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荻野吟子記念館 熊谷市

2010年09月17日 15時04分28秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
荻野吟子記念館 熊谷市

妻沼の聖天さまを拝観した後、利根川自転車道を経て、赤岩渡船まで来ると、「荻野吟子記念館」はもう目の前だ。

「荻野吟子って誰?」という人のために。一言でおさらいすると、1885(明治18)年、34歳で日本初の公認の女医になった人である。

赤岩渡船に乗っていると、親切な船頭さんから、「荻野吟子の生家の長屋門」が千代田町の乗り場近くに残っているとのパンフレットをもらった。

道しるべどおりに歩いて行くと、真言宗の古刹光恩寺があり、その右手に「生家の長屋門」(国の登録有形文化財)がある。瓦葺き、白塗りの長屋門(長屋の中央に門を開いたもの)である。光恩寺に移築されたのは、明治の頃である。その傍らの木陰に洋装の吟子像がある。

吟子の実家は、熊谷市側の対岸にあるのに、「なぜ」と聞いてみると、光恩寺の檀家は対岸にも及んでいたからではないか、とのことだった。

対岸の熊谷市側にもどり、堤防を下流にしばらく歩くと、土手の下に「記念館」が見える。記念館は、生家跡にあり、光恩寺の長屋門を模したもので、約1.5倍あって、その中に展示品がある。「生誕の地史跡公園」も隣に整備されている。(写真は記念館の銅像)

記念館の資料によると、吟子の生まれた俵瀬地区は、渡船のある葛和田との間に、利根川が増水するたびに土砂が流れ込み、俵の格好をしていた島だったので「俵島」と呼ばれていた。当時、利根川には土手もなかった。今もその名が残る。

教育熱心な父・綾三郎は俵瀬村の名主で、葛和田河岸で船問屋との農業を営んでいた。長屋門があったので「長屋んち」と呼ばれていた。屋敷の敷地は約1800坪あったというから大変な豪農だった。2男5女で、吟子は5女で第6子。

1883(明治16)年、高崎線が上野~熊谷間に開通してから、利根川の水運は衰え、1889(明治22)年、荻野家は没落、この地を去った。

40歳の吟子がキリスト教徒として知り合った13歳年下の志方之善と再婚する1年前である。

記念館には

 人その友のために 己の命を捐(す)つるは
 是より大なる愛はなし

という吟子が愛唱し続けた聖書ヨハネ伝15章13節の文句が大書されている。

熊谷市の観光パンフレットの中に「三偉人ゆかりの地を訪ねてみよう!」というのがあった。いずれも埼玉県北が生んだ人で、本庄市の塙保己一、深谷市の渋沢栄一、熊谷市の荻野吟子である。

吟子の記念館にも、女医としてだけでなく、キリスト教徒、女性解放運動の活動家としての活動をしのんで訪れる人が絶えない。


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