昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   東京へ、日常へ。①

2010年09月23日 | 日記
目覚ましの音に飛び起きる。午前7時半。ひどい寝汗だが、不快感はない。下着をハンガーから取り込み、シャワーを浴びる。歯磨き、髭剃り、着替え…。一連の朝の動きが淀みなく爽やかだ。
ベッドに腰掛け、タバコに火を点ける。親父の横顔が浮かぶ。長い時を経て、またも病室の人となった親父の心細さと覚悟を思う。タバコをもみ消し、立ち上がる。
午前8時前。チェックアウト。外の景色は変わらない。客待ちのタクシー。バス待合所前の老人たち。涼やかな風以外、動いているものはないかのようだ。
記憶の中にある喫茶店に向かう。改装したようだが、店内ののどかな雰囲気は変わらない。650円の和定食を注文。ご飯、若布の味噌汁、鯵の干物、煮物とサラダの小鉢、お新香、それにデザートのメロン2切れ。お盆の上のメニューに目を瞠っていると、「食後は?珈琲にしますか?紅茶にしますか?」と訊かれる。カウンターを向くと、ご亭主と思しきマスターの誇らしい笑顔。思わず会釈をし、急いで食事に向かう。
デザートまで完食したいという思いの強さか、驚異的な速さで食事終了。駅前からタクシー利用で空港へ。事務所のみんなへのお土産を買い終わって時計を見ると、まだ9時を回ったばかり。9時35分の出発まで、まだ少しばかりのゆとりがある。親父に電話をすることにする。親父の病室の内線番号はメモしてある。
「おはよう。どう?検査もちょっとした手術だからねえ。大変だと思うけど、先生の言う通りにして、頑張ってね」と激励する。
明るい返事が返ってくると思いきや「うん…。じゃけど…のお…」。歯切れが悪い。
「どうしたの?…ねえ……」。しばしの沈黙の間に、申し訳なさが込み上げてくる。親父が夜の病室で暗い天井を見上げている間、僕はバーボン漬けだった……。
「いやあ……検査の後は24時間安静ですよって、先生言うとりんちゃったけど、わしゃあ寝る時ようけ寝返り打つし…、足も時々立てんと眠れんし…、自信なくてのお……」。
携帯に籠っていた力が抜ける。そう言えば、病室でも一度、そんな心配を漏らしていたことを思い出す。
「しばらくは麻酔の影響が残ってるからね。ほっといても眠れるから。24時間安静といっても、安静にしていなくちゃって意識しなくちゃいけないのは、ほんの数時間だと思うよ。それだったらできるでしょ」。安心感に子供に言い聞かす口調になってしまう。
「そうか………。自信ないのお……」
ぽつりと漏らして黙り込む親父に、一緒に黙り込む。そして、ふと思う。ひょっとすると親父は、大きな不安と向き合ってしまわないように小さな不満を見つけ、それを反復しているのかもしれない。突き放してはいけない、と。
「大丈夫だよ!まな板の鯉!なすがまま!……言われるがまま!ね!だいじょうぶ~~!」。“なすがママ、きゅうりがパパ”と言いそうになったのは我慢。電話越しに説明を求められそうな気がしたからだった。だが、軽く小馬鹿にしたような言い方に「子供に言うみたいに言うなや……」と親父の笑い声。
ほっとした僕は、「お医者さんの言うことを信じて、ね。言われた通りにしないと、ね」と念を押す。
親父はまた黙り込む。しばらくして、「今回はすまんかったのお。迷惑かけたのお」と静かな謝辞。「何言ってんの。また来るからね。本番の時にね。…じゃ、そろそろ行くよ」と、僕は電話を切ろうとする。が、「お前も気を付けろや」の声が聞こえ、また同じ台詞を言う。
するとまた親父が…。2度繰り返すうちに、喉の奥が詰まってくる。「じゃ!ね!」と搾り出し、やっと電話を切る。
そうして、9時35分。定刻発のエアーニッポンで、僕は東京へと帰って行った。

60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

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