パオと高床

あこがれの移動と定住

陳真『北京暮らし今昔』(里文出版)

2007-07-15 01:32:18 | 海外・エッセイ・評論
中国に最初に行ったのは1988年だったか。その後93年から毎年一回は中国を訪れた。旅行者として。ただ広大な中国だ、行った場所をその国全体として語ることができるのだろうか。日本だって、日本としてくくっちゃって全てじゃないはずだ。日本はちょっと「?」もつくが・・・。

場所に生きた人の生がいきる文章がある。それは、その人が、自分自身の人生を引き受けた所にあるいさぎよさが、凛として響く文章だ。かつて、須賀敦子さんの文章にボクは絶句した。その衝撃とは違うかもしれない。しかし、陳真さんの「北京」は、彼女の生が慈しまれる場所で、彼女が慈しんだ場所を活写している。変化をただ喜ぶのではない。回顧を愛でるわけでもない。生活の場所が、いかに本人と人々の時間の積み上げの上に成立しているものか、だからこそ、今生きている自分たちの場所こそがそこにある場所であるのだという「今昔」の今が語られる。

自転車が減った中国。そう言えば最初に中国のケンタで食べた鶏の美味しさや吉野家のミックス丼を思い出した。マックの前で記念写真を撮っていた時代からそれが普通に日常化した現在。ゴミ箱の変遷。年収の金額の上昇変化。生活の豊かさと年金。「地書」「四合院」「水」「結婚式」と、話題は中国の今を伝えていく。その淡々とした文章に宿る情感は何だろう。時代は常に生活者のものであるべきだと、突然、ボクは思う。その一点を強く感じさせる。

NHKの「中国語講座テキスト」のコラムが元だという一冊。日本と中国の間には、国交のための友好のための、多くの人の人生がかかっているのだと思う。
作者陳真さんの人生も壮絶でありながら、しかし、穏やかさへと向かうものであったのかもしれない。

今、中国の持つ問題点がニュースで報道されている。中国が表す問題点は多い。そこに暮らす人々が、まず、場所を正すこと。
そして、ボクは、中国の豊穣さと貧しさを、浅薄さと分厚さを、普遍と特異を、見ていきたいと思うのだ。
外国人として、観光客として、中国の、北京の懐かしさが失われることが痛いのは、どうしようもないのかもしれない。

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