昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

天使との二泊三日 ⑫

2017年09月13日 | 日記

リビングの床、バスタオルの上に寝転び、晴れ渡った空を遠く眺める。初夏の日が煌いている。暑いくらいだ。南西向きの窓は、これからさらに日差しが強くなるだろう。

リビングの片隅でトイレシートにメグがしゃがんでいる。希子が置いておいたのだろうか。ガード下に忽然と現れた娘とは思えない心配りだ。しかも、なんとも無防備な寝姿ではないか。

腰にバスタオルを巻き、冷蔵庫に立ち上がる。食料と飲料をチェック。冷凍庫を開けると、買い溜めておいた冷凍食品が重なっている。連休中外出しなくても食べるものに事欠くことはなさそうだ。

空腹が突然襲ってくる。冷凍ドリアを電子レンジで温め、水を片手に喉に流し込む。

再び窓辺で寝転ぶ。日差しに目を細めると、マンションを購入し紗栄子と二人で賃貸から引っ越してきた夕方、段ボールと段ボールの狭間で抱き合った時の夕日を思い出す。起業し仕事に忙殺されていた頃、日曜の明け方に帰宅して仮眠を取り、紗栄子とブランチを食べた後もこうして窓外の景色を見るともなしに目にしながらまどろんでいたこともあった。

暖かい心地よさに満たされてはいたが、いつも心には靄が漂っていた。得てきたはずのものたちが、体の中で姿を失いただただ靄っているようだった。

これまで受けてきた様々な衝撃は跳ね返してきた。恐れるほどのものではなかった。しかし、心の中の靄が靄のままであり続けるかもしれないという予感は、得体のしれない恐怖となって時々隆志を襲った。

2000万円余りの住宅ローン、生まれて間もない会社と事業、引っ越して一年後に誕生した娘由香の将来……。具体的な将来への課題と不安を指折ってみるが、どれをとっても恐怖の予感にはつながらない。

小学校6年生の時に心に忍び込んできた“もやもや”は、相変わらず形を持たず、型にはめることもできず……。

「何食べた?チーズの匂いがするぞ」

突然、背中に裸の胸が押し付けられる。耳元には希子の声。鼻息が頬から鼻先をかすめる。顔を向けようとすると、唇を塞がれた。

希子の体がゆっくりと隆志の上に乗る。メグの鳴き声がする。

「背中痛くない?ソファに行こう」

希子を抱き上げ、ソファへと移動する。希子は両足を腰に、両腕を首に絡めてくる。

ソファに希子をそっと降ろす。髪をかきあげ、額から鼻先へとキスをする。鼻先で唇が止まる。

「気に入った?」

「うん。好きだよ、この匂い」

「よかった」

下から希子が強く抱きしめてくる。隆志はさらに強く抱きしめる。

…………

「気持ちよかったね」

重なった体をずらし、希子が囁く。片肘を付き、もう一方の指先は隆志の耳朶をまさぐっている。

「こうしてるのが好きなんだ」

「ん?」

「耳朶を触ってると落ち着くんだ」

隆志の胸に頬を乗せ、希子は耳朶をまさぐり続ける。

穏やかな心地よさが耳朶から沁み込んでくる。

指の動きが次第にゆるやかになっていく。やがて寝息が聞こえ始める。隆志はそのまま、天井を見つめる。心地よい虚脱感が全身を覆っている。夢と現の境目を漂っているようだ。

 

「飯だよ~~」

希子の声に跳ね起きる。

リビングには夕日の斜光が伸びている。テーブルの上にはラーメン丼が二つ。

「ラーメン解凍した」

メグに餌を与えながら、希子が背中で言う。シャワーを浴びたのだろう、バスタオルを胸に巻いている。

「ありがとう」

そそくさとバスタオルを腰に、テーブルに着く。

箸を手渡し向かいに座る。希子は勢いよくラーメンを流し込む。むせる目が微笑む。空腹だったに違いない。隆志が半分も食べ終わらないうちに、スープまできれいに平らげた。

後わずかを残すだけになった隆志に話しかけてくる。

「隆志の昨日の話だけど。気になってることがあってね」

最後の一本をすすり上げ、隆志は希子に向き合う。

「なに?」

「哲学科を辞めて寿司職人になった先輩が気になってるんだ。どんな人?どうして哲学から寿司へ?」

「うん。寿司職人に行き着いた先輩は……」

 

