パオと高床

あこがれの移動と定住

ことばと音4

2004-10-23 12:18:41 | Weblog
音読み訓読みの問題があった。前回の「島」についてのボクの勘違いがそこにある。島をタオやドやトウと呼んだのは「島」という文字の伝来時の環境での聞き取りの結果生まれた差異かもしれない。漢音経由か呉音経由かで違う音というのはかなりあるようだ。丸谷才一が『輝く日の宮』で芭蕉の『奥の細道』の漢字読みについて蘊蓄を語っていた。

一方、韓国や日本にはもともと「島」の概念を表す「ソム」や「しま」という言葉があった。そこに世界言語として「島」という中国語が入り込んできた。日本はそれを「トウ」という中国音として受け入れながら、同時にその字を「しま」とした。音と訓の共存。
韓国は「島」は「ド」にし、島概念を表す「ソム」は「ソム」として残した。外来語と在来語の関係である。

つまり世界帝国の中国の表意文字の強さと表記による言語系分別の結果である。

西洋言語学では言語の分別は表記によるものらしい。だから、例えばスペイン語とポルトガル語は音は似ているが表記が別だと言うことで方言の関係ではなく別言語とする。
中国語は北と南ではほとんど音は違う。だが、表記が共通であるため広東語と北京語は方言の関係になっている。語順でもモンゴル、韓国、日本は同じ語順であるが、中国語はむしろヨーロッパ語語順である。しかし、親縁性は東アジア言語圏になる。

朝日新聞で井上ひさしが音の統一は国の統一政策であるといい、音の多様性と方言の存続を求めていた。考えてみると、音とは個や小さな集団が島宇宙的に存在するための強固なアイデンティティなのかもしれない。権力や圧力に対抗するのは垂直に立つ発語の力なのだろう。

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