昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅  親父の昭和 ①

2010年09月19日 | 日記
1922年(大正11年)、親父は福岡県久留米市に生まれた。父親は、八幡製鉄のサラリーマン。当時のエリートだった。中等学校野球大会の観戦が趣味で、甲子園で行われる全国大会には、わざわざ夜行列車に乗って出かけていた。幼い頃、久留米駅で見送った記憶が鮮明に残っている、と親父は語っていた。
しかし、1928年(昭和2年)、親父が尋常小学校1年生の時、父親を脳出血のために突然失う。一人いた弟は、まだ2才。福岡の時計店の娘として何不自由なく育った母親は、いきなり途方に暮れた。そして間もなく、ある決断をした。
それは、親父を親戚に委ね、まだ乳飲み子同然の弟を抱えて実家に戻ることだった。親父の苦難の始まりだった。
それから2年間、親父は数軒の親戚をたらい回しにされた。やっと落ち着いたのが、お寺。小坊主として引き取ってもらうことができたのだった。たらい回しの記憶が焼き付いていた親父は、寺を出されたら後がないことへの恐れもあって、懸命に日々の勤めに励んだ。
その甲斐あって住職の覚えもめでたく、大学進学までさせてもらうことになった。寺の跡を継ぐことが条件だった。
しかし、京都で学生時代を過ごし、好きだった英語の勉強をしている間に、夢が芽生えた。海外に出てみたい。日本と外国をつなぐ仕事がしてみたい。そう、思い始めたのだ。
ところが、その間に太平洋戦争の戦況が悪化。大学卒業予定の前年、1943(昭和18)年、親父は学徒出陣で徴用される。小柄で運動能力に劣り、旧制高校時代の軍事教練の成績も悪かったためか、幸い南方や中国への出征は免れたが、古参兵の絶え間ない虐めによるストレスに、胃に穴が開いてしまう。1945(昭和20)年春、見かねた上官の手配により、広島の陸軍病院に入院。2か月後、病状がよくなったとの判断で退院。その1か月後、広島原爆被災。命拾いをする。
そして、終戦。行く当てのない親父は、叔父を頼って山陰の小都市浜田へ。快く迎え入れてくれた叔父の家の下宿人となった。
叔父は脚本家への夢を抱き九州から京都へ。新人賞を獲得するものの芽が出ず、活動写真の弁士に転身。地方の活動写真館を巡っているうちに、長逗留した山陰の旅館の娘と結婚。映画がトーキーへと変わったのを機に、カフェの経営者となった。ダンスフロアを併設した大正デモクラシーの香りに溢れるカフェは田舎の若い男女の関心を集め、旅館が廃業に追い込まれた義母を引き取り、堂々と妾宅も構えるなど、叔父の暮らしも一時は贅を極めていった。しかし、そんな暮らしにも、戦争が始まると陰りが見え始め、戦火が広がるにつれて消えていく。
そして、終戦がまた叔父にチャンスを与えることになる。開店休業状態だったカフェを進駐軍相手の店に変え、またも大成功したのだ。親父が下宿人になった頃は、親父に「働かなくていいから、ともかく病気を完全に治しなさい」と療養を勧めていたほど、暮らしには大きなゆとりがあった。
ところが、“やがて進駐軍はいなくなる、今のうちに稼げるだけ稼ごう”とカフェを3店舗にまで拡大したのが裏目に出た。浜田港は山陰有数の港とはいえ、所詮漁港。さして重要ではないと判断したのか、進駐軍は思いの外早く引き上げてゆき、たちまちカフェの経営は苦しくなっていった。貴重な英語ができる人材として、進駐軍で働いていた親父も失職。幸い教職を得て、女学校の教師に落ち着いたが、それに機を合わせるように、叔父のカフェは倒産。叔父一家の収入の道は途絶えた。1947(昭和22)年晩秋。終戦からわずか2年余りのことだった。

*60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

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