手塚だった。

隆志が大学を卒業して数年が経った年。大学時代の同級生たち数人で開園して間もない東京ディズニーランドへ行った帰りのことだった。

「この寿司屋、隣の魚屋の経営だから安くて旨いぞ」

と言う友人の誘いで入った寿司屋に手塚はいた。

それぞれがお好みで食べようということになったカウンター。誰かの「もう秋だから日本酒だな。いいか?」という声で飲み始めたコップ酒を口に運んでいる時に、その男は目に入ってきた。

豆絞りの短髪に白衣。いかにも寿司職人らしい格好の、寿司を握る俯きがちの顔に見覚えがある。寿司屋の大将が彼を呼ぶ機会を待つことにした。

「テツ!」

数分後、大将の声がした。「へい!」と答える声は手塚らしくない。しかし、大将に向けて上げた顔は明らかに手塚だった。

いかなる事情があったのか。ナオミはどうしているのか。

数日後、一人で訪ねた。ゆっくりと時間を掛けてネタをつまみ、彼と話すチャンスを待った。常連と思しき家族客が勘定を済ませた帰り際に大将と言葉を交わしている隙を狙った。

「手塚さん、ですよね」

皿を洗っていた“テツ”が顔を上げる。

「そうだよ。隆志だろ。この前来た時、気付いてた」

「いつから働いてるんですか、ここで」

「1年……ちょっとかな」

店の表の引き戸が開く音がする。「また、よろしく~~」の大将の声に合わせ、手塚が「ありがとうございました~~」と声を張り上げる。

まだ寿司職人として一人前とは認められていないようだが、大将との息は合っている。

何度か通い、小刻みに継ぎ足すように経緯を聞いた。

あのナオミをタクシーに送った秋、手塚は大学を退学していた。直後に父親の会社を継承。

新事業のスタートを急いだが、いくつかのチャレンジは、そのどれもが失敗に終わった。

ならばと、印刷の営業に力を注いでもみたが成果はあがらず、ベテランの印刷職人たちの人望をただただ失っていくばかりだった。

結局成果が上げられないまま、1年後には自ら職を辞し、父親の紹介で編集プロダクションに入社したが、PR誌の編集に肌が合わず退職。いくつかの会社を転々とした後、ふと入った寿司屋のカウンターで目にした大将の寿司を握る手元に魅せられる。

店を出た時に見つけた“アルバイト募集”の貼り紙にもう一度店に入り応募。下働きから始めることになったが、大将が一人で切り盛りする店だったことが幸いし、間もなく寿司を握る練習をさせてくれるようになった。

「シャリの量、力加減、スピード。すべてが一定のクオリティに到達するには時間がかかりそうだけど、毎日夢中だよ」

手塚は小声でそう言って、微笑んだ。

「ナオミさんは?」

隆志の問いに、表情がこわ張る。

「1か月半マンションを留守にしてる間にいなくなった。手紙も残さずにね」

「1か月半も?連絡もせず?」

「電話はしてた」

「一体何してたんですか?実家で」

「仕事の準備。取引先への挨拶回りとか……。それと、結婚の準備。住まい探しや家具や家電製品の下見とか……」

「ナオミさんにそのことは?」

「適宜伝えてた。事細かくではないが」

「ナオミさんを呼べばよかったんじゃ……」

「仕事があったしね、彼女。それに……、一ヶ月経った頃、ふっと電話に出なくなって」

「その後、消息わかったんですか?」

「よくわからない。染色の勉強は始めたみたいだったけど」

「それは、いつわかったんですか?」

「マンションのバスルームに赤と青の染料の痕跡があった。染色の練習してたんじゃないかなあ。紫に染まった生地が何枚か残ってた」

手塚はそれ以上を語ることはなかった。


コメントを投稿