決然と決別する。
ことばが美しさを得るときはどんな時だろう。ことばも、花の美しさについて小林秀雄が、
美しい花がある。花の美しさというようなものはない、と語ったように、ことばの美しさというようなものはなく、
美しいことばがあるだけなのだろうか。いわゆる美辞麗句がむしろ輝かず、醜悪であるはずのことばが光りだすときだってある。
ことばの輝きは関係が生みだすものなのだろうか。だが、一方で確実に醜悪なことばというものもあると思う。
それを醜悪と感じる感性の基盤まで考えれば、醜悪と感じること、それさえも、疑わしいのかもしれないが。
詩のことばが、常用のことばに抗ったのと同じように、いかにもな詩のことばを疑いだして、詩語それ自体にも
抗い始めたのはいつ頃からだろう。
と、こんなことを考えるのは、藤さんの詩にあることばが決然と決別して、そのことによって強さと美しさを
獲得しているように感じたからだ。いわゆる詩語っぽさと一線を画し、なお俗語の浸食からも逃れていることばの姿があるからだ。
詩「畠も森も」は、こう書き始められる。
やさしさに道は続いて
畠のまわり 樹木には無数の鳥がとまっている
季節を忘れるはずはなく
しばしば風は流れて行く
見慣れた風景の道沿いの
はるかに遠く駅舎はまだ残っている
流れるようなことばが「はるかに遠く」にある駅舎へと連れていってくれる。これは、今残る駅舎でありながら、
なぜか記憶の中の駅舎のように時間のはるかも感じさせる。だから、次の連がくる。
少年の若いときは戦しかなく
畠も森もすでに眠ったままだった
歳月も痛み
状況の働く間は短い
過去の時間が流れ込む。しかしこれは今へと繋がる時間の仮借なさも孕んでいる。ことばは平易だが、歳月や状況という、
なにげないことばも詩のことばになっているように感じる。
生活の倦みと波頭の間遠い舟歌
時がきて 柔らぎかけた記憶の奪還
明日も今日も無視することはできそうもない
とほうもない無限の果てでやはり一直線はかぎりがある
そしてがばっと跳ね起きるしかないだろう
この連の一行目は不思議な繋がり方をしている。比喩が併置されているのだ。波頭とは寄せてくる生活の倦みだ。その比喩と
比喩されるものを併置して、まだるい舟歌を流す。若いときの戦の季節を抜け、平穏にあって、「記憶の奪還」を果たしても、
それは奪還できるものでありながら、無視することができずに訪れてしまうものでもある。忘れられることの幸せということ
もあって、忘れられないことの辛さもあるのだ。そして、記憶が奪還されるということは、それだけ時間を消費したことにもなる。
若さの戦の季節とは別に、今度は迫り来る時(とき)との日常的な抗いがある。日常の中で、朝起きたくないという実存の延期は
「かぎり」を前にして「跳ね起きるしかないだろう」になる。存在を立ち上げ続ける日常の営為が、実は「もの」的存在を
「こと」的存在にするのかもしれない。
いまさらよこしまに捩じれようとしても
多くの四季の流れと同じようにどこかに消えると
孤独が解消した花の咲く庭には誰もいない
孤独の解消はヒトの不在の中で初めて可能になる。巡るものでありながら消えていく四季それぞれ、ヒトの不在の中で時間だけは
それでも流れる。最終連はこうなる。
だれもかまってくれない沿道の雑踏で
どこへ行こう
巷の終焉を見る前に旅立つ
火の王国とやらの幻想の
うすまる肉体の血の流れは早い
おお今は炎暑の真夏なのだから
きっとフルートの音色も遠ざかってしまった
畠も森も抜けてしまうのかもしれない。雑踏は終焉に向かっているのかもしれない。それは自身の旅立ちとも重なる。
その前に自らは真夏の孤独の先へと進もうとしている。音のない先へと。
だが、この最終連は詩が復活するように詩語が立ち現れているのだ。詩のことばとなって詩語が再来する。
長い時を経ても、ことばへの信頼が失われていないことを、詩は告げている。
ことばの強度は美しさを支える。
