“松の湯”は、驚くほどの盛況だった。客はざっと数えて20名ほど。湯船も洗い場もざわついている。先に入って行くとっちゃんに、湯船に腰かけていた数名から声がかかる。
「おお~、とっちゃんやないか」
「とっちゃん、今日は大変やったな~~。ひどい雨やったもんなあ」
「とっちゃん、今日は早いんちゃうか~?」
ズヒズヒと笑いながら、とっちゃんは声を掛けてくる人に「おっさんは、い . . . 本文を読む
僕たちは準備を始めた。大沢さんの部屋にそれぞれのタオルと着替えを用意。日頃の会話に、それとなく「今度一緒に銭湯に行かへんか?」という言葉を混ぜるようにした。その言葉に、みんなが楽しそうに反応することも忘れなかった。
そして、7月に入って間もなく、努力は報われた。
僕が、午後の激しい夕立に汚れた足を表の水道で水洗いしている時だった。
「ひどい夕立やったなあ」
バイクを止めたカズさんが、声を掛 . . . 本文を読む
翌日から、販売所の朝は一変した。山下君が帰ってくるまではお菓子が出てこないこともあって、とっちゃんから僕たちに様々な質問が浴びせられるようになった。
質問の中心は山下君だった。山下君の口から出てきた言葉の多くが、とっちゃんにとって未知のものだったからだ。
「しかし、なんやあれ?グリグリ~~~、ほれ!ほれ!あれや。シ、シ、シ‥‥」
「新宿?資本論?」
「その後のほうや。あれ、なんや?ほれ、ヤ . . . 本文を読む
その日の夕方、配達から帰ってきた販売所には、ただならない空気が漂っていた。
販売所の引き戸を開けると、いつもの場所に陣取ったとっちゃんはタバコも咥えず、カウンターの方を好奇心一杯の表情で見ている。階段下に腰掛けた大沢さんと桑原君の顔つきも、いつもになく険しい。
“ただいま”の言葉を飲み込み、そっと階段下の桑原君の横に座る。
「新入りなんやけど、ちょっとな‥‥」
桑原 . . . 本文を読む
その夜、僕は100円定食に生卵を追加した。
「新聞配達始めたんやてねえ」
食堂のお姉さんが声を掛けてくれる。何度か梅干をサービスしてくれたお姉さんだ。
「これからは雨ばっかりやし、大変やねえ」
追加した生卵にサービスの梅干も加わり、小鉢二つが前に置かれる。
「いつもすみません」
頭を下げ、彼女の目の前で梅干を頬張る。いつもより酸っぱい。やっと種を口先に押し出していると、お姉さんがお茶を . . . 本文を読む
約一週間後、梅雨入りが宣言された翌朝、とっちゃんはこれまでになく苛立っていた。
キスチョコを隠す手付きさえ荒っぽく、これみよがしに掴み取り、ポケットに大げさにねじ込んだかと思うと、わざわざ目の前で1個を取り出し食べてみせた。
“おっさん”との間に何かがあったのか。二人の関係に質変化があったのか。それとも、“おっさん”自身に何らかの変化が起きたのか . . . 本文を読む
ある朝突然、とっちゃんは、“おっさん言うてたわ”を枕詞に話を始めるようになった。そして、その様子にそこにいた全員が驚かされた。とっちゃんの目は輝き、言葉には起承転結があり、しかもその語り口が熱を帯びていたからだった。
とっちゃんが帰るやいなや、“おっさん”とは一体誰なのかに、僕たちの話題は集中した。
おっちゃんは販売所の所長、おばちゃんはその夫人 . . . 本文を読む