「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録「トルシエ監督時代のこと」まもなく取りかかれそうです。

2023年07月03日 11時49分14秒 | サッカー日本代表
「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から、次の予定はトルシエ監督時代のことです」という告知をしたのは、2月16日のことです。もはや4ケ月半が過ぎました。
「トルシエ監督時代のこと」についての下調べは、ほとんど終わりました。問題は、トルシエ監督の時代をどう総括すればいいのか、なかなか軸足が定まっていなかったことです。

当初、この時代の4年間を検証したいと考えたのは、次のような理由からです。
ハンス・オフト監督以降の日本代表監督の中では、途中交代せずに本大会まで務め、グループリーグを突破した監督が二人しかいないという、その一人がトルシエ監督ということになります。

就任以降、途中交代せずに本大会まで指揮をとった監督としては、ジーコ監督もザッケローニ監督もいますが、残念ながらグループリーグ突破は果たせておりません。

そのトルシエ監督時代の4年間が「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年」の中で、どういう意味を持つのか、どのように位置づけられるのか、どのように評価されるべきなのか、正直なところ、あまり総括されていないように思います。

その「あまり総括されていない」という点についても、実は、いろいろな意見がごちゃまぜ、わかりやすく言うと、評価が真っ二つに分かれていて、総括しきれていなかったのかも知れないという気もします。
今回、そこに切り込んで、ズバリ、明快な答えを提示したいと思っています。

ということで、威勢よく準備にとりかかり5月末ぐらいには、ほぼ調べものは終わりました。
ところが、調べれば調べるほど迷宮にさ迷い込むような感覚を覚えるようになったのです。

こういうケースは珍しいと思います。日本サッカー史上に燦然と輝く結果は出したのに、評価が真っ二つになっているのです。しかも、快挙を達成したにも関わらず「もっとやれただろうに」と悔いを残す結果でもあるわけです。

では、トルシエ監督でなくても、あれぐらいの結果は出せたのだろうかと考えれば、必ずしもそうではないかも知れない。
なぜ、こんな歴史になってしまったのか、明快な答えはどこにあるのか。

ここ1ケ月ぐらいは、頭の中を空っぽにしたり、調べた内容を反芻してみたりの繰り返しでした。
でも、ようやく出口が見えてきました。

「トルシエ監督時代の4年間」とは、どうやら「日本サッカー界全体として、当時、得られる最大限のところまで到達できた4年間であり、それ以上の高みには、トルシエ監督自身が挑もうという気がさらさらなかった。そういう人に監督を任せたのは日本サッカー界そのものであり、それが世界の中での日本サッカー界のレベルというか、その程度の成熟度合しか持ち合わせていな時代の出来事だった」というところに落ち着きそうです。

歴史が必ずしも思い通りにいかないのは、トルシエ監督時代の代表チームは、昇り竜のような勢いのあるチームで、次のW杯・ドイツ大会にはピークを迎えるだろうと期待されながら、現実にはジーコ監督のもとで1勝もできずに終わったことです。

では、トルシエ時代のチームをスムーズにドイツ大会で成果に結びつけられなかったのはジーコ監督の責任かと言えば、必ずしもそうではありません。判ってきたのは、トルシエ時代のチームに、トルシエ監督自身が、成長曲線に乗るようなメンタリティを植え付けたかどうか疑問が残るからです。

トルシエ監督からジーコ監督へのバトンタッチ、これもまた当時の日本サッカー界のレベルがそうさせたとしか言いようのない無定見なバトンタッチです。無定見どころか、あらゆる面で前監督と真逆のタイプの監督を据えたのです。

日本サッカーの継続性、連続性など全く眼中にないバトンタッチです。交代の直後は、トルシエ氏もジーコ監督も、それぞれ相手に対するリスペクトで、なんの引っ掛かりもないようなバトンタッチでしたが、選手たちはいい迷惑だったに違いありません。

同じことはトルシエ監督を選んだ時にも言えます。岡田監督が苦労に苦労を重ねてフランスW杯仕様のチームを作り上げたにも関わらず、何の継続性、連続性も考慮せず、いきなりトルシエ監督です。

読者の皆さんもお気づきかと思いますが、当時の日本サッカー界とはこの程度のレベルだったのです。トルシエ監督を選んだ時、口では「現在、世界の最先端ほ行くフランスサッカー界でコーチング理論を学んだ有能な監督にきてもらった」と言いながら、日本サッカーの継続性、連続性とは何の接点もない人を選び、ジーコ監督を選んだ時、口では「日本人の気持ちを知り尽くしているジーコ監督なら必ずや、よりよい成果をあげてくれると確信している」と言いながら、前任者とは真逆のタイプの人を選ぶという、極めて恣意的なやり方をしていた時代だったのです。

結局のところは、代表監督を選ぶのは日本サッカー協会であり、その人事を牛耳るのは協会内での力学で上層部にいる幹部たちです。当時は当時で、難しい条件の中、いろいろな考え方で代表監督を選んできたのでしょうけれど、もう少し客観的、論理的であったらと思います。

代表監督人選というのは、世界中にいる代表監督候補者の中から、タイミング的なもの、条件面、欧米からの地理的条件や日本の文化社会の特殊性など、いろいろな要素が絡み合って、なかなか思うように行かない面もあります。2002年W杯でヒディングを監督に迎えることができた韓国のような幸運に恵まれることも必要かも知れません。

ただ日本は、ジーコのあとを託したオシム監督が病に倒れた危機を岡田監督が救ったり、2018年W杯の直前になってハリルホジッチ監督を更迭せざるを得ない危機を西野監督が救ったり、W杯連続出場を途切らせることなく、そしてグループリーグ突破が可能な国として歴史を積み上げられたのは、幸運だったとも言えます。

1993年のJリーグ開幕の年、残念ながらオフト監督率いる日本代表が、あと一歩のところでW杯出場を逃したものの、4年後の1997年、苦しみぬいた末、W杯初出場を果たし、予選免除の2002年は一気に本大会で2勝をあげ、右肩上がりで成長を遂げてきました。

その流れを作ったという意味でトルシエ監督の功績は揺るぎないものですし、トルシエ監督誕生の不透明さや、その人間性から来る毀誉褒貶の激しさ、各方面との摩擦が絶えない監督ではあったものの、それらも含めて、当時の日本サッカー界全体のレベルというか、世界における日本サッカーの位置づけを反映していると思えば、吹っ切れる明快さです。

今回、あらためて思ったのは、トルシエ監督が残した財産をジーコ監督が引き継いで2006年を戦った後、中心選手だった中田英寿選手の引退をはじめ、小野伸二選手、高原直泰選手、稲本潤一選手といった選手たちの、いわば一つの時代が終わっていることです。

ジーコ監督のあとを引き継いだオシム監督は、いろいろな面で日本サッカーを再構築しようとした監督でしたから、2006年までと、それ以降に一つの断層ができたように思います。
そこで、1993年から2006年W杯までの時代を、当フォーラムでは「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の前半史」と名付けることとして、主として、この時代の歴史を克明に記録していくこことしたいと思います。

したがって2006年W杯以降の時代、つまり「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の後半史」については、当フォーラムの志を引き継いでくれる「どなたか」に託すこととしたいと思います。

「トルシエ監督時代のこと」の執筆にまもなく取りかかれそうだということをお伝えして、また「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録」については、1993年から2006年W杯までの時代、すなわち「Jリーグスタート以降、2006年W杯までの日本サッカー30年(前半史)」に絞ることをお伝えして、次回に譲りたいと思います。

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