昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

天使との4泊5日     ③

2017年10月10日 | 日記

天使との4泊5日     ③

 

小学校6年の時、同じクラスにA君という男の子がいた。みんなから少し煙たがられている子だった。普段はさしたる問題も起こさない子なのだが、気の短い所があるのが玉に瑕で、一旦怒りに火が付くと止めようがなくなった。だが、何が彼の怒りを誘発するのかは誰にもわからなかった。ある男の子は、学校帰りに肩を組んだ瞬間に殴られた。また、ある女の子が「消しゴム貸してあげようか」と言っただけで、胸倉をつかまれたこともあった。

一方、B君という、見ていて時々危なっかしさを感じるほど世話好きな男の子がいた。B君によると、“A君の怒りは貧しさに原因があるのかもしれない”ということだった。

数日後、A君とB君の間に喧嘩が勃発する。現場は手洗い場の脇。一部始終を見ていた女の子によると、B君がA君に自分の使っていた石鹸を手渡そうとした瞬間、A君がキレた。その場にいた数人でなんとか二人を引き剥がした時、女の子からの通報を受けた担任が駆け付ける。

担任が喧嘩の理由を質すが、二人は応えない。何度訊いても黙りこくったまま動かない。業を煮やした担任は二人を強引に教室に連れ帰り、三々五々教室に戻ってきたクラス全員を前に、教壇で二人を向き合わせた。

「喧嘩したいんだったら、さあ、みんなの前でやれ!……さあ!ほら!」

けしかけるが、ピクリとも動かない。

「さあ、ほら!」

担任は苛立ち、二人の腕を掴んで相手を殴るように促す。クラスを静寂が包み、何人かの固唾を飲む音が聞こえる。

「ほら!ほら!喧嘩してみろよ、みんなの前で」

苛立ちを募らせた担任は二人に拳を握らせると、それぞれの拳で無理やり相手の頬を打った。

その瞬間、A君がキレた。担任の手を振り払い、B君の顎にフックを見舞う。B君は大きくよろめいたが、なんとか踏みとどまる。すかさず担任が言う。

「ほら、B。今度はお前の番だ。さあ、殴れ!ほら、殴れ!」

俯いて痛みに耐えているように見えたB君は、意を決したように構える。

しかし、B君が突き出した拳はA君の胸をちょこんと突いただけ。次の瞬間、A君のパンチがB君の腹をえぐった。B君は呻き声をあげ、身を屈める。

担任はB君の頭を小突く。

「やられてばっかりじゃダメだろう!さあ、思いっきり殴れ!さあ!」

結果は同じだった。B君の拳は遠慮がちにA君の胸を小突き、A君のパンチは容赦なくB君の腹をえぐった。

こうして、担任が演出した“模擬喧嘩”はクラス全員の前で、B君が痛みと屈辱の涙をこぼすまで続いた。

「よし、もういい!」

担任の一言で、悲惨な“模擬喧嘩”に終わりが告げられると、A君は胸を張り、B君は嗚咽を漏らしながら、それぞれの席に着いた。B君の嗚咽は、クラス全員の胸を締め付け、女の子の中からはすすり泣く声さえ聞こえてきた。

教壇からの「さ、みんな!」という声に、全員が担任に目を上げた。

「見ただろう。喧嘩は本当につまらないものだ。勝っても負けてもいいことは何もない。喧嘩に勝者なし!わかったな」

担任は微笑んでいた。傲岸な微笑みだった。

 

「ショックだった?」

「うん。複合的なショックだった。もちろん子供だったから、整理することも言葉化することもできなかったけど、疑問や怒りや不安が湧いては消え湧いては消え、という状態で……」

「辛かった?」

「辛くはなかった。おそらく、A君もB君もね」

小学校6年生の2学期早々に起きた事件は、運動会が終わる頃にはクラス全員から忘れられてしまったかのようだった。ただ、みんなの二人それぞれに接する態度に微妙な変化が起きたことだけは間違いなかった。

