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靖国神社参拝

2015-02-05 06:19:00 | 日記
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靖 国 神 社 参 拝

 

 昨年末何故か無性に靖国神社を参拝したくなった、靖国神社周辺は、外堀公園、神楽坂、
市が谷防衛省、皇居東御苑、皇居北の丸公園等は何度か訪れているが、靖国神社にはも
う70数年訪れていない。


 行って見たくなったその大きな理由は小学生時代遠足で靖国神社参拝して、大村 益次郎
銅像の前で記念写真を撮った記憶が有り、其れは小学3年頃と思っていた、同級生にその
話をしたところ、其れは小学1年生の秋の遠足だと教えてくれた、その同級生は小学校時代
の遠足の写真を保存しているとの事。

 だが今回行って写した写真から検証すると大村 益次郎銅像前ではなかった、大門を過ぎ
中門の所にある、明治 大正期の戦争を銅板にレリーフした石柱の前だった、75年間思い
込んでいた記憶が更新された。


 あの熾烈を極めた戦争に依り、学童疎開で親子は離ればなれ、東京は度重なる大空襲
で焼け野原になったのによくぞ残っていた、親御さんが日にちを記入して田舎の疎開先へ
持ちだしたようだ、早速その写真を借り受けデジタル化して保存した、その写真では、昭和
14年10月と記されていた、何と76年前の写真である。


 12月半ばと言うのに都心は暖かいのか、境内の銀杏が綺麗にi色付いていた、参道から
大鳥居をくぐると1世紀の4/3を経た75年以上前の小学1年生に戻り嬉々として境内の各
施設を見て触り、昔と変わらぬ思い出を蘇らせ、境内をくまなく散策見て歩く、大村 益次郎
の銅像の前に立った時は非常に感慨深かった、その感慨は76年も経て健康で此の前に
立てた事もある。


 比較的朝早く参拝したので境内は人影も少なかった、本殿前に立ち参拝を済ませたが、
大村 益次郎の銅像の前に立った時の感慨と全く違う思いだった。


 思い起こせば日清戦争、日露戦争 第1次世界大戦 支那事変 太平洋戦争と日本も大きな
戦争をしてきた、日清 日露は勝った、第1次世界大戦も勝利した、支那事変は出口が見え
ない泥沼化した上に太平洋戦争に突入した、全戦争を通じて無慮数百万人の若人が国の
為に犠牲になって国を支えてきたのである、、太平洋戦争は「無条件降伏」の屈辱を味わっ
た、国の為に犠牲になった「英霊」達は泣くに泣けなかっただろうと思う、だがその犠牲の上
に立ち「国敗れて山河あり」辛うじて国土を守って呉れた、此の英霊達に感謝を込めて祈った
、益次郎前の記念写真撮影の古きを懐かしむ感情と本殿前の感情の違いはここにある。


 此の英霊達が国土を守って呉れたから戦後20年ばかりで経済的に立ち直り、30年を経
た頃には「もはや戦後ではない」の言葉が出る程復興した、その後驚くべき復興で世界に
冠たる経済大国にのし上がった、これも一重に国の為に身を挺して守って呉れた貴き将兵
のお陰だと感謝の念を禁じえない。


 小生も、もう数年早く生まれていればお国の為に出征して戦死していたかもしれない、当
時の小学生と言えども軍国教育、今で言うスパルタ教育、教室内で些細な言動にも、宿題を
忘れても、今の小中高生には想像もできない体罰が有った、今だったら親が目くじら立てて
教育委員会へ訴えるだろう、そんなスパルタ教育は日常茶飯事、そのスパルタ教育が自分
の人生に大きく役立った事は声を大にして言いたい、但し暴力を是呈しているのではない、
今の教師ももっと毅然とした態度で生徒に向かう教育が必要と思うだけ。


 小生の父親は明治後半から大正期に掛けて、戦艦「朝日」の主計大尉を遣っていた、小生
に兵隊に行くなら海軍を選べとよく言い聞かされたいた、陸軍は鉄砲を担ぎ機関銃を運び重
い大砲も動かし、長距離を歩くかなければならず重労働だと言う、そこへ行くと海軍は艦内で
行動して重い物も持たず総て艦と行動を共にしてくれるから楽だと言う、そして万が一艦が
遣られた時は艦長共々一蓮托生皆仲間と死んでいく、1人ではないと。


 小学5年の時に5~6年生を以てクラスの中に「航空少年団」「海洋少年団」が選抜 結成
された、小生運よく海洋少年団に選抜された、水兵さんの帽子、六尺棒 2m程の捕縄が渡
され、手旗信号 モールス信号など教育され、日比谷公園 代々木練兵場などに行事が有る
と動員され交通整理などに当たった、そんなで父親の勧めもあり「江田島海軍兵学校」を受け
るべく猛勉強した、だが江田島海軍兵学校は卒業すれば即下士官、金モールの襟なし紺の
制服に短剣を釣った素敵な服装誰しも憧れの学校だった、小生のぼんくら頭脳では到底無
理だったと思うが猛勉強した、受験可能年齢前に終戦になり、不合格の憂き目を見ずに済ん
でよかった。


