ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

日本一の板碑(いたび) 長瀞町

2010年09月27日 17時26分49秒 | 中世
日本一の板碑(いたび) 長瀞町

「板碑(いたび)」と言っても、見たことも聞いいたこともない人が多いに違いない。何年前のことだったか、「埼玉県立歴史と民俗の博物館」(さいたま市・大宮公園)を訪ねた際に初めて目にした。読み方はもちろん、何なのかも分からないままに、それが林立する姿に異様な感銘を受けたことだけを記憶している。

「県立嵐山史跡の博物館」(嵐山)で板碑の企画展があり、見に行ったこともあって、ようやく輪郭がつかめてきた。

「板石塔婆(いたいしとうば)」とも呼ばれる。中世、武蔵武士の活躍していた時代のもので、「石塔」の名は墓標を連想させる。

墓石ではなく、故人の供養などのために造立された。鎌倉時代前期に埼玉県西部で生まれ、南北朝時代(14世紀)にピークを迎え、戦国末期まで。「中世に始まり中世に終わる」と言われる石像遺物である。

全国各地で造られたが、埼玉県は質量ともに日本一、“板碑のふるさと”とされる。埼玉の文化遺産の“華”、埼玉中世史の“核”と言えると書いている人もいる。

県の教育委員会は1975(昭和50)年から5年がかりで県内の全調査を実施、2万基を超す板碑を確認、報告書にまとめられた。日本最古や日本最大、最小のものも含まれている。

埼玉県にこんなに多いのは、原材になる緑泥片岩(りょくでい・へんがん・秩父青石)の原産地が小川町や長瀞町にあったためである。緑泥片岩は、ノミを使うと板状に割れ、扁平で文字などを刻みやすかったという。

板碑には中心部に、古代インド文字である梵字を使った本尊、供養年月日、供養内容、被供養者名のほか、偈(げ 仏教の教えを述べる4句からなる詩)が刻まれていることが多い。本尊のほとんどは阿弥陀如来で、武士の間で阿弥陀信仰が強かったことがうかがわれる。

板碑の一般的な大きさは、高さ60~70cmから1mほど。緑泥片岩の主産地でもある秩父の長瀞町野上下郷(のがみしもごう)に高さ日本一の板碑があるというので、10年の秋の彼岸に出かけてみた。

秩父鉄道の樋口駅から東へ国道140号線沿いに約600mのところにある。車がひんぱんに通るので、山側の峠道を選んだほうが安全だ。台上からの高さが5m37cmもある。なかなかの貫禄である。南北朝時代の1369年(応安2年)の作で、国の指定史跡になっている。

この大きな板碑には、この近くの仲山城主の13回忌に、出家した奥方と息子たちが追善供養のために立てたという記録がある。この城主は隣接する城の城主の腰元に恋慕したため、そこの城主に攻められ、討ち死にしたという。横恋慕が元でできた日本一の板碑である。

「秩父の歴史」(井上勝之助監修 郷土出版社)によると、恋慕したのは仲山城の2代目城主の阿仁和兵衛直家。梅見の宴で、山を隔てた秋山城の稀に見る美女の腰元白糸を見初め、秋山城主の体面を傷つけた。

このため戦となり、仲山城は落城、直家は矢を受けて戦死、45歳だった。これより先、奥方は夢枕に立った弥陀のお告げで、愛児とともに直家の姉の嫁ぎ先能登に逃れていて、落命を聞いて尼になった。そして13回忌に二人の子らと立てたのが、この板碑である。

浮気で死んだ亭主のために、日本一の石塔を建ててやった奥方の器量の大きさを思う。

「武蔵野」 国木田独歩

2010年09月27日 11時18分19秒 | 文化・美術・文学・音楽


久しぶりにJR三鷹駅北口の「山林に自由存す」と書いた国木田独歩の石碑を訪ねた。(写真)「実篤」とあるから武者小路実篤の書だと初めて知った。

三鷹には何度も来たのに、この碑のことを突然思い出したのは、最近、国木田独歩に関する講演を聞いたからだ。それと、たまたま仲間と、野川沿いから東京天文台、深大寺をたどる道を歩き、名物のそばを食べた後、バスで三鷹駅に出たからである。

実に久しぶりだ。大学に入学して、野田宇太郎の「東京文学散歩」を手にして初めて訪ねたのが、この碑だった。もう半世紀以上前になる。

高校時代、受験勉強の合間に独歩はほとんど読んだ。高校生にも分かりやすいのと、「いつも驚きたい」という独歩の生き方に惹かれたたからだった。

埼玉県には桶川市に「さいたま文学館」がある。埼玉県で文学と言えば、すぐに思い浮かぶのは、田山花袋(群馬県館林市出身 記念館がある)の「田舎教師」ぐらいだが、ここでは少しでもゆかりのある人の作品をせっせと集めている。

この文学館で毎年度、「埼玉文学講座」をやっている。「読んでおきたい埼玉ゆかりの名作」の中の一編に独歩の「武蔵野」が入っており、10年9月初め、研究家の国士舘大学文学部の中島礼子教授が話をするというので喜んで出かけた。

専門家だけに、調べ尽くしてあり、話も講談のように面白かった。独歩の最初の妻「信子」が、離婚して、米国に渡る際、有島武郎の「ある女」のモデルになったという話は、文壇事情にうとい私には、驚きであると同時にいたって興味をそそられた。お読みになった方はよくお分かりのとおり、”進んだ女性“だったようだ。

「独歩」の号は「散歩」好きからきたというのは、言われてみれば当然ながら、初めて聞くと面白かった。

なぜ私が「武蔵野」に関心があるのか。武蔵の国、そのありかの武蔵野とはどんなところだったのかを知りたいからだ。

武蔵野は、古典文学では万葉集、伊勢物語、更級日記などにも顔を出している。更級には「蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末、見えぬまで高く生ひしげりて・・・」とあり、いくぶん当時のイメージが湧いてくる。

それでは、独歩の武蔵野とは――。中島教授の資料によると、「武蔵野」は、1898(明治31)年、「今の武蔵野」というタイトルで「国民之友」に発表され、1901年に「武蔵野」と改題された。

「今の武蔵野」を執筆したのは、「信子」と離婚した後、現在のNHK放送センター付近に住んでいた1897年頃。つまり明治中期の武蔵野なのである。独歩の「武蔵野の碑」は、独歩が散歩した東京都武蔵野市の玉川上水の桜橋のたもとにある。直接、埼玉県と関係はないのである。

「武蔵野」は、「『武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡(いるまごうり)に残れり』と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある」という書き出しで始まる。入間郡は、埼玉県にあり、入間郡、入間市としてその名を残している。狭山茶の産地として有名だ。

ちょっと読み進むと、「昔の武蔵野は萱(かや)原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜(よ)い」とある。昔は原だったが、今は林に変わっているというのだ。

独歩の描いた武蔵野は、人の手が入った平地林、野(畑)、路(みち)、農家など生活と自然が密接に入り組んだ生活の場としての東京の郊外だった、と教授は強調する。落葉樹からなる平地林は、堆肥や薪炭を供給し、防風林としての役割も果たしていた。

その美(詩趣)を独歩は、ツルゲーネフの「猟人日記」(二葉亭四迷訳)を通じて発見したのだった。今、独歩の足跡をたどっても、急激な都市化のあげく、その俤は一部の公園などを除けば、ほとんど残っていない。

武蔵野は古来、変貌に変貌を重ねてきたのだ。