パオと高床

あこがれの移動と定住

坂多瑩子「家」(「4B」3号 2012年4月10日発行)

2012-04-10 12:58:14 | 雑誌・詩誌・同人誌から
夢の脈略というものがある。夢の中で、夢が夢の辻褄を合わせていくのだが、夢の辻褄は多くの場合、その夢を見ている本人に不思議な違和感を残す。それは当然なわけで、夢の辻褄は、実はたいへん辻褄が合わない連続であるからだ。さらに、その違和感を感じている時、夢の中の自分とその夢を見ている自分がいる。
で、もうひとつ。夢の脈略ではなくて、夢から現実への脈略というものがあって、これは通底路のようなものだ。さっきの二人の自分でいえば、夢の中の自分とその夢を見ている自分をつなぐのも、この通底路かもしれない。

坂多瑩子さんの詩「家」を読んで、こんなことを考えた。もちろん、この詩にはこんな小難しげな理屈っぽさはない。
詩はこう書き出される。

 土かべに釘で小さな家を描いたことがあった
 ざらざらでほこりっぽく貧相な家
 その家が引っ越してきた
 玄関は狭いし糞尿の匂いはするし

第一連である。昔、ウルトラマンに落書き怪獣という話があって、落書きした怪獣が実物になるという話だが、それを思いだした。あのドラマの色調が、記憶の中の色調が、この書き出しとつながったのだ。「土かべ」、「釘」、「ほこりっぽく」、「糞尿の匂い」といった言葉が時間を遡行させる。そして、「ことがあった」という表現が、すでに経験の中から出来事を立たせている。一行目で、かべに描かれた家は平面から飛び出しているのだ。そして、平面から立体への動きは夢から現実への脈略とも呼応する。
ただ、難しいのは、土かべに描いた家を立たせるときの言葉なのだが、坂多さんは、それを「その家が引っ越してきた」と表現している。うまいなと思う。人が家に引っ越してきたのではなく、家が引っ越してくるのだ。どこに、人の中に。でも、人は、実際は、家の中に引っ越すわけで。また、土かべから出現する家であれば、それは客観的にまず、〈私)の外に立つはずなのだ。ところが、「家が引っ越してきた」で、家を立たせると同時に内部化している。「くる」という言葉は、面白い。そう、「た」という助動詞とくっつくとさらに面白い。

そして、長めの第二連になる。
「引っ越してきた」主体的な(?)家は、意思を持った〈私〉と一体化している。ところが、意思は同一なわけではない。家に引っ越した〈私〉が家を牛耳るのとは違って、「引っ越してきた」家は〈私〉を取り込もうとするのだから。

 どこで聞きつけたか
 国産のい草で畳替えをしませんか
 電話がかかってきた
 近所の畳屋でタイシンというそうだ
 そんなの聞いたことがない
 買物にいったら
 ウオッシュレット半額というビラをくれた

といった感じで、「畳替え」やら「ウォシュレット」やら家に外部から手が迫る。でも、

 ばかみたい
 家って妙にきれい好きだったり
 意地がすごく悪かったりする
 あるときなんてうすくらい階段をのぼり
 またのぼり
 へとへとになりながら
 階段をおりて おりて あたしはただおりている
 へやにたどりつけない そんな家なんて
 ほんとにばかみたい

夢から現れ出た家は、家の中に夢の脈略を持っている。意思を持った家は、〈私〉の意思をすり抜けて存在する。〈私〉は夢の中にいるように「へとへと」になりながら上昇と下降を繰り返すのだ。外に配置されたエッシャーの家が、その家の中に迷いこんだ〈私〉の心の中にも存在している。そんな経巡る感じに連れていかれながら、平面から立体になった家には出会えたのに、夢から現実に繋がった通路をたどっても、現実の〈私〉に出会えない。最終連、

 あのときの土かべは明るい肌色だった
 女の子も描いた 女の子のほうは
 どこにいってもいってもいない
 のである
     (坂多瑩子「家」全篇)

見失ったままなのだ。〈私〉は〈私〉の正面を見ることもできないし、立ち去る〈私〉の輪郭を見ることもできない。改行後の「のである」だけが、空中に浮かぶ。少し突き放された距離感が、ある「のである」。

以前読んだケリー・リンクの小説と似た空気が漂っている詩だった。ただ、あたりまえだが、「土かべ」が、リンクの小説世界とは違う。
また、あの人の小説が読みたいな。

そうだ、そういえば、坂多さんは詩誌「ぶらんこのりVol.12」で「時間ねえ」という題の夢についてのエッセイを書いていた。
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