ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

金鑚神社 武蔵国二の宮 神川町

2014年05月06日 17時36分45秒 | 寺社
武蔵国二の宮金鑚神社 神川町

武蔵国二の宮とされる県北の児玉郡神川町の金鑚神社は、昔から気になる神社である。30年ほど前に妻の運転する車で訪ねたことがある。記憶も薄れてきたので、猛暑の13年夏の終わりに今度は一人で電車とバスと徒歩を使って再訪した。

「金鑚(かなさな)」とは珍しい名前である。うどんの「讃岐」は言べんだから、金へんの「鑚」とは違う

すぐ西方を流れる群馬県との県境の神流(かんな)川で、刀などの原料になる砂鉄がとれたことから、「金砂(かなすな)」がなまって、「かなさな」と呼ばれるようになったようだ。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、天照大神と素戔男尊(すさのおのみこと)を祀って創建したという。801年には坂上田村麻呂が東北への遠征前に戦勝祈願に訪れた。

1051年には八幡太郎源義家も奥州出陣の際祈願したとされ、境内には「駒つなぎ石」「旗掛杉」「義家橋」が残る。延喜式神名帳にも「金佐奈神社」として記載されている古社である。

中世には武蔵七党の丹党に崇敬された。1534年に建立された多宝塔は国指定重要文化財に指定されている。

珍しいのは、拝殿の奥に本殿がなく、御獄山(みたけさん)の一部をなす御室山(みむろさん)がご神体になっていることである。自然崇拝のいかにも神道らしい神社で、全国でも奈良県の大神神社(三輪神社)と長野県の諏訪神社の3社しかない。

御室山には登れないので、登山道のある御獄山の山頂(343m)を目指すと、中腹に国の特別天然記念物の「鏡岩」がある。(写真) 赤鉄石英片岩の岩肌が平らで鏡のようにみえるので、この名がある。断層活動でできたすべり面で、約1億年前に生じたとされ、地質学的に貴重。

江戸時代の平戸藩主松浦静山の随筆集「甲子夜話」には、「鏡岩に向かえば顔のシワまで映る」と書かれており、高崎城落城の時に火炎の炎が映ったという伝承もあるという。

金鑚神社の目の前にある「大光普照寺(たいこうふしょうじ)」は、神仏分離までは、金鑚神社の別当寺(神社に付属して設けられた寺院、神宮寺)だった。明治維新までは神社と寺は一体だったのである。

聖徳太子が創建、平安時代初期に天台宗第三代座主の慈覚大師円仁(えんにん)が入山し、天台宗に改め、「金鑚山一乗院大光普照寺」と名づけ、開基となった。慈覚大師は、栃木県岩船町生まれ。最後の遣唐僧で、 日本の天台宗を大成させ、朝廷から「大師号」を最初に授けられた高僧である。

9年半にわたる唐での数奇な体験を、日本人による最初の本格旅行記「入唐求法巡礼行記」で自ら執筆した。玄奘の「大唐西域記」、マルコポーロの「東方見聞録」と並ぶ世界三大旅行記とされる。ライシャワー駐日米大使の研究で欧米にもその名を知られている。

慈覚大師が開山・再興したと伝えられる寺は、川越の喜多院、浅草の浅草寺、目黒不動として親しまれている龍泉寺、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺、毛越寺、山形の立石寺といった有名寺院など関東・東北で500を超す。

平安中期には慈恵大師良源が大光普照寺に一時滞在、教えを広めた。慈恵大師は、第18代天台座主で、火事で焼けた比叡山を復興させ、中興の祖と仰がれている。正月3日に没したので、元三(がんざん)大師の名で親しまれ、この寺は「元三大師の寺」として知られるようになった。

元三大師には、「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」などの呼び名があり、信仰を集めているほか、社寺の「おみくじ」の創始者とも言われている。

この神社と寺を訪ねると、今ではひなびたこの町がかつて、奥州平定の基点であったこと、また、天台宗を代表するような座主二人が、寺の開山以来深くかかわっていたという歴史的事実の重さに圧倒される。

田舎教師 羽生市

2014年05月06日 16時21分54秒 | 文化・美術・文学・音楽


羽生は田舎教師のまちである。

どこに行っても田舎教師で、「田舎教師最中」の広告さえ電信柱にあった。

若い頃は文学青年気取りで、野田宇太郎の「新東京文学散歩」を手に東京を歩き回った。今は小説もほとんど読まない日々だが、14年5月思いたって羽生市を訪ねた。

なぜ隣県の館林市出身の小説家・田山花袋が利根川を隔てた羽生の青年のことを書いたのか、気になっていたからだ。

その謎はすぐ解けた。東武東上線羽生駅のすぐ近くにある建福寺に、この小説のモデルになった小林秀三の墓があるというので、真っ先に訪ねると、この寺の第23世住職の大田玉茗(ぎょくめい)が大きな役割を果たしたことが分かった。

この名前は、明治文学史の中でかすかに記憶に残っていた。新体詩人で、花袋、尾崎紅葉らと交友があり、花袋はその妹里さと結婚していたから、花袋は義兄に当たる玉茗の寺をしばしば訪れた。

建福寺には秀三の友人たちが立てた新しい墓があり、寺に下宿したことのある秀三の日記が玉茗の手元に残されていたことから、小説の構想を得て、その短い生涯を描いた。

秀三は埼玉県第二中学校(現・県立熊谷高校)を卒業した。向学心にあふれていたのに、家貧しく、三田ヶ谷村(現・羽生市弥勒)の弥勒高等小学校の助教(准教員)になった。

大学に進学していく友人らに比べ、田舎教師に埋没していく自分に悶々とする中、肺結核を患い、3年余りの教師生活の後、20歳で死んだ。1904(明37)年、日露戦争の勝利(遼陽占領)に羽生の町では提灯行列をしていた時である。

花袋も幼い頃父を亡くし、苦労した経験があるので、他人事とは思えなかったのだろう。

秀三は、建福寺に下宿した後、通うのに時間がかかるので、小学校に移り住んだ。すでに廃校になっている小学校の前に銅像が立っているというので、駅前から市のあいあいバスというマイクロバスに乗って出かけた。

かれこれ30分、その名も「田舎教師像前」というバス停で降りると、目の前の三叉路の真ん中にその像は立っていた。1977年に建立された。(写真) 県営さいたま水族館、羽生水郷公園や東北自動車道の羽生ICも近くにある。

近くの円照寺の境内には、当時の村の面影を伝える「お種さん資料館」がある。秀三が勤める学校へ弁当を届ける、料理屋小川屋の娘として登場する「お種」のモデル小川ネンさんにちなんだものである。

この小説には、ネンさんのように実在した人物が色々登場している。関訓導の名前になっている速水義憲氏は、食虫植物ムジナモを埼玉で初めて発見した人だった。

学校近くの宝蔵寺沼ムジナモ自生地は国指定の天然記念物になっている。

1938年、片岡鉄平、川端康成、横光利一の3人が「田舎教師遺跡巡礼の旅」称して、羽生を訪れた写真もあった。この寺には89歳まで生きたネンさんの墓もある。

バスの便数は少ないので、駅まで歩いて帰った。市立図書館・郷土資料館に立ち寄ると、1909(明治42)年、左久良書房(東京・神田)から出版された「田舎教師」の初版本が展示されていた。

箱入りの美装本で、秀三が死亡時にもらっていた月給14円で換算すると、その値段は現在なら2万円するという説明があって驚いた。

色々勉強になった文学散歩の一日だった。