パオと高床

あこがれの移動と定住

ブレヒト『アンティゴネ』谷川道子訳(光文社古典新訳文庫)

2015-09-24 10:45:19 | Weblog
ブレヒトの戯曲を久しぶりに、何年ぶりだろう、読んだ。ギリシャ悲劇を改作した戯曲があったのか。それにしても、
なんと今日的なんだろう。今、この国の状況と全くかぶってしまった。

文庫裏表紙の内容紹介を引く。
「テーバイの王クレオンが仕掛けた侵略戦争で、戦場から逃亡し殺されたポリュネイケス。王は彼の屍を葬ることを禁
じるのだが、アンティゴネはその禁を破って兄を弔い、伯父クレオンに抵抗する……。詩人ヘルダーリンの訳に基づき、
ギリシャ悲劇を改作したブレヒトの今日性あふれる傑作。」
アンティゴネはクレオンと論戦する。だが、クレオンは聞く耳を持たない。戦争の地アルゴスではまだ、戦争が続いて
いるのに王は民衆に戦勝を告げ、祝賀会を催す。酔う民衆。予言者ティレシアスの言葉も聞かず、王に賛同していた長
老たちも敗戦の知らせを聞くや王を諫めようとする。それにギリシャ悲劇の構造であるコロスが重なる。民衆の状態や、
国の運命が歌われていく。王はどこまでも戦争を国のためと告げる。王の言葉を逆手に取るアンティゴネの反論。お互い
が相手の言葉を逆転させて争う。例えば、この応酬。

 クレオン わしがこの国を、他国の餌食に投げだしているとでもいうのか。
 アンティゴネ あなたに頭を垂れることですでに、他人の餌食になっているのです。
   頭を垂れた人間には、我が身に降りかかるものは見えはしない。見えるのは大地
   だけ、そして、ああ、その大地に呑みこまれてしまうばかり。
 クレオン 大地を、この故郷を侮辱するのか。見下げ果てたやつめ!
 アンティゴネ 違います。大地は憂いのもと。故郷とは大地だけではない。家だけでも
   ない。ただ汗水を流した場所、なすすべもなく燃えるにまかせる家、頭を垂れるだ
   けの場所、そんなところを故郷とは呼べない
 クレオン はっきりとそう言うのだな。故郷を守る気はないのだな。それならこの
   故郷は、もはやお前を認めはしない。面汚しのごみであるお前は見捨てられるのだ。
 アンティゴネ 誰が見捨てるというのです? そういう人も、あなたが支配者になって
   から、減る一方。これからますます減るでしょう。どうして一人で帰ってきたので
   す、行く時は大勢連れていったのに。

すごい。使った言葉を転がしていく。確か、ブレヒトは論戦の方法として、相手の言葉を定義を変えて破綻させるとい
うようなことを書いていたように思うけれど…。ブレヒトの真骨頂かもしれない。そう、これも一言で言えば異化させる
方法かもしれないが、双方が使うところが緊張するし面白い。ただ、このクレオンの台詞、笑えないのは、最近よく聞く
屁理屈=揚げ足取りだからだ。

こんな台詞もある。

  クレオン とうとう本音を吐きおった。この女、テーバイの国を分裂させようとし
    てやがる。
  アンティゴネ 統一を叫ぶあなた自身が、争いを糧に生きている。
  クレオン そうだ、わしはまず何より、この国で戦う。アルゴスでの戦いは二の次だ。
  アンティゴネ なるほど、そうでしょうね。よその国に暴力をふるうときは、自分の
    国にも暴力をふるわねばならないもの。

世界中の様々な国の名前が思い浮かぶ台詞である。悲しいことに、この国の名前も含めて。
ブレヒトが書いた台詞は、やはり普遍性があったということになるのだろう。
もう1か所引用する。逃亡し殺された兄をめぐる応酬だ。

  クレオン お前には、自分の生命を惜しんだ男も、もう一人の男と同じなのか?
  アンティゴネ その人は、あなたの下僕ではなかっただけのこと。それに何より
    も、私にとっては兄なのです。
  クレオン なるほど、お前にとっては、不敬の徒も愛国の士も、同じなのか。
  アンティゴネ 祖国のために死ぬのと、あなたのために死ぬのとは、違うのでは?
  クレオン じゃあ、いまやっているのは、戦争ではないのか?
  アンティゴネ いいえ、戦争です。あなたの戦争です。
  クレオン それが国のためではないのか?
  アンティゴネ 他の国を手に入れるため。あなたは自分の国で私の兄たちを
    支配するだけでは満足しなかった。木立の下で不安なく暮らせば、テーバイ
    は心地よい国。なのにあなたは、遠いアルゴスまで、兄たちを引っぱってい
    かねば、気がすまなかった、そこで兄たちを意のままにしようとした。

これに、今は侵略戦争ではなく、平和のための戦争という名分がつけられるのだろう。怖いな。そして、クレオンは最
後に叫ぶ。

  クレオン もうテーバイはおしまいだ。
       滅びるがいい、わしとともに、破滅するがいい、共に禿鷹の餌食と
    なるがいい、それこそ本望じゃ。

内田樹と白井聡の『日本戦後史論』を思い出した。
この芝居は戦後の1948年にスイスで上演されている。序景として二人の姉妹とナチス親衛隊員の景が加えられている。
ブレヒトの劇構造の特質が出ている。その序景は戦後すぐの状況にあって、その現在とギリシャ悲劇を結びつけるため
に用意されたらしい。訳者の解説によれば、1951年の東ドイツでの上演からは、演じるものが登場して語りかける「プ
ロローグ(『アンティゴネ』への新しいプロローグ)」に変わったということだ。そこには、このような語りかけがあ
る。

  その戦争を終わらせてしまうのです。どうか皆さん、
  最近、似たような行為が私たちにあったのではないか、
  いや、似たような行為はなかったのではないかと、
  心の中をじっくりさぐって頂きたい。

劇の役者が劇に入る場面から始める。ああ、ブレヒトだと思う。同時に、この台詞も効いている。

台詞は、コロスの場面などは特にギリシャ悲劇の詩のようなフレーズが続く。訳も、改行が韻文のようにされている。
読みやすい訳になっていると思う。

この時期、どこかの劇団が上演したらいいのだが。
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