「クラスメイトに怒りを感じたけど、ふと気付くと自分自身も同じように変化していた。それは驚くべきことだったね」

それからというもの、担任と生徒たち、あるいは生徒同士の関係は一見平穏に見えたが、いつバランスが崩れてもおかしくないような危うい状態が続いた。

「僕も含めたみんなの意識や教室の空気に変化をもたらしたのは一体何なのか、その頃は考えもしなかった。いや、考えてはいたのかもしれないけど、ずっとモヤモヤしていただけだったとしか言えない」

「そのモヤモヤは、後年晴らされることになる?」

「それはどうかなあ。あの時頭に入り込んできたモヤモヤは今でも残っていると思う。モヤモヤの微粒子を搔き集めてもせいぜい一粒の水になるくらいで、モヤモヤ全体を除去するには役立たないし、吹き飛ばすには強い風が必要だし」

「カラッとした晴天が続くとかね」

「モヤモヤに付きまとわれているから晴天を満喫することもできない。晴らすことができないんだったら、せめて集めて箱の中に閉じ込めるとか」

「“定型”が必要になる……」

「ルールじゃなくてね」

「ルールは支配者や管理者が作るものだからねえ。だから、みんなで作るルールは機能しない」

「大学生になって気付いた。倫理だって、社会を構成している人間一人ひとりとの親和性の高いルールに過ぎないんじゃないかって。経済性や安全性の影響を受けやすいし、倫理同士の衝突も起きてくる。モヤモヤの解決どころか新たなモヤモヤの発生源になるのが倫理ってやつだ。そう思った。だから、原点に戻ってみることにした」

モヤモヤは、A君、B君、担任という3つの成分が、クラス全員の前での“模擬喧嘩”で化学反応を起こし、目撃者だったクラス全員を培養液として発生したものだ。

すべてはA君から始まったように見えるがそうではない。問題がないわけではなかったが、A君はクラスの異物ではなかった。B君にしてもそうだった。

きっかけを作ったのはおそらく、B君の幼い正義感とヒロイズムだろう。過分におせっかいで身勝手なB君の正義感は、しかし、担任が助長し倫理的保証を与えていたものでもあったはず。

“A君の乱暴癖は、彼の貧困からきているものではないか”とするB君の仮説を責めることはできない。B君の少年っぽいやさしさが過度な同情を生み、過度な同情が彼をおせっかいへと駆り立てていったとしても、それも責めることはできない。クラスの多くは、小学校6年生の感性で、B君の言動の是非や矛盾をそれぞれなりに嗅ぎ分けていた。

そしておそらく、手洗い場脇で始まった喧嘩は、A君の中に折り重なっていたB君の言動に対する不満に、手渡した石鹸が“押し付けられた好意”に見えたために火が点いたものではないか。A君はプライドを怒りの拳に握りしめ、殴りかかった。

が、そこまでは問題ではない。A君とB君は、衝突はしたが化学反応するには至っていなかった。

触媒となったのは担任。鎮静へと向かっていた二人の衝突が化学変化していくきっかけを与え、かつ反応を加速させた。

喧嘩に見えた二人のもみ合いは、実はA君の感情の突発的な発露に過ぎず、B君は防御をしていただけのことだったのではないか。

しかし担任は、二人のもみ合いを彼の中で定型としてあった子供同士の喧嘩としてしか見ることができなかった。だから彼は、同じく定型としてあった子供同士の喧嘩への対処法と教育題材としての有効な活用法を適用した。

