韓国現代小説家のアンソロジー『いま、私たちの隣りに誰がいるのか』に収録されている小説。
パク・ソンウォンは『都市は何によってできているのか』で、面白い作家だと思った。その時、この作家は都市の神話を描きだしたいのだと書いたが、この「デラウェイの窓」は都市の神話あるいは都市伝説を描いた小説。デラウェイという謎の写真家をめぐる話だ。
主人公の「ぼく」は間借り人を住まわせることにする。そこに男がやって来た時から、デラウェイという伝説の写真家が、主人公の周りで噂されていく。人々が、ある時期から盛んに語りはじめながら、最近死んだという本人の実態に迫るものを何も見いだせず、また、その写真そのものにも出会えない写真家デラウェイ。数人のものが、これがついに見つけた彼の写真だというものを見せ、また、主人公の「ぼく」も、これはデラウェイの写真ではないかと思う写真に出会うのだが、どうしてもそれが確実ではない。いわば「うわさ」の中の伝説的写真家であるデラウェイ。果たして、デラウェイは実在したのか、彼は何者なのか。「ぼく」を初めとして、その写真家の存在を聞いた者は、デラウェイという存在に出会いたいと考えるようになり、彼に取り憑かれてしまう。「うわさ」が作りあげていく存在から、逃れられなくなる。そして、彼らは、それを他の者に伝えることで、さらに「うわさ」は実体化していく。そこにはデラウェイを作りあげた者がいて、それを社会的に広めていく現代社会の情報に対する精神があり、社会構造がある。
主人公は、その伝説に縛られながら、一方でその伝説の仕掛け人を見つめるまなざしを持つ。情報が作りだす人格。実体のないものに実体感を与え、それを実体のないまま実在させてしまう現代社会のーあっ、現代だけには限らないのだがー構造を小説は描きだしている。想像力と言葉を持つ人間が生みだす幻想の共有化なのかもしれない。
冒頭に写真家デラウェイの言葉として引用されている、
窓というものは、真実をうかがうことができるチャンスだ。
もしも窓がなかったら、四角い壁の中に閉じ込められている真実をど
のようにして救い出せるというのだろうか。
という言葉は、写真家デラウェイの写真を解読する言葉であると同時に、この伝説の仕掛け人を見つけだす窓という意味を持ち、小説の主人公「ぼく」の視線を暗示している。また、それは、情報が四角い壁の中で作られることを指し示しながら、壁の中に閉じ込められた真実を見る窓の必要性を語っている。主人公の位置と現代社会の問題点を端的に表現した言葉である。
この小説の面白さは、作りあげられた写真家の写真にある。
彼の写真は、一見、何でもない平凡な静物や人物なのだが、その被写体の中の何かを反射できる部分に、別のものを写し込んでいるところが魅力なのだと語られる。例えば、静物画「食卓の上の世の中」では、食卓に置かれたスプーンをよくよく見ると、そこに兵士が農夫を射殺している光景が浮かび上がってくるというように。つまり、のどかな食卓ではなく、食事をするはずの者は、もう食卓に戻れないということがそこには写し込まれている。と、いった架空の写真についての説明が、実は面白いのだ。そして、それが、何だか今を投影している。おまけに、この写真の中の写し込みを発見したのは、視力の弱いアマチュア写真家が拡大鏡で見ていた時だとなっている。噂の作られ方、物語の作られ方をうまく挿入している。僕らは身の回りの些細なことから、それこそ世界開闢におよぶ膨大なことがらまでを、どんな物語で構築しているのだろうか。そして、それを見る窓から、救い出される真実というものはあるのだろうか。
パク・ソンウォンは『都市は何によってできているのか』で、面白い作家だと思った。その時、この作家は都市の神話を描きだしたいのだと書いたが、この「デラウェイの窓」は都市の神話あるいは都市伝説を描いた小説。デラウェイという謎の写真家をめぐる話だ。
主人公の「ぼく」は間借り人を住まわせることにする。そこに男がやって来た時から、デラウェイという伝説の写真家が、主人公の周りで噂されていく。人々が、ある時期から盛んに語りはじめながら、最近死んだという本人の実態に迫るものを何も見いだせず、また、その写真そのものにも出会えない写真家デラウェイ。数人のものが、これがついに見つけた彼の写真だというものを見せ、また、主人公の「ぼく」も、これはデラウェイの写真ではないかと思う写真に出会うのだが、どうしてもそれが確実ではない。いわば「うわさ」の中の伝説的写真家であるデラウェイ。果たして、デラウェイは実在したのか、彼は何者なのか。「ぼく」を初めとして、その写真家の存在を聞いた者は、デラウェイという存在に出会いたいと考えるようになり、彼に取り憑かれてしまう。「うわさ」が作りあげていく存在から、逃れられなくなる。そして、彼らは、それを他の者に伝えることで、さらに「うわさ」は実体化していく。そこにはデラウェイを作りあげた者がいて、それを社会的に広めていく現代社会の情報に対する精神があり、社会構造がある。
主人公は、その伝説に縛られながら、一方でその伝説の仕掛け人を見つめるまなざしを持つ。情報が作りだす人格。実体のないものに実体感を与え、それを実体のないまま実在させてしまう現代社会のーあっ、現代だけには限らないのだがー構造を小説は描きだしている。想像力と言葉を持つ人間が生みだす幻想の共有化なのかもしれない。
冒頭に写真家デラウェイの言葉として引用されている、
窓というものは、真実をうかがうことができるチャンスだ。
もしも窓がなかったら、四角い壁の中に閉じ込められている真実をど
のようにして救い出せるというのだろうか。
という言葉は、写真家デラウェイの写真を解読する言葉であると同時に、この伝説の仕掛け人を見つけだす窓という意味を持ち、小説の主人公「ぼく」の視線を暗示している。また、それは、情報が四角い壁の中で作られることを指し示しながら、壁の中に閉じ込められた真実を見る窓の必要性を語っている。主人公の位置と現代社会の問題点を端的に表現した言葉である。
この小説の面白さは、作りあげられた写真家の写真にある。
彼の写真は、一見、何でもない平凡な静物や人物なのだが、その被写体の中の何かを反射できる部分に、別のものを写し込んでいるところが魅力なのだと語られる。例えば、静物画「食卓の上の世の中」では、食卓に置かれたスプーンをよくよく見ると、そこに兵士が農夫を射殺している光景が浮かび上がってくるというように。つまり、のどかな食卓ではなく、食事をするはずの者は、もう食卓に戻れないということがそこには写し込まれている。と、いった架空の写真についての説明が、実は面白いのだ。そして、それが、何だか今を投影している。おまけに、この写真の中の写し込みを発見したのは、視力の弱いアマチュア写真家が拡大鏡で見ていた時だとなっている。噂の作られ方、物語の作られ方をうまく挿入している。僕らは身の回りの些細なことから、それこそ世界開闢におよぶ膨大なことがらまでを、どんな物語で構築しているのだろうか。そして、それを見る窓から、救い出される真実というものはあるのだろうか。
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