冒頭「紫だちたる」の章の、そのまた冒頭の一首。
あけぼののやうやうしろき山際を見つつリビングに朝の茶を喫む
誰もが知る『枕草子』の一節が上の句を作る。読んだときに、ふと荒川洋治の詩「見附のみどりに」を思いだした。
それほど似ているわけではないし、江戸の荒川の詩に対してこちらは平安。まあ、その時代の違いはそれほどではないのだけれど、
時間の層の作り方が、時間の中に漂う歴史の時間の空気の入り方が、連想させたのかも知れない。
この歌集の歌は、もちろん現代短歌なのだが、歌の背後に古典の風景が、風情があるように思う。
それが、歌が描きだす現在に深みと根を与えている。だから、軽みも軽さに霧散しない。
短歌の幅の中では、確かにもう文語はいらないという文語不要論もあるのだろう。だが、一方で短歌の現在と格闘しながら、
むしろ文語を使いこなし、千数百年の短歌の伝統を背後に宿しながら、果敢に表現の沃野を耕そうとしている歌もある。
それこそ、荒川の有名な詩句を借りれば、「口語の時代」の寒さを越えていこうとしているのかもしれない。古典返りすることではない方法で。
この歌は、そんな現代短歌の一首だと思う。もちろん歌集も。
そして、そんな作歌自体が、記憶を訪ねることにつながるのかもしれない。
今なら、カズオイシグロがらみで、この歌集名から入ってみる。
歌集名『去年マリエンバートで』で、アラン・レネを思いつくか、ロブ・グリエを思いつくか。もちろん両方だというのもわかるけれど、
ボクはロブ・グリエだった。で、著者あとがきは、この映画にさらりと触れて、「男Xは、去年ドイツのマリエンバートで確かに会ったというが、
女Aは記憶していないという。二人は会ったのか、会っていないのか。あいまいな記憶がつくられてゆく。私自身、この映画をくりかえし観たよう
な気がするし、まだ一度も観ていないような気もする。」と書かれている。
カズオイシグロはノーベル賞受賞に関する取材に対して「記憶」と「忘却」について語っていた。忘れたいから忘れる記憶、すりかえられる記憶、
忘却と記憶の選択、記憶に立ち向かう覚悟などが記事には書かれていた。記憶といえば、かつてノーベル賞を受賞したフランスのモディアノも忘却
された記憶=過去をめぐる旅だった。
もちろん向かうベクトルやそのベクトルが纏う想像力と創造力によって創りだされた世界は違うのだが、ボクらは浮遊の歳月を経て、着地できないまでも、
拠り所の気配と幻想を、そして確たる拠り所への願望を形象化しようとしているのではないだろうか。
記憶するしないに関わらず、時(とき)のひだは重層的に織りなされる。それが何ものかわからないまでも、あるいは忘却しつくしてしまったとしても、
ことがらのない世界でも時は折り重なっているのかも知れない。
で、林和清の歌には、そんな時のひだがある。それを『枕草子』の一節を引くようにして形象化した歌が冒頭の一首なのだ。
もうひとつ、面白いのは、というかボクの記憶の奥にいつの間にか埋もれてしまっていた言葉を呼び覚ましたのが、武田悠一の『読むことの可能性』という本だ。
副題は「文学理論への招待」。文学理論を紹介している一冊。これについては、また今度。
もう二首引きたい。
千本の卒塔婆が風に鳴る道を行きぬ北へとながい傾斜を
聞こえてくる囁きがある。時間を超えて。
もう一首は近江の塚本邦雄をめぐる歌の一首。
複雑に空がうごいて近江といふ水に鎖(さ)された秋の日を成す
この歌、司馬遼太郎の『街道をゆく』の第1回「湖西のみち」冒頭を思いだす。
「近江(おうみ)」
というこのあわあわとした国名をくちずさむだけでもう、私には詩がはじ
まっているほど、この国が好きである
歌は水と空とが互いを映じあっているようで、そこに秋がすべてを含むように存在している。「あわあわ」というのとは違うのかも知れないが
「近江」という音が鎖された水のなかでかそけくうごいている。その複雑な照りが秋の日なのだ。
めくりながら、次の一首に出会うのが楽しい歌集だった。読者の「期待の地平」が心地よく裏切られていく。つまり、新たな地平が顕れだすようなのだ。
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