○
その言葉が人間と刺し違える鮮烈な一瞬を、言葉が世界を築きあげることによって、世界を消失させる緊迫の一瞬を詩にしたものが、有名な「四千の日と夜」である。田村隆一は詩についての詩を多く書いている。メタ詩を詩に取り込みながら、メタ言語の状態では呈示せずに、あくまでも詩の言語の可能性に向けて開かれている。
一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した
聴け、
雨のふるあらゆる都市、鎔鉱炉、
真夏の波止場と炭坑から
たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、
四千の日の愛と四千の夜の憐みを
われわれは暗殺した
記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない
田村隆一「四千の日と夜」全編
この詩に、第一詩集での田村隆一のすべてが凝縮しているようだ。詩に賭ける宿命的な決意と、詩自体の持つ宿命的な性質が、静謐に、だが、冷たい熱を持って、非情の情をひびかせながら表現されている。
「詩が生れるため」に「愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺」しなければならないのだ。そして戦争という悲惨、野蛮、産業革命以後の人間が生きてきた近代という時間、そして「見えざるもの」「聴えざるもの」からの、「小鳥のふるえる舌」、「飢えた子供の涙」、「野良犬の恐怖」といった詩が「ほしいばかり」に、彼は「四千の日と夜」の「沈黙」と「逆光線」を、「愛」と「憐れみ」を、「想像力」と「記憶」を殺さなければならないと告げる。田村隆一は、ここで近代の人間の歴史自体を詩に吸引することで詩の中で生かすために抹殺しようとしている。それは、とりもなおさず、自分自身の戦後十年という「四千」の時を詩に移行させることによる抹殺と呼応する。彼は、「一篇の詩」を書くために、「殺さなければならない」という詩を書き、築きあげている。そして、そこで、言葉は、言葉が築く詩は、世界と対等につり合い、世界を詩の世界で奪還し、詩を屹立させるのだ。「いとしいもの」を殺して、言葉の中に住まわせること、そうすることが、「死者を甦らせるただひとつの道」であり、詩人は、「その道」を進むのである。
○
詩集『四千の日と夜』は日付を刻み、凍結させた。しかし、同時にそれは、オクタビオ・パスが語るように、歴史的な日付ではない。
革命も詩も、現行の時間、歴史の時間ー不平等の歴史の時間ーを打ち
壊し、〈別の時間〉を創設せんとする試みである。しかし詩の時間は、革
命の時間ではない。批判的理性の日付のある時間や、ユートピアの存す
る未来ではない。それは時間に先立つ時間、少年の眼差し中に浮かび上
がる「前世」の時間、日付のない時間なのだ。
オクタビオ・パス『泥の子供たち』
だが、そうであればこそ、田村隆一の詩は、むしろ始点の日付を刻み込む。なぜなら、パスが同じ著書で語るように、「詩とは、歴史の中で、読みの中で現実化する超歴史的な潜在力である」からだ。また、近代詩に対する言葉ではあるが、「詩とは日付を欠いた時間の言葉である。始原の言葉、創建の言葉。しかし、解体の言葉でもある。イロニーによる、死の意識たる歴史意識による、アナロジーの破壊。」であるからだ。戦後詩は、そこに歴史と対峙させるための内部の日付を記載することを要求したとは考えられないだろうか。
○
田村隆一はこの地点にとどまり続けるわけではない。彼は、前出の「恐怖・不安・ユーモア」で、「やはりそれは、私としても現実的な手がかりがどうしても必要なんで、それがなくてはちょっともたないですよ。その意味で、たとえば『四千の日と夜』のようなやり方だけでいったら、とても生命がもたないですね。」と語りながら、さらに、
ただ『四千の日と夜』のような世界だと、それはもうぼくにはあの一
冊だけで十分なんです。それはある種の情熱の激しさもありますし、い
っさいの日常的なものを全部拒絶していることもあるわけですが、でも、
それはぼくに言わせるとやはり一種の密室ですから、これをいくら続け
ていっても、詩人の側としては、要するに真空状態になっちゃうわけで
す。だから、いくら読む人がそっちのほうがいいと言っても、そういう
