パオと高床

あこがれの移動と定住

批評することの場所

2004-10-25 23:49:09 | Weblog
先日、飲んでいてでた話。
仮に某氏がいて、あきらかに質的に落ちている本を出した。ところが、某氏の仕事であるということで評価されてしまう。某氏がこれをしたところが凄いといったように。そんな評価はどうなのだろうという話である。わりと聞く話である。逆もある、こんな仕事をするなんて・・・も、もう終わったよね。とかいう場合もある。この方がわかりやすい。どうしても駄作傑作はあるし、意図が評価できても出てきたものがつまらないものはある。そのときに、どう対処するか。

岡井隆が『詩歌の近代』という本で、別の面白さを語っていた。作家の変遷を見ると、その個別の仕事だけではなく、変遷がすでに面白いというようなことを書いていたと思う。その移り変わりを見ることで作家の姿が現れてくるといったことだろう。特に変貌し続ける作家や古典的からアヴァンギャルドへ変化する作家や逆に過激から成熟に向かう作家は、それ自体が興味深い。徹底的に成熟を拒否する人もいる。前衛歌人として時代の先端を駆けてきた岡井だからこそ、吐ける言葉なのかもしれない。

とにかく名前でしていい仕事とそうでないものがあるはずで、作家の面白さが作品の面白さと密接につながっていることが、あたりまえのことだが、最も幸せな関係なのではないだろうか。で、どちらか取るとしたら作品の面白さの方が優先されるんじゃなかろうか。
「作家の死」とかまでは言わないにしても。

と、ここでもうひとつ反転すると、批評としての作家論はそれとして面白いのは面白い。このとき、その批評を書いた批評家=作家はどこにいるのか。
問う者は問われる者、語る者は語られる者かな。

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