クラス全員の前で“模擬喧嘩”をさせることで、当事者二人には暴力の不条理を体感させ、目撃者たちには喧嘩の無意味と無価値を実感させる。

定型通りに事は運ぶ。担任はそう想定していただろう。その想定に自己陶酔さえしていたかもしれない。

だが、子供から少年へと移り変わっていきつつある小学校6年生には通用しなかった。

「三者三様の想いや思惑が擦り合う要素がないわよねえ」

「三人とも、それぞれが定型を持っていたから」

「それって価値観とか理念とか行動規範といったもの?……ではないか」

「そのどれでもないし、どれでもある……と思う。どう言い表せばいいんだろう。既存の言葉を当てはめようとすると、どの言葉も既に意味やイメージを持っていて……」

「隆志君の言う定型って、バラバラで整合性のないものを整理する整理箱のようなものかな?………」

「近いかもしれない。ただ、整理箱には借り物もあれば貰い物もある。自分で作った物もある。整理箱を共有することだってありうるし………あ!」

「思い出した?」

「結婚の話に関してですね、“定型の罠”って僕が言ったのは」

「そう!……でもあり、そうでもない、かな?」

「いや、そうですよ。手塚さんとナオミさんはあの夜、結婚の話をしていた」

「と言うより、手塚君がね。ほぼ一方的にね」

「近くに住んでるから、僕は証人として呼ばれたんだと思った。あるいは手近な祝福者としてね」

「でも、話はハッピーエンドでは終わらなかった。バッドエンドでもないけどね」

「僕は意外ではなかった。都会のカラスが巣を作る時のように、お互いの心の中にある大切なものやガラクタを持ち寄って繋ぎ合わせ練り合わせ……ある型を作っていく……お互いが納得できる型をね。共有する定型なんだから。でも、何かが違うように、僕には聞こえた」

「だから、“定型の罠”にはまっちゃ駄目ですよって、私に言った」

「そうかな?そうかもしれない。そうだといいけど……」

「私の方が記憶ははっきりしてる。その後に続けて、隆志君、こんなことも言った。小学生だって、知らず知らずのうちに確かな意図もないまま、自分なりの定型を持っている。自分の心の平安とプライドのために。そしてその定型のせいで、苦労することにもなる、B君のように……。隆志君、そう言った。酔ってるようには見えなかった」

「それほど僕は今でもB君のことを残念に思ってる……」

「彼はその後どうしたの?」

「不登校になったまま卒業した。隣町の中学に行ったと聞いたけど、その後は話題にも上らなくなって、次に消息を耳にした時は完全に引き籠っていた。その後はわからない」

「B君、そこはかとなく持っていた定型が崩れ去ってしまったのかなあ」

「そんなこと、成長していく過程で誰にでも起きることでしょう。でもB君は、もう一度定型作りにチャレンジする気力が湧いてこなかった。暴力に屈したこととその姿をクラスメイトに目撃されたショックが大きかった。その後のみんなの態度の変化もね」

「“善きこと”と思っていたことが“悪しきこと”かのように思われ始めた?」

「行動の結果が、イメージされていた世界はもたらさず、むしろ世界を反転させた」

「私たちの結婚がそうなってはならないと……」

「ポジがネガになるまでの予感はなかったけど、定型が整理箱だとすれば、大きさも形も違うものを同居させようとしているような……」

「重箱のように、小さい箱が大きい箱の中に納まってしまえば……」

「菱形の箱は小さくても、正方形の箱に納めるのには苦労することもある。無駄な空きスペースも覚悟しなくてはいけない。さらに言えば、一緒に納める箱だからら、できれば材質や色、風合いまで、せめて相性のいいものにしたくなる」

「それは、タイプの問題と捉えればいい?」

「タイプって様々な要素から成り立っていて、一言で言い表すことはできないものじゃないですか?タイプって、それこそ、予め決められた定型のようなもの……」

「印象にしか過ぎないものではある。でも、だから、印象としてなら語ることもできなくはない…………ところで……タイプ違う?手塚君と私」

「そうかもしれませんね。だからかな?結婚が二人を練り合わせる“つなぎ”のようにも聞こえた。とにかく練り合わせてしまえば何とかなる、速乾性で強度もある魔法の“つなぎ”のように」

