ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

吉見百穴 吉見町

2011年07月29日 09時58分40秒 | 名所・観光

吉見百穴 吉見町

やはり行ってみるものである。「百穴」は音読みで「ひゃっけつ」と読むと思い込んでいた。地元では訓読みで「ひゃくあな」と読むらしい。そうルビが振ってある。百の横穴があると思っていたのも間違い。現在219残っているという。

ここを訪ねたのは、国指定天然記念物のヒカリゴケが、横穴墓地内に自生しているのをぜひ見たいと思ったからである。武田泰淳が残した小説「ひかりごけ」の題名だけが頭にこびりついていているせいだ。

小説は、「日本で裁判で裁かれた唯一の食人事件」をモチーフにして書かれた。真冬の知床岬で遭難した船長が、仲間の船員の遺体を食べて生き延び、後に逮捕され、死体損壊として懲役1年の判決を受けた事件があったのだ。

岩山に向かって左手の最下層の2つの横穴(鉄格子で保護されている)で、コケがかすかな緑色の光を放出しているように見えるというので、何度かのぞいてみた。残念ながら、この日は曇天で光の具合が悪かったのか、コケが黄金色に光るのを目にすることはできなかった。

しかし、この地を訪ねて、1887(明治20)年、当時24歳の東京大学院生、坪井正五郎が発掘、この横穴群を、日本の先住民族である土蜘蛛人(コロボックル)の「住居」だと発表したーーその気持ちだけは十分に理解できた。

坪井は日本の人類学・考古学の創始者の一人。その3年前の1884年の大学生時代、同窓の白井光田郎らと日本人類学会を創設していた。

坪井の発掘は、卒業論文の一環で、地元の資産家で貴族院議員、近くの「黒岩の横穴」を発掘したこともある郷土史家、根岸武香が財政的に支援した。6か月かかって、230余の石室が掘り出された。

日本の考古学は、この発掘から始まったのである。

発掘を終えて、坪井は

 これはこれはとばかり穴の吉見山

という句をものした。

コロボックルとは、アイヌの伝承に登場する小人。アイヌ語で「フキの葉の下の人」という意味だという。

坪井の説は、「住居としてはサイズが小さすぎるが、コロボックルが住居として使用した後、古墳時代に墓として利用された」というものだった。同志の白井は「最初から墓だ」と学会誌で反論した。「住居か墓か」の論戦は、当時の一大論争となった。

発掘と論争で百穴は評判となり、明治24年には、正岡子規も訪れ、

 神の代はかくもありけん冬篭り

という句を残している。

エジプトに4年近くいたので考古学には興味がある。実際は、砂まみれ、汗まみれの難行だが、「夢がなくてはやっていけない」ことは、よく分かる。

岩山に多くの穴が開いている姿は異様だし、この雰囲気は確かにいろいろ想像力をかきたてる。

大正時代に考古学も発達、古墳時代の後期(6~7世紀)の死者を埋葬する「墓穴」と分かった。坪井のコロボックル説は、単なる伝承とされ、1913(大正2)年、ロシアのペテルブルグで50歳で客死した。「住居説」はこうして消えた。

吉見百穴は、このような遺跡としては日本最大の規模なので、1923(大正12)年、日本の代表的な横穴墓穴群として国の史跡に指定された。

論争に勝った白井は、1884年、坪井らとともに、東京・本郷の向ヶ岡弥生町で「弥生式土器」を発見したほど、考古学にも造詣が深かった。後に日本の植物病理学の権威になった。

同じ横穴ながら、もう一つ興味をひくのは、第二次戦争の末期、1945(昭和20)年の初頭から8月に至るまで、18 の穴を壊して地下軍需工場用に掘られた巨大な洞窟である。


当時わが国最大だった中島飛行機の大宮工場エンジン製造部門を、この地下に移転しようとするものだった。全国から集められた3000~3500人の朝鮮人労働者による人海戦術で、昼夜を問わず突貫工事が進められたが、本格的な生産が始まる前に終戦になった。

冷たい風が立ち入り禁止になっている広大なトンネルの奥から吹いてくることもある
ついでながら、この墓穴は一人一穴ではなく、追葬が行われたようだという。

参照:『吉見の百穴』(吉見町役場)