パオと高床

あこがれの移動と定住

福原恒雄「消」(「SPACE」100号)

2011-11-05 10:06:01 | 雑誌・詩誌・同人誌から
高知市のふたば工房から出ている詩誌。と、いっても参加者は他県にわたる。詩も読み応えがあるのだが、毎号、大家正志さんの「編集雑記」は面白い。今号は、光速を超える物質についての話で、刺激的だ。この発見のニュースの前だったと思うが、NHKの「コズミック・フロント」という番組でタイムマシンの可能性に触れていた回があった。
で、それはさておき、背筋の通った詩という印象を持った詩が、福原恒雄さんの「消」だった。詩誌の冒頭に配置されている。

野に放たれてしまえば
海だって染められてしまえば
鳥のようにという風のようにという水のようにという
どんな比喩ももう囲うことはできない

第一連、いっきに比喩を問う。三行目の「ように」が冒頭にかかる比喩の働きのようであり、その比喩の無力化を示しているようである。そして、この三行目を飛ばして、「野に放たれてしまえば/海だって染められてしまえば」は「どんな比喩ももう問うことはできない」にかかってもいる。比喩の無力から書き始められる詩。アドルノの有名な言葉が思いだされる。「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」。この言葉は、土曜美術社から出ている福原さんの『福原恒雄詩集』の中村不二夫さんの解説にも引用されていた。今また、この言葉が想起される。比喩の無力を語りながら対峙する言葉は次の行を生む。

にんげんが比喩の記憶から消えていく
科学と経済の欺瞞と脅迫と順応からにんげんのかたちが幻想に変異する
               (福原恒雄「消」一部)

この「幻想」に対立する言葉は何なのだろう。「比喩の記憶から消えていく」と「にんげんのかたち」は「幻想に変異」するのだろうか。「科学と経済」の「欺瞞と脅迫」また、それへの「順応」によって「にんげんのかたち」は「変異する」。ここの言い回しは、「にんげんのかたち」と思われていたものが「幻想」だったと「変異する」となるのだろうか。冒頭四行の構造と同じように、この二行もさらっと読めば、それはそれで了解可能なのだが、立ち止まらせるものがある。錯綜があるのだ。つまり、にんげんを「にんげんのかたち」にしていたものは比喩なのかもしれない。短絡的にいえば、万物の霊長たる「にんげん」のような。もちろん、万物の霊長が比喩かどうかはわからないが、そんな比喩の記憶からついに「にんげん」は消えていくことで、比喩によって支えられていた「にんげんのかたち」は「幻想」になってしまったと書かれているのかもしれない。この二行、かなりきわどい。このきわどさは、にんげんを「にんげん」として規定しているものを、「にんげん」に入り込み、内部化しているシステムを、それが支えにならないのだと問うところから始まっている。この困難を引き受けたきわどさなのだ。「幻想」に変異しながら、実はそれが「現実」へと変異したのだという困難なのだ。超越的な「私」が、外的に批判を加えるだけであれば、この困難は生まれない。善悪を問い、それによってのみ裁断できるのであれば、この困難は生まれない。自らを、それが支えもし、規定してもいるものを、その内部にいて、内的に捉えようし、表現しようとするときに、言葉は、その語の持つ対立物との齟齬を起こしながら、対立の境界を緩やかにぼかし始める。特に、言葉を使った表現の問題として捉えようとすればするほど、記された表現は「囲うことはできない」ように沁みだしてくる。
比喩で捉えられなくなってしまった現在があり、比喩から放擲されてしまった「にんげん」がいる。言葉による表現に軸を置いて存在を問う表現がある。この二行は、あっさりと、「にんげんのかたち」なんて「幻想」だったんだよ、というだけではすまされない苦渋が刻み込まれた二行なのだ。しかも、「変異した」ではなく「変異する」と現在形になっているところに、また「変異している」というあからさまな進行形になっていないところに、作者の向き合う姿勢が表れているように感じる。と、同時に、「消えてしまった」ではなく「消えていく」であり、「変異してしまった」ではなく「変異する」であるところに情緒に持っていかずに対峙しようとする姿勢が感じられた。

この詩は、連作「土のいのち」の一つである。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 坂多瑩子「いとこ」・中井ひ... | トップ | 福原恒雄「消」(2)(「SPA... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

雑誌・詩誌・同人誌から」カテゴリの最新記事