ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

県庁、火災で焼失

2014年08月12日 17時27分58秒 | 県全般
県庁、火災で焼失

終戦後の4年間、県内は次々に大事故、大災害、大事件に見舞われた。

1947(昭和22)年2月の八高線の買い出し列車の脱線転覆事故に始まり、同年9月のキャスリーン台風。これに次いだのが、48年10月の県庁放火消失事件、49年3月の知事逮捕事件だった。

八高線とキャスリーン台風は知っていた。県庁消失と知事逮捕については全く知らなかったので驚いた。

県庁の消失事件は、48年10月25日午後11時50分に起きた。県庁舎の新館2階の消防課付近から出火、好天続きで乾燥していたうえ、1891(明治24)年に建てられた、全国の県庁舎で最も古い老朽木造建築だったため、火の回りが速かった。

本館に燃え広がり、別館など8棟を全焼した。消失面積は約7千平方mに達した。各部課では重要書類や記録類がほとんど焼けてしまい、県庁としての機能の大半を失った。

浦和市内や近郊に住んでいる県職員は徒歩や自転車で駆けつけ、書類の持ち出しなどに活躍した。西村実造知事や二人の副知事は早々に姿を見せ、両副知事は高張り提灯をかざして指揮した。

出火原因は当初、漏電説が強かった。しかし、捜査本部は放火の疑いが濃いと見て捜査を進め、11月12日、消防課会計係員(24)を放火容疑で逮捕した。

火災発生時の行動に不審な点があるうえ、県下の消防団に配給する布ホース代金を横領していたこと、火災後の数日間、熱海の旅館に隠れていた事実が分かったからである。

容疑者は当初、頑強に犯行を否認していたが、消防課内の戸棚の書類にマッチで火をつけたと自供した。



51年1月、浦和地裁で「懲役12年」(求刑は無期懲役)の判決を受けた。控訴して保釈金を積んで仮出所中、茨城県水戸市の山中で、法務大臣、浦和警察署長、浦和地検検事正などに「私は無罪」という遺書を残し、服毒自殺してしまった。なぜ火事が起きたのかは不明のままだ。

県職員の逮捕は、知事の責任問題に発展した。消防課長は「監督不行き届き」の責任を取って辞表を提出した。

当時の駐留軍による埼玉軍政部は、「古い面子にとらわれた辞職は、民主的なやり方に慣れている者にとっては理解できない」と安易な辞職を強く戒めた。

このため引責論は消えたものの、大宮市と熊谷市が県庁招致の名乗りを上げ、浦和市と三つ巴の争いとなった。

熊谷市が立候補したのは、1876(明治9)年、熊谷県を廃止して埼玉県に合併した際、「県庁の位置が県南に偏在している」と熊谷招致の動きがあったという歴史的な事情があった。

この争いは最終的に浦和対大宮にしぼられた。1950(昭和25)年3月23日の県庁舎建設特別委員会で採決され、浦和28対大宮22の6票の僅差で浦和存続が決まった。

財源不足に悩んだ県は、再建費捻出のため宝くじを2回発行した。落成祝賀式が行われたのは、55(昭和30)年10月15日で、事件から7年経っていた。

知事は大沢雄三知事に代わっていた。西村知事は49年3月18日逮捕され、辞任、すでに死亡していた。

知事が逮捕されたのは、「日本シルク事件」と呼ばれる、東京地検が摘発した生糸の大量横流しに絡む贈収賄事件で、農林省畜産局長(前蚕糸局長)、県の蚕糸課長とともに収賄(知事は現金50万円)の容疑だった。

潔白だと語っていた知事は収賄容疑の一部を自供したとされ、起訴された。弁護士を通じて県議会議長に辞任届けを出し、臨時県議会で全員一致で可決された。

知事は公判中、病気で死去、免訴となった。(「埼玉県行政史 第3巻」など参照)






最新の画像もっと見る

コメントを投稿