パオと高床

あこがれの移動と定住

坂多瑩子「庭」(詩誌「ぶらんこのり」15号 2013年12月2日発行)

2013-12-01 12:24:44 | 雑誌・詩誌・同人誌から

やはり、不思議な世界に連れていかれる。何か異形な世界で、時間がどこかいびつにつながっていて、でも受け入れられてしまう。その愉しさ。
詩「庭」は、こう書き始められる。

 夏の過ぎた庭は根っこが
 全部つながってひとつのいきもののようで

えっ、と、もう庭の中。しかも、庭の根っこから入る。ところが、何だか草木のつながりのある場所が現れているのだ。で、次の行に驚く。

 昨日の雨で足がぬれる

確かに根っこで視線は下に来ているが、この詩句が唐突で、この三行のつながりを面白くしているのだ。ちょっと、しつこく繰り返して書くと、

 夏の過ぎた庭は根っこが
 全部つながってひとつのいきもののようで
 昨日の雨で足がぬれる

となる。えっ、えっ、どこに行くのという感じ。そして、

 足の下でなにかかが吸いついてくる

ぬれた足にぺたっと何か吸いつくのだ。ここまで四行。触れた感じが妙に残る。リアルな感じが詩の中の足を庭の根っこに吸いつける。「つながって」と「ぬれる」と「吸いついて」と「くる」が、それこそ「つながって」いるのだ。でも、それが理屈ではなく、行の意外性を持ちながら動詞つながりを見せるのだ。こうなると、足は庭の根っこにくっつく。

 音がして足がひっぱられて足がのびて
 助けてといってもだれも気がついてくれない

で、この詩、庭の「木」の根っことは書かれていない。「庭は根っこが」と書かれているわけで、つまり雑草、草の根っこ。夏の過ぎた庭の生い茂る草なのだ。それがつながって存在している量感。そこにひっぱられていく感覚。今、行をわけて抜いているのだが、ここに不思議がまた仕掛けられていて、

 足の下でなにかが吸いついてくる
 音がして足がひっぱられて足がのびて

と行は運ばれているのだ。だから、「音」が謎になる。「吸いついてくる音」なのか、何らかの「音」がしたのか。面白さからいけば、「吸いついてくる音」と考えた方が面白いのかな。ぺたっと吸いつく感覚が音で聴覚に変わる面白さ。そして、次に「ひっぱられ」で触覚になり、「助けてといっても」で、また音になり、

 ここにかくれてさ
 おとながきたら
 ひっつきむしを投げつけてやろうよ
 さっき約束したタケオくんタケオくんと呼んでもしんとしている

と、セリフ口調が入る。触覚と聴覚のせめぎ合いが異世界への滲出を容易にしている。視覚で追うと、この跳躍は出せないんじゃないかな。あっ、跳躍は出来ても、このひっぱりこまれる感覚はでないと思う。足をひっぱられながら、声や音がすることで、何か引きずられる空間の広さが感じられるのだ。すでに、ここで土の感じが宿っている。地底世界の別の時空なんて書けば、ちょっと表現がチンケだが、そんなものが予感される。
その別の時間の層から。過去の時間から聞こえてくる声が「ここにかくれてさ」からのフレーズなのだ。この声は作者にとっては過去の声である。
ところが、詩の中では、時間が逆転する。「さっき約束したタケオくんタケオくん」だから、「あたし」は子どもになっているのだ。
ひっぱられて、ここで少女の時間になったと考えるか、そもそも最初から、この詩の主人公「あたし」は少女なのだと考えるか。どちらもできそうだ。どっちが面白いのかな。どっちも面白いけれど、現在から過去に「ひっぱられ」る方が時間は複雑になる。こちらの方が坂多さんの世界なのかなと勝手に思ったりもする。一方、最初から少女にすると、話の流れはわかりやすくなるのかな。作者には申し訳ないけれど、どちらで読んでも面白いし、いずれかに決める必要もないように思う。

で、主人公である少女の「あたし」は、かくれて「ひっつきむし」を投げつけようとタケオくんと約束していたのに、「あたし」は、「吸いついて」きて「ひっぱられて」しまって、庭の中(土の中)に入ってしまったのだ。タケオくんとはぐれてしまったのだ。ここから「あたし」の一体化が始まる。大仰にいえば、分節された社会からの帰還、復帰が図られるのだ。

 バラの木にねこじゃらしがまつわりつき
 シジミチョウがぶつかりそうになって飛びつづけ
 吸いつくような音がぐるぐる大きくなって笑い声になって
 庭いっぱい笑っている

これは外から庭を見ているわけではない。庭になって見ているのだ。笑い声になった「吸いつくような音」に取りまかれているのだ。
ここで「吸いつくような音」と書かれているから、やはり、先程の「吸いついてくる」と次の行の「音」はそれこそ「吸いついて」いたんだ。ただ、まだ、「吸いついてくる」音として認識していなかった状態を示す行わけとも考えられる。
タケオくんとはぐれた淋しさなんてない。「あたし」が庭になってしまう快感なのかな。怖さもあるのだけれど。

 雑草と呼ばれたものたちも
 がさりがさりと寄ってきて
 あたしのほうに
 にわかに寄ってきて陽気に寄ってくる
 もう庭ぜんたいが土のなかだ
 夏の過ぎた庭に昨日の雨がふっている
              (「庭」全篇)

ほら、時間までひっついちゃった。いい着地だと思う。寄ってくる雑草。「あたし」にまとわりつきながら、「あたし」は庭になる。「寄ってきて」、「寄ってきて」、「寄ってくる」という動詞の繰り返し。すごいなと思った。詩の中で多く使われる促音便も含めての「っ」が調子と速度をもっていて面白い。促音便が多いのは時制に進行表現が多いからで、こんなところにも作者の時間感覚が出ていると思う。ちなみに過去形は「さっき約束した」の一か所だけかもしれない。タケオくんだけが過去に成っている。この時制の使い方によって、時間の転換と現在・過去の混合が果たされているのかもしれない。

どうも、書いちゃうと理屈ぽくなっちゃって、いけない。そんな理屈抜きで、とにかく連れだされた世界が愉しいのだ。詩が描きだす物語がここにはある。

9月25日に発行された、詩集『ジャム、煮えよ』。坂多さんワールド、全開している。
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