が手にしたグラスを揺する。目を上げると、手塚の方に顎を向ける。手塚はカウンターに突っ伏している。返答に困った酔った振りか……。
隆志はナオミに、今すぐにでも会いたいと思った。
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