昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅  親父の昭和 ②

2010年09月21日 | 日記
叔父夫婦には、娘が二人、息子が一人。長女は女学校の卒業間近。長男は中学生になったばかりで、次女はまだ小学生。働く当てのない叔父はニコヨンと呼ばれていた日雇い労務者となって、なんとか家庭を支えようとした。
しかし、家計の厳しさは日増しに増していく。そして、どうにもならない苛立ちと日々の疲労は、叔父夫婦の間に亀裂を生んでいった。
親父は20代後半にさしかかったところ。教職も得ていたとあって、言わば叔父一家唯一の灯り。女たちの信頼も厚くなっていった。
そして、女学校卒業と同時に、長女の信頼は新たな展開を示し、結実していった。親父との恋愛・結婚である。
1948(昭和23)年。従兄妹同士は結婚した。親父26才。長女19才の秋だった。こうして、叔父一家の中に新しい家庭が出来上がり、生活は貧しいなりにも安定へと進み始めた。
1年後、親父夫婦に長男誕生。未熟児で生まれた長男は、祖父母、両親、叔父・叔母全員に慈しまれ、ひ弱ながらもしっかりと育っていった。僕、である。
しかし、未熟児が命を存えたのと交換に、親父の健康はそのころから蝕まれていった。1951(昭和26)年春。親父の肺結核判明。途端に家族7人の灯りは消え、暗く重い荷物と化した。
休職し闘病生活に入った親父と乳飲み子、さらには家族を支えるための、妻の厳しい戦いが始まった。なんでもこなす器用さと真面目で懸命な仕事ぶりの評価は高かったが、肺結核という敵には働けど働けど歯が立たない。新制高校を出たばかりの長男はトラックの運転手になり、家計を助けることだできるようになっていたが、親父の病気が吸い込んでいく金額にはとても追いつけるものではなかった。
全快する保証のない病気にむやみに費消されていくみんなの労力の結晶。せめて治療費にと売っていた着物や家財道具の払底。親しくしていた近所の店にひたすら溜まり続けるツケ。……。限界は、来ていた。
1952(昭和27)年春。妻は、限界からの脱出のために旅立った。都会で稼ぎ仕送りをする、ということだった。身を寄せたのは、親父の弟。神戸製鋼のサラリーマンになっていた弟は、親父からの依頼に快く応じてくれていた。
しかしそれは、本当は親父からの脱出だったことを、やがて親父は知る。
2ヶ月後、親父の元へ一通の手紙が届く。弟と妻連名の手紙は、自分たちは愛し合っている、離婚してほしい、子供は引き取りたい、というものだった。
旅立つ前から、妻の出発は出奔ではないか、と少し疑っていた親父は、すぐに行動に出た。
友人、知人から金を掻き集め、僕を連れて神戸へと向かったのだ。山陰本線鈍行での長い旅だった。その旅は、2歳半の僕にさえ強い記憶を残しているほどの、辛く悲しいものだった。
到着後すぐに、僕を連れ、僕を決して手放さないことを切り札に、親父は三者会談を開いた。しかし、妻は親父の元へ帰ることを拒否。弟も、子供を引き取らせてくれ、と言うばかりだった。
理由は、生活の苦しさばかりではなかった。
下宿人となって間もなく親父が働いた叔母との不貞が大きな原因だった。幼子をおぶって歩く妻の耳に届いた「あの子、どっちの子なんだろうねえ」というひそひそ声に、母親と夫の過去の不貞を初めて知った瞬間、すべてを捨て去る決意を固めていたのだった。
それでも親父は粘った。病気に衰えていく身を誰に委ねられるというのか、この子供は紛れもなく二人の子供ではないか、過去の過ちをどうしろというのか……、酷い仕打ちではないか……。
これ見よがしに弟の住まいの近くに安アパートを借り、僕との二人暮らしを3ヶ月間。借り集めたお金が底をつくまでやり遂げて、親父はやっと諦めた。最後に宝塚動物園に連れて行ってくれたことだけ、僕は覚えている。

60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

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