「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

日本のサッカー文化を100年先に繋ぎ伝えたいのです

2014年06月22日 23時33分56秒 | サッカー文化

あらためて書きますが、私は「サッカー文化フォーラム&アーカイブス」の夢追い人です。それは、1993年のJリーグスタートをもって萌芽した日本のサッカー文化を、克明に記録し続け100年先に繋ぎ伝えたいという夢を現実にするため日夜作業を続けている人なのです。

6月14日付のこの欄では、収録した映像記録をデジタル変換してHDDに取り込み、変換を終えた古いビデオテープを廃棄して倉庫代わりにしている部屋のスペースを空けるという作業を始めて2年になりますというレポートをしました。こうした作業をこれからも延々と続けていくことによって「日本のサッカー文化」を記録・保存・継承できると信じているのです。

1993年を起点として、すでに21年が過ぎました。日本のサッカー文化は裾野も大きく広がり、深みもずいぶん増して、すっかり社会に根付いていると思います。

それを顕著に感じるのが、ちょうどいま、ブラジルワールドカップに対する日本での関心度合です。

今回でワールドカップ5回連続出場となる日本、日本の社会全体が「ワールドカップは地球規模の一大イベントであり、その大会で日本がどこまでやれるか期待もできる」という雰囲気です。テレビ・新聞などのメディアのみならず、社会のあちこちでワールドカップサッカーと日本代表の活躍に一喜一憂していることが伝わってきます。

日本代表に海外クラブで活躍している選手が多く、実力も高まったのではないかという期待が膨らんだことも大きいと思いますが、やはり20年以上にわたるサッカー文化の浸透の結果と言っていいのではないでしょうか。

1998年の日本初出場の時、まだワールドカップサッカーに対する認知度は低く、物珍しさ的な見られ方でした。メディアは4年後に日韓共催でやる大会だと必死にアピールしていました。

2002年には、自国開催でもあり高揚感も含めた喧騒が日本中を包みました。そして2006年、2010年を経て、いまは選手たちは自信に溢れた表情で大会に臨み、応援する日本の社会の中で、サッカーは一つのスポーツという狭い存在ではなくなってきました。

このような変化は、それを克明に伝え記録されてきた各種メディア、すなわちテレビ、書籍・雑誌、新聞等に保存されています。

当・サッカー文化フォーラムは、それらの各種メディアに記録された一つひとつの動き・変化をサッカー文化事象として連綿と蓄積し続けて、それを100年先に繋ぎ伝えていくことを目指しています。

そして、いま、このブログを読んでくださっている方に、呼びかけたいことは、この100年先に繋ぎ伝える作業において、私は第一走者となっているに過ぎず、それはあと数年、長くとも10年が精一杯だということです。これまでの21年と合わせて、せいぜい30年です。残りの70年に向けて、当然、第二走者にバトンタッチが必要なのです。

そのバトンタッチは、私が再起不能になったりしてからでは元も子もありません。まだ続けている今のうちに第二走者になっていただく方、それが個人の方か団体かは問いません。第二走者になっていただく方に手をあげていただきたいのです。

サッカー文化の継承です。サッカーに関する映像・活字情報の収集継続と保存です。サッカー情報のアーカイブ事業の継承です。

どうぞ、よろしくお願いします。お読みになった方で、自分には無理だけど、あの人に相談してみようとか、あの人に情報提供してみようと思い当たるようでしたら、ぜひ、それをお願いします。

ご連絡をお待ちしております。

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ザッケローニ監督への批判がいよいよ表面化してきました

2014年06月22日 22時35分32秒 | FIFA、サッカー協会

日本時間20日朝のギリシャ戦を終えて、スポーツ紙の論調は、21日は各選手について触れたものが多かったのですが、22日は各社一斉にザッケローニ監督批判一色でした。

まだグループリーグ敗退が決まったわけではないにしても、第3戦のコロンビア戦は、他チームの結果にもよる非常に厳しい条件で戦うことになったのですから、当然といえば当然です。

実は、私は18日おそくとも19日には「ザッケローニの戦争指揮能力の低さを選手がカバーするしかない」というタイトルで、本欄に書き込みたかったのですが、仕事が詰まってしまい書けませんでした。

このあと、その原稿を紹介しますが、その原稿の中に「私が2年前に指摘したザッケローニの戦争指揮能力の低さが、致命的な形で露呈した」というくだりがあります。

そこで、はじめに、2年前に指摘したことを再録する形で紹介します。2012年6月3日に「鳥栖、ユン・ジョンファン監督にみる「監督力」」という書き込みをしています。

この中で、サッカーチーム監督に求められる能力・資質として、

①選手の適性を発掘・察知する能力と、布陣として適性に配置する能力

②対戦チームのスカウティング能力・戦術構築能力

③勝つチームにまとめるモチベート能力

④試合において瞬時の判断・決断を下せる采配能力

⑤対外的に適切な情報発信を行なうスポークスマン能力

の5つをあげています。

このうち、④の項目においてザッケローニ監督について次のように指摘していますので、④項をそのまま再録します。

④試合において瞬時の判断・決断を下せる采配能力

①から③までは深みのある人間性、あるいは知性、カリスマ性といった面で監督を見たが、試合は戦場そのものだ。瞬時の判断・決断の失敗はそのままチームの敗戦に直結する。

戦場での瞬時の判断・決断力は、ある意味動物的な、本能的な部分が持つ能力ともいえる。直感とか、勘といった言葉で語られることもある。ただ、直感とか勘も、チームとして集めた情報を総合的に分析して導かれた方向性があるから判断を間違わないのであり、戦局全体を冷静に見極めていればこそ下せる決断であろう。

