あのときは、夢から覚めて目を開けたのではなく、
夢から覚めると世界が目を閉じたのです。
目を閉じた世界の中で、ゆっくりと、たどたどしく、ふたたび目を開いていく。物理的な目ではなく、
心の目とでもいえばいいのだろうか、ありきたりのいい方になるけれど、心をひらいていく、その瞬間
への物語なのかもしれない。
ハン・ガンの小説を読むのは三作目になる。『菜食主義者』『少年が来る』。いつも驚かされる。そして、
心を持っていかれる。流れるような時間の中で、立ち止まって動けなくなる。だが、小説はそれを読みすす
めるのと同じ速度で、立ち止まったボクをゆっくりと動かしていく。
今回の小説もそうだ。壊れ、失われた状況から、静かに時間が流れ始める。
そこで、小説のことばは、ことばそのものに傷つきながら、それでもことばを慈しみながら、ボクらが
ことばに出会った時を思い出させるように、ことばと再会する、その瞬間を描きだそうとしていくのだ。
ときどき、不思議に感じませんか。
私たちの体にまぶたと唇があるということを。
それが、ときには外から封じられたり
中から固く閉ざされたりするということを。
だが、それでも語りはじめたことばは相手へと向かおうとする。語りはじめるまでの長い時間を経て。
……そこで、私の声が聞こえますか?
袖に書かれた紹介文で、ストーリーの概要を書くと、「ある日突然言葉を話せなくなった女」と「すこし
ずつ視力を失っていく男」の関わりを軸にして小説はすすむ。さまざまな問題が絡み合った中で、女は突
然言葉を失う。発語することが出来なくなる。彼女は、その言葉を取り戻そうと、難解であり、失われた
言語ともいえる古典ギリシャ語を習い始める。そのギリシャ語の講師は、徐々に視力をなくしていく運命
を担っている。彼は自身の視力が薄れていくことを受け入れていきながら、「沈黙」し続ける受講生の彼
女に「関心をよせていく」。そのふたりの「対話」が小説のラスト4分の1ぐらいを占める。
小説のことばはその終盤では一行あけで訳され、短いフレーズがことばを大切にするかのように紡がれていく。
散文でありながら、詩のようでもあり、そして語りかける口調と独り言のような口調がまざりあい、
シナリオのような描写も共存する。
そんな表現が、薄暗がりの中でのふたりの対話を沁みるように表している。
と同時に、この箇所は、20世紀の小説が、ヌーヴォーロマンやアンチロマンの歴史を経て、
獲得してきた表現技法を駆使しているような印象も与える。
小説は、痛みを受けながら、その痛みを突き放さずに抱え込んで生きていかざるを得ない現代人を静謐に描きだす。
その痛みの感覚と静けさが、読者であるボクを包む。不条理で暴力性を帯びた時代を生きる、か細い生。その生が持つ、
脆弱かもしれないけれど確かな感触を感じさせてくれる。
最近の韓国の小説には不条理さへの処方箋を描く小説が多いような気がする。あるいは、そんな小説が好んで訳さ
れているのかもしれない。あっ、それより、ボクが選んでいるのがそんな小説なのかもしれない。
小説のもつ情感や内容に引かれる一方で、この小説には小説や思想の歴史への敬意が散りばめられている。
今を培っていた歴史との対話のように。
たとえば冒頭で引用されるボルヘス。「あとがき」でも指摘されているが、「男」の失明とボルヘス自身の失明が重なる。
また、これも「あとがき」に書かれているが、小説の最後が最初に重なってくる円環構造を匂わせていることでもボルヘス
と重なる。さらに古典ギリシャ語はプラトンの「イデア」と関わり、小説の中で「暗闇にはイデアがない」といった魅力的
なフレーズが出てくる。などなど。
また、表現にも、先ほど書いた以外に、文学の歴史の中で獲得されてきた表現がある。
『少年が来る』でいくつかの一人称を描きわけたように、この小説では、人称を「彼」「彼女」「僕」「私」「君」「男」「女」
と使いわけていく。これが多少の難解さを生みだしているかもしれない。
だが、これは、相手との関わりの中でお互いにとって相手が誰なのか、この相手にとって自分が誰なのかを表す大切な使いわけである。
世界のただ中にあって、人が関わり合いの中で共存していくことを探っているこの小説の思考を示す大切な描きわけなのだ。
この表現にも、小説が獲得した表現への作者の果敢な挑戦と、その表現を選び取った必然があると思う。しかも、読みすすめるうちに、
どこかで、この人称わけを正確に理解しなくてもいいような気もしてくる。むしろ、これが誰なのかを考えるよりも、そこにあることば
の持つ佇まいに魅了されていくのだ。
翻訳は結構たいへんだったのではと思うけれど、いい訳に違いないと思う。
「訳者あとがき」でも書かれているので、その引用のようにもなるが、「和解できない」世界の中で、和解できなさに留まるのではなく、
また、力による「和解」をはかるのではなく、「和解できない」ままの共存を図る。こんな、困難でありながら、解決できないものであ
りながらも、存在を認め合う状態。それを文学は模索する。むしろ、日常的にボクらはそうやって生活していくのではないだろうか。
それが亀裂を起こしたり、崩れたりするからこそ、そこにまた立ち至る。小説は、それに気づかせてくれる。
そして、また、失ったものを取り戻すのではなく、失ったあとを生きることで始められる生。
その困難と、だが、そうやっていく痛みを抱える生を小説は描きだしているように思う。
古典ギリシャ語の「中動態」って面白いな。それ自体が能動でありながら受動である表現とでも言ったらいいのだろうか。
うーん、例えば、「自然」にボクらは働きかける。そのこと自体がすでに「自然」によってボクらが働きかけられている状態まで表す。
ふーむ。僕たちは自然を破壊する(能動態)=自然は僕たちによって破壊される(受動態)
=僕たちは自然を破壊する。自然は破壊される。破壊した自然が僕たちを破壊する(中動態はここまで含めるのか)。ふーむ。
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