パオと高床

あこがれの移動と定住

円城塔「オブ・ザ・べースボール」(文学界2007年6月号)

2007-12-05 13:07:17 | 国内・小説
また、円城塔の中編を読む。
文学界新人賞受賞作ということは応募作ということなので、選者の川上弘美さんの言葉を借りれば「まとまり」がいいのかも。といっても、なかなかの奇想である。

一年に一度ほど人が降ってくる「ファウルズ」という町。降ってきた人を救済するためのレスキュー・チームが組織され、主人公の「俺」は、そのメンバー九人のうちの一人である。支給されているものはバットとユニフォーム。降ってきた人をバットで打ち返して救済するというのだ。
話は、人が降るという理由をめぐる独白や、そもそも降る=落下するという現象をめぐる蘊蓄や、「ファウルズ」という町についての説明や、打ち返し方についての詳説によって成り立っていく。
冷静にのめり込んでいく「狂」の雰囲気がありながら、描写にはマニアックな可笑しさもある。この人の蘊蓄文体が醸し出す癖のあるユーモアは、ニタリと笑わせるものがある。

寓話なのだろう。しかし、この作家は「全ての人間はいつもどこかへ落ちていく。これがそんな話ならばどんなにいいいだろうと俺は思う」と、その寓話性を作中で否定してみせ、「比喩であるならば構わない。口に出される様々な事柄が、いずれもある程度は比喩であるように、この町で続いている落下現象もまた何かの比喩ではあるのかもわからない。しかし比喩にも程度というものがあるはずで、実際に人が落ちてくるとなると、これは何の比喩だのかんだと考えるのは馬鹿馬鹿しい」と作品の中にいながら、作品の外から作品を批評し読者を牽制してくるのだ。かえって、これで寓話性が補償されるような気もする。

また、この小説自体が何ものなのかも作中に語られる。何もないこの町では「本を手に入れる手段がない以上、自分で書いた本を読む以外に娯楽はない」と書き、「俺はノートに思いつくままの出来事を書き綴っていく。本当に起こったこともそうでないものも一緒くたに書き続ける」と、作品の虚構性を、ノートを書く作中人物「俺」のリアリティによって補完する。
このノートは落下者とレスキューの「俺」との関係を表すラストの「オチ」で繋がってくる。また、物語を書く物語という二重構造で、受賞第一作の「つぎの著者につづく」にもつながっているのかもしれない。
西部劇というか「シューレスジョー」というかの空気の中で、「ラピュータ」「アリストテレス」「ラムゼー理論」「ソドムとゴモラ」「スイングバイ」「エルンスト・マッハ」などなど、過剰な意匠が溢れている。もっと溢れてもいいのかも。そう、「オールライト。カモン」だ。

何だか、この人について書き出すと長くなるな。


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「海神」終わった

2007-12-04 14:20:25 | 雑感
とうとう「海神」が終わっちゃった。何だか、見だしてからやめられなくなって。
韓国ドラマの歴史物は長いけど、見てしまう。
ラストがちょっと悲しかったけど、あんな感じしかないのかなとも思ってしまう。キムヤンめ。
「初恋」のお兄ちゃんも、チャンボコになるとりりしかったし、「チュモン」もヨムジャンだと憂いが深くて切なげ。
髭はやして時代劇だと、男っぷりがアップするみたいだ。
毎回のような立ち回りも、なかなかで、長いドラマを見た満足があった。周りの役者もよかったし。

あとはさしあたり、「チュモン」かな。
きのうから「太王四神記」はじまったけど。
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瀬戸内寂聴『源氏物語巻一』(講談社文庫)

2007-12-02 23:03:19 | 国内・小説
寒い朝。蒲団から出たくない。で、手を伸ばして瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む。帯にあるとおり「すらすら読める」、しかも、「美しい日本語で」だ。
あっ、と、第一巻を読む。一巻は「桐壺」「帚木」「空蝉」「夕顔」「若紫」まで。以前、田辺聖子を読んだとき、妙に色っぽい印象があったのは、以前だったせいかも。
今回は、光の君の心理や行動の切なさや浅はかさが、絶妙の距離感で伝わってくる感じ。

「空蝉」の章で、間違った相手と添い寝しながら、それを懸命に、実はあなたを思っていたのですというパターンの極みの口説き文句で納得しようとする光源氏の可笑しさ。その空蝉のつれなさに負けず嫌いの気性を露骨に表す恋の駆け引きのおかし哀しさ。雨夜の品定めに拘束されるように動いていく行動のなんとも言えない「人間喜劇」。そして、常に成就しない恋の欠如感を秘めてしまう展開の「あはれ」が、まず、一巻で伝わってきた。
それにしても光源氏は、自身、実は、何か振り回されているポジションなのだ。空蝉はつれない。桐壺は亡くなるし、最愛の藤壺は、道ならぬしかも切実な恋。心通わせる夕顔は生き霊に命を奪われてしまうし、若紫に自らの主導権を見いだそうとする。

来年は千年紀といわれている。来年中にでも読むつもりで、ぼちぼちと、源氏に付き合っていこうかな。

それにしても、例えば、通う住まいの明かりが蛍のように光っているとかは平安時代の夜の深さが感じられるし、朝の霧の立ちこめる様や、静けさゆえに聞こえてくる音は空間の居住まいを感じさせる。和歌のもたらす音の広がりだけではなく、様々な音が聞こえてくるし、色は鮮烈に行間を埋めるし、手触りや匂いが、記述されていく。月にしても、その示す存在感がある。こうやって、物語られるのだと実感できた時間だった。


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ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』トーベ・ヤンソン絵 村山由佳訳(メディアファクトリー)

2007-12-01 01:53:08 | 海外・小説
それこそ、大昔に読んで、さらに、ちょっと前に講談社文庫で読み、で、今回、トーベ・ヤンソンの絵というのに引かれて、手に取り、訳を見ると村山由佳。ぱらっと開いてみると何かすらっと入ってくる。講談社文庫のも面白かったが、何か頭を使うことが当然のような感じで、キャロルの凄さみたいなものが、注釈と共に入ってきて、それはそれで豊富なのだが、何だかちょっと疲れたという気分があった。

ところが、2006年3月出版のこの本は、小説家としての村山由佳の意図が活かされているというのか、読みやすく、語りの構図がわかりやすく、頭を使わされるより、その飛躍と展開の奇抜さ面白さが直で伝わってきた。アリスの夢が、わくわくと「子供たちの純粋な悲しみをともに悲しみ、彼らの素朴な喜びの中にこそ喜びを見いだすに違いないんだ」として表されている。会話に関西弁が入ったり、語尾が話体になっているところなども現代版なのだ。

それにしても、余計な教訓などないし、論理展開が絶妙かつ逸脱ありだし、答えなき問いが自在に空中に浮かぶし、約束あるボクらの世界が面白く裏切られるし、夢特有の執拗なつながりと奇妙な非連続があるし、楽しい。
特に「くるくるパーティー」「女王様の競技場」「ウミガメフウの話」は好きだ。チェシャ猫のキャラももちろんだけど。

訳者の村山由佳が新訳に挑んだきっかけになったヤンソンの絵は魅力的だ。



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