最近まで総理の座にあった、どこぞの国の総理のように、瑣末な事に血道をあげて「ソーリのリーダーシップだ」などとわめいているようでは、もし戦場なら何万もの将兵をいたずらに死なせてしまうだろうし、サッカーの試合なら絶対勝てない監督となる。

サッカーチームの監督は、試合に選手を送り出してしまえば、使えるのは交代カードを最適に切ることぐらいだが、実は、このカードの切り方一つで、試合の流れをガラリを変えることができる。

この「選手交代」で凄味を感じたのが日韓ワールドカップで韓国のヒディング監督が見せた采配だ。決勝トーナメント1回戦、イタリアとの試合で見せたFWカードの連続投入、三人目のFW投入の時はディフェンスの要、というよりチームの要であるホン・ミョンポ(洪明甫)を下げての交代である。守備のバランスが大きく崩れることは間違いない、しかし、そんなことを言っても点をとらなければ勝てない、それがわかっていても、なかなか采配でそこまで大胆にやれる監督は少ない。

当ブログは、現在の日本代表監督、ザッケローニさんについて、この部分にやや不安を抱いている。日韓ワールドカップの時の日本代表・トルシエ監督もそうだった。決勝トーナメント1回戦のトルコ戦、戦い方のアプローチも誤りスタメンの選び方を失敗したほかに、選手交代のカードの切り方もまったくダメだった。

結局トルシエさんは育成向きの監督であり戦場を指揮する監督の器ではなかったことが明らかになった。同じ頃、ヒディング監督がああいう采配をしただけに、余計トルシエさんの非力ぶりが際立ったものだ。

ザッケローニ監督にもレギュラー選手を固定しがちな采配が見られる。「戦局が優勢な時にはいじらない」というのがサッカーにおける選手交代の鉄則といわれている。言い換えれば監督としての腕のみせどころは、戦局が危うい時、このままでは負けてしまいそうな時である。

これまでのザッケローニさんは、負けていてもズルズルと決断ができず、残り少なくなってから投入しても、あまりにも遅きに失しているといったケースが散見された。まだ、失敗が許される試合だったから大きな問題になっていないが、いよいよという場面、ここで失敗したらアウトという場面での判断力・決断力には不安が残ったままだ。

以上が、ちょうど2年前に指摘した点だ。

そして、失敗が許されない大会、失敗したらアウトという今大会、私がコートジボワール戦のあとギリシャ戦を前に書き込みを予定していた内容を紹介したい。

予定タイトル「ザッケローニの戦争指揮能力の低さを選手がカバーするしかない」

いよいよ明日ギリシャ戦である。

コートジボワール戦は、私が2年前に指摘したザッケローニの戦争指揮能力の低さが、致命的な形で露呈した。

いざ戦いが始まったら、わずか90分の中で、スタメンに送り込んだ選手の出来不出来を見極め、相手との関係で修正が必要な点を的確に把握する、そして対策をタイムリーに打ち出し目指す結果を得る。指揮官の最後の仕事の部分でザッケローニは不安な監督だ。

手を打つべきタイミングが遅れては元も子もない。

コートジボワール戦において、とるべき対策の第一は、後半開始から、遅くとも後半10分までの間に香川をベンチに下げることにあった。

長友も決して良くなかったが、攻めを期待するのは無理としても守りのことがある。酒井宏樹を長友のサイドで十分使えるのであれば変えたいところだったが、それは私にはわからない。

しかし、香川だけは全く生きておらず、そればかりかボールを失ない相手の攻めを始めさせるミスも多かった。長谷部に代えて遠藤保仁を入れたが、そうではなく香川のポジションに遠藤を入れて遠藤-長谷部-長友という布陣で左サイドを強化すべきだった。

とはいえ、そんなことを言ってもはじまらない。ギリシャ戦もワントップを誰にするかぐらいの違いで、あとはほぼ同じ布陣だろう。

もうザッケローニの采配など必要ないぐらいに選手がやるしかないのだ。スタメンに送り込んだ選手たちが思うように機能せず、何か手を打たなければならない局面を迎えても、ザッケローニには私たちが願うような采配が期待できないと思わなければならない。

まぁ、昨年のコンフェデレーションズカップでは、第一戦のブラジルに完敗したあと、第二戦のイタリア戦で見違えるような試合をした。気持ちの切り替えもできるという。私は選手を信じ応援し、選手たちとともに、そして日本全体のサポーターとともに勝利の喜びを分かち合いたい。    【以上】

以上のように書こうと思っていたが書けないうちに、20日のギリシャ戦を迎えてしまった。

結果、負けはしなかったが勝てなかった。相手が10人になって、ただでさえ堅い守りで定評のあるギリシャが完全に守りに入った試合ではあるが、ここでも、やはりザッケローニの限界が出てしまった。

すでに2年前に指摘した「レギュラーを固定しがちな采配」が極端な形で現れた。カードを1枚余してもサブの選手を使わなかったのだ。つまり彼の頭の中には、「23人連れてきてはいるが、基本的には13~14人しか使う気がない」ということだったのだ。さらにスタメンから香川を外しても、後半、香川を入れる、つまりレギュラー至上主義だ。第一戦を見て、今大会、香川は使えないという「見切り」が彼の選択肢にないのだ。

香川をまた入れたこと、齋藤学を使わずに試合を終えたこと、これでザッケローニはグループリーグを勝ちあがれる力量のない監督ということがはっきりした。

仮にグループリーグを突破できたとしても、それは彼の功績ではなく、誰か救世主となる選手が出現して、さらに他チームの結果にも恵まれるという幸運によるものだ。

いま、これだけは書いておき、コロンビア戦を待ちたい。

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