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木曽御嶽神社の分社 さいたま市田島

2014年10月08日 16時45分50秒 | 寺社
木曽御嶽神社の分社 さいたま市田島

長野・岐阜県境にある木曽の御嶽山(おんたけさん)の突然の噴火は、山頂(剣ヶ峰=3067m)付近にいた登山者をなぎ倒し、ちょうど100年前1914年の鹿児島・桜島の噴火の犠牲者(58人)をしのごうとしている。

今はのんびりと

♪ 木曽の御嶽さんはナンジャラホイ ♪

と歌っている場合ではない。

さいたま市の日本住宅公団の大型団地「田島団地」の近く、田島公民館の通りの斜め向かいに「御嶽神社分社」があることには、かなり昔から気になっていた。

さいたま市の天然記念物になっているイヌマキの高木(樹齢350年)が本殿の後ろにそびえる美しい神社である。

掲示板によると、江戸の天明年間、この神社で修行した埼玉県にゆかりの深い普寛という修験道の行者が、今度の噴火ですっかり有名になった登山口「王滝口」を開いたというのである。

神社には珍しく「ホームページを開設しました」と、そのナンバーまで明記してあるので、他のホームページとともにのぞいてみると

「木喰(もくじき)普寛」とも称した普寛行者は1731(享保16)年、秩父市大滝生まれ。三峰山で天台、真言両義の奥義を極め、江戸に出て、修験者の長になった。

1792(寛政4)年、江戸の信者を連れて、険しくて至難とされた王滝口から登り、御嶽開山の端緒をつくった。

と書いてある。

御嶽山は、神聖な山として、昔から100日間精進潔斎した者しか登山が許されなかった。

ところが、普寛行者はこの潔斎方式を無視して、軽い潔斎だけで強行登山、御嶽山を一般信者も登れるような道を開いたのだった。

江戸や北関東に御嶽信仰が広まったのはこのためだった。

これには先例があった。尾張の覚明という行者が1782(天明2)年、軽潔斎による登山を願い出たものの却下されたので、3年後、無許可で水行潔斎だけで多くの信者を率いて黒沢口から登拝していた。

御嶽山が一般にも開かれたのは、この二人の行者のおかげである。

普寛行者一行は、登山中道に迷ったが、雷鳥が現れて、頂上まで道案内したと伝えられ、今でも雷鳥は神鳥としてこの分社に祭られている。鳥居の前にいるのが雷鳥だ。(写真)

 ありがたや 神の御恵み 浮きいでし 武蔵の国の 雷の鳥かな

という歌も残されている。

普寛行者は王滝口開山の後、この地を訪れ、木曽御嶽神社の分社として、開山御礼の掛け軸を奉納した。この掛け軸は社宝として保存され、さいたま市有形文化財に指定されている。

新潟の八海山、群馬の武尊山も開山したと伝えられる。

1801(享和元年)、秩父へ帰る途中、71歳で死亡した。

この分社には「田島一心講」があり、毎年夏、冬の二回、御嶽山に登拝している。

秩父市大滝の御嶽普寛神社の境内に普寛導師碑があり、県指定史跡になっている。



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