パオと高床

あこがれの移動と定住

吉本隆明が死んじゃった

2012-03-16 14:04:08 | 雑感
今朝、知人から郵便が送られてきて、何かなと思って開いたら、文庫本が四冊入っていた。蓮見重彦の本が二冊と、吉本隆明の『共同幻想論』と『吉本隆明歳時記』。吉本の文章か、いいかもと漠然と思っていると、テレビに、その吉本の顔。あっ、とうとう、と、やはり。訃報。

以前、亡くなった人のことを書くたびに、このジャンルは、この人がいるから大丈夫と思うことのできる人だったと書いたが、吉本隆明は「ジャンル」じゃないよなと思った。ものごとについて考えること、ものごとから考えられること、ものごとを作り出す考える力、そんな考えることの全体があった。時間の延び、空間の広がりがあって、戦後から現代までアクチュアルに強靱に思索し続けた人だった、と思う。

二年ぐらい前になるのか「文学界」だったかな、で、高橋源一郎と小熊英二が対談していて、吉本に関する世代イメージの違いが現れていた。小熊はコマーシャルの中の吉本のイメージを語っていて、吉本を乗り越えるとかいうのとは違う発想にいる世代の動きが感じられた。

何らかの形で、特集が組まれると思う。吉本の思索の軌跡は刻まれている。

 お聴きよ!
 おまえの微かな魂の唱……
 夜更けの風の響きにつれて
 さだかならぬ不安を呼び寄せている
          (「エリアンの手記と詩」から)
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日高敏隆が死んじゃった

2009-11-25 14:15:21 | 雑感
日高敏隆の『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』について、このブログに書いたのは2007年2月だった。
網野善彦や司馬遼太郎が死んでしまったときに、このジャンルは、この人がいるから大丈夫と思うことのできる人だったと書いたが、この日高敏隆もそんな人の一人だったと思う。動物へのあくなき探求が、そのまま人間の世界と繋がってくる。そして、そこに人間の生態と文化への批評性が現れる。そう、ボクのなかでは、多田富雄の免疫系についての文章が、哲学の自他論をするりと生物学的にクリアしてしまったように、日高敏隆の動物学とでも呼べるものは、イリュージョンや現実、そして環境との相互関係での環境論をぱっと跳躍できてしまうパラダイムを持っていたと思う。

何だか、最近、読書日記にならずに、追悼の文が続いてしまった。文化や思考の方法、視点の拡大と展開を行ってきた牽引者でありながら、すでに圧倒的な存在であった人たちが、死んでいく。時代が動いているのだと感じる。せめては、彼ら彼女らの本に触れ、豊穣な知の世界に浸りたい。
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金大中が死んじゃった

2009-08-19 08:56:07 | 雑感
18日に金大中がついに死んでしまった。
韓国民主化の象徴であり、そのまま民主化の歴史であり、その体現者であった人物は85歳の生涯を閉じた。
数日前に、金泳三が病院に金大中を見舞い、「和解の時期が来た」というようなことをインタヴューに応えて言ったという記事を見かけて、あれと思ったのだが、本当にぎりぎりでのお見舞いだったようだ。病状が悪く、本人との面会はなかったらしい。

朝日新聞は、1面、「天声人語」、2、8、9,37面で金大中に触れている。その2面の評伝は「不死鳥のような鉄人にして哲人の政治家」と書き出している。持続する志の強さと揺るぎなさ。彼は全身で民主化を発光し、また、民主化の動きを求心していったのだろう。それにしても、よく生き続けられた政治家だったと思う。死地をことごとく乗り越えていく、しかも、ひるまない。より強靱な持続力を発揮する。政治的に抹殺されたに等しい状況の中でも、なお民主主義の実現を見据えていく。現代史の中でのアジアの持つ民主主義獲得の歴史を顕著にあらわしている人物なのだ。

「天声人語」はこう結ぶ。「巨星は墜ちたが、生まれたばかりの雲になって、分断された民族の行方を見守っていることだろう」と。儒教などの「魂魄」の思想を背景に持った、なかなかの結びだと思う。

録りだめしていたドラマの「第五共和国」もラストをむかえている。不謹慎かもしれないが、金大中の人生も、ドラマになることを期待してしまう
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「阿修羅展」に行く

2009-08-11 23:40:21 | 雑感
九州国立博物館に行く。阿修羅に会いに行く。戦う神の憂いに会いに行く。すくっと立っている。屹立というわけではない、むしろぞんざいに立っている。天平仏なのだ。その立ち位置から、腰が、手が、動く。そして表情が、一瞬の静止の中に、感情の打ち消しがたい痕跡をとどめて、「憂い」と「峻厳」と「切実」を、問いに転化して放散してくる。その前にいて、魅了される。心を揺さぶってくる、ある静謐が、ここにはある。それは、むしろ動が静に移ることで、封じられた沈潜のようであり、人は心の揺らぎを阿修羅に投影させる。

思ったよりも、明るい照明だった。また、円形の場所に立つ阿修羅に、360度移動しながら語りかけていける空間は、係員の誘導の手際よさもあって、不要なストレスを感じることもなかった。
鎌倉仏の四天王との造形の違いも感じることができ、また、八部衆のうちの四体との出会いにも、時間の充実を感じられた。

それにしても、様々な阿修羅グッズの開発力はたいしたものだ。ただ、これも、仏像の本来性から考えると、むしろ当然のことなのかもしれない。

そのグッズとは別の話だが、作られる仏像それ自体は、アイドルの原義に忠実でありながら、精神性のレヴェルを保つ、いや、むしろ精神性の充溢があってこそアイドルとしての実在性に至ることが出来るのであり、ここに仏像が作りつづけられる営為の凄まじさがある。
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ストラディヴァリウス・サミット・コンサート

2009-05-25 11:47:44 | 雑感
2007年に聴きに行って以来二度目になる。
相変わらず、その音色の美しさと難しさを感じさせないくらい手慣れて余裕すら感じさせる技術に酔いしれた。
ベルリン・フィルハーモニック・ストラディヴァリ・ソロイスツは、ベルリン・フィルのメンバーを中心にした、ストラディヴァリウスを演奏できる奏者による弦楽アンサンブルだ。
今回は、ドイツの四月の変わりやすい気候を思わせるような曲目にしたと解説されていた。確かに、バッハ、ショスタコーヴィチ、ヴィヴァルディ、ヒンデミット、チャイコフスキー、ボッテジーニ、サラサーテ、さらにアンコールでモーツァルトという選曲は、多彩だったかもしれない。
ヴァイオリンがメインの曲から、ヴィオラ、チェロ、コントラバスと、それぞれの弦楽器がメインを務める曲目が選ばれていて、選曲に工夫が凝らされているという印象があった。
休憩までの前半、バッハに始まり、ショスタコーヴィチからバッハという曲の流れは、まるで、バッハによる20世紀への鎮魂のような感じがした。「コントラバスのパガニーニ」と呼ばれていたらしいボッテジーニの「悲歌第一番」では、コントラバス演奏の面白さと大変さが伝わってきて面白かった。
チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」、アンコール一曲目の「弦楽セレナーデ」、チャイコフスキーの旋律はやっぱりいいな。そして、モーツァルトをお聴かせせずには帰せませんと語りながらのアンコール二曲目、最後の曲になった、モーツァルト、これにつきるという感じだった。満足。
挨拶と解説をする奏者の日本語がさらに上達していた。
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