わけにはいかない。
と、続ける。「いくら読む人がそっちのほうがいいと言っても」と読者の優位に立たないところが、小説とは違って、詩だなと思わせるが、また、当時の詩の状況から考えれば、読者の詩への要求の力は相当に強いものだったのではないかと想像する。
そうして、この「真空状態」自体にも、次のように批判を加えながら、
逆に言うと、あの『四千の日と夜』の世界というものが、そういう一
種の真空状態の詩の世界にほかならないということは、読む側にとって、
それがどういうふうにでも利用できる空間だということなんだ。極端に
言えば、右翼にだって左翼にだって利用できる。だけど、第二詩集から
のやつは、そういう真空状態を自分としても壊したいわけです。壊すた
めにはやはり、現実的な手がかりがいるわけです。
と、第二詩集『言葉のない世界』への展開を振り返るのである。「〈詩は言葉でつくられる〉この自明の原理を銘記してほしい。」と語る詩人が。『四千の日と夜』で格闘しながら獲得した言葉の世界に対して、彼は『言葉のない世界』をぶつける。しかも、それを言葉で書くのだ。その詩集に「帰途」という意味深い題名を持つ有名な詩がある。言葉で世界を屹立させようとした詩人は、その宿命を引き受けるように書く。
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ
あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
田村隆一「帰途」全編
言葉をおぼえてしまったために、「立ちどまり」、「帰ってくる」。言葉による表現活動の一切は、この詩から離れられない。あとは、風の行方をたずねるだけだ。
引用・参照
『現代詩読本 田村隆一』(思潮社)
田村隆一『腐敗性物質』(講談社文芸文庫)
『現代の詩人3 田村隆一』(中央公論社)
ミラン・クンデラ『小説の精神』金井裕・浅野敏夫訳(法政大学出版局)
オクタビオ・パス『泥の子供たち』竹村文彦訳(水声社)
大岡信『詩をよむ鍵』(講談社)
その言葉が人間と刺し違える鮮烈な一瞬を、言葉が世界を築きあげることによって、世界を消失させる緊迫の一瞬を詩にしたものが、有名な「四千の日と夜」である。田村隆一は詩についての詩を多く書いている。メタ詩を詩に取り込みながら、メタ言語の状態では呈示せずに、あくまでも詩の言語の可能性に向けて開かれている。
一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した
聴け、
雨のふるあらゆる都市、鎔鉱炉、
真夏の波止場と炭坑から
たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、
四千の日の愛と四千の夜の憐みを
われわれは暗殺した
記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない
田村隆一「四千の日と夜」全編
この詩に、第一詩集での田村隆一のすべてが凝縮しているようだ。詩に賭ける宿命的な決意と、詩自体の持つ宿命的な性質が、静謐に、だが、冷たい熱を持って、非情の情をひびかせながら表現されている。
「詩が生れるため」に「愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺」しなければならないのだ。そして戦争という悲惨、野蛮、産業革命以後の人間が生きてきた近代という時間、そして「見えざるもの」「聴えざるもの」からの、「小鳥のふるえる舌」、「飢えた子供の涙」、「野良犬の恐怖」といった詩が「ほしいばかり」に、彼は「四千の日と夜」の「沈黙」と「逆光線」を、「愛」と「憐れみ」を、「想像力」と「記憶」を殺さなければならないと告げる。田村隆一は、ここで近代の人間の歴史自体を詩に吸引することで詩の中で生かすために抹殺しようとしている。それは、とりもなおさず、自分自身の戦後十年という「四千」の時を詩に移行させることによる抹殺と呼応する。彼は、「一篇の詩」を書くために、「殺さなければならない」という詩を書き、築きあげている。そして、そこで、言葉は、言葉が築く詩は、世界と対等につり合い、世界を詩の世界で奪還し、詩を屹立させるのだ。「いとしいもの」を殺して、言葉の中に住まわせること、そうすることが、「死者を甦らせるただひとつの道」であり、詩人は、「その道」を進むのである。