ことばが美しさを得るときはどんな時だろう。ことばも、花の美しさについて小林秀雄が、
美しい花がある。花の美しさというようなものはない、と語ったように、ことばの美しさというようなものはなく、
美しいことばがあるだけなのだろうか。いわゆる美辞麗句がむしろ輝かず、醜悪であるはずのことばが光りだすときだってある。
ことばの輝きは関係が生みだすものなのだろうか。だが、一方で確実に醜悪なことばというものもあると思う。
それを醜悪と感じる感性の基盤まで考えれば、醜悪と感じること、それさえも、疑わしいのかもしれないが。
詩のことばが、常用のことばに抗ったのと同じように、いかにもな詩のことばを疑いだして、詩語それ自体にも
抗い始めたのはいつ頃からだろう。
と、こんなことを考えるのは、藤さんの詩にあることばが決然と決別して、そのことによって強さと美しさを
獲得しているように感じたからだ。いわゆる詩語っぽさと一線を画し、なお俗語の浸食からも逃れていることばの姿があるからだ。
詩「畠も森も」は、こう書き始められる。
やさしさに道は続いて
畠のまわり 樹木には無数の鳥がとまっている
季節を忘れるはずはなく
しばしば風は流れて行く
見慣れた風景の道沿いの
はるかに遠く駅舎はまだ残っている
流れるようなことばが「はるかに遠く」にある駅舎へと連れていってくれる。これは、今残る駅舎でありながら、
なぜか記憶の中の駅舎のように時間のはるかも感じさせる。だから、次の連がくる。
少年の若いときは戦しかなく
畠も森もすでに眠ったままだった
歳月も痛み
状況の働く間は短い
過去の時間が流れ込む。しかしこれは今へと繋がる時間の仮借なさも孕んでいる。ことばは平易だが、歳月や状況という、
なにげないことばも詩のことばになっているように感じる。
生活の倦みと波頭の間遠い舟歌
時がきて 柔らぎかけた記憶の奪還
明日も今日も無視することはできそうもない
とほうもない無限の果てでやはり一直線はかぎりがある
そしてがばっと跳ね起きるしかないだろう
この連の一行目は不思議な繋がり方をしている。比喩が併置されているのだ。波頭とは寄せてくる生活の倦みだ。その比喩と
比喩されるものを併置して、まだるい舟歌を流す。若いときの戦の季節を抜け、平穏にあって、「記憶の奪還」を果たしても、
それは奪還できるものでありながら、無視することができずに訪れてしまうものでもある。忘れられることの幸せということ
もあって、忘れられないことの辛さもあるのだ。そして、記憶が奪還されるということは、それだけ時間を消費したことにもなる。
若さの戦の季節とは別に、今度は迫り来る時(とき)との日常的な抗いがある。日常の中で、朝起きたくないという実存の延期は
「かぎり」を前にして「跳ね起きるしかないだろう」になる。存在を立ち上げ続ける日常の営為が、実は「もの」的存在を
「こと」的存在にするのかもしれない。
いまさらよこしまに捩じれようとしても
多くの四季の流れと同じようにどこかに消えると
孤独が解消した花の咲く庭には誰もいない
孤独の解消はヒトの不在の中で初めて可能になる。巡るものでありながら消えていく四季それぞれ、ヒトの不在の中で時間だけは
それでも流れる。最終連はこうなる。
だれもかまってくれない沿道の雑踏で
どこへ行こう
巷の終焉を見る前に旅立つ
火の王国とやらの幻想の
うすまる肉体の血の流れは早い
おお今は炎暑の真夏なのだから
きっとフルートの音色も遠ざかってしまった
畠も森も抜けてしまうのかもしれない。雑踏は終焉に向かっているのかもしれない。それは自身の旅立ちとも重なる。
その前に自らは真夏の孤独の先へと進もうとしている。音のない先へと。
だが、この最終連は詩が復活するように詩語が立ち現れているのだ。詩のことばとなって詩語が再来する。
長い時を経ても、ことばへの信頼が失われていないことを、詩は告げている。
ことばの強度は美しさを支える。