去年の10月に熊本の金峰山に行った。峠の茶屋でだご汁を食べたのだが、道路脇には『草枕』『二百十日』発表100年の幟旗がたくさん立っていた。その後、漱石旧宅にも行ったのだが、夏目漱石はやっぱり国民的作家だよなと思った。
この『草枕』、その後の漱石作品に比べると美文で、ある意味難解な文章かもしれない。漢文と英文学の素養が爆発している。おまけに俳句の俳文的風情も混ざって、酔えるように楽しいところと少々頭が痛くなるところが混在。時代的には自然主義文学の動向と屹立対峙する漱石という印象である。
登場人物のしぐさや場面転換などに絵画的描写を加え、一方で「ムード」という言葉などによって表されるような、そこから立ち上る印象派的気配も言語化しようとする。ぱっと止まるような場面があるかと思うと色彩や音や詩についての芸術論が横溢したり、細部へと視点が動いた後に遠景が描写されたりと、なかなか達者で、同時に蘊蓄ものである。
漢詩や俳句の「根本的態度」としての「非人情」とは違うのかもしれないが、その「非人情」が人情のくだりになるところに、また妙味があるという気がした。「非人情」への格闘、憧憬を持ちながら人情の境を渡る。小説とは案外、そんなものなのかもしれない。
この『草枕』、その後の漱石作品に比べると美文で、ある意味難解な文章かもしれない。漢文と英文学の素養が爆発している。おまけに俳句の俳文的風情も混ざって、酔えるように楽しいところと少々頭が痛くなるところが混在。時代的には自然主義文学の動向と屹立対峙する漱石という印象である。
登場人物のしぐさや場面転換などに絵画的描写を加え、一方で「ムード」という言葉などによって表されるような、そこから立ち上る印象派的気配も言語化しようとする。ぱっと止まるような場面があるかと思うと色彩や音や詩についての芸術論が横溢したり、細部へと視点が動いた後に遠景が描写されたりと、なかなか達者で、同時に蘊蓄ものである。
漢詩や俳句の「根本的態度」としての「非人情」とは違うのかもしれないが、その「非人情」が人情のくだりになるところに、また妙味があるという気がした。「非人情」への格闘、憧憬を持ちながら人情の境を渡る。小説とは案外、そんなものなのかもしれない。