○
詩集『四千の日と夜』は日付を刻み、凍結させた。しかし、同時にそれは、オクタビオ・パスが語るように、歴史的な日付ではない。
革命も詩も、現行の時間、歴史の時間ー不平等の歴史の時間ーを打ち
壊し、〈別の時間〉を創設せんとする試みである。しかし詩の時間は、革
命の時間ではない。批判的理性の日付のある時間や、ユートピアの存す
る未来ではない。それは時間に先立つ時間、少年の眼差し中に浮かび上
がる「前世」の時間、日付のない時間なのだ。
オクタビオ・パス『泥の子供たち』
だが、そうであればこそ、田村隆一の詩は、むしろ始点の日付を刻み込む。なぜなら、パスが同じ著書で語るように、「詩とは、歴史の中で、読みの中で現実化する超歴史的な潜在力である」からだ。また、近代詩に対する言葉ではあるが、「詩とは日付を欠いた時間の言葉である。始原の言葉、創建の言葉。しかし、解体の言葉でもある。イロニーによる、死の意識たる歴史意識による、アナロジーの破壊。」であるからだ。戦後詩は、そこに歴史と対峙させるための内部の日付を記載することを要求したとは考えられないだろうか。
○
田村隆一はこの地点にとどまり続けるわけではない。彼は、前出の「恐怖・不安・ユーモア」で、「やはりそれは、私としても現実的な手がかりがどうしても必要なんで、それがなくてはちょっともたないですよ。その意味で、たとえば『四千の日と夜』のようなやり方だけでいったら、とても生命がもたないですね。」と語りながら、さらに、
ただ『四千の日と夜』のような世界だと、それはもうぼくにはあの一
冊だけで十分なんです。それはある種の情熱の激しさもありますし、い
っさいの日常的なものを全部拒絶していることもあるわけですが、でも、
それはぼくに言わせるとやはり一種の密室ですから、これをいくら続け
ていっても、詩人の側としては、要するに真空状態になっちゃうわけで
す。だから、いくら読む人がそっちのほうがいいと言っても、そういう
わけにはいかない。
と、続ける。「いくら読む人がそっちのほうがいいと言っても」と読者の優位に立たないところが、小説とは違って、詩だなと思わせるが、また、当時の詩の状況から考えれば、読者の詩への要求の力は相当に強いものだったのではないかと想像する。
そうして、この「真空状態」自体にも、次のように批判を加えながら、
逆に言うと、あの『四千の日と夜』の世界というものが、そういう一
種の真空状態の詩の世界にほかならないということは、読む側にとって、
それがどういうふうにでも利用できる空間だということなんだ。極端に
言えば、右翼にだって左翼にだって利用できる。だけど、第二詩集から
のやつは、そういう真空状態を自分としても壊したいわけです。壊すた
めにはやはり、現実的な手がかりがいるわけです。
と、第二詩集『言葉のない世界』への展開を振り返るのである。「〈詩は言葉でつくられる〉この自明の原理を銘記してほしい。」と語る詩人が。『四千の日と夜』で格闘しながら獲得した言葉の世界に対して、彼は『言葉のない世界』をぶつける。しかも、それを言葉で書くのだ。その詩集に「帰途」という意味深い題名を持つ有名な詩がある。言葉で世界を屹立させようとした詩人は、その宿命を引き受けるように書く。
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ
あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
田村隆一「帰途」全編
言葉をおぼえてしまったために、「立ちどまり」、「帰ってくる」。言葉による表現活動の一切は、この詩から離れられない。あとは、風の行方をたずねるだけだ。
引用・参照
『現代詩読本 田村隆一』(思潮社)
田村隆一『腐敗性物質』(講談社文芸文庫)
『現代の詩人3 田村隆一』(中央公論社)
ミラン・クンデラ『小説の精神』金井裕・浅野敏夫訳(法政大学出版局)
オクタビオ・パス『泥の子供たち』竹村文彦訳(水声社)
大岡信『詩をよむ鍵』(講談社)
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