「そんな風に聞こえた?私たちの話」

「あの時の僕には聞こえたんでしょうね。だから……」

「“定型の罠”には気を付けろ、と……ありがとう。とっても参考になった。思い切って訪ねて来てよかった……実は、もう一つ聞きたいことがあるんだけど…………。でも、もう遅いね。今度にしてもいい?」

「もちろん。でも、今度は電話を先にくださいね」

「わかった。じゃあ、今夜はこれくらいにしておいてあげようかな」

ナオミが初めてやってきた夜は、こうして終わった。ナオミはすっくと立ちあがり、トウシューズのリボンを巻き取って、部屋を出て行った。

後を追おうとしたが足が痺れて立ち上がることができなかった。

「おやすみ~~」という微かな声が聞こえてきた。“手塚君の同棲相手……だった”という言葉を思い出した。

 

「実は俺、退学することにした」

手塚の言葉に、手にした水を落としそうになる。

ナオミが訪ねてきてから3日が過ぎた夜。隆志は手塚に呼び出されていた。

身に覚えのない罪を裁かれる気分でやってきた“ブラック&ホワイト”のカウンター。

手塚の第一声は、思いもよらないものだった。

「どうしたんですか、いきなり」

「いきなりじゃない。半年間考え抜いたことだ」

「退学するかどうかを?」

「考え抜いたと言うよりも、仮説の検証を繰り返していたと言った方がいいかもしれない」

「…………」

「いきなり、と君が感じるのは無理もない。君に俺の仮説を語ったことはないのだから。検証の過程を君に話したこともない」

「…………」

「仮説とは、本来、ありうべき結果とそこに至る道程が論理的に組み立てられたものでなくてはならない。法則性さえ求められるものだ、と俺は思う。もし、仮説ありき、という状態があるとして、その仮説が正しく優れたものだと証明されたとしたら、その仮説を主張した人物は思考の領域を超越して到達すべき地点を見出すことができる、言わば特殊な能力を持ち合わせている……」

「イメージ力とか直観力とか、ですか?」

「勘とか第六感などと言う人もいる」

いつもはバーボンの手塚の手に、今夜はビアグラスが握られている。隆志もビールを注文し、手塚の次の言葉を待った。

一度深く唸ってビアグラスを飲み干し、手塚は再び静かに語り始めた。二人の前にはいつものようにバーボンの水割りが置かれる。

「理学部に受かって、哲学科に転科して、留年して、残り1年になったこの春、強烈な虚しさに襲われるようになった。ナオミが……知ってるよね……彼女が一歩先に社会に出たことによる、先を越された者の疎外感や学校に行かない昼を一人部屋で過ごす寂寥感が影響してのことだと、最初は思った。が、違った。感じているのは虚無感だとわかった」

「虚無感かあ。根が深そうですね」

「根は深い。空虚は埋めることができるが、虚無感の払拭は容易ではない。過去の経験や知識、それらすべての意味が問われる」

「過去すべてが問われる……」

「すまん。過去すべて、は言い過ぎかもしれない。大学3年からのすべて、と言った方がいいかもしれない。哲学科に移って以降であり、ほぼナオミと同棲を始めた時期以降のすべて」

手塚は続けざまにバーボンを口に運ぶ。口にしにくいことを口にする時の手塚の癖だ。ナオミと結婚を語った夜もそうだった。

「ということは、哲学を学んだこととナオミさんと暮らしたこと。そのいずれもが虚無感の源になっていると……」

「そう言い切ってしまうと、前者は自己嫌悪につながるし、後者はナオミに責任転嫁しているようで心苦しい」

空いたグラスの底を、手塚は睨み付ける。グラスは次のバーボンで満たされる。

「転科した頃は言葉と格闘することを楽しんでいた。先人たちの言葉の渦に巻き込まれながらも、自分や自分の世界を的確に表す言葉を掬い取ことに懸命だった」

「生意気に聞こえるかもしれませんが、手塚さんのストイックな学問への姿勢、僕は評価していました」

「それはありがとう。がしかし、掬い集めた言葉は所詮借り物だということに気付かされた。借り物で自分の考えを表現することは容易ではない。先人の論理構築の部品だった言葉は、その論理体系の中にあってこそ意味を持つ。木が土を覚えているように、言葉も元いた場所を覚えているものなんだ。俺はそのことに痛いほど気付かされた」