 戦前 戦中 戦後総ての世相を見てきた人も少なくなった、いま85歳近い人でなければ其れ
は語れないだろう。


 

 昭和14年10月秋の遠足、靖国神社参拝記念写真、大村 益次郎銅像前とばかり76年間
思いこんでいた、 校長先生 担任の先生 付添いの先生は背広とネクタイだが、当時学校
に小遣さんが2人交代で勤めていた、服装は作務衣に似た和服、付添いのお母さん方は皆
和服姿、太平洋戦争が始まる2年前の家庭の主婦は殆ど和服だった。当時クラスの人数は
64人今の倍以上の人数がひと組だった、殆どが坊主頭、中に2~3人おかっぱ頭の子がいた、
これは家庭が裕福で、「幼稚園」を卒業して来た、その頃幼稚園など行く子はほんの僅か、
76年前の紅顔の美少年達、今も10人程は年に1回程逢い数人は何回か会い酒を酌み
交わす。
大村 益次郎銅像、上の記念写真と銅像台座の違いに気付いた、実は大村 益次郎前
ではなかった76年前の勘違いを修整出来た事は良かった
実はこの石柱の前で記念写真を撮った、これなら記念写真背景の石柱と合致する
この石柱に埋め込まれている銅板レリーフは、明治 大正の戦争での功績を銅板に残し顕彰
している
日本海海戦 旗艦三笠艦上で指揮を執る東郷
元帥
沈み行く艦上で部下杉野兵曹長を探す
広瀬中佐
 
負傷兵を介護する最前線で活躍する従軍
看護婦
関東大震災で崩れた浅草の12階建て
ビル
自然に頭が下がる重厚さが有る本殿
遊就館1時間少々で見学が終わると思ったが、何と2時間半以上を要した、館内1階ロビー
は撮影できるが、他は総て撮影禁止
開戦時世界一優秀な戦闘機零式戦闘機、間もなくアメリカに性能で抜かれてしまう

 

 真珠湾攻撃の時に母艦から五隻発進した「特殊潜航艇」一艇二人乗り五〇〇k魚雷二本
搭載 動力は蓄電池、電池切れ即停止何もできない、後改良されエンジン搭載蓄電池充電
で航続距離は伸びる、一応母艦に帰投する設計はされていたが、自爆する「人間魚雷」の
性格が強かった。

 
  二人乗り5艇が真珠湾に潜航、其の戦果は分からぬが目的を果たして全員自爆したと
思われた、そして乗組員は皆軍神
として祀られた、何故か九軍神である1艇2人乗り組み
五艇10人の筈である、、子供心にも1艇は1人乗りかと思った、だが後で判明した事は、
4艇は目的を果たしたが、1艇は浅瀬に乗り上げ米軍に捕獲されたのである、1人は死亡
1人は生存していて太平洋戦争捕虜1号になってしまった、依って九軍神の理由分かった。

 特殊潜航艇5艇の隊長は確か 岩佐 直治海軍少尉と記憶する。

 

 遊就館を見学すると昔から日本軍の武器の優秀さ、精鋭の果敢なる功績等を称え
ている、確かに世界に先駆けた優秀な武器もあった、だが如何にせん資源の乏しい
日本、物量豊富な欧米に対しては苦しい、時を経ずして優秀な武器開発に追い越さ
れた。


 日本が止むなく開戦に至った経緯も見えてくる、開戦前は欧米諸国がA B C D包囲
網と称して我が国へ物資の輸入、軍事力にも介入してきた、さもなくても物資の乏しい
国、庶民生活も燃料 食糧 衣料を始め総て配給制になり、生活に窮状を呈してきた、
その上軍事力でも米 英は軍艦数を5、日本の軍事力を弱めるため軍艦数を3の割合で

553を打ちだして来た、これに怒った日本は野村 来栖両大使が国際連合脱退を宣言
して、枢軸国に対し反枢軸国となり最早開戦止む無しに至ったのであろう。


 昭和天皇の米英に対する宣戦布告の詔勅にこんな一文が有る「隠忍久しきに亘りた
るも 彼は傲も向上の精神なく 徒に時局の解決を遷延せしめ 帝国の存立亦正に危殆
に貧せり  帝国は決然起って一切の障害を破砕するの他なきなり」
正に当時としては
止むなき事で有ったろうと思う。

 
 今靖国神社を訪れてみると昔からそうであったろうが非常に穏やかな美しい境内、
戦後70年戦争に依ってここに祀られた人はいない、大きな災害が有る度に自衛隊の
若人が、身を挺して人命救助に当たっている、非常に感動を覚えるし美しい姿と思う、
こんな優しい若人を海外へ行かせて、外国人に銃を向けさせることなど絶対にあって
はいけない、集団的自衛権 憲法9条改悪などして自衛隊員に犠牲者など出る事は
絶対あってはならない事だ。
本殿から大鳥井に向かって穏やかな表情の靖国境内、ここに新たな英霊を迎える様な
事は絶対あってはならない