パオと高床

あこがれの移動と定住

田島安江「明けない夜に」(「something 11」 2010/7/1)

2010-07-18 11:24:21 | 雑誌・詩誌・同人誌から
「something」という詩誌は、以前にもボクのブログで紹介したが、大判で、ゆったりとしたスペースがあり、一人の詩人に詩3ページとエッセイ1ページという4ページの領域があり、インパクトのある写真も組み込まれた、詩誌の理想型のひとつであるような詩誌。鈴木ユリイカさんと棚沢永子さん、田島安江さんの三人の編集で、毎号、気鋭、ベテランの詩人20数名が誌面を飾る。玉手箱のような、この本の中から、どの一編にするかが難しい。もちろん、これは詩の雑誌、ゼリーやキャンディの玉手箱とは違って、きれいおいしいだけではなく、何やらかにやら入っているのだ。
で、田島安江さんの「明けない夜に」。
この詩は「明けない夜に」という標題のもと、「ウナギ釣り」「吊るされた言葉」「日曜日の雨戸」「冷たい春の雨」という四つの章のような四つの詩からできている。
まず、「ウナギ釣り」

ウナギ釣りに行くぞ
父はそう言ってさっさと出かけていく
たくさんの男たちが思い思いの場所にたむろしていて
自分の場所を決めて座り込んでいる
わたしたちも空いた場所を見つけて座り込む
手でつかんだときのミミズの感触も
ぬるりとしたウナギの手触りも
怖いぐらいに手のひらが覚えている

これが第一連。この四つの章(詩)は、どこか交響曲の構成を連想させる。もちろん、交響曲という言葉からくる壮麗な趣の詩ではないが、構成が四楽章形式の楽曲を思わせるのだ。そして、この一連で第一モチーフが現れる。「父」である。そこに一楽章の印象的な旋律としての「ウナギ釣り」が流れる。さらに、この詩全体を通して回想を現在化する現在完了のような文体が示される。田島さんは現在形の終止形がもともと多い詩人だと思うが、述語に使われる「いる」や「くる」の現在形の多様が過去を現在化する場合と、感覚の継続としての現在完了の継続の両方で使われるのだ。「ミミズ」や「ウナギ」の感触は現在に至る。むしろこの現在時から、過去時制に入っていくように。すでに、この場面で回想を回想にとどめてしまう、単なる取り戻せない過去への感慨といった情緒の詩は排除されている。詩の標題「明けない夜に」が、境界の曖昧さとしてイメージ化されているのだ。
そして、二連にいく。

老いた父が老いた犬を連れて
よたよたと歩いていく
その姿を横目で見ながら
わたしは大きな口を開けて
赤いスイカを放り込む
種をがりがりと噛む
スイカを食べると元気が出る
あのじりじりと焼けつく
行き場のない怒りの時間を食い尽くせる気がして

「犬」という第二モチーフが現れる。実は、この犬の「よたよた」が最後の詩「冷たい春の雨」で、時を越える、あるいは時空を超える存在の歩く音のように共鳴するのだ。この「よたよた」が次の「がりがり」を誘い出す。そして、「じりじり」につながる。擬態と擬音の連鎖。第一連の触感が聴覚にも転化する。スイカを食べる「わたし」が見えるような気がするのは「わたし」の現在と過去の二重化があるからで、現在の「わたし」が過去の「わたし」を見る対象化が行われているからだ。どこか宮崎駿のアニメを連想させるような場面になっている。スイカの食感は消えている。それは「行き場のない怒りの時間を食い尽くせる気がして」「元気が出る」という心的状況で表される。

そして、終連。「父」の第一モチーフと「犬」の第二モチーフが「ウナギ」の旋律と絡む。

父と一緒に歩いていたはずの
犬がいつのまにかわたしのそばにいる
以来犬はどこにでもついてくる
ウナギをくわえて
わたしを見上げる
          (「ウナギ釣り」全編)

「いる」「くる」「見上げる」と、現在時制を積み上げる。それが「犬」の移動できる時空の幅を証している。「どこにでもついてくる」が、先程の「よたよた」と同じく「冷たい春の雨」の詩へとつながっていく。過去に追いやられてしまった時間でではない。現在と地続きの時間が呈示されている。しかし、この現在時制は、書かれたときにすでに静かに過去に移行していくといった、継続しながらの進行性を持っていて、すでに徐々に戻れなさを感じさせるのだ。薄い皮膜がある。泡に映し出されたような過去。こうして一つ目の詩は開かれながら、終わる。

そして二つ目の詩「吊るされた言葉」。他の三つの詩と題名のイメージが違う。詩も13行で、この「明けない夜に」全体を外から見ているような詩になっている。時間からいくと「ウナギ釣り」よりは今に近い過去。近接過去か。ところが、この詩のほうが過去時制を使っている。つまり、この詩は現在との曖昧な境界にはないのだ。

地球の裏側にいたとき
疲れた日は窓辺に言葉を吊るした
窓辺に吊るすことで
匂いがいっそうきつくなる花のように
言葉を吊るすときは
思いっきりきつくて攻撃的な言葉ほどいい
あの場所ではいつまでも夜が来なかったから
明けない夜はない
などという言葉は空虚だ
いつまでも明るい空の下
裏返しにされた言葉が
そこに吊るされたままで
明けない夜を引きずっている
          (「吊るされた言葉」全編)

夜がないから「明けない夜はない」という状況設定に、現在の中にある過去の時間という状態と、その時間との往還の可能性が含み込まれている。それを可能にしているのが、というか、その状態に置かれているのが、回収されない言葉つまり「吊るされた言葉」なのだ。しかも、「地球の裏側」で「裏返しにされた言葉」なのだ。夜と昼の逆転と同時に、谷川俊太郎の朝の詩ではないが、地球という球面の移動によって、常に夜にならない時間が書かれている。夜が来ないということは、いつも明るく昼ということで、しかし、言葉は「明けない夜」と書かれたときに、すでに読者に「夜」を植え込むことができるのだ。明けない夜というのは、明るい昼ではなく、むしろ夜をイメージさせながら、昼をそこに滲み込ませるのだ。「明けない夜を引きずっている」ということは、夜と昼の区別のつかなさを示していて、昼を迎えられない昼のままの夜、つまり過去と現在が区別されず、現在のままある過去という状態と対応していて、「ウナギ釣り」の構造の解読がなされているのである。そして、この詩自体は「いたとき」や「吊るした」と過去の述語を使っている。これによって、この詩のそれ以外の述語の現在形は、「地球の裏側にいたとき」の現在、つまり、すべて過去時制となるのだ。「父」や「犬」のように、今の「わたし」に侵出している過去ではないから、当然のことだ。

他の章と比べて、物語性の少ない所なども第二楽章という感じがする。もちろん、これが三楽章になるということも楽曲的にはあるのだろうが、この二つ目に置かれることで、詩全体への展望が開ける。はたして、これはメヌエットかスケルツォか、または緩徐楽章か。勝手に、メヌエットのような気もするけど。
それから、ここでは比喩としてだが「匂いがいっそうきつくなる」という嗅覚表現がある。
このあと、三つ目の詩は「日曜日の雨戸」にうつるが、それは次回に続く。
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