「手塚さん、とことん“言葉の民”なんですね」

「だろうな。特に言語に優れた能力を持っているとは思わないが、他の表現方法、例えば絵画とか音楽によって自己を表現する能力は、俺は持ち合わせていない。だから、言葉を表現方法として用いざるを得ない。その意味において、確かに俺は“言葉の民”と言わざるを得ない。だけどね。誤解がないように言っておくけど、哲学は決して“言葉の民”の専売特許ではない」

「しかし、“言葉の民”である手塚さんは哲学科を選択した」

「確かに。だが、哲学科を選択したことによって、むしろ言葉の可能性よりも限界を知ることになった。俺の“言葉の民”としての限界を知った、と言った方がいいかもしれない」

「それが、自己嫌悪……いえ、虚無感の根源の一つになった?」

「はっきりと認めたくはない気分ではあるんだけどね」

「もう一つの根源……“ナオミさんと暮らしたこと”というのは?」

「さっきは二つと言ったが、本当は明確に分けて語ることはできない。それは、俺とナオミの関係のように個別的でありながら相関性と連動性を持ち……」

「二人のタイプが違う?でも、違うからこそ惹き合う力も強かったのでは?」

「簡単に言うとそうだが、タイプという言葉を使うと……」

「言葉化しにくい曖昧さも含めたイメージとしてのタイプの意味で……例えば、手塚さんを“言葉の民”とした場合、ナオミさんは“感性の民”と……」

「言葉と感性を対極のものと捉えてるとしたら抵抗があるけど、タイプとして僕たち二人を分類するとしたら、いい表現かもしれない」

「異なるものの化学反応こそ、異次元への扉を開く可能性を持っている。手塚さん、以前そんなこと言ってませんでした?」

「言った。覚えてる。ナオミと暮らし始めて間もない頃だったと思う。たくさんの衝撃をナオミは与えてくれたから」

「刺激や歓び以上の衝撃?」

「それはもう。俺の本棚の哲学書を読んだ感想が“おもしろい日記だったわ。でも、毎日気になることの多い人なのね。難しい言葉しか知らないのも不幸よね”だったりするわけだから。でも、何よりも、人の肌のぬくもりがいかに万能かを教えてくれたことが大きかった。いかなるドグマの壁も打ち崩してくれるという……」

「そのことに関しては、僕にも忘れられない経験があります……話してもいいですか?」

「是非。聞きたい」

 

19歳の春だった。帰省中の高校の同級生男女数名で食事をした。1軒目はお好み焼きを食べた。2軒目の居酒屋では、お好み焼屋で飲んだビールのほろ酔いに日本酒で追い打ちをかけた。3軒目は18歳で結婚した同級生の男の家で、ということになった。

さんざん飲んだ。が、酔い潰れるほどではなかった。深夜2時。眠っていないのは隆志とユリエだけになっていた。

隆志がトイレに立つと、ユリエがすすっと後を追ってきた。同級生の男数人と関係があると噂されていた子だった。

トイレから出てくると、「まだまだ寒いね」とユリエはしなだれかかってきた。隆志は身を固くした。

「寒いって、肌が寒いのよね。だから、洋服着るんだもんね」

ユリエは腕を取り、まるで隆志の心を見透かしたかのように、同級生たちが眠りこけている座敷の隣の障子を開けた。

「ユリエ、俺は……」

何か言おうとしたが言葉にならない。

「ごちゃごちゃ言ってないで、早く脱ぎなさい」

ユリエは、押し殺した声で叱責するように言った。かと思うと、するすると隆志のチノパンを下ろした。

ボクサーパンツに手がかかった時、隆志の口から意味不明の声が漏れた。見下ろすと、ユリエの妖しく笑う目と合った。

電光石火の初体験だった。

隆志の下半身を整え座敷に戻ったユリエは、ぬるくなったビールを注ぎながら言った。

「肌寒い時が一番イヤ。慣れるけどね。でも、慣れるのも寂しいよね」

記憶に残る言葉だった。人肌の魅力と魔力を若くして知ってしまった、ユリエらしい言葉だった。

 

