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パオと高床

あこがれの移動と定住

長田弘『幸いなるかな本を読む人』(毎日新聞社)

2008-09-11 09:10:00 | 詩・戯曲その他
例えば、夏目漱石の『草枕』による詩。

  深林人知ラズ
それから雨になった。
濃(こまや)かな山の雨である。
深く罩(こ)める雨の奥から、
木が現れたと思うと隠れる。
雨が動くのか、木が動くのか。
音もなく景色が動いていく、
夢が動くように。
合っては別れ、別れては合う
路は、どれが本筋とも認められぬ。
どれも路である代わりに、
どれも路でない。雨が上がる。
自(おのず)から来りて、自から去る。
静けさのほかに聴くものはない。
雑木に埋もれた山中を、独り歩く。
景色に、苦しみがないのは何故だろう。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、
泣いたりは、人の世につきものだ。
けれども、苦痛が勝っては、
凡(すべ)てを打ち壊して仕舞う。
苦痛に打ち勝つ丈の、愉快がなくてはならぬ。
ほがらかであたたかみある、
木蓮の花を見よ、
拙(せつ)を守る木瓜(ぼけ)の花を見よ。
静かな夜に、松の影が落ちる。
「あの松の影をご覧」
「奇麗ですな」
どこぞで大徹和尚と漱石先生の声がする。
「ただ奇麗かな」
「えゝ」
「奇麗な上に、風が吹いても気にしない」

となる。詩人であって書評家である著者の、「心から離れられない本」との詩による対話である。「二十五冊の本をめぐる二十五編の詩」が、「読書という文化」の持つ「自由な逸脱の作法」によって、「自在に、闊達」に立ち上がっていく。ここには著者があとがきにしるすように「わたしが本について、ではなく、わたしが本によって語られているという、どこまでも透きとおってゆくような感覚」がある。本を発想の根に持ちながら、本との交感が詩を生み、その詩が長田弘を語っていく。そこには長田弘と、彼が離れられなく、「いくども心の中に抜き書きをかさね」、「親しくつくりかえてきた」本が、生きている。記憶されることで長田弘をつくってきた、そして世界をつくる書物が存在している。その存在の証は対話によって成立し、詩によって一冊の書物になる。そう、この一冊、この出会いが、すでに『幸いなるかな本を読む人』なのだ。
それにしても、詩篇のなかに、受容とともに、時代への静かな悲しみと憤りが感じられた。