パオと高床

あこがれの移動と定住

大家正志「あっ」(「SPACE 92号」2010/7/1)

2010-07-03 16:57:51 | 雑誌・詩誌・同人誌から
質、量共に充実した高知の詩誌。それこそ何十年もまえに高知を旅行したときに食べた皿鉢料理の豊穣を連想する。シナリオやエッセイや小説も収められているが、23名による24編の詩に圧倒される。しかも、紙面がゆったりと組まれていて、詩を大切にしているという感じが伝わる。高知の詩誌と書いたが、パソコン文字打ち間違えると今どきに高知の「志士」ででてきてしまうのだが、執筆者は関東圏や近畿、中部、九州と多方面にわたる。
そんな中から、大家正志さんの「あっ」。全編引きたいのだが、長いので、その冒頭から特質が表れているところまで。

じぶんの袋の底が抜けていることになんとなく自信がもてなくて
落ちてゆくがままにまかせて
ひとから指摘されても
あああっ とか うううっ とか
まるで
ナナフシがむかしのナナフシでなくなったナナフシに出会ってしまったときのように
現実感覚がうすれてしまっているのは
なんとなく自覚しているが
袋の底からすとんストンと抜けていくなにかをおしとどめようとしたくないのはなぜだろう

     こどものころの夢は地球への帰還がかなわなくてもいいから
     宇宙の果てを見ることだった。宇宙の果てとはなんなのか、
     そのことを知りたかった。あるひとは恒星をのせて回転する
     天球が宇宙の果てでありその外には空虚も場所もない、とい
     い、あるひとは人間理性によっては有限であるか無限である
     かを決められない、といい、あるひとは宇宙は有限であるが
     境界はない、といい、あるひとは宇宙の境界条件は境界がな
     いということである、といったりしていて、宇宙の果てを見
     たことがないぼくはますます宇宙の果てを見たくなるのだが。

いやだとおもっても
ひとは死ぬしかないし
めんどうでも
ひとはだれかに愛される
疲労感しかのこらないとしても
ひとは生きているしかない

       ことしは木の芽時に雨が降ったり、寒かったりして
                     発狂しませんでした。

       日々の暮らしは底なしだけど
       ずばずばくだっていくのも
       なけなしの
       力をつかってのこのこと
       界雷するのも
       飽きてしまいました
       だからといってなにもかも
       ご破算にしてしまえるほど世間は浅くありません
       無歓無愉無尻
       さようなら。
          大家正志「あっ」(冒頭から一部)

各連の文字を落として書かれた内容から多声性へのにじみよりが考えられる。が、多声へのこだわりは自らの内なる声への耳の傾ぎ方を必要とする。声は客観性からは意外と遠いと思うのだ。視覚イメージは対象を対象性として認識できる。だが、聴覚は対象を実は主観の側から認識しながら、対象性への段階を獲得していくもののように思う。で、あれば、多声の世界は実は、内的必然の呼び出されていく地平あるいは空間なのかもしれない。
さらに、ボクらの宇宙。あえて「ボクら」と書いたのは、宇宙は「ボク」の宇宙であることに充足し得ないのだ。これは、宇宙論にちょっとでも、興味を持った人なら了解できるような気がする。「ボク」の宇宙が「ボクら」の宇宙に滑り出していくところに宇宙の初歩があるのだ。
その一方にボクがいる。徹底的な「ボク」がいる。面白いのは、そんな「ボク」と「宇宙」には、これは通底路はあるのだが、通路が築かれているわけではなく、またパラレルを容認するほど、実は対句的関係でもないのだ。宇宙に関する詩には、どうしても知の介在がある。ところが、その知、分かりすぎた状態を語る場合もあるが、宇宙に関する知の場合、多くは、了解したものを語るわけではなく、その距離、隔てられた距離を語っているのではないだろうか。詩は感得できないものに向かう。そういう意味では、宇宙論がレヴィナスの他者論などと引き合う過程が納得できる。
あっ!「あっ」から離れていく。
そんな、通路の通路としての断裂や、パラレルな関係性への疑いを詩にしていったのが、大家さんの詩の挑戦のように思える。その挑戦の「挑戦性」に対しても詩は微妙にずれながら疑問を示す。それが、詩の持つ豊かさなのではないのだろうか。
つまり、ボクと宇宙は、ちっぽけな自分と大きく果てない宇宙といった対象性で消化されるものではなく、ただ有機的な関係性でつながれているのだという思いなし。しかも、その関係性の結び方は、どこまでも関係の直接性から微妙に離れてしまった関係の間接性にあるのかもしれないという思いを引き受ける自身の現在なのだという感受が、実は宇宙を補完しているのだ。そう、「ことしは木の芽時に雨が降ったり、寒かったりして/発狂」しなかったのだ。

何だか、わかりにくい言い回しになってしまった。とにかく、この詩は、読み手を饒舌にする。そして、詩は多声を引き受けながら、「みたことがないのに、その静寂がなんとなく美しくおもえるのはなぜだろう。どうすればみえるのだろう。みえないから美しいのか。美しいからみえないのか。それとも、そこは地球人にさとられない空虚という美しさにみちているのだろう。」といった詩句や、「あ、から、ん、までくりひろげられる世間並みの冗舌の林に/かくれているものかくされているもの/あかるみにだされるもの/つきのひかりにてらされるもの/まぶたにのこるもの/こえになるもの」といった詩句を巻き込みながら終連へと向かうのだ。着地の終連は、一行のみ。

影がまばゆい風の道


引用部には、アリストテレス等の出典が書かれている。
ひらがなの入れ方や、話体の入れ方、「界雷」といった言葉などにも関心が向かった。

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