「“人肌のぬくもりは大いなる癒しにも束縛にもなる。求めてもいいが慣れてはいけない”。そう言ったんですよ」

隆志はユリエの言葉を意訳して手塚に伝えた。

「いい表現だ。俺には浮かばない表現だ。俺は、ナオミとの至福の時間にこんな言葉を与えた。“形而上は形而下にたやすく征服される。形而上の独立を取り戻すことは可能だが、元の姿に戻すことはたやすくない”」

「でも、だからと言って退学ということまでには……」

「外力とタイミング。隘路に入り込み壁に挟まれ、身動きできなくなる直前、ポンと後ろから押されて隘路の向こう、日当たりのいい広場に突き出される。そんな絶好のタイミングで、程よい力が加わった」

「自力ではなく他力?」

「それが俺の限界を示している。既に自力の限界が見えていたからこそ、他力が作用する以前から、退学という2文字が浮かんでいたのかもしれない」

「その他力というのは?」

「親父の小さな印刷会社を継ぐこと。ただし、俺の役目は新事業開発。オイルショックの影響だけではなく、印刷業そのものの先が見えてしまっているから、会社は継いで欲しいが事業は継がなくてもいい。資金が多少残っている間に新事業を興してほしい。そう親父が……」

「そういうことですか……」

隆志の声に明らかな落胆の色が混ざる。形而上の限界と形而下の迷いを一刀両断にしたのは、つまるところ極めてリアルで容易な現実逃避の魅力だったのか……。

「一つの可能性を使って現実から逃避する、というような……」

「感じは否めない。それは認める。ただ、可能性は可能性であって、不確かで……」

「新事業開発だから、ですか?」

「リスクは大きい」

「待ってください。ナオミさんのリスクは置き去りじゃないでしょうね。逃避される側の現実にナオミさんはいるんですよ」

隆志は腹の奥にくぐもっていた怒りを吐き出し、バーボンをあおる。

「…………………」

手塚に長い沈黙が訪れる。隆志は続けざまにグラスを空ける。頭に“同棲相手……だった”というナオミの言葉が蘇る。

「手塚さんの部屋からナオミさんを追い出すんですか?いや、退学と同時にアパートは解約?ナオミさんとの関係は解消?」

「結婚を申込んだ。でも、OKはもらえていない」

「ナオミさんが、やりたいことを中途で辞めることになるからでは?」

「いや、俺はそんなことは望んでいない。彼女が仕事を続けたければ続けてもいいし、最近の彼女の夢である“染色を始めたい”に邁進してもらっても構わない」

「でも、彼女もリスクは負うことになる。自由にしていいよ、っていうような言い方は手塚さんのエクスキューズあるいはプライドにしか僕には思えません。自己欺瞞のようにも聞こえる。ナオミさんの心に分け入った痕跡も見えない」

手塚に顔を向けず、グラスに向かって疑問を吐き出す。吐き出すと、怒りが募ってきた。激烈な言葉が次々と浮かんでくる。

「手塚さんは………」

手塚に詰め寄ろうと目を上げ、隣に目を向ける。手塚はカウンターに突っ伏している。酔い潰れているはずはない。コミュニケーション拒否か。出鼻をくじかれた思いだ。

隆志は非難と疑問の言葉を飲み込んだ。ナオミに今すぐにでも会いたいと思った。

 

 

 


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