一部週刊誌でコロナ禍の対策で首相が役人の作文を棒読みする口調からは国民の痛みへの共感は見られないと批判されている。私くらいひねくれるのに十分な年を取るとそうは思わない。棒読みは分かり易くて良いではないか。これは役人が書いた原稿ですよと宣言しているようなものである。もっと始末に負えないのは心にも無いことをあたかも自分の本心であるかのように喋る演技力の方だ。さらに高度な技は相手の反応を想定して逆張りを堂々と正論のようにぶつけてくる人達だ。これは結構勇気が要ることで場が読めないとできることではない。聴く方がそれを見分けるのは至難の業である。
一時期ある方のスピーチライターをやったことがある。今のようにプロンプターなどの便利な機械が有る訳でもなく原稿は手元の机上にある。しかしいざ喋り出すと1時間の講演でも原稿に目を落すことなど殆どなく、如何にも全てが自分の言葉である。相当読み下して自分のものとして捉えているのだろうが天才的である。本人の著作も多く、原典が分るものも多かったが殆どは自身の言葉として消化している。大変な読書家で知識の範囲も広大であったが故の為せる技である。考えてみれば我々が為す事の殆どは基本受け売りである。オリジナルなどというものは極稀だ。文明や文化、科学すら先人の知恵の受け売りにほんの少しスパイスを効かせただけで自らが築いたと勘違いしている。
あるとき太陽電池に関する特許が取得できたと大騒ぎをしていた。内容が単純であるだけに基本的な特許で他社からロイヤリティーが取れると大喜びである。ところが内容を見ると30年以上前アメリカのメーカーが写真入りでカタログにまでしている技術である。そのカタログを送って公知の技術ではないかと言ったらライバルメーカーからの異議申し立ても無ければ審査官も見過ごしたのは我々の責任ではないという。確かに30年以上前に特許になるほどの技術ではないと判断して特許化したいなかったのかも知れない。異議申し立てをしなかったライバルも迂闊だが過去の技術をレビューしていなかった技術屋としては恥ずかしいことだとだ諭したがその後の対応は知らない。
冬のソナタが50年以上前に作られたアメリカ映画、心の旅路のオマージュではないかと先日ブログに書いた。冬ソナの脚本家はアメリカ映画を観ていなかったのか、見てもその記憶は潜在下に埋もれて顕在化した時は自分のオリジナルと思ったのか。どこまでが自分のオリジナルでどこからが受け売りかを判断することは本当に難しい。一方で編曲というジャンルがあるようにカット・アンド・ペーストもやりようによってはオリジナルである。何時もはあたかも自分の考えによると見せかける技術に長けた首相が棒読みと思われたこと自体は落ち度とも言えるが、たまに不器用な棒読みがあっても良いではないか。因みにこのブログの文字も単語もオリジナルは何処にも無い。従って文責も発生しない。