作者は告げる。「短歌は、修辞の王国です」と。そして、今、「〈修辞ルネッサンス〉とでも言いましょうか」と。
直喩、隠喩、音喩。枕詞に掛詞、序詞、縁語と歌枕。外国語外来語、口語、ルビ、固有名詞。本歌取り、翻案。破調。短歌の修辞が短歌引きながら語られる。引かれる短歌の豊穣さが楽しい。そして、加藤治郎の語り口がわかりやすくて親しめる。さらに修辞の項目にオリジナリティのある項目が加えられている。記号表記を含めた表記的喩。丸括弧記号パーレンの項目。そして、修辞に収まりきれない、その修辞自体のもたらすゆがみ。さらには、修辞の彼方に向かおうとしているような短歌が例示された「修辞の彼方に」という項目が、ある。修辞の旅をしながら、現代短歌に出会っていると思えるところがいいのかもしれない。
「もともと和歌は修辞の宝庫でしたが、近代短歌、特に写生の理念は、言葉が物や実景と一義的に結びつくことを導き、多様な修辞を排除しました。雪は花であるというような言葉の因習を破壊する和歌革新のプランとして必然の選択であったと言えましょう。しかし、その後、修辞の排除は教条化し、表現はむしろ痩せたものになっていったのではないでしょうか。戦後短歌のリアリズムは、個人の生き方や現実社会の反映を作品に求めました。真摯な作歌態度と修辞は、相容れないものだったと思われます。前衛短歌の登場によって、ようやく修辞こそが現実を迫真的に表現するための方途であることが明らかになりました。そして世紀末の現代短歌は、遊びの復権ということも含め、全面的に修辞を開花させたのであります。」と、伝統と歴史的連続断絶の中での短歌の異動を作者はまとめる。そして、「魂というものは、あるときは研ぎ澄まされ、またあるときは遊び心をもって自由に漂うものではないかと思います。修辞は、魂に力を貸してくれるかけがえのない友人でありましょう」と、〈修辞ルネッサンス〉を受容している。
このあと、この本は「歌ことば草子」という章だてで、いくつかの言葉にこだわって短歌を拾い出している。
短歌の解読や短歌入門の本は、何だか読んでて面白い。ぱらぱらと、ながら読みしても面白いし、ぱっと抜き読みしても結構いける。解読された歌を見ながら、今度、この人の短歌をもう少し詠んでみようと思ったりするのも楽しい。
〈浮遊する直喩〉という言葉、いいな。
直喩、隠喩、音喩。枕詞に掛詞、序詞、縁語と歌枕。外国語外来語、口語、ルビ、固有名詞。本歌取り、翻案。破調。短歌の修辞が短歌引きながら語られる。引かれる短歌の豊穣さが楽しい。そして、加藤治郎の語り口がわかりやすくて親しめる。さらに修辞の項目にオリジナリティのある項目が加えられている。記号表記を含めた表記的喩。丸括弧記号パーレンの項目。そして、修辞に収まりきれない、その修辞自体のもたらすゆがみ。さらには、修辞の彼方に向かおうとしているような短歌が例示された「修辞の彼方に」という項目が、ある。修辞の旅をしながら、現代短歌に出会っていると思えるところがいいのかもしれない。
「もともと和歌は修辞の宝庫でしたが、近代短歌、特に写生の理念は、言葉が物や実景と一義的に結びつくことを導き、多様な修辞を排除しました。雪は花であるというような言葉の因習を破壊する和歌革新のプランとして必然の選択であったと言えましょう。しかし、その後、修辞の排除は教条化し、表現はむしろ痩せたものになっていったのではないでしょうか。戦後短歌のリアリズムは、個人の生き方や現実社会の反映を作品に求めました。真摯な作歌態度と修辞は、相容れないものだったと思われます。前衛短歌の登場によって、ようやく修辞こそが現実を迫真的に表現するための方途であることが明らかになりました。そして世紀末の現代短歌は、遊びの復権ということも含め、全面的に修辞を開花させたのであります。」と、伝統と歴史的連続断絶の中での短歌の異動を作者はまとめる。そして、「魂というものは、あるときは研ぎ澄まされ、またあるときは遊び心をもって自由に漂うものではないかと思います。修辞は、魂に力を貸してくれるかけがえのない友人でありましょう」と、〈修辞ルネッサンス〉を受容している。
このあと、この本は「歌ことば草子」という章だてで、いくつかの言葉にこだわって短歌を拾い出している。
短歌の解読や短歌入門の本は、何だか読んでて面白い。ぱらぱらと、ながら読みしても面白いし、ぱっと抜き読みしても結構いける。解読された歌を見ながら、今度、この人の短歌をもう少し詠んでみようと思ったりするのも楽しい。
〈浮遊する直喩〉という言葉、いいな。