「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から(4)岡田武史監督は、そもそもなぜ、日本代表コーチだったのでしょう

2023年01月08日 17時38分05秒 | サッカー日本代表
前回の「日本サッカー30年の記録から(3)」では、カズ選手フランスW杯代表落選前夜の様子から、落選の経緯などを探ってみました。

カズ選手落選のこともさることながら、前年のフランスW杯アジア最終予選のさなかに緊急避難的に誕生し、その延長線上でカズ選手を外した岡田武史監督についても、その後の見事な監督人生を思うにつけ、はっきりしておきたい点がありました。

そもそも、岡田監督がなぜ加茂監督のもと日本代表コーチとして就任することになったのか、加茂監督はなぜ岡田武史氏をコーチに選んだのか、どうしても明らかにしておきたくなりました。

1997年10月、加茂監督のもとでフランスW杯アジア最終予選を戦う日本代表の戦績が思わしくなく、このままでは出場権獲得が危ういとばかり、日本サッカー協会がカザフスタンのホテルで開いた記者会見について、サッカージャーナリストの杉山茂樹さんが「平成サッカー史を変えた怒涛の1週間。代表監督解任から謎の同点弾まで」というレポートの中で、加茂監督の更迭と後任・岡田武史氏が発表された時の状況をこう書いています。(原文のURLは下記のとおりです)
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jfootball/2019/04/28/post_49/

「発表したのは確か長沼健サッカー協会会長(当時)だったと記憶するが、加茂監督を解任すると発し、「次の監督は」と続いた瞬間も、その人物が、傍らに座る岡田武史さん(当時ヘッドコーチ)だと思った人はいなかった。「岡田」と言われて、報道陣は一様にエッと驚嘆することになった。」

「それでもなお、岡田さんは一時の暫定監督だろうと勝手に推測していた。帰国後、ジーコなど、
それなりの人と折衝するのだろうと。」

(中略)

「そうしたなかで「岡田」の名前を聞かされた選手たちは、彼らも一様に「エッ」と仰け反ったそ
うだ。というのも、当時の岡田さんはそれほど監督にはほど遠い雰囲気の持ち主だったからだ。い
かにも監督然とした加茂監督とのパイプ役として、選手たちから親しまれていた。」

こうしてみると、加茂監督を更迭した日本サッカー協会にしても、監督としての適性云々の話ではなく、1週間も空かないうちに次々と試合が続く最終予選の中で、新たな監督選任などできるはずがなく、内部昇格しか選択肢がない中『監督にはほど遠い雰囲気の持ち主だった岡田さん』を据えたということが見えてきます。

杉山茂樹さんのレポートには、監督になるや否や、岡田さんが別人格になったかのように一変したことも紹介されており、その後の岡田監督が歩んだ道を思うと、この決断が日本サッカーの歴史を作ったとも言えるのですが、私には「では、なぜ岡田さんが日本代表コーチとして、この加茂監督更迭のあとを引き継ぐ立場に就くことになったのか、そもそも、なぜ加茂監督は岡田さんをコーチに選んだのか」について、ぜひ知っておきたいと思うようになりました。

加茂監督が岡田武史氏をコーチに選任した時のことについて、加茂氏が自身の著書「モダンサッカーへの挑戦」(1997年3月講談社文庫版)の著者あとがきの中でこう書いておられます。

「日本代表の仕事で忘れてならないのが、スタッフの優秀さとチームワークだ。(中略)私がまず選任したのは岡田武史コーチだった。若く、単独チームを率いてJリーグなどのクラブで監督をした経験はないが、非常にクレバーで、人間的にも素晴らしい。ある時期まで、私は選手と個人的に深く関わらないようにしてきた。次々と選手を入れ替えなければならない時期に、情が移ってはいけないからだ。その分、岡田コーチには、細かくフォローしてもらわなければならなかった」

これを読むと、まさに岡田さんは加茂監督に「選手との間に立って役割を果たしてもらうコーチとしての適性」を評価して選任したことがわかります。

決して、監督としての決断力や戦略家の適性を見て選任したのではないようです。その人が、まさに「瓢箪から出た駒」のように監督に就任して、就任するや否や、監督としての決断や戦略を次々に打ち出していったのですから、わからないものです。

加茂さん更迭を受けて就任した岡田監督の初戦となったアウェー・ウズベキスタン戦、実は負けてしまえばフランスW杯出場権は消滅する、という崖っぷちの試合でした。その試合、0-1とリードされたままロスタイムに入ろうかという時間帯に、最後尾から蹴りこんだ井原選手のロングボールがゴール前20~25mのあたりで相手DFと競り合った呂比須ワグナー選手の頭をかすめて、ゴール方向に転がったのです。

このシーンについて、さきほどご紹介した杉山茂樹さんのレポートにはこのように記されています。
「呂比須がヘディングした場所からゴールまでの距離は20m?25mあった。三浦知良がそのボール
を追いかけたものの、追いつかず、GKは楽々キャッチするものと思われた。」

「そんなボールをウズベキスタンのGKがなぜ後逸することになったのか。井原が最後尾から蹴っ
たボールがほぼ直接、ゴールに吸い込まれることになったのか。」

「GKがカズの動きに幻惑され、ボールから目を離したとしか言いようがないが、数ある観戦歴の
なかでも、このゴールほど、不可解でミステリアスなものは珍しい。日本サッカー史に重大な影響
を与えたゴールがこの有様では、大真面目にサッカーを論じることがバカバカしくなるほどだ。だ
が、それがサッカーの持つ恐ろしい魅力でもある。"事実は小説よりも奇なり"を地で行くゴールとはこのことだ。」

「タラレバ話をしたくなる。あのゴールが決まっていなければ。普通にGKがキャッチしていれば......。」

「岡田さんのその後の人生は、この運によって支えられているといっても言い過ぎではない。」

杉山さんが「このゴールほど、不可解でミステリアスなものは珍しい。」と指摘した、このゴール、それはサッカーの神様が岡田さんに与えた恩寵かも知れません。

すなわち「加茂監督の下で、監督を全力で支え、そして図らずも突然押し上げられた監督の仕事を従容として引き受け、別人格になったかのように監督の仕事に向き合ったこの岡田という人、監督を続けてみなさい」という具合にサッカーの神様が思われたのではないでしょうか?

それを杉山茂樹さんは「岡田さんのその後の人生は、この運によって支えられている」と評したのだと思いますが、訳のない運ではなく、サッカーの神様が「岡田武史、汝であれば監督という仕事にも全身全霊で向き合える、続けよ」と、神様だけができる「未来を見通せる力」で与えた「運」といってもいいのかも知れません。

また一つ、30年の記録をひもとく中で、私の中に残っていたナゾが解けた気分です。
ありがとうございました。

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