「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

神戸・リージョ監督が「サッカーに現れる日本人ならではの難しさ」を指摘

2018年11月16日 20時23分29秒 | サッカー選手応援
webサイト「Goal」に神戸・リージョ監督にインタビューした記事「知将Jリーグを語る」が掲載されました。11月13日付けです。

このインタビューは、スペインのテレビ局のインタビューだそうです。
ちなみにリージョ監督、私はまったく知らない監督さんですが、なんでも、あのペップ・グアルディオラ監督が師と仰ぐ方だそうです。

当代最高の監督から「師」と呼ばれる人となれば、それだけで、ひれ伏して仰ぎ見なければならない存在と言えますが、そういう人が故に、その指摘は、物事の本質をズバリ捉えているのかもしれません。

「リージョ監督が語るJリーグ」、じっくりひもといて見ましょう。

まず最初の指摘、「日本では言葉の問題が非常に大きな負担とハンディになっている」
これは珍しい指摘とは思えなかったのですが、神戸では想像以上の問題が起きているのです。

すなわち、日本のクラブである神戸でリージョ監督とポドルスキー選手が意思疎通を図ろうとすると、まず、リージョ監督が話した内容を通訳が日本語で話します。それを聞いた別の通訳がドイツ語でポドルスキー選手に伝える、という作業が必要だというのです。

つまり日本では、まるで伝言ゲームのような形でしか意思疎通が図れないということであり、真意が本当に伝わっているのか、細かい微妙なニュアンスが本当に伝わっているのか、という話になり、欧米のクラブでは考えられない負担とハンディを抱えているというわけです。

かねてから「言葉の問題」と漠然とは言われていましたが、このような具体的な指摘を受けると茫然としてしまいます。

次の指摘、「日本のフットボールは、ピッチ前方の半分は欧州レベルにも耐え得るが、後方のもう半分は違う。ペナルティエリアで点取り屋に耐え切ることはできない」

「エリア内の仕事が足りていないんだ。エリア内では意志の強さが必要だが、ここの選手たちはそれが不足している。ここには『ショウガナイ』という表現がある。よくできた表現だと思うが、まるで『負けても大事(おおごと)ではない』と言っているようだ。」

ここまでは、実に日本人ならではの本質を突いた指摘で、感銘すら覚えますが、そのあとの指摘が難解を極めていて、どなたかにかみ砕いて説明していただきたい内容です。

リージョ監督は、このあと「しかし敗戦は適切な場所に置かなくてはならない。敗戦は実際的な問題と関連付いているからだ。フットボールをエンターテイメントに導くのは、それで素晴らしいと思う。しかし私たちは人の命を救うわけでもないし、実際に功績となることを行っているわけではないんだよ」

この部分、転記していてわかったのですが、完全に翻訳のレベルの問題ですね。おそらく、そういう訳し方がふさわしいのではなく、別な訳し方が正解だと思います。

例えば「敗戦は適切な場所に置かなくてはならない」、これって、 何のことだかわかりませんよね。

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