女子大生の通報で警備員が駆け付けると、テーブルに突っ伏したまま動かない一人のサラリーマンと思しき男がいた。鼻先に手をかざすと、呼気は感じる。脈もある。
警備室に救急車の要請を依頼。伸ばしたままの男の手を脇に寄せ、床に寝かせる。身元の確認をとジャケットを探る。が、携帯とハンカチしか見当たらない。
バッグの中を確かめようとする。テーブルの上、バッグの手前には、食べようとしたところだったのか、弁当を . . . 本文を読む
左隣の就活生が、ふと顔を上げる。露わになった横顔は少女の趣き。朝の光を受ける頬は艶やかで、鼻先には若々しい自信を覗かせている。
頬に思わず、えくぼを探す。が、見当たらない。光を浴びているからかもしれない。
首を少し上げる。老眼鏡を外す。霞む目をこする。もう一度老眼鏡をかける。気になる頬を凝視する。やはり、えくぼは見当たらない。
かつて確かに目にした久美子のえくぼ。あれも、陰影の中に見た錯覚だ . . . 本文を読む
そう考えて始めた図書館通いは、しかし、二日にして目的地変更を余儀なくされた。同じマンションの住人と出くわしたからだ。
が、そのことが、一旦芽生えた読書に向かうエネルギーを沈滞させることはなかった。
次の候補を探した。
区立図書館の3階。後一週間余り、ともかくここに通おう、と決めた。
パソコンを開く。右頬に風を感じる。窓に目をやると、わずかに開いている。
一陣の風が突然吹き . . . 本文を読む
翌日から突然、水の中を漂っているような気分に襲われた。流れがないわけではない。水は冷たくもない。ただ、取りつく島が見当たらない。ふわふわとした浮揚感を楽しむゆとりなど、もちろんない。
「繁さん、もう遅いわよ」
義母の声に目覚めた瞬間、しまった!と頭の中で叫んだ。前夜の、部下との久しぶりの焼鳥屋がいけなかった。準備していた長期休暇取得の理由を告げることなど頭からすっ飛んだまま熟睡に入ってしまって . . . 本文を読む
久しぶりに内線で坪倉を呼び出した。
「どうした?珍しいじゃねえか。社内で呼び出されるの、何年ぶりかなあ」
会議室の電気を点けながらそう言ってすぐ、坪倉は事態を理解したらしかった。
「あれ?お前もか?」
「え?お前もかって?」
「辞めるんじゃねえの?」
「なに?じゃ、お前、辞めるのか?」
「うん」
「お前、驚かしてくれるよなあ、いつも。ほら、入社して間もない時もさあ…& . . . 本文を読む
わかったつもりでいたこと、理解しているつもりでいた人たち、腑に落ちていたはずの自ら歩んできた道筋、容易に克服できると想定していたいくつかの局面……。
何事につけても、最低でも及第点は取れると自信を持っていたはずなのに、多くは想定外の方向へと展開していった。裏切りに遭いつづけたような思いだ。
人生のシミュレーションが、いつのまにか反故になっていく…&he . . . 本文を読む
4日前、自宅のある高層マンション近くの図書館のトイレの入り口でのことだった。向こうからやってくる彼と目が合った時は、身がすくんだ。
遠目にも上質な素材だとわかるネイビーのスーツ。敢えてグレーに染めたのではと思われる、艶やかに整った髪。ふわりと掻き上げた前髪の下にはメタルフレームの眼鏡。明らかに見かけたことのある紳士だった。
見かけただけではない。挨拶さえ交わしたことがある。間違いなく、同じ高層 . . . 本文を読む
「さて」
ネクタイをプレーンノットで締める。洋服ダンスの扉裏の鏡でチェック。やはりプレーンノットはスーツには合わないような気がする。
田舎の中学時代、学生服だった頃が思い出される。毎年春に1着、母親が手配した新しい学生服が届くことになっていた。前年に買ってもらったものはもはや寸足らずで、手首が丸見えになるのが嫌だったが、新しい学生服は逆に、喉元に指が2本入るほどダボダボなのが気になってならなか . . . 本文を読む
「坪倉。同じ課長でもさ。お前が化学で俺が食品っていうのも、なんか象徴的だよな。結婚しているか否かで決まったような気がするよ、俺は」
「言いたいことはわかるけど、入社以来ずっと同じ部門だったんだからさあ、俺たち。あまり関係ないんじゃねえの?」
「そりゃあそうだが……。ということは、逆に、ツイてんのか?俺たち?課長に一緒に昇進できたってことは。それとも、見事な適材適所っ